イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アクティヴレイド -機動強襲室第八係- 2nd:第7話『絶対ピーピング宣言』感想

鋼の正義執行戦記も折り返し、肌色強めでお送りする水着回です。
おっぱいとおしりで画面が埋め尽くされる頭弱いお色気展開……なんですが、全キャラ出して賑やかに展開させる手際も満点で、このアニメらしいサービス&テクニカルな作りでした。
あさみちゃんは相変わらず酷かったしな……やっぱあの子、ダイハチイズムを都合よく解釈している所あるな。
しょーもない性犯罪の裏で稲城都知事の陰謀と、改革反対派との対立なんかも描かれていて、楽しいエピソードとなりました。

今回の大筋はとにかく乳尻太ももでして、寂しい男性諸氏を慰めるサービス満点!!
と思わせておいて、それが全部犯罪者の盗撮であり、ダイハチが検挙するべき悪事だっていうひっくり返し方は、このアニメらしいクレバーな転調だなぁと思いました。
前半でウハウハしてればしてるほど、女性性を窃盗する犯罪者と同じ立場になるわけで、肌色サービス一つにも皮肉を仕込む辺り、やっぱいい意味で意地の悪いアニメだ。
性的スパムメールの被害者も、男性である瀬名くんというひねり方だもんな。

しかし一番笑ったのは、次郎の監視役のオッサンが水着で付いてきているところであり、ブーメランパンツにホルスターという攻めたコーデが素敵でした。
あのオッサン、なんだかんだ次郎好きだよね……俺も好き。
黒崎さんはドローンの動きの奥に3Dプリンティング犯罪があると納得してたけど、次郎としては更にその奥を見てたんじゃないかなぁ、と思わなくもないが、さてどうなるか。
次郎は確実に終盤ジョーカーとして活躍する位置にいるので、行動すべてが伏線に見えてくるなぁ。

肌色サービスだけではなく、名前ありキャラクターをほぼ全部出して一応の見せ場を作る、賑やかなお祭り感もありがたかったです。
二期になってキャラも追加され、この人数をさばくのはなかなか大変かなぁと思いましたが、アタマの弱い事件に吹き上がる女性陣をエンジンにして、一気に駆け抜けてくれました。
特にヒロインと破壊神の間を行ったり来たりするあさみちゃんはいい役者でして、彼女の最低最悪な大暴れが僕らを楽しませてくれるのは、間違いない所。
今回は周辺被害も少なくてすみ、素直に暴走を楽しめる感じでよかったですね。

二期では出番がなかった円ちゃんも帰ってきましたが、瀬名くんと同じ民間協力者の立場になってましたね。
感動の再開と思いきや、『民間が勝手にやったことなので、違法捜査も知ったこっちゃないです』という黒さを見せる辺り、やっぱダイハチはエグいなぁと思ったり。
ボスのもう一つの依頼は判りやすい伏線として埋められてたけど、都知事かバード絡みかなぁやっぱ。


気楽な肌色エピソードにふさわしく、ゆるい軽犯罪をハードコアな手段でぶっ潰す展開となりましたが、稲城の発言と合わせて考えると一気に色が変わってくるのは面白いと思います。
性急な改革者として敵が多い稲城が口にした、『実績を積まなければならない』という言葉と、ダイハチに都合が良すぎる特例主義と急速な法整備、それによって広がった行動半径と事件解決実績の数。
『付け入る隙の多い餌場』にテロ犯や性犯罪者が集まった今回の状況も、稲城が押した横車で用意されたものだもんな。

何らかの理由で政治改革を急ぐ必要がある稲城は、反対派を黙らせる実績稼ぎ要因としてダイハチとのパイプを重視しており、点数を稼ぎやすい緩い事件を意識して回している状況……なのかなぁ。
ハードな犯罪で処理しなければいけないところを、バードと自動操縦ウィルウェアで対処しているとしたら、二期の硬軟取り混ぜたエピソードの作り方もしっくり来る。
今回バードの後ろ盾である某国がガタついたので、奴も動き始めると思うけども……話数的にも折り返しだしね。


そんなわけで、賑やかで楽しい、いろんなサービス満点のお話でした。
そこで終わらせずに、メインキャラクター全員出して現状を確認したり、今後の展開への状況を丁寧に整えたり、色々テクニカルなこともやってるのはこのアニメらしいところ。
肌色が乱舞するのと同じように、しっかり組み立てられたストーリーがよどみなく流れていくのも楽しいものなので、両方怠けずキッチリやってくれるのは、正にエンターテインメントッて感じだ。

話数的には今回が最後の日常でもおかしくないけど、息詰まる展開と息抜きシーンとのバランスが上手いアニメなので、今後も楽しい場面は途絶えないと思います。
いろんなキャラを出して、色んな角度から未来を楽しく見せてくれる、賑やかで楽しいアニメ。
それってやっぱ良いアニメだなと思える、ナイスな水着回でした。

あまんちゅ!:第7話『雨のおわりのコト/夏のはじまりのコト』感想

日常ときどきダイビングときどき面倒くさい思春期のウダウダ、折り返しの第7話は先生視点でお送りします。
梅雨のあじさい、真夏の遊戯といった、日常の中の他愛のない輝きを見つけ出し、価値を再発掘するお話でした。
時間も場所もバラバラな話なんだけど、先生という語り部、『本気で遊べ』というメッセージが共通していることで、緩やかなまとまりが生まれてる話でしたね。

つうわけで、『黒髪めんどくさ女の、自意識コンバットログ』として続いてきた前半戦は一旦お休みし、語り部役を順に回していく群像劇にシフトしたアニメあまんちゅ!
主観を担当するキャラクターが変われば世界の見方が変わり、つまり物語自体が変わるわけですが、今回のメインは火鳥先生。
これまでも見せていた成熟した人格と、ポエジー溢れる素敵マニアっぷりが相まって、てことは違ったテイストの切り口が生まれていました。

今まさに成長真っ最中、面倒くさい自意識育成中のてこに対し、そういう面倒くさいのは一応"浪漫倶楽部"で終わらせたのが先生。
成熟した人格で子どもたちを導く立場にいるわけですが、しかしそれは、感受性が乾燥しきって発見や変化がない、ということを意味はしない。
不思議で美しいもの、子どもたちが教えてくれる新たな世界に対して常に目を見開き、柔らかな喜びを常に言葉にするフレッシュな感性は、火鳥真斗の中で今でも生きています。
そういう瑞々しさをエピソードの中で活写できていればこそ、『大人だって学べる』というメッセージには血が通い、死んだ言葉ではなく活きた描写として機能するわけです。

今回語り部を先生に移し、モノローグ含めた内面の描写、行動を導き出す価値観の描写を濃い目にやれたのは、一応本筋と言える『てこの成長物語』を分厚くする意味でも、大きな意味があります。
キャラクターは物語的・社会的役目を背負うと同時に、独自の行動原理を持った人格でもあるわけで、行動を生み出す内面に踏み込むことは、『この人はこういう考えを持っているから、この行動を取ったんだ』と納得がいく。
元々ナイーブな作品なので、てこの視点から展開している時にも各キャラクターの内的原理はしっかり感じ取れたわけですが、視点を動かして直接的に描くことで、よりはっきり、より強く見えてくるものがある、ということですね。


そうして見えてきた火鳥真斗は、なんでもない日常の中に輝きを積極的に見つけ、それを他人と共有することに熱心な人物でした。
梅雨と真夏、2つのエピソード両方を貫いているのは『本気で遊べ』『楽しいを積極的に共有しろ』という意識でして、これは主題である『ダイビング』にも関係する視点です。
『ダイビング』にしても『だるまさんがころんだ』にしても、わざわざ生活圏から離れてあじさいを見に行く行為にしろ、ただルーチーンを生きていく上では必ずしも必要とはいえない、『遊び』です。

しかし『遊び』には、不必要だから片手間で良いという態度では味わい尽くせない人生の妙味が詰まっていて、そこに本気になることでどれだけ人生が潤っていくかを描くのが、このお話の真ん中にはある。
これまではてこがぴかりと出会い、おずおずと『遊び』に本気になっていく様子を主に描いていたわけだけど、今回はそんなてこを『遊び』に導く側がどういう考えと価値観を以って、『遊び』を捉えているかを描く回だったと思います。
無邪気に『遊び』を楽しむ子どもたちに比べ、『遊び』の楽しさを拡散し、それに本気でのめり込む結果として生まれてくるものを見据えているところが、火鳥先生が『教師』たる所以かな。

『遊び』それ自体の価値を高く捉え、人生を潤す効果は本気で取り組んだ後の結果と考えているのも、『遊び』と『人生』を切り離さない、良い見方だと思います。
どれだけ真剣に『遊』んだとしても、腹も膨れず金も儲けず、目に見える形での利益は出ません。
しかしその無目的性・非生産性(に見えるもの)にこそ『遊び』の楽しさがあったりするし、そういう目的性から距離をおいているからこそ『遊び』は楽しいとも言える。
『遊び』の結果何が生まれるかを見極める『大人』の分別と、自分も本気で『遊』べてしまう『子供』っぽさを併せ持った火鳥先生を主役に据えることで、『遊び』をめぐる物語を切り取るアングルが増えて、立体感が出た感じがします。

てこの整理しきれていないエゴと戦い続けたお話に比べると、今回のお話はスッキリした印象を受けました。
ジメジメした梅雨やうだる熱さの夏が舞台なのに爽快感があるのは、年齢と経験を積み重ね、自意識との格闘戦を一応勝利した『大人』が主役だったからでしょう。
逆に言うと、あのジメジメ女がどれだけ作品の湿度を上げているかって話なんだけど、主役からは外れつつ、『オープン・ウォーター・ダイビング』というクライマックスに向けてじっくり練習を重ねる姿も、抜け目なく描写されていました。
前回の構成から考えても、アニメはてこがみんなと海に潜るシーンで最大の達成感を与えるよう組まれていると思うので、そこに向けて説得力を積んでいくのは大事よね。
しかしスク水のてこは丸いなぁ……服着てる他の女の人達も、みんな見事なRを有してるけどさ。


と言うわけで、主役の青春肉弾戦を一旦お休みし、『大人』でもあり『子供』でもある火鳥先生を主役に据えたお話でした。
人生の一コマをサラッとスケッチする筆、前向きなメンタリティ、強い目的意識。
主役が変われば当然移り変わる物語の色を強く打ち出し、あまんちゅ! の魅力をまた別の角度から映し出すエピソードだったと思います。

火鳥先生に続いての語り部は、どうやら姉ちゃん先輩のようで。
捌けた態度とパワフルな牽引力が魅力の元気娘が、一体どんな事を考え、何を理由に行動しているのか。
話のバリエーションを増やすだけではなく、そういう部分にも切り込んでいけるので、この後半のオムニバス形式、結構良いと思いますね。

 

機動戦士ガンダムUC RE:0096:第19話『再び光る宇宙』感想

未来は犠牲なしには掴み取れないのか、一角獣は答えてくれないアニメ、今週は宇宙に舞う菩薩。
ビスト邸への突入権限をめぐるせめぎあいは、バンシーとローゼン・ズールの自滅、メガ粒子砲による面制圧が決め手となり、ネェル・アーガマユニコーンに道が開かれた。
負傷を押して出撃したマリーダはビームマグナムの露と消え、その魂最後の残照が戦場を貫く。
マシーンに踊らされた哀れな道化たちは死ぬことを許されないまま、見向きもされず虚空を漂う。
加熱し加速した状況は魂をいくばく吸った程度では止まらず、ついに『箱』が開く……というお話でした。


というわけで、マリーダさんが死にました。
まぁサブタイがララァが死ぬ回を猛烈に意識している以上、女が死ぬ話になるってのは一種の宿命ですし、死≒肉体からの開放だけが可能にする超空間的なコミュニケーションがなければ、リディの魂はどこにもいけないだろうしね。
あの人がどのくらい辛い目にあってきて、どれほど優しくて強い人だったとか、背負うものがどれだけあったかとか、そんな軟弱な事情は一切関係なく戦場は魂を吸う。
そこら辺のルールはバナージがギルボアさんを殺して示したもので、マシーンに憎悪を増幅されてこの結論に至ったリディは、正しくバナージが歩んできた道を踏み直しているといえます。

浪川さんの熱演込もる、リhぢのみっともなくて無様な姿はバナージにとって既に通過したものであり、泣いている様子は映しても、実際に流す涙は影になって見えない。
砂漠で望んだ『涙を流さない、強い男』にバナージは成れたわけです。
感情を無理に押し殺すとろくな事にならないのもこのアニメはずっと描いてきたので、哀しみを共有し一緒に理想に突き進むオードリーに、己を受け止めてもらうシーンはちゃんと入ります。


しかしリディにはジンネマンのように、厳しいイニシエーションを用意し一緒に砂漠を横断してくれる父親はいないし、作中の状況としてもメタ的な残り時間としても、心を落ち着ける余裕は全然残っていない。
これまで追い求めてきた『箱』へのチェックをかけるべく、マリーダさんが死んだ哀しみに溺れている余裕もないのに、リディにかまっている余裕は主役二人には当然ありません。
『俺を撃ってくれ!』という言葉は『俺を救ってくれ!』という懇願に聞こえたけれども、バナージは当然死を救いとは考えないし、リディ相手に隣り合う余裕もない。

それはこの期に及んで綺麗事を振りかざし『私人』の顔を見せないマリーダも、『本当の貴方』なる一度も見ようとしなかった(そしてリディも見せようとしなかった)ものに帰るよう説得する人々も、皆同じです。
マシーンに加速されたエゴに耐え切れず、ビームマグナムという安易な暴力装置の犠牲になってなお、全てを受け入れ優しく諭したマリーダさんだけが、リディに寄りそう構図は、ちと残忍にすぎる感じがしました。
何度も言うように、彼は無様で醜く身勝手で愚かで孤独であり、魂のどん底に至る道は作中でもそれなりに描かれているわけですが、それにしたって冷たいな、と受け取ってしまう。

ミネバにしてみれば、ブリッジから祈るあの姿勢がリディへの最大限の歩み寄りだったのだろうけども、リディが求めていたのはもっと踏み込んだ対応で、それはミネバだけではなくバナージや父、世界全てに対する叫びだったと思います。
もちろん、その言葉は甘え過ぎだ。
ねだらず、諦めず、他人を信じ己を鍛えて常に『それでも』と言い続けたバナージと比べれば、求めるものが与えられないリディの身勝手さは、当然主役足り得ない。
しかしバナージが気持ちの良い主人公足りえている足場には、確実にリディの無様さが対比物として存在しているわけで、そこに少しだけでも情というか、物語的な都合を分け与えてくれてもいいかなぁと、彼に相当感情移入している立場としては思ってしまうわけだけど……それはこの先にある最終決戦でやることなのかな?

マリーダさんが加害者であるリディの魂を許し、『本当の貴方』に踏み込んでくれたのは、優しくありがたいことであると同時に、それが死を燃料にする最後の光だと考えると、哀しいことでもあるなと思います。
他に拾う人がいなかったから、『弱い部分も醜い部分も頑なな部分も引っくるめて、心の奥底に踏み込んで認めてくれ』ってリディの願いを、死によって超越的存在になったマリーダが拾った形かなぁ……ほんと菩薩だな。
生前リディとマリーダを繋ぐ線はほぼなかったので、キャラクターの『死』が持っている圧倒的な熱量で押し込んで、つなぎを作らないと説得力がないってのは判るんだけど、まぁそれにしたって死ぬことはないよ。
戦場はそういうものだと言われてしまえば反論のしようはないし、身内だけ犠牲を出さずに奇跡を手にすることの都合の良さを排除するためには、必要な犠牲だったのもわかるけど、まぁ死んでほしくなかったよ、僕は、本当に。

ミネバは受け止めてくれなかった『本当の貴方』を、リディはマリーダさんを殺すことでマリーダさんに受け止めて貰えました。
いささか荒療治ですが、寂しい少年として主人公バナージの影となり、暴走と孤独を深めていった男にも、心の拠り所が出来た……のかなぁ。
汚名返上の見せ場が用意されているのか、はたまた狂った醜い男として舞台から退場するのか、さてはて、どうなるかねぇ。


マリーダさんがバンシーを受け止める中、バナージはアンジェロと対峙していました。
アンジェロもリディ以上に物語的リソースを割り振られない男でして、フル=フロンタルが好きすぎて頭がおかしいっていう部分はわかるけど、その理由はさっぱり描かれず、ただバナージに噛み付いてくる狂暴な敵役という印象があります。
小説からアニメにするに辺り、バッサリ切った部分の一つかな、そこら辺は。

しかし『本来倒してはいけない相手を殺す』『マシーンに踊らされた』もう一人のリディとして、物語的対比は結構綺麗に作られていました。
自分の身勝手さは横において、手に入らない蜃気楼を求めて暴れ回り、暴力で周囲を傷つける無様さという意味でも、アンジェロはリディの鏡であり、それらのエゴを乗り越えたバナージの鏡でもある。
味方を殺したその腕が、己を傷つけて決着する戦いにしても、シンプルかつコンパクトに戦いに意味を込めていて、結構好きな見せ方でした。

マリーダの死によって暴走したサイコミュが、アンジェロの何を暴き、何を傷つけたのか。
アニメの範囲では正直さっぱり判りませんが、マリーダさんの霊魂がリディを救ったのと逆の効果が、ユニコーンからローゼン・ズールへと逆流した思念波にはあったように思えます。

生物学的には生きているし、殺害手段も自害だしで一見綺麗に見えるけど、激情を増幅するマシーンを制御できてないって意味では、バナージもリディも同じよね……殺していい理由の加減は、大きく違うけども。
人が分かり合う補助具にもなれば、魂に土足で入り込み自死を選ばせる暴力装置にもなり得るサイコミュは、確かに人間には早過ぎる技術だよなぁ……マリーダさん相手には、いい仕事したんだけどな……。

内山くん渾身の叫びを効くだに、アンジェロの心への侵入は狙ってやった結果ではないと思うわけで、事ここに及んでもバナージは未だ人間の精神を強化するマシーンを完全には制御できず、バンシーのビームマグナムと同じ暴力の装置として機能させてしまう危うさがある。
それは『『箱』が犠牲に見合うものでなければ……』というセリフの危うさと、奇妙に響き合っている気がします。
それはひっくり返せば『例えば人類全てを叡智に導くような結果が約束されるなら、どんな犠牲も許される』という結論に至ってしまう、シャアが飲み込まれた暗黒そのものなわけで。
『箱』への謁見にオードリーがついていったのは、人の命に値段をつけかねない危うさにお互い陥らないよう、ミネバとバナージは支えあって生きていくということなのだろうけどね。


と言うわけで、死んだ女の優しさが戦場を包み込み、怨念返しのどうしようも無さを昇華させる出口を作る回でした。
地球の裏側まで届くくらいアルベルトのことを思ってたのなら、マリーダとアルベルトの描写も、もう少し分厚さが欲しかったかな。
まぁアニメにまとめるにあたって、色々削ったり逆に太らせたり、やんなきゃいけないことが沢山あった結果だとは思うが。

死人の腕に抱かれて一旦暴走を止めたリディが、こっからどこに行くのか。
長い旅路と犠牲の果てに、『箱』と対面した主人公たちは何を選ぶのか。
数多の人の運命を狂わせた『箱』には何が詰まっているのか。
不気味な沈黙を続けるフル=フロンタルは、最終盤でどんな手を打ってくるのか。
2クールに渡ったUCもついにクライマックス。
こっからどうお話を盛り上げまとめるのか、とても楽しみです。

 

こっからはちょっとした余談。
サブタイトルが露骨にやれって言ってるんで、ちと"光る宇宙"と今回の対比を考えてみます。
マリーダさんは死んで菩薩となり、殺したものも残されたものもすべての魂を救って、後腐れなく殺し合いが収まるようにメッセージを残してくれましたが、ララァは殺し合いになる前はアムロと感応し、矛を収める希望を戦場で見つけつつ、それがブッツリと途絶える。
ララァの声は救いをもたらす慈愛の菩薩ではなく、後々アムロとシャアを縛り付け、特にシャアをアムロとの決着路線、現世への復讐路線へと駆り立てる呪いに変わってしまいます。

死してなお分かり合えるかもしれない希望を残したマリーダさんと、あまりにも割り切れない死と無言を叩きつけたララァの『光る宇宙』は、ガンダムガンダムUCの間にある差異を、結構クリアに見せてくれていると思います。
バナージを軸とした大きな物語のラインを心地よい範疇に収めることを優先して展開してるUCと、物語の大枠が壊れかけてもキャラクターの抱え込んだカルマを掘り下げてくガンダム(含む富野作品。"Vガンダム"あたりまで?)との差異といいますか。
ココらへんをきっちり掘るには大量の資料に当たらないと説得力がでないので、あくまでパット見の印象による妄言になっちゃいますけどね。

一年戦争以降のララァの声って、生き延びてしまった男たちのエゴが生み出した妄想とも、実際にララァの霊魂なるものが存在していて接触したとも取れる曖昧な幻視なんだけど、マリーダさんの場合は明確な意志を持って自分の死が最善の結末にたどり着くよう、始末付けて死んだからな。
死人が言葉を残せないどうしようも無さが、残された人間を歪めて逆シャアの人類巻き込んだ心中まで突っ走らさせたのとは、物語的都合の良さの強度が違うという感じを、強く受ける。
あそこでマリーダさんのメッセージがなければ、リディはおろかジンネマンもミネバもバナージも自責の念を多少なりと残したと思うが、マリーダさんは自分を犯してズタズタにした男たちも許し、殺した男も許し、残される人たちも許す。
あの人がそんなに世界を許さなきゃいけない理由を、正直僕はなかなか思いつけないけれども、実際許す姿が描写されてんだから『いや、本当は納得してないでしょ? 恨み言の一つも言いたいでしょ?』って問いかけは、身勝手な妄想にすぎんのだ。

主人公と恋愛関係にあるミネバではなく、マリーダが散ったこと。
『あなたには守る人も帰る場所もない。人間としておかしい生き方をしている』とアムロを指弾したララァと、『私のもとに帰って来なさい』と命じたミネバ。
他にも"光る宇宙"との対比は多いので、ここら辺は宇宙世紀を総括しシリーズ(もしくはメディア、文化)となったガンダムをまとめ上げる、一種の総集編的役割を担ったUCらしい回になったなぁと思う。

死人への感情を始末できないばっかりに世界ごと心中しようとしたシャアと異なり、バナージもジンネマンも復讐に支配された生存者には、けしてならないだろうと思います。
答えの帰ってこない死人への問いかけを自分の中で無限に反響させていく地獄は、ジンネマンがなんとかくぐり抜けて否定した生き方なわけだし。
そうならないようにマリーダさんは自分の死体を始末して去っていく物分りの良さを見せたのだし、それはUCという物語が根本的に背負っている語り口の形式だと思う。
そういう『都合の良さ』はストレス少なく物語の起伏を楽しめる素直さであるし、キャラクターのエゴを掘りきれないままならなさを、どうしても感じさせるものでもある。

それはどちらが優れているというわけではなく、製作者や物語自体が要求し選択した、盤上この一手の方法なわけで、そこまで引っくるめてガンダムUCなのだろう。
そういう物語の中心にいるバナージと、その対比物として結構な目にあっているリディが、物語が畳まれようとする中どこにたどり着くのか。
その語り口も含めて、UCのラストスパートはとても興味深いところなのだ。

ラブライブ! サンシャイン!!:第8話『くやしくないの?』感想

尊い思いが集って奇跡を起こす黄金の時代が行きすぎ、厳密な競技主義が舞台を支配する新世紀のスクールアイドル伝説、今週はStep! ZERO to ONE。
Saint Snowのハイレベルなステージに圧倒され、得票数ゼロぶっちぎりの最下位という現実を思い知らされたAqoursは、複雑な感情を抱えたまま内浦へと戻る。
同じく現実の壁にぶち当たり挫折した三年生の過去に触れつつも、笑顔の仮面で涙を押し殺す千歌だったが、秘めていた悔しさを開放し、それを受け止めた仲間たちとゼロからのスタートを決意する。
一方過去の傷から一歩も踏み出せない果南と、変質してしまった過去を取り戻すためにすべてを捧げる覚悟の鞠莉は、涙のような飛沫に濡れながらすれ違う。
先週定位したAqoursの現在を激しく叩きつけ、その衝撃に傷ついた姿、立ち直る姿をじっくりと移した、五話遅れの『完敗からのスタート』でした。


と言うわけで、東京前後編の後編にあたる今回は、内浦から出たAqoursがどのように評価されるかを、はっきりと突きつける展開となりました。
地縁と血縁に支えられた(もしくは癒着した)Aqoursの強さは、あくまで内浦というホームタウンでしか通用しないモノでしかなく、スクールアイドル界全体から見れば、これまでのAqoursの努力は結果に結びつかないもの。
厳しい結論ですが、当初千歌は魂に受けた傷を表には出さず、必死に無傷の道化を演じます。

第3話での段階では『でも、やりたいから!』という自分の気持最優先で動いていた千歌ですが、今回はAqours発案者であり、センターであり、リーダーであり、モチベーターでもある自分の立場を鑑み、仲間が受けている傷を癒やすかのように、元気な『普通怪獣』を演じる。
その姿は痛ましいと同時にひどく尊いもので、凹んでいる仲間の様子を確認してアイスを持ってくる姿など、初見では耐え切れずに一時停止してしまったほどです。
己の痛みではなく、誰かを守り支えるために嘘をつくのは、やっぱ優しくて強いことだよ。
立派なことだよ。

先週じっくりと見せたように、Aqoursはμ'sの起こした奇跡に吹き上がるミーハー集団であると同時に、ステージに敬意を持ち、観客に爪痕を残そうと真剣に向かい合う、真面目なグループでもあります。
投票数ゼロに終わったステージも、けしてナメてかかったわけではなく、『今の自分達に出来る、最高のステージ』だったのはおそらく本当のことでしょう。
本気でやっていればこそ評価されなかったこと、期待に答えられなかったことは身を切るほど悔しいわけですが、仲間の傷を軽くするため、Aqoursの中心である千歌は本心を隠し、信じてもいない慰めの言葉を口にする。

それは自分のプライドを守る言葉であると同時に優しい嘘でもあって、だからこそ、千歌は曜ちゃんの「やめる?」という問いかけに、以前のように「やめない!」とは即答できないのです。
『でも、やりたいから!』という個人的な感情から始まったAqoursの物語は、ピアノに挫折した転校生を、可能性を感じた後輩たちを、温かい地域の人達を巻き込み、千歌個人の物語ではもはや無くなってしまっている。
痛ましい必死さでバカを演じる今回の千歌には、変わってしまった状況や今の自分の立場を客観的に見つめる知性が宿っており、それはAqoursの活動が彼女に与えたものなのでしょう。
たとえ客観的な評価がゼロだったとしても、Aqoursとして活動した日々はなんにもない『普通怪獣』にプライドと知性を与え、確かな成長を生み出していたわけです。


健気にバカを演じるリーダーの本心は、Aqoursメンバーにはちゃんと伝わっています。
だから曜ちゃんも千歌から仮面を引き剥がすべく『悔しくないの?』と聞くし、梨子も『やっと素直になれたね』と、抜身の千歌を抱きしめる。
Aqoursの要である千歌一人に負荷をかけるのではなく、その悔しさや涙を受け止め、みんなで共有する真心が見えたのは、グループとしてのAqoursをより強くする、大事なイニシエーションだったと思います。
第1話で一人海に沈もうとした梨子が、今回は千歌を抱きしめ返す構図になっていたのは、恩義の暖かな応酬を感じられて、心がほっこりする演出でした。
仲間のために仮面を被って、仲間が受け止めてくれるからこそ仮面を外せる。
人間が出会い、心を一つにするというのは、一括りに判断できない複雑な尊さを宿しているものです。

サンシャインにおける海は哀しみの象徴として描かれることが多くて、今回果南と鞠莉がわざわざ波でずぶ濡れになっていたのも、今回六人が同じ海に入っていくのも、哀しみとの対処法を象徴的に描くためだと思います。
過去の挫折に頭まで浸かって出てこない果南が常時濡れているのも、瞳から涙を流す代理としての表現でしょうし、一人では聞こえなかった『海の音』が二年三人で潜ることで聞こえてくるのも、梨子の挫折を二年生で背負う関係性が、あの海の中で共有されたからです。
千歌が隠していた悔しさと哀しみは海の中で初めて表面化し、梨子を初めとしたメンバーも、涙でできた海に入ることで気持ちを同じくする。
ここら辺は、常に一人で海に潜り、鞠莉を濡らしている涙を抱きしめようとしない果南と、対比的に描かれていると思います。

基本的に健気なリーダーを見守り、同じ方向を向いていると描写されているAqoursメンバーですが、曜だけ少々毛色が違ったのは気になりました。
スポーツエリートとして幼少期から『期待』を背負い、勝った負けたで評価される環境に慣れ親しんでいた彼女は、『頑張ったんだから偉い』という千歌の防壁に、唯一まっすぐ切り込んでいきます。
期待された経験が薄い千歌が初めて経験する『悔しさ』は、おそらく曜にとって馴染みの感情であり、その苦味を飲み下すことで彼女は『期待』に答えてきた。
幼馴染の間に横たわっている、『普通怪獣』と『期待される天才』という差異を鮮烈に描きつつも、千歌とのツーショット写真しか貼られていないボードを見せ、千歌の仮面を剥がすきっかけを担当する特別さも切り取っていて、今回は曜の描写がかなり切れていたように思いました。
善子回で行なわれた『普通談義』で一人別の方向を見てたことからも、曜ちゃんの天才性がどっかで炸裂する瞬間がある気がするけど、これからやるべきことのたて込みっぷりを考えると二期かもなぁ……。

ゼロの屈辱を『こいつら全員ぶっ倒すリスト』として刻みこみ、同じ場所から歩幅を合わして歩き出す今回のラストシーンは、前回序盤のうわっ付いたお上りさん描写と、面白い対象をなしていると思います。
行きたい場所も見ている願いもバラバラな六人が、気持ちをまとめて挑んだステージが通用せず、笑顔の仮面を剥がして涙の海に一緒に飛び込むことで、競技集団として必要な結束を強める。
μ'sが一期三話で手に入れた『完敗からのスタート』を、Aqoursが八話目にして手に入れる形となった今回は、グループの内側と外側、内浦と東京、集団と個人、様々な位置からAqoursの現状を描写し、そこからどこに踏み出していけるのかというポテンシャルを見せる前後編だったと思います。


涙の海に分け入って挫折を皆で受け入れ、0からのスタートを切ったAqoursに対し、三年生たちはとんでもない湿度のメロウなドラマを展開し、どこにもいけないままでした。
鞠莉と果南、果南とダイヤの対話シーンを挟みこむことで、三年生同士のぶつかり合いではほつれた感情の糸はもはやどうにもならず、外部(=Aqours)の介入が必要であると、しっかり見せる回でしたね。
これまでネタとしてイジってきた『スリーマーメイド』が、果南ちゃんの挫折が語られることで『歌えなかった三人の人魚姫』というシリアスなテーマと結びつき、一気に意味合いを変えているところとかエグくて良い。
三年生は過去の経験を活かしメンターとして加入するかと思っていたんですが、同じ経験を乗り越えたAqoursが三年を水底から引っ張り上げる形になりそうで、なかなか面白い変奏だと思います。

Aqoursの活動を物分かりよく後押ししているように見えた鞠莉が、ハグを拒絶されたことで魂の地金を見せ、『かつての黄金時代をそのまま取り戻す』という歪んだ望みをかけていたことが、今回わかりました。
もちろんすべてがエゴイズムの産物ではないんでしょうが、Aqoursのアイドル活動(そしてそこに込められたみんなの『でも、やりたいから!』という純粋な気持ち)を、時を巻き戻して過去をそのまま手に入れようとする、無茶な望みに利用している形には、なってしまっている気がします。
家の力も理事長の椅子も後輩の願いも、エセ外人のおどけた仮面も、使えるもの全てを利用して綺麗なたった一つを望む余裕の無さは、僕は凄く好きです。

失敗した過去が明らかになった結果、二年の時間が過ぎても(もしくは過ぎてしまったからこそ)果南ちゃんを苛む屈辱と痛みも、視聴者に公開されました。
大舞台のプレッシャーに負けたという意味では梨子と似た立場なんだけど、二年間学校を離れていた鞠莉は、哀しみの海に沈む果南を抱きとめられなかったし、果南も涙に濡れている鞠莉を抱きしめられはしないわけだな。
痛みと哀しみに時間を止めてしまった果南ちゃんは、かつて輝いていた時代が本当にあったことも忘れてしまっているし、あの時感じた『でも、やりたいから!』という気持ちにもフタをしてしまっている。
歪な状況が動き出すためには、旧世代の思惑を離れて動き出したAqoursが介入するしかなさそうです。

過去にとらわれた二人に比べると、妹の本気を認めて痛みを伴う道に送り出し、傷ついて帰ってきたルビィを優しく抱きとめたダイヤさんは、バランスよく現在を見つめている気がします。
三年生の事情を話す役が彼女だったのも、三年生の中で唯一時間を止めず、自分なりに痛みと向き合って進んできたからこそ可能な配役なのでしょう。
歌えなかったのが誰なのか具体的に言わなかったり、三年のある意味『恥』を公開するのに果南の許可をとっていたり、直接Aqoursに見せる思いやりだけではなく、傷ついた果南のプライドを守ろうとする優しさもあって、ダイヤ株はストップ高ですね。
仲間のために仮面を被った千歌と同じく、傷ついた内面を極力隠して妹を受け止め、冷静に真実を伝える仕事を全うしていたのは、とても立派でした。
あれだけ優しく現実も見えている人がなぜAqoursに入らないかといえば、時間を止めてしまった果南と、時間を巻き戻そうとする鞠莉への心残りが、杭となってダイヤを縛り付けているからでしょう。
この杭も三年生では抜けないので、Aqoursが頑張って抜くしかなさそうです。


三年生が独力ではどこへもいけなくなってしまったのは、皆が嘘を付いているからです。
『誰も傷つけたくないから』とスクールアイドル活動を拒む果南ちゃんは、その実自分がいちばん傷ついているし、その痛みをだれとも共有しようとしない。
鞠莉は時を巻き戻そうとするけれど、一瞬描かれた二年前の三年生は今とはぜんぜん違うキャラクターで、痛みを知ってしまった今無邪気な時代に戻ることは出来ない。
ダイヤだって、誰よりも好きだったスクールアイドルへの気持ちを押し殺して、『融通の木かない先輩』という仮面をかぶっていた。
それがどんなに他人を思いやるものであっても、本心を笑顔で隠し、孤独に涙の海に沈んでいるだけでは状況は良くならないというのは、今回強く語られたテーマでもあります。
そういう中で、ダイヤさんがこれまでAqoursに厳しくあたっていた真意を語り、過去の真実を公開したのは、物事が解決に向かうだろう良いきっかけになると思います。

笑顔の仮面を引き剥がして、哀しみを皆で共有し、屈辱をしっかり受け止めれば新しい場所に行けるというのは、今回Aqours全員が共有し証明している物語。
一二年生の物語と重ねあわせて、かつて一年だった三人の物語と、そこで止まってしまった三年生の物語が語られたのは、現状確認であると同時に未来の暗示でもあると、僕は思います。
三年生が選び取れなかったゼロからの出発を果たした六人が、哀しみの海にどう踏み込んでいくのかが、今後大きな焦点になるのでしょう。

三年の不自然で不自由な状況は、綺麗で尊く温かいものを大事にするがゆえに生まれてしまっているのは、悲劇でもあり希望でもあります。
鞠莉はなぜ、かつての果南をなぞるようにハグ魔というパーソナリティを演じ続け、最初は拒絶していたスクールアイドルに三年で唯一しがみつき続けるのか。
後輩をおもいやり妹を抱きしめる優しさを持ったダイヤは、なぜスクールアイドルへの情熱を開放せず、果南が悲しむだろう願いを押さえ込んでいるのか。
果南が美しかった過去に背中を向け、鞠莉を抱きしめないのも、愛ゆえに受けた傷が重たすぎて、一歩も動けないからでしょう。
そこにはやっぱり、捻れてしまっても確かな愛があり、愛があればこそ絡まった気持ちが解けないのでしょう。

今は背中を向け合う三年生たちですが、そこにはやっぱりお互いを思いやる気持ち、スクールアイドルへの情熱と愛情が秘められていて、正しい場所に戻るのを待っているように思います。
今の姿とはぜんぜん違う、お互い支え合い笑い合う姿を回想で見せたのも、『この子たちは、この笑顔を取り戻すために、有る基なおさなければダメなんだ』と視聴者に教える意味合いがあったのでしょう。
そのきっかけは同じ痛みを乗り越えたAqoursが作ってくれるし、根っこには愛があるんだから、動き出せば多分大丈夫。
今回のエピソードを見ていて、僕はつくづくそう思えたのです。


今回のエピソードはAqoursの現在を定位するだけではなく、μ's以後のスクールアイドル業界も定位するお話でした。
5年前の10倍以上に参加者が増え、ハイレベル化が進んだ現在のスクールアイドルは、千歌が慰めに使っていたような『頑張ったから立派だよ』というアマチュアリズムを拒絶する、修験な競技に変わっています。
無印は高坂穂乃果という強力なモチベーターをエンジンにして、『輝きたい!』『でも、やりたい!』という自分の気持に素直になりさえすれば結果がついてくる文法で動いていたわけですが、ダイヤさんが言う通り、今のスクールアイドル業界で結果を残したければ、それだけではダメになったわけです。

テクニックやパフォーマンスの切れ味、明快なコンセプトや知名度などなど、いろいろな戦術が必要となったスクールアイドルですが、同時にあくまで学生の自己表現であり、『でも、やりたいから!』という心の輝きこそが核となるのは、変わっていない気がします。
だからこそ、千歌が本音を吐露する時、スクールアイドル業界の変化は『関係ない』と言い切るし、Saint Snowもちょっと無礼に思えるほど感情をむき出しにする。
ここで勝つための小手先のテクニックに走るのは初期衝動を見失った迷走ですし、むしろ負けたことで『それでも、やりたいから!』という気持ちを新たに出来たのは、ゼロからトップを目指すAqoursにとって良いことだったと思います。
気持ちだけでは結果をもぎ取れないとわかった以上、気持ちを燃料に結果に近づいていく努力が必要になるわけですが、そこら辺どう表現してくるのか、結構楽しみです。
ステージアクティングを説得力を持ってアニメで描くのは、いつでも難しいからなぁ……。

世間全体でAqoursがどういう位置にいて、世間自体がどこにあるのかという遠近法を描く上で、Saint Snowというライバルは大事な位置にいると思います。
正直な感想を言うと、アバンで見せられた"SELF CONTROL!!"はそこまで圧倒的には見えなかったわけですが、彼女たち自身も上を目指す挑戦者である以上、高い完成度でまとまっている感じを出さないのは、むしろ狙い通りなのかしら。
つーか、神田明神で見せた身体能力は見せ場として使うんじゃないんかい!
普段の立ち回りもあんま余裕が無い感じで、善子の言うとおり『そんな言い方しなくっても……』という感想だったけども、ラブライブガチ勢としては内浦という揺り籠で守られてきたAqoursは、厳しさに向かい合っていない印象になるのかしら。
今回決意を新たにしたことで、Saint Snowが背負っていた『今のスクールアイドル業界』をAqoursは共有したと思うので、二回目の邂逅はまた別の展開になるんでしょうね。

Saint Snowは(かつてのA-RISEのように)上から引っ張る立場というよりも、Aqoursと視聴者にμ's以降のラブライブを見せ、意識改革を迫る刺激的なアウトサイダーに近い気がします。
身近なライバルとして配置された、Aqoursを圧倒したSain Snowですら、余裕のない態度で必死に頑張らなければいけないほど、スクールアイドル業界は様相を変えたし、そこで展開されるサンシャインの物語も、無印とは大きく異なった勝負論を展開する。
そういうメッセージを背負った彼女たちですが、正直余裕がなさすぎて不要に攻撃的になっちゃってるのは哀しいことなので、彼女たちが何故戦うのか、なぜ追い詰められているか、その内面を早く知りたいところです。
人情噺の一つも見せれば俺もソッコーチョロ蔵になる準備は万端なんだがなぁ……Aqoursが気持ちを入れ替える上で、厳しさ以外の側面を見せるのは早いってことかねぇ。


寄せられた期待に浮かれ、ステージへの真剣さを取り戻して舞台に向かい合った前編を受けての後編は、現実の洗礼に歯噛みしつつ、偽りの笑顔を引剥して悔しさを共有し、ゼロからの出発を誓うリスタートとなりました。
千歌とAqoursの仲間たちだけではなく、同じような経験をして動き出せない三年の面倒くささ、μ's時代とは様相を大きく変えたスクールアイドル業界の姿もクリアに見える話でした。
これからAqoursがどこに行くのか、どこに行けばいいのかを指し示しつつ、少女たちの濃厚な『今』をちゃんと切り取ってくれているのが、見ていて辛く楽しく素晴らしい。

負けた悔しさを皆で共有し、ダイヤさんが優しく歩み寄ってくれたおかげで、此処から先の物語で何をすればいいのかは、だいたい見えています。
しかしそれは、別格の湿り気を持った面倒くさい金髪と面倒くさい黒髪を過去から開放し、痛みに寄り添い、一度は諦めた夢に立ち向かわせる難儀な道です。
しかし凡人主人公も一歩ずつ知恵と成長を積み重ね、仲間を惹きつける輝きも強くなっています。
青春の輝きは、捻じくれてしまった愛と時間を取り戻せるのか。
ますます輝きを増す少女たちの青春が、本当に楽しみです。

初恋モンスター:第8話『奏電話相談室』感想

アホとバカとマジ恋の間を高速反復横跳びして進むラブコメディ、今週は追いかけて金沢。
失って初めて恋の意味を知った奏と彼を受け止め導く大人たちが、ネタまみれになりつつ愛を取り戻すために奔走するお話でした。
嵐のブレーキを取っ払ったクソ変態っぷりで笑いを取りつつも、恋を知って大人になりかけた奏をしっかり受け止める敦史が頼もしく、手応えのある展開でした。

という訳で今回は、小学生っぽいアホ力で彼女を袖にしてきた奏が、自分の本心とその対処法に気付く回。
バカガキが独りでできることではないので、バカな大人がしっかりサポートし、バカ過ぎてコースアウトしないようにしっかり導いてくれました。
こういう時、性格最悪すぎてアホギャグに混ざれない敦史の特権は、いい仕事をしてくれますね。

散々ネタをぶっこみつつも、主役たちの恋心には嘘をつかず、茶化さず、きめ細かく描いてくれるこのアニメの真面目さが、僕は好きです。
なので、これまでただの形でしかなかった『恋人』を失って始めて、寂しさや痛みを実感して大人になる奏の姿、それを助けようと蠢く優しい人達の姿、初めての感覚に戸惑う奏に道を示す敦史の姿は、非常に良いものだった。
これまでさんざん笑いを取ってきた『小学生男子のアホさ加減』が、奏の精神的成長を際立たせる差し色として機能しているのは、シリアスとコメディがハードコアに共存するこのアニメらしい表現だなと思ったね。

正直奏がアホバカ小学生すぎて、『夏歩のこと、あんま特別に思ってないのかな?』と疑問に思いもしたわけですが、それが真正面から否定されたのも良かった。
『彼氏/彼女』という関係は幾らでも仲良くなれる『友達』とは違う、特別な誰かを選びとり大切にする関係。
『お前じゃなきゃダメなんだ』という気持ちがあってこその恋愛なわけで、特別な感情を知ることで仲良し子供グループから一歩抜きでた瞬間が綺麗に描かれていたのは、恋愛モノとしてだけではなく、少年の成長モノとしても良い描写だったと思います。

奏はお母さんの思い出を大事にしながら、悪意やネガティブな感情から遠いところで生きてきました。
だから『誰か一人を特別に選ぶ』という行為をあまり良いものとしては捉えていなくて、それが夏帆の『大人』な恋愛観と軋轢を生んだ一因だと思っています。
馴染みがない感情に奏は戸惑い、実感のない聞きかじりで夏帆に接して道を踏み外しかけますが、いざ実際に分かれてみたら、『誰か一人を特別に選ぶ』感情は奏の中にちゃんとあって、『夏帆がいない世界は地獄だ』という実感を生む。
それに対処するべく、生きている大人たちはちゃんと助言をくれて、奏が自分の感情を正しい場所に位置づける導きをしてくれる。
圧倒的なネタの圧力に負けず、恋が生む精神的成長の過程をしっかり描いているのは、主人公が10歳であることを笑い以外でもしっかり活かした話運びで、とてもいいなと思います。


今回は子供らしい純粋さで常に一番大切なものを見つけてきた奏が、道に迷うお話。
夏帆が迷った時は奏が支えてきたけども、その奏が迷った時はどうすんの? という問いに対し、みんなで支えるという答えをしっかり出していたのは、人情味があって素晴らしかったです。
常に正解し続ける『天使』は物語的にありがたい存在だけど、あまりにも完璧すぎて自分自身の物語を持たないわけで、ここで答えを見失い痛みを感じることで、奏は成長の余地を残した等身大の少年足りえる。(いや背は不必要にでけーけどさ、そういう話ではなく)

夏歩がいない世界を『地獄』だと感じるのは、常に綺麗な世界の中で生きてきた少年にとって初めての経験のはずで、そういうネガティブさに伴う混乱を受け止めつつ、これから何をするべきか導いた敦史は、いい仕事した。
嵐や耕太だとどうしてもネタ方面に引っ張られていく傾向があるので、アホな騒ぎをニヒルに見つめてきた敦史が軌道修正するのは、良い配役よな。
『いい加減小学生力に引きずられすぎて、恋心から逃げるのやめろ』とツッコミを入れられるのは、あのアホバカな世界では彼だけなわけで、そういうコントロールがしっかり機能しているのは、コメディ一辺倒で胸焼けするのを防ぐ意味でも大事だと思います。
あと判りやすい男ツンデレ、俺好きですよ……。

そして言うても、ネタのアクセルベタ踏みっぷりは相変わらずなんだけどな。
今回は特に嵐がまさに嵐の如き大暴れで、『ツダケンまじ楽しそー』ッて思った。
あの人性欲と仁愛が完全に切り離されてるのが逆に生々しくて、制御出来ない性欲をそれはそれとして使いこなしてる頭の良さ、一歩間違えたら犯罪者だなって思った。
ショタに発情し続けるゴミクズ人間でありつつ、『好きなら好きってちゃんと言え、ナァナァで流さず正面から気持ちを伝えろ』という正解を教えてくれる辺り、面白いギャップのあるキャラだよね。

あとなんで弱ペダパロだったんだろう……『やりたいからやる、それだけだ』ってスタッフではあるが。
冒頭の唐突なロボットモノも、ちゃんとバリ本人を呼んでバリバリさせてたのが手抜きなくて良かったです。
笑いを取りたければ真顔でやりきんないと、やっぱダメだなぁ……そういう意味では、シリアスなロマンスをしっかりやっていればこそ、コメディ部分が映えるのだろうな。
これは逆もそうで、コメディ部分のネタ力から一気に真面目になることが、不思議な面白さを生んでいると思います。


そんなわけで、無垢な少年が己の心に気づき、大人や友人たちがそれを支え導く成長物語でした。
嵐のクソ変態っぷりとか見てるとそういう良い話オーラは一切見えないが、大筋的にはこれでオッケーなんだよ!
これまで『形』でしかなかった奏の初恋に痛みが宿って、当事者性が高まったのは非常に良かったね。

恋には障害がつきものというわけで、こっからは実家に帰った夏歩を取り戻す展開になりそう。
顔を見せていない夏歩の兄貴も、このアニメに相応しい元気なキャラ(気を使った表現)っぽいしなぁ。
北国金沢でぶつかり合う心と心、ネタとネタがどこに行くのか、非常に楽しみです。