イマワノキワ

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スタミュ -高校生歌劇-(二期):第七話感想ツイートまとめ

リトルウィッチアカデミア:第19話『キャベンディッシュ』感想

夢と挫折、魔法と現実、伝統と革新がぶつかる青春の渦潮、ついにダイアナ・キャベンディッシュをメインに据えたエピソード、その前編です。
これまでのエピソードとも豊かに呼応しつつ、『伝統』を背負うダイアナと、『新しい力』の象徴であるアッコ、二人の強さと弱さがじっくり描かれるお話となりました。
『現実』に最悪の形で適合した叔母を出すことで、ルーナノヴァが重んじる『伝統』がどのような状況にあるかを、ルーナのヴァを離れたウェディンバラで確認する回でもあったと思います。
これまで幾度も語られてきた、『伝統』と『確信』の対立、そして融和。
来週のクライマックスに向けて、非常に丁寧に滑走路を整えるエピソードだったと思います。


最初に言っておきますが、僕はダイアナ・キャベンディッシュというキャラクターに過剰な思い入れがあるので、こっから先の文章はあまり理性的ではないかもしれません。
推測と妄想が入り混じり、願望混じりの過剰な読みが飛び交うことになると思いますが、ダイアナにはそうさせる魔力があるのだ、と思っていただければ幸いです。
可能な限り冷静に書くつもりなんですが、待ちに待ったダイアナメイン回、吹き上がる体熱をごまかして書くよりは、勢いで押し込んだほうが良かろうと思いました。

言い訳はこのくらいにして、今回はダイアナとアッコの話であり、魔女界の話しであり、言の葉の話でもあります。
シリーズ初の前後編となったこのエピソードがどういう話なのかは、アバンのダイアナとバーナデットとの会話で既にまとめられています。
『伝統と新しい力が交わる時、まだ見ぬ世界の扉が開く』
おそらく新しい言の葉となるこの言葉はしかし、ダイアナとアッコがお互いを理解しきれていない現状力なきモットーでしかなく、これに実感を加え魔法にしていくのが、今回のエピソードの狙いとなります。

そのためには交わり合う『伝統』と『新しい力』がどういう個性を持っていて、良い側面と悪い側面、両方を描かなければいけません。
ウェディンバラの屋敷に集まった人たちは、魔女界との関わり、新しい力への開け方、背負った倫理性が明確に別れていて、キャラクターにテーマ性を背負わせ話を転がしていく配置だといえます。
大人-子供、魔女界-現実、夢を持つ-現実におもねる、貴族-平民。
様々な対立軸をキャラクターが背負うことで、今回のお話はキャベンディッシュ家の興亡にとどまらず、作品世界全体を照らし出す奥行きを獲得します。
キャラクターを個別に掘り下げていくことで、このお話が切り取りたい『伝統』の表情、『新しい力』の個性の描き方というのも、より鮮明になっていくわけです。


そういう構図の中で、やはり一番鮮烈なのはダイアナでしょう。
ナインオールドウィッチに連なる名門の末裔として、『伝統』を背負うためにこれまでも背筋を伸ばし続けてきた女の子は、今週も誇り高く振る舞っています。
『なすべきこと』を最優先しつつも、それが愛しい母から受け継いだ『やりたいこと』でもある彼女は、あくまで自発的にキャベンディッシュを優先し、ルーナノヴァを去る。
徹頭徹尾隙のない優等生、あらゆる問題を完璧に乗りこなす、さすがダイアナ。

というステロタイプでは描ききれない裂け目を、このアニメはかなり丁寧に切り取ってきたし、今回は特に深く切り込んでいます。
無邪気に、残酷に、『やりたいことをやればいいじゃん。ルーナノヴァをやめなくてもいいじゃん!』と言ってくるアッコに対し、ダイアナは本心をストレートには伝えない。
11歳の時に脱ぎ捨ててしまった子供の衣装が、今のアッコにはぴったりなように、自分の気持ちを真っ直ぐ言葉にできるアッコの強さ(と無神経さ、幼さ)は、もはやダイアナには身につかないものです。

誰にも涙を見せないまま、空に消えていくしかない彼女は『ルーナノヴァが大好きです。アッコとおなじように、全てが輝いている思い出で、捨て去りたくなどありません』とは言えない。
優等生と劣等生、インサイダーとアウトサイダー、貴族と平民、西洋人と東洋人。
様々なものが正反対だったとしても、彼女たちが魔女であり、ルーナノヴァの生徒であり、泣いて笑って食べて寝ての青春を共有していること、そこに輝く思いを抱いていることは共通している。

それでも、ダイアナは自分の気持ちを真っ直ぐ言葉にする贅沢も、大人に助けてもらう特権もないまま、『伝統』に従って口をつぐみ去っていこうとする。
彼女に許されているのは『嫌いではありませんでした』という婉曲で貴族的な、あまりにも自己を抑圧した好意の表明だけです。
能力ゆえに、血筋ゆえに、伝統ゆえに、常に『やりたいこと』ではなく『やるべきこと』を外側に出し、それが周辺にとって当たり前になっている優等生の哀しさが、今回のダイアナの言葉には滲んでいます。
それは彼女が人前では流せない感情の雫、涙の代わりなのでしょう。

可能ならば、彼女もアッコのように己を全開にして、わがままな子供のように振る舞いたかったでしょう。
しかしそれは周囲の環境と期待が、そして何より、母の期待に答えたいという彼女自身の思いが許さない。
これはアンドリューにも通じる部分ですが、彼らノーブルな存在がノーブルであり続けたいと願うのは、『伝統』の檻に閉じ込められていると同時に、自分から望んで『なりたい自分』として振る舞った結果でもあるのです。
貴族的であること、己を抑圧可能な大人であることは、貴族の子供にとっては親との繋がりを確認し、愛されて生まれてきた自分自身を確認することでもあるのです。
『伝統』の重さ、自分の気持ちを口にしない成熟した(してしまった)子どもたちの哀しさをアッコが理解しなくても、失われた母への思慕は即座に共感できるところが、一つの救いだと感じました。
アンナに説明される前段階で、推測できる情報は揃ってたのに思い至らないのがアッコの馬鹿さで、事情を察したら自分のことのようにウルウルしちゃうところが、アッコの良いところだな。
アッコ、ママ好きかー、そっかー。


思い返すと、主役として未熟であること、成長の物語を書き連ねる白紙をたくさん背負っているアッコに比べ、ダイアナは物分り良く、自分の物語を整理してきました。
気の置けない友達と青春を謳歌したり、未熟な自分に思いっきり凹んだり、アーシュラ先生という頼れる大人(であり、シャリオという夢そのもの)に助けてもらえるアッコに比べて、『大人びた子供』でしかないダイアナへのケアーは極端に少なかった。
というよりも、子供でしかない彼女がルーナノヴァの財政をケアし、生徒をまとめ上げ、『伝統』が求める理想を演じ続ける捻れを当然視するほどに、彼女は高貴だったし強かった。
弱さを見せては、母が願った理想の魔女/貴族ではあり続けないと、シュタイフ・ベアとレアカードを家に置き去りにして(ルーナノヴァにシャリオのカード≒幼さを持ち込んだアッコとは、ここでも正反対)彼女は一人で立ち続けました。

トーリー進行にあまりにも献身的に、ダイアナはアッコ側の事情を全て独力で調べ上げ、言の葉も、グラントリスケルも、アッコが王権の剣に選ばれた救世主であること(つまり自分は選ばれなかったこと)も、無言で飲み込みます。
自分の気持ちと尾なじように、世界のルールも、アッコが背負う物語もお行儀良く飲み込む彼女は、アーシュラ先生が守らなければいけない生徒≒子供ではなく、一人で自分の道を歩ける大人であると、周囲に認識されています。
アッコが手に入らなかったシャリオのレアカードを、ひっそりと閉じ込めて未だ大事にしている彼女の寂しさには、誰も寄り添いません。
アッコが先生と二人三脚で言の葉を追い求める時、必ず描写されていたダイアナの独習が、こういう形で結実するのは、納得もできるが寂しくもある、なんとも言えない描写でした。

ダイアナが高潔なのは、『ライバルとは思っていない』劣等生のアッコに、心からの叱咤と激励を飛ばしていることです。
アッコが言の葉を集めるのは、魔女界が復興するという公的な目的ではなく、憧れのシャリオにもう一度会えるという私的な願いのためです。
それは遥か古代から続く魔女回の文脈から切り離された、『伝統』とは無縁の願いであり、ダイアナが『軽んじている』と受け取るのも無理はないでしょう。

それでも、選ばれなかった自分と選ばれたアッコの間にある残忍な裂け目をじっと見つめて、『伝統を大事にしなさい』『立派な魔女になりなさい』と、大真面目に忠言してくれる。
叔母にアウトサイダーの生まれを侮蔑されたときも、背中にかばって『彼女は立派な魔女です!』と力強くかばってくれる。
正反対のアッコに、残酷な運命に、引き裂かれた心のままに叫びたいはずなのにそれを押さえ込んでしまうダイアナの姿は、痛ましいと同時に高潔なものとして、僕の目には写りました。
そんなときでも優等生でなくてもいいのに、彼女は(おそらく母と死別した時に)己で任じた『自分らしさ』に胸を張って、堂々と生きてしまうのだと。
アッコに道を示す態度が、アバンで見せられた母親からの夢の伝授の再演であり、去りゆく自分では叶えられないからこそ夢を託す構図が反復されているのが、なかなか強力です。
アッコに恨み言ではなく激励を残すことで、ダイアナはあの時の母と同じ距離まで駆け上がったわけだ……立派だけど、やっぱ寂しいよ、そういうのは。


そんなダイアナに、アッコは遠い場所から急接近していきます。
アッコは欠点の多い主人公として描かれ、たくさんの物語を主役として駆け抜けた今でも、色々問題があります。
他人の立場を推測する賢さも、自分とは違う前提条件を受け入れる寛大さも、時間や空間の広がりへの想像力も、劣等生の彼女にはありません。
そういうのは常に、ダイアナの属性でした。

しかしだからこそ、物分り良く『伝統』に従ってしまうダイアナの弱々しさではなく、『新しい力』をフル回転させて他人の事情に首を突っ込むパワーが、アッコにはある。
それが(大量の問題を含みつつも)様々な可能性にたどり着いてきた物語が、これまで僕達が見てきたアニメなわけです。
母親の喪失も、『伝統』(そして、それと同じくらいのルーナノヴァ)への愛着も、理解しないまま、アッコは去りゆくダイアナに突撃していく。
沈黙を守らなければならない場面で言葉を発する無作法(これはルーナノヴァからの旅立ちと、食事のシーンで二回演じられます)はしかし、隠していてはいけない大事なものをむき出しにするわけです。

第1話のシャリオをおなじように見て、カードをグリモワールに変えてルーナノヴァにたどり着いたアッコと、綺麗な小箱に(アッコが唯一保持していない!)カードと憧れを封じ込めて『伝統』を背負ったダイアナ。
11歳の服が似合うアッコはしかし、シャリオに憧れるだけの子供ではありません。
憧れに導かれ、中身の無いままたどり着いたルーナノヴァで、彼女は友情と師の教え、そして『伝統』が育んだ魔法の素晴らしさに触れた。
それが『シャリオと同じくらい、私の中で輝いてる!』と大きな声で言ってくれたのは、彼女の成長を強く感じられる素晴らしい告解でした。

自分とは正反対で、でも魂の奥底が似ている。
そんなアッコ相手だからこそ、ダイアナは言わなくても良い本心を告げ、それに突き動かされたアッコは異境であるウェディンバラへと、頼れるルームメイトの支援を受けつつ飛び込んでいきます。
ハンナやバーバラがそうしたように、『伝統』を飲み込んで、ダイアナが運命に轢き潰される様子を泣きながら見ているだけのお姫様に、アッコはなりたくなかったのでしょう。
自分の足で前に進む、王子様であり魔女でありネズミの御者であり、お姫様でもあるような主役として、『自分のやりたいこと』をやる。
そういうアッコらしさが、物語を先に進めていきます。

ダイアナは『みすぼらしい学生服では、叔母様に笑われてしまう』と自分の衣をアッコに貸します。
でも、ダイアナにとって魔女=母の『伝統』に触れ、自分が心から愛するものに包まれていられるルーナノヴァこそが、夢のような舞踏会だった。
正体を知られぬまま、真夜中にガラスの靴を置いて去っていこうとしたダイアナに、『シンデレラなんてくそくらえ!』とばかりに、アッコは追いつきます。
ダイアナには貴族の乗馬服(ズボンを履いても自由になれない辺り、アマンダとも声質が違うわけですね)よりも、社交用のドレスよりも、ルーナノヴァの制服こそが、ピッタリのガラスの靴だと思っているわけです。
それはアッコの思い込みであると同時に、ダイアナが押さえ込んでいる本心であり、おそらく誰もが幸せになれる正解でもある。

そこにたどり着く道が険しくても、おバカなアッコは気にしません。
自分がやりたいと願った心の高鳴りそのままに、困難な道を歯を食いしばって進む。
それは実は、意地悪な継母と義理の姉妹が待つ『家』に帰還し、財政難のハンブリッジ家を背負おうとしたダイアナと、全く同じ心の動きなのでしょう。
『やりたいこと』だから、尊敬する誰かから受け取った強く輝く『やるべきこと』だから。
その光から目を背けず、胸を張って逆風に飛び込んでいく心意気は、優等生と劣等生で強く共通しています。


そんな魂の姉妹たちに協力してくれるのが、メイドのアンナであり、ハンブリッジ親子です。
普段は『余計なおせっかい』をガンガン押し付けてくるアッコが、髪を梳り、服を着付け、ダイアナの事情と心情を伝えてくれるアンナに押し込まれていくのは、なかなか面白い絵面でした。
アンナがアッコに(過剰に)親切なのは、貴族社会に迷い込んだ山猿でありながら、ダイアナを真っ直ぐ求めるアッコの気持ちに感じ入っているからだと思います。
ルーナノヴァの教師やハンナ&バーバラでも寄り添えなかった、『ダイアナだって子供である』という事実に、唯一接近し、どうにかしようと心を砕いてくれるアッコの同志なのでしょう。
失われた『母』(ハンブリッジ家の『母』は、不自然なほどに顔を見せません)の代わりは務められなくても、アッコと一緒にダイアナに魔法をかける、フェアリー・ゴッドマザーの仕事はしてくれそうで、来週が楽しみです。

前々回以来の登場となったアンドリューですが、アッコとはすっかり打ち解けた様子です。
男と女が並ぶとついロマンスを求めてしまいますが、貴族社会と縁がないアッコを前にしたアンドリューは、年相応の悪ガキっぽさが全面に出て、とても自由に見えます。
そういう悪友感が二人の間に漂っているのは、なんかいいなぁ、と思いますね。

ハンブリッジ家は今回、第2の主役とも言うべき面白い立ち回りをしています。
母と死別し、反発も和解ももはや出来ないダイアナに対し、アンドリューは肩の触れ合う距離で父に向かい合い、反発し、あるいは敬意を見せることが出来る。
国務長官も、反抗期……というには穏やかな反乱ですが、背中を向けてきた息子に当惑したり、対話したり出来る。
後部座席でアッコを挟み、お互いの肉体を感じられる親子がいればこそ、ダイアナと母の間にある埋められない傷が目立ってきます。

ハンブリッジ家は男の家系であり、魔女とは別の『伝統』に位置しています。
なので、アッコが心底驚いたナイン・オールド・ウィッチ(今更ですが、アヴァロンの九姉妹ですね元ネタ。彼女たちに向か入れられて、約束の王たるアッコは聖剣を携え帰還し、王国は復活するわけだ)にも興味を示さず、キャベンディッシュ家の財宝にも冷たい態度を見せる。
それは世間一般が『魔法』に対して見せる反応であり、第5話でファフニールが適応した『現実』がルーナノヴァに寄せる冷遇と、軸を同じにしています。
ルーナノヴァ内部で展開していると、こういう目線はなかなか感じ取れないので、新鮮であり大事だとも思います。

ハンブリッジ家とキャベンディッシュ家は『伝統』ある貴族であり、自分で馬を準備・管理・運営できるハイクラスに属しています。
ダイアナが乗馬をしているシーンと、労働者階級のスポーツであるフットボールの結果に、国務長官が冷淡なのはなかなか面白い表現です。
ルイス親子が熱狂していたのとは好対照で、2つの男系家系が属しているクラスの違いの表現なのか、そこまで深い意味のない対照なのか、気になるところですね。


そういう貴族社会にしがみつき、『魔法』を弄びつつ『現実』に最悪の適合を果たした叔母、ダリルも、今回は非常に目立っていました。
『伝統』ある『魔法』の道具を切り売りし、家訓(これも『伝統』)である『慈善』の心を忘れ去って私欲を満たしている姿は、輝く夢を追い求める子供とも、冷静に公平に責務を果たしている国務長官とも、大きく異なります。
魔女のインサイダーでありながら、『誇りで飯は食えない』と諦め、『新しい力』を己のものに変えようともしない彼女たちは、主役たちを映す歪んだ鏡と言えます。

これまで物語が展開したのは、保守的な魔女の価値観にしがみつくルーナノヴァであったり、魔女の価値観それ自体に反発するハンブリッジ家やエイプルトン校でした。
しかし今回の舞台は魔女の名門、キャベンディッシュ家。
当主継承に必要な星辰の意味を知る程度には魔法に親しみつつ、その『伝統』に価値を見出すわけではなく、マジックアイテムを売り飛ばすしか能がない堕落した魔女の姿は、これまで見られなかったものです。

国務長官に媚を売り、ガラクタ(としか彼女には映らないもの)を売りさばいて糊口を凌ごうとする姿は、実は第5話のルーナノヴァ教師陣に通じるものがあります。
魔女の世界の外にある、シビアな経済ルールに支配された『現実』。
それに適応できないまま、通行手形代わりに『伝統』を踏みつけにしてしまうのは、滅びゆく魔女の哀しきオーソドックスであり、世界を改革しなければここまで堕ちてしまう、ありふれた没落なのでしょう。
クロエ先生もシャリオもダイアナも、これが嫌で仕方がないから、それぞれ個別の流儀で奇跡を手に入れようとしているんだろうなぁ。

ダリルは意地悪な継母であり、悪しき女君主であり、否定したくなる悪漢ではあるのですが、彼女が突きつけてくる問題には、子どもたちが乗り越え答えを出さないといけない重たさが、一筋篭っています。
『魔法』の意味を無批判に積み重ね続けた結果、『現実』になんら影響を及ぼさず、閉鎖的で縁の切れた社会になってしまった魔女界。
魔法によるエンターテインメントで世界と繋がろうとしたシャリオも、『現実』と『魔法』を接合するマジック・テクノロジーを選んだクロエも、異物として排除しようとしている魔女界。
ダイアナもアッコも、『信じる心があなたの魔法』というシャリオの言葉を証明するには、ダリルが嘲笑った魔女界の現状に向かい合い、自分なりの答えにたどり着かなければいけません。
大人の汚さに反抗するのであれば、『現実』を弾き飛ばすほど強烈な夢の輝きと、『現実』に適応可能な知性の両方を示さなければいけない。
そして二人は、白い竜を相手に一度それをやっているわけです。

一枚だけ足りないアッコのカードと、一枚しか無いダイアナのカード。
アッコが幼さを封じ込めたシャリオのカードが、彼女にとっての魔導書(グリモワール)であるということは、これまでの物語の中で幾度も示されてきました。
そこにダイアナのスーパーレアを付け足すことで、『伝統』と『新しい力』が友情を育み、劣等生と優等生がお互いを認め合う未来が、見えてくるのではないか。
キャベンディッシュ家を支配する、『現実』への敗北宣言を吹き飛ばし、理想主義の言の葉に力を宿す強い決意が生まれるのではニカ。
そういう気がしています。


僕は今回の話を、逆向きのシンデレラとして読んでいます。
意地悪な継母と義姉から逃げ出して、ドレスの代わりに学生服を着込んだダイアナは、魔法の鐘が鳴り響く中、真実を告げないままルーナノヴァという舞踏場を去っていきました。
ガラスの靴を持たないまま追いかけたアッコは、リムジンにのった男の御者に助けられ、ダイアナの真心が眠る故郷にたどり着く。
解けてしまった青春の魔法をもう一度かけ直すために、いけ好かない正反対の、でもだからこそ気になる女の子を助けるために、魔女の城に乗り込む。
そこではおそらく、アッコもダイアナも助けられる灰被りであり、手を差し伸べる王子であり、魔法使いの妖精であり、ガンバに似たネズミの御者でもあるのでしょう。

役割は固定的なものではなく、アッコが背負うものはダイアナの中にもあり、ダイアナの哀しさをアッコが自分のものとして受け止めることも、また可能なはずです。
母が願い、あるいは呪いのようにつぶやいた『新しい力』と『伝統』の融和、それが生み出す新しい扉。
それが『友情』という名前の戦いに続く扉であることを、アッコもダイアナも大好きな僕は、強く願っています。

二人が憧れたシャリオが開けようとして、挫折してしまった扉を開け、『伝統』を背負い死んでいった母の願いを、ダイアナなりのやり方で叶えることは出来るのか。
心の中の小さな子供を押し殺して、血まみれの足で背伸びする優等生に、バカで真っ直ぐで優しい僕らの主人公は、どんな魔法をかけるのか。
来週の後編、非常に楽しみです。

正解するカド:第6話『テトロク』感想

存在するはずのない四角形の第五辺が世界を変えていくアニメ、新たなステージに移る第6話。
ワム製造法という爆弾が全世界に落ちた前回から、想像より穏やかだった爆心地を描写し、メインはサイコロのようにカドが転がっていく描写でした。
2m四方の四角形が東京を転がっていくだけなのに、異形のスペクトタクルを感じられるのは、つくづく絵の強さだなぁ。
合間合間に真道さんのプライベートも描かれていましたが、それが後半衝撃の展開に繋がっているのはなかなか面白いですね。

というわけで前半戦の折り返しになる今回は、『カド&ワム編』とも言うべきこれまでのお話をまとめていく感じ。
日本はマス・メディアによるワム技術拡散を選択したわけですが、製造可能な人間は現状限られ、いきなり全世界からコンセントが消える、とはいきませんでした。
一個一個の問題にこだわるよりも、順次爆弾を落としていって状況を変化させ、次のステップに移って展開を作る方式なんかね。
ここら辺のスタイルが、一辺一辺をゴロゴロ転がしてカドが移転する様子に妙に似てて、変なシンクロを感じます。

爆弾が落ちても世界は平穏で、国連安保理常任理事国も日本を突き上げるより、自国でワムを生産するほうに舵を切ったようです。
爆弾が落とされてしまった以上、消え去ってしまった既存の人間文化にしがみつくより、『カド以降』とも言うべき新時代に適応したほうが利益が多い、という判断なのかなぁ。
ぶっちゃけ世界全てをひっくり返す大変化なので、色んな所でいろんな変化が起こると思いますが、そこら辺は今後描写の合間に入れてくるのか、もはやメインではないのか。
ワムによって変質した人間社会の様相も楽しみたいので、チマチマでいいので見たいところですね。


んで、今回のメインは回転するカド。
警察に行政に建築会社、色んなところ総動員で狭山湖移転計画を仕上げ、実行していく感じでした。
特に問題もなくスルーっと進んでいくわけですが、巨大立方体がとんでもないスケールでゴロゴロ転がる絵を見るだけで、奇っ怪に面白い。
やっぱこのアニメで一番キャラが立ってるのは『カド』それ自体なんだなぁ、と思い知らされる展開でした。

カドが平和な東京を転がっていく描写は、良くも悪くも異方を受け入れてしまっている/受け入れざるを得ないあの世界の縮図なのかな、とも思った。
人間の認識力はタフなもので、不条理でシュールリアリスティックな存在や思想も、日常の中に取り込み同化していってしまう。
世界がワムという爆弾を受け入れたように、カドの移動を物見遊山しているように、異方をも『人間の世界』に取り込んでしまえる鈍感さが、あの光景には込められていた気がします。

しかしどれだけ親しみやすくとも、異方は異物であり、世界認識の根本的な部分からして異常。
オフィシャルに仕事しているときは漏れなかった、真道さんの違和感や疲労が、母親と対話している時に漏れてくるのは、なかなか面白かったです。
真道さんのプライベートはこれまで一度も描かれなかったわけで、メシ食って家族と話して、『普通の人間』らしいところを見せてきました。
油断し弛緩した部分だけが『人間』ってわけではなくて、これまで見せてきた優秀さもまた真道さんのヒューマニティなんだけども、移動するカドとおなじように別の側面が見れるのは、キャラをより好きになれて良いですね。


飯を食う。
家族と話す。
個人的な歴史を共有する。
異方から単独でやってきたザシュニナにはない部分を、今回真道さんは見せてきます。
父母から生まれ、家庭があり、様々な軋轢と個人史を持ちつつ群体としての基盤を共有する『人間』らしさ。
それは食卓を共にしつつも、パンを口にはしないザシュニナには遠い部分です。

そんな真道さんがブレインスキャンにより決定的に変質し、睡眠を必要としない新人類……異方と地球のハイブリッド的存在になっていることも明らかになりました。
交渉人として異方を理解することは、異方の異質性に侵食され、変質していくことでもある。
ワムを獲得し、有限性のカルマから解き放たれつつある人類ですが、社会構造だけではなく生得の身体性も変質するとなった時、それを受け入れられるのか。
ザシュニナの言う『次』は、そこが重要になってくる気がします。

異方を受け入れると眠りを失い、脳と意識が変質していくのならば、今回真道さんがまったり体現した『人間』らしさも、別のものに移り変わってしまうかもしれない。
人類を人間以上の存在にアップデートするザシュニナの目的が一体何なのかは、『次』の争点になるんでしょうが、お母さんが言っていた『一人で寂しくないのかねぇ?』という疑問は、案外確信を擦っている気もします。
『寂しい』という人間的感情が異方存在に当てはまるかどうかはさておき、ワムの製造に異方への理解が必要で、それが人間を変質させていくと、人類はザシュニナに近い存在になっていく気がします。

そういう変化を許容し変貌していくのか、はたまた既存の人のあり方にしがみつくのか。
国連安保理との政治的押し相撲では『変革』に軍配が上がったこの勝負ですが、ザシュニナの言うとおり進め続けていては、あっという間に『人間』はその定義を失っていくでしょう。

人間性の喪失(と再定義)が是か非かも含めて、ザシュニナが与える/奪うものに対し『これ以上は出来ない』と境界線を引くこと。
相手を理解しつつ完全には同質化されず、自己を保ったまま利益とアイデンティティを確保する交渉は、『次』からが本番なのかもしれません。
何しろ真道さん、人類の基底的変質でもトップランナーで、ザシュニナの人類変革で一番波ひっかぶってる存在ですからね……マジ他人事ではない。

このアニメは緊張感のある硬い展開の中に、人間くさい柔らかさを持ち込むのが巧いと思います。
笑いやしみじみとした日常描写の中に、『カド』が出現していない僕らの世界との共通点を見て、物語に近寄る足場にしている感じです。
真道さんと仲間たち、家族との描写もその文脈に位置するわけですが、同時にそれは『ザシュニナによる人類変革』というシリアスな本道によって、もしかすると押しのけられてしまう『人間らしさ』でもあります。
人の背負ったカルマを超越することは、善きものもひっくるめて古いものを捨て去ることであり、そこには友や母の記憶と温もりも含まれるかもしれない。
ここまでの交渉が順当に進んできた分、そういう危うさをザシュニナとカドが当然持っていることを思い出させてくれた『眠りの剥奪』は、インパクトの有るフックだったと思います。


というわけで、カド出現以来の六話をまとめ、『次』に続けるエピソードでした。
張り詰めっぱなしだった真道さんの一瞬の弛緩、母との穏やかな日々の残照が、最初の新人類になってしまった真道さんの衝撃を照らす形になったのは、緩急ついてて面白かったです。
ああいう弱さ……というか別側面をいい塩梅に見せられると、スムーズに進行していた異方との交渉を疑う足場になって、お話全体を見返す良いきっかけになりますね。
『もしかするとママンとの思い出、関係も変質するかもしれないけど、それでも異方を受け入れていくの?』という。

ワムによる無限エネルギーの『次』は、心と体の結節点でヒューマニティを問う展開になりそうです。
失われてはいけない私自身を、交渉に巻き込まれる中で変質されつつある真道さんは、今後どう動くのか。
エネルギーと社会のみならず、より個人的な心身をも変質させるとわかった時、人類は異方をどう受け止めるのか。
ペーソスとスペキュラティブネスが交じり合うこのアニメも、『次』へと向かうようです。
楽しみですね。

フレームアームズ・ガール:第7話『VSフレズヴェルグ&FAガールはじめて物語』感想ツイートまとめ

追記

月がきれい:第6話『走れメロス』感想

オッサンは激怒した。
必ず、この青雲立志の物語を見切らなければならないと決意した。
オッサンは恋愛が分からぬ。
オッサンは、非モテである。
アニメを見、感想を書いて暮らしてきた。
しかし、俺の青春こんなにキラキラしてなかった! と叫ぶことに対しては、人一倍に敏感であった。
そういう感じのアニメ、青春の甘さと苦さが交錯する第6話です。

嬉し恥ずかし行ったり来たりのピュア・ラブを経て、彼氏彼女になった小太郎くんと茜ちゃん。
初めての恋に浮かれる二人でしたが、生臭い編集のおじさんとか、メンタルボロボロで挑んだレースとか、色んなものが目の前に立ちふさがる。
学業と夢、恋愛と友情。
両立なんて器用なことは出来ない体当たりのアドゥレサンスが、お互い支え合いながら明日を探していく回でした。
小さいけども切れ味鋭い青春の蹉跌と、それでも前を向こうとする恋人たちの瞳の輝きが、あまりに眩しい。


というわけで今回は、話全体の調子が上がって下がってまた上がり、最後に特大の爆弾が投げられる、という塩梅。
恋人と手を繋いだだけであんなに世界がキラキラしてる辺り、初々しくて可愛いもんですが、好事魔多し。
小太郎くんは才能を認められたと思って出版社まで出たら、現実に思いやりをすり潰された編集者のおじさんが出てきて生臭い態度を取ってくるは、ママンは圧力かけてくるわ。
茜ちゃんは親友との三角関係に悩むわ、大会で結果は出せないわ、千夏ちゃんは無茶苦茶言ってくるわで、さんざんでした。

ウキウキの前半としょんぼりの後半、二人で小さな喜びを確かめ合う聖域となった図書館が二回出てくるのは、なかなか面白い演出です。
前半はある意味『下げるために上げる』場面なのでキラキラしているのは納得なのですが、後半もそこまでライティングが変わらず、ポジティブな場所として扱われている印象。
結構やり込められたので引きずるかと思いましたが、お互い励ましあって前を向く形になったので、二人の聖域はいつでも『いい場所』として描かれるのでしょう。
ここで凹みを引きずんないのは、今風のストレスコントロールだなぁと思います。

一回目は小指を絡めたのに、二回目は身体接触無しで前向きになれるところに、キツい青春時代を一緒に乗り越えていくパートナーシップみたいのが見えて、風通し良く感じました。
男女の性差があるからこそ触りたくなる年頃なんだけども、そういう段階をススッと乗り越えて、人生を前に進めていく相棒みたいな空気が既に出始めているのは、面白いよなぁこのカップル。
お互い身体的距離を慎重に探る性質だからこそ、こういう関係も上手くいくし、他人のアイスを無遠慮にかじってしまう小夏ちゃんとの差も目立ちますね。


500円も自腹切って出版社に向かった小太郎くんは、純文学への期待はくじかれるわ、やる気もないラノベ『っぽいもの』を書くよう進められるわ、散々な目に会いました。
文学への過剰な期待で頭パンッパンになってる小太郎くんと、自分の仕事を『っぽいもの』と言ってしまう編集の対比が酷かったですが、小太郎くんの期待を乗せて走る東武東上線のキラキラ感が良かったですね。
編集から受け取ったそれなりの期待を象徴するラノベ詰め合わせを、よりにもよって『ゴミ箱』の前に置く辺り、オールドスクールな純文学が好きであり、そんな自分に特別感とアイデンティティを感じているのがよく判ります。

帰ったあとの両親の反応を見ると、どうやら父親には出版社に呼ばれた事情を話しているようです。
階段脇に本が溢れている様子からすると、父が相当な本の虫で、その影響を受けて小太郎くんも文学青年に、って感じかなぁ。
共通の趣味を持ち、現実よりも夢を大事にしてしまう父と、母親として当然の心配を強くぶつけ、その結果更に距離が空いてしまう母との対比が、なかなか残酷でした。
『ママンも、お前のことを思ってやで……』と言いたくなるけども、15歳だもんなぁ……そんなに広い視野なんて持てないよね。

ぶつかり合う安曇家に対し、水野家は家族一丸となって茜ちゃんのフォローに入る感じ。
お姉ちゃんの『ソッコーでゼッコーだよ!』が面白かったですが、兄姉のいる/いないとか、両親の年齢とか、細かい部分で対応に差が出るのは、きめ細かい描写といえます。
いろんな家族がいて、いろんな悩みがあって、いろんな喜びがあって、それら全てに価値がある。
こういう題目に意味を通すためには、やっぱ一貫した描写の積み上げが大事になるのでしょう。

小太郎くんが未来と現実、編集者という『外部』にぶつかったのに対し、茜ちゃんは中学最後の部活動という過去、親友と部活仲間という『内部』に衝突しています。
ここらへんの差異もまた、青春という時間には個々人個別の悩ましさがあり、それをじっくり切り取っていく姿勢を支える、細やかな視線といえます。
二人が悩んでいるのは別々のことで、でも共通するものでもあって、恋人という特別な関係になったからこそ、周囲の誰にも打ち明けられない思いを共有できる。
凄くちっぽけで、だからこそ本物で、一人では潰れてしまうそういう辛さを支え合える相手がいるのは、とても良いことだなぁと。
『もっと頑張る!』と決意する二人を見て、眩しく感じました。


学業と夢、恋愛と部活、恋人と親友、娯楽文学と純文学。
今回二人は様々な『両立』に悩んで、その全てに答えが出ません。
茜ちゃんは悩んで小夏ちゃんに交際のことを切り出すわけですが、『他人のアイスを食べる』子である小夏ちゃんは「ごめん、好きになって」という割に、「ちゃんと振られたいから、告白する」という爆弾を投げる。
編集者に凹まされつつ純文学に向かう小太郎くんですが、文学の匂いに酔っ払っているだけなのか、ライトノベルを軽蔑するだけでいいのか、詰めて考えることはしません。
進路の問題は母親だけではなく、園田先生も気にかけているところです。

不器用にしか生きられないカップルが直面する、様々な『両立』。
これを器用にこなせるようになることが『成長』なのかもしれないし、自分なりに決心を固め、覚悟を持って何かを切り捨てることが『成長』になるかもしれません。
それはこれから二人が、そして繋いだ手を話した一個人が向かい合い、答えを出す問題です。
その過程と結論こそが、恋と青春を切り取るこのアニメにとってはとても大事な過程の描写となり、また一つの結論ともなるでしょう。

二人を凹ませた今回は、いわば青春問題集から今後解くべき課題が出たエピソードと言えるかもしれません。
進路とか、恋愛とか、友情とか、未来とか。
キラキラしているけど一筋縄ではいかない、生々しい手触りを持ちつつ夢いっぱいの問題集に、彼らは今後も取り組んでいくでしょう。
その悪戦苦闘がとても楽しみだし、そんな彼らを助けたり壁になったりする人々の表情も、たくさん見れると思います。
このアニメはそういう広いレンズを使っているし、細やかな変化を見逃さない注意深さもありますし。


メインカップルに対比するように、陸上部の二人も話に食い込んできました。
最初に接触するときも、告白するときも、手を繋ぐときも、常にシャイでナイーブな距離感が描写され続けてきたので、無邪気で無神経な小夏ちゃんも、正しすぎて柔らかい部分を見落としてしまう比良くんも、『良い子なんだけどなぁ……』で止まっちゃうのが面白い。
まぁ泥沼の四角関係に腰までズブズブでも困ってしまうわけで、ライバルが勝てない理由を描写しつつ、負けるためだけに生まれてきた機能存在にはしないバランスは、非常に良いと思います。

小夏ちゃんは第2話の傷の治療からも判るように、細かい配慮が苦手で、思い立ったら一直線という声質を持っています。
見た目ほど周辺視野は狭くないんだけども、見えているものより自分の気持ちを優先して踏み込んでくる感じ。
だから、「ごめん、好きになって」から「ちゃんと振られたいから、告白する」が出てくるのでしょう。
自分の中のルールが明確で、それで他人を傷つけてもある程度はやむなし……ってタイプかなぁ。

そういう真っ直ぐさ、照れのなさが京都で小太郎くんを助け、茜ちゃんとの交際を実らせたりもしているわけで、明暗同居する彼女の『個性』なのでしょう。
茜ちゃんと小太郎くん、ナイーブな二人の繊細さがどういうピンチを呼び込んだは今回描写されていますし、強みも弱みも色々ある人間らしさというものを、このお話は温かい目で見守っているわけです。
告白爆弾がどういう炸裂の仕方をするかは読めませんが、どっちにしても小夏ちゃん『らしい』結果になると思います。
小太郎くんと茜ちゃんが非常に噛み合う二人だという描写が強いので、ドタバタはしても大きなダメージは無い……気がするなぁ。

小夏ちゃんとはまた別の無神経さを発揮しているのが比良くんで、気恥ずかしいからかそれが『らしさ』なのか、茜ちゃんの柔らかい部分への接触を見事にミスり、フラグを立てこなっていました。
後輩に慕われる爽やかで公明正大なイケメンだからこそ、ジメッとした内面ではなく、記録や結果といった外面をなぞって終わってしまった感じですね。
茜ちゃんがあんまり強力で成熟した、『正しい』自我を確立していないのはライナスのぬいぐるみをモミモミする仕草からも判るし、そういうナイーブな部分をゆっくり丁寧に詰めたからこそ、小太郎くんの彼女になったわけで。
比良くんの『正しさ』は基本的には強力な武器なんだけども、有効に働かないときもあるってことでしょうか。

茜ちゃんのハートを射止めた小太郎くんのナイーブさが、時間を遡って表現されていたのが電車賃を気にするシーン。
あそこであれだけ悩む『500円』を、小太郎くんは第3話で、茜ちゃんへの願掛けのために賽銭箱に投げ入れています。
理路整然としてはいない、池の中の月のようにあやふやな想いと願いのために『500円』を投げかけられる文学青年と、あまりに苛烈な『正しさ』を突きつけて茜ちゃんを泣かせるスポーツマン。
正直比良くんにあまりに勝ち目がなくて、残酷な描写だなぁと思いました。


というわけで、順調に流れてきた恋路が一旦歩みを止め、『両立』しなければいけないいろんな問題が立ちふさがる回でした。
厄介なアレコレは迂回したくなる面倒事ですが、それに向かい合って悩んだ時、何らかの答えを出した時、彼らの青春はより善い方向に進んでいくと思います。
小太郎くんと茜ちゃんが『両立』させなければいけない一番の対立は、もしかしたら『大人』と『子供』の中間点にあるかけがえのない時間、一回性の青春なのかもしれません。

アイスをかじるような気軽さで核弾頭をぶっ込んできた小夏ちゃんに、二人はどう対峙するのか。
目下のところ、これが一番気になるところです。
そういう目立つ爆弾に対処していく中で、また新しい問題と喜びが見つかって、彼らの時間は先に進んでいくのでしょう。
目に見えているものと、予想もしていないもの、両方で楽しませてくれそうで、期待が高まりますね。