イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

象徴主義の文学運動

アーサー・シモンズ、平凡社。1900年代の「現代的」小説・詩・戯曲−つまりは文学−に関する評論。この本に納められている『現代的』な作家は、ネルヴィル、ゴーティエ、ボードレールマラルメバルザック、リダラン、ヴェルレーヌ、ラフォルグ、ゾラ……。まぁそのような時代に、筆者であるシモンズが実際に交流した作家たちである。
図抜けた論考である。まずよく読むところから始まり、次によく読み、よく読んで纏め上げ、よく読んで結語となす。発奮する才気、豊かな学識、圧倒的な読書量、豊かな歓声、香りたつ文体。分析眼と、力強く渦をなす芳情の文章作法が両立している。巧いだけでなく、匂いのある文章であり、市場の中に、象徴主義という一点の論理タームを用いて分析を貫く知性がある。
そして、読み終えてなお、どこかむなしいのだ。遠い、のである。あまりに高潔で、あまりに豊かであるこの評論は、書き上げられてから100年たっている。1900年代、あと10年もすれば砲声がとどろいて、大戦がやってくる。ジョイスが書き、ヘミングウェイが書き、ウルフが書き、ピンチョンが書く、少し前の時代の文学。何か確かなものを足場にすえた文学。
それは、なぜだろう、僕にはひどく遠くの場所のことに感じてしまうのだ。シモンズが取り上げている作家はいまだに読んで心に響くというのに、彼のこの性格で的確で、詩情に満ちた評論は、百年経った、経ってしまったこの二千六年に居残る僕には、どうにも遠い。巧さと詩情の融合に関心をしても、そこに奥歯を噛み締めるような感情のゆれ幅はなかった、というしかない。
それは何故なのか。これほど上手であり、才気もある文章を読んでなお、この距離感は何が原因なのだろう。僕個人のこともあるだろうし、百年の時間もあるだろうし、そしてまた、シモンズは僕ではない、という単純な問題でもあるのだろう。大文字の文学。偉大なる文学。素晴らしき文学。ここで語られるのはそのようなものであるがしかし、大文字の額縁の中に飾られたそれは悲しいかな遠い。遠く感じてしまう。
この遠さは、たぶん哀しいことだ。どこかに何かが逃げてしまった、ということなのだ。そこがどこであり、何であるのか。僕にはわからない。わかる日がくるかどうかも、わからないだろう。それでも、このぽっかりとした読後感の空洞に、薄ぼんやりと輝くものは、確かにある。あるのだ。名著であった。