イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

青い花 7

志村貴子太田出版。女の子が恋したりする漫画の七巻目。山科先生のレズ結婚はうまく(?)行って安心、と思っていたら、レズカップルを放っておいて井汲さんの物語がすごい勢いで加速して(多分)だいたい終わった。そしてついに主役カップルが一線を越えた。こっちはまだまだ揺れそうな不安感を残して、揺らぎながら続く感じ。
井汲さんは怒涛としか言いようがない圧倒的な展開力で、一気に話を寄り切った感じがする。見れば見るほど康ちゃんLOVEであり、気の迷いとはいえ杉浦先輩にフラフラしてたのが判んない。でも、高校生ってそういうもんかもしれん。どっちにせよ、今までの経緯、康ちゃんの人格、自分の気持全部がそれを示していたので、親子ともに収まるべきところに収まった今回の展開は、非常に幸せだと思う。
一方ふみちゃんあーちゃんのカップルは、性欲のボルテージのずれが表面化。その温度差を上手くモノローグにできてるP140からのシーンは、かなり漫画力高いと感じた。自分は、この二人がレズビアンとして自分の性を選択する確率はかなり低いと思っていて、それは塀の中の花畑的な、傷のない百合作品としてはあまり心地よくない結末なんだろうけど、物語としてはそこに正面からぶち込んだほうが面白い。
なぜなら、それは自然なことだからだ。だいたいみんな、ぼんやりとした不安と幾つかの経験のあとで、なんとはなしに己の性をポイントして成人する。その点こそが、自分のセックスアイデンティティなのだと区切りをつける。その座標が何処に置かれるにしても、そしてその世間的な多寡がどういうラインで引かれるにしても、人との出会いや、印象的な事件や、世間との折り合いや、その他諸々の圧力の複合として、青年は己のアイデンティティに点を打つ。
それはとてつもなく不安で、一度決めたつもりで簡単に覆り、その癖元に戻ったりする厄介なものだ。セックスの方向性だけではなく、自我をマッピングする季節全てがそうなのだろうが、この漫画においてはあーちゃん(が目立つが、一度決めたように見えるふみちゃんにだって、もう一度点を打つ時が来るのかもしれない)のポイントは揺れ続ける。他の子だってみんなそうだ。己の位置を決める筆先は、いつも震えている。
ジャンル化というのはそういう震えをブレとして排除して、ゆらぎのない安定したストーリーを提出することで生まれるのかもしれない。でも、そうやって固着しポルノ化したお話が見せる震えはあくまでフリであり、そこにイキイキした瑞々しさというものは、やはりない。定形をなぞり、定番のアレやソレを繰り返す行為は、安心はするが心地良い不安を与えてはくれない。
(それはそれで別にいいことだ。責められるべきことではないし、ジャンルとして固着した場所でしか得られない快楽というものが、確かにある。同時に、そうなってしまえば二度と手に入らない、貴重なものというのも確かにある。同時に満たすことは、多分不可能ではないが、非常に難しいんではなかろうか。)
女性同士の恋愛というものがアニメや漫画の中で一定のブームとなり、一定の地位を手に入れ、一定のジャンルとなって暫く経つと思う。そういう状況の中で、震える思春期の筆先を丁寧に書く、ということを怠けないこの漫画は、やっぱり凄いと思う。季節は飛ぶように過ぎて、気づけば彼女たちも卒業を見据える時期になってきた。個人的には終りが近いと感じているが、このまま不安で、生々しくて、裏切られるようなお話として終わって欲しい。そう願えるような、七巻目の青い花だった。