イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

GUNSLINGER GIRL 15巻、加えて総論

相田裕アスキー・メディアワークス
ガンスリ15巻を初めて読み終わって僕が思ったのは、負けた、という事だった。

僕はこの漫画のラストシーンが「世界には今も確かな希望がありますよ」という言葉で閉じられた時、違和感というか納得出来ない気持ちというか、ともかく想定していない終わり方だなぁ、と感じた。僕はずっとこの漫画は酷い話で、みんな死んでしまうのだと思っていた、ようだ。己の過去の気持ちを鑑みる時、Weblogという形態はなかなかに便利だ。この日記をGUNSLINGER GIRLもしくは相田裕で検索すると、僕が過去に書いたこの漫画の感想が一発で出てくる。そこには、女の子たちが死ぬのがとても辛いということ、でもそれはしょうがないということが異口同音に書かれている。
この漫画は、最初から辛い話だった。レイプ、スナッフ、生来の筋萎縮症に保険金殺人、業病を苦にしての自殺。物語がはじまる前から、女の子たちはこの世界の悪意に引き裂かれて一度死んで、もう一度生き返る。死後の生も生半なものではなくて、心を薬物に操られ、鉄砲を持って殺人を行う過酷なものだ。そして、その過酷さはとても楽しい。
そこを否定しても始まらない。僕たちはガンスリを楽しんだ。彼女たちは判りやすい言い方をすれば『メッチャ萌え萌え』であり、少女たちを供物として食い散らかす伝統がどっしりと横たわる、オタク産業の産物としてこの世に生を受けた。撃って、撃たれて、殺して、殺されて。トリエラをバラしてたスナッフ野郎や、エッタにのしかかってた殺人鬼は、醜く強調された僕達自身の姿でもある。オルギアに酔っ払う僕自身はとても醜怪で、「俺はポルノ野郎とは違う」と言い訳しながら(過去の日記参照!)、僕はこの漫画を読み続けた。
でも、そればかりではないと思う。オタク産業で消費される、沢山の(それほど売るほどの!)戦闘少女の話。あからさまにポルノであるそれらと同じように、この話も楽に進めて、楽に終わらせることが出来たはずだ。乗っかっているベースは同じ場所なのだから。都合のいいハッピーエンドでも、如何にもな欝エンドでも、もっと受けが良くて判りやすい終わり方は、あったはずだ。
だが、この漫画の終わり方は、先述したように「世界には今も確かな希望がありますよ」だ。その過程で子どもたちは死んでしまった。一巻から示唆されていたように、彼女たちの寿命は少なく、兵士である以上戦死したものも多い。それでも、世界には希望があり、希望の象徴の名はSperanzaであり、彼女の人生の物語は「Hope」と名付けられた。

それに収まりの悪さを感じた僕は、15巻の物語を読み返した。あまりに密度の濃い1巻にビビりつつ(エッタ、リコ、トリエラそれぞれの紹介エピソードの粒の立方での凄いのに、『エルザ・デ・シーカの死』までこの巻に収まっているのだ)読み返してみると、いくつか気づくことがある。
一つには、この漫画の潮目が変わるタイミングが二回あること。ペトラの登場と、ジャコモ・ダンテの登場だ。この二回で、この漫画は絵柄が大幅に変わる。ペトラが登場した時には、女の子たちが全体的に頭身が上がり、目が小さくなり、一言で言えばちょっと大人っぽくなる。ジャコモの登場で変化するのは担当官たちで、瞳から輝きが消え、体が太くなる。
漫画が絵で表現されるメディアである以上、その絵の変化には伝えたいメッセージがあるはずだ。通読してみると、ペトラの登場は成長と(制限された上での)自由を、ダンテの登場は悪意を、それぞれ物語の中に呼び込むタイミングだっんじゃなかろうか、と思った。
正直、最初期のガンスリはとても風通しが悪い。マニアックで、フェティッシュだ。そこが魅力でもあるし、それらの要素は無くなりはしない。ただ、二度の潮目で引きこまれた自由と悪意が物語の中で暴れると、少し薄れて見えてくる。それを当時の僕は、「なんかガンスリは変わったなぁ」と感じたのだろう。(その気配も、過去の日記に見える。ペトラのエピソードにひとつの区切りがついたあたり http://d.hatena.ne.jp/Lastbreath/20071127 は、糊塗した反感がやや透けている)
なぜ、新しいものを入れなければならなかったのかと問えば、それは多分、それこそ僕が違和感を感じた「希望」を、歪んだ場所からはじまったこの漫画に取り込むため、なのだろう。条件付けを乗り越える(正確に言えば、その物理的制約の中で己が納得できる場所に落ち着く)自由、幅ったい言い回しをすれば愛の自由は、『虚ろ目した人殺しの女の子マンセー』的な初期ガンスリの誤読(そう、それは誤読だ。それはあるが、それだけではけしてない。そう読むのは、あまりに乱暴で楽な読み方だ)を突破するためには、サンドラとペトラという新たな人材と、己の意志で己の人生を選ぶ存在としての『大人』になるための加齢を、絵に載せなければならなかったのだろう。
そして悪意。作中の人物のほとんどが、クローチェ事件を分水嶺にして、復讐と憎悪に塗れた世界に飛び込んでいく。例外はドイツ人(≒非イタリア人、作中のスタンダードから外れた異邦人)としてmアムステルダムから女の子を連れてやってきたヒルシャーくらいだ。肉体の損傷が冷遇を呼び、公社に引き寄せられたラバロとマルコーもそうなのだろう。
だが、殆どのキャラクターはブルーパージによって間接的に、何よりクローチェ兄弟は目の前で消し飛んだ家族という形で直接的に、テロに対する復讐を始める。闇の中で燻る熾火のような怒り。それが、少女たちを鉄砲にして使い潰すとんでもない身勝手を、公社の人間たちに許している。悪意、憎悪、負の感情。それを漫画に塗り込めるためには、ジャコモ・ダンテという怪物的な人物と、より凄惨になった描画が必要だったのではないか。


そうして戦いが終わる。死んだ人も沢山いる。生き残った人も沢山いる。それが15巻で書かれる物語だ。最終15巻は、今までの物語からの引用が大量にある。『エルザ・デ・シーカの死』と、エッタ/ジョゼの死体を確認する一課コンビ。ラバロ大尉との約束と、立ちふさがりつつも銃を取り落とすクラエス。一度アンジェを諦め自暴自棄になったマルコーさんが、アンジェの記憶を取り出して自暴自棄を諌めるシーン。すべてがリフレインしてくる。
14巻が怪物ジャコモ・ダンテを中心にした悪意のリフレインだとすると、15巻は希望と自由のリフレインだ。テロとの戦いは終わらない。義体の寿命は短い。それでも、世界は捨てたものではない。そう言うためのキャラクターがスペランツァであり、彼女は作中幾度も言われた「才女であるトリエラが選び得なかった可能性」そのものだ。(運命を用意されていることにエスペランツァが悩んでいる描写を入れたのは、バランスがいいなぁと思う)
僕が「負けた」というのはそこだ。この話には絶望があった。酷い話で、醜い感情と銃弾がうねくり子供を食い殺す話だった。でも、それだけではなかった。たとえ欺瞞だとしてもフラテッロ同士は心を繋ぎ、死人は唯死ぬのではなく思い出と約束(そして悲嘆と憎悪)を残し、たとえ叶わないとしても日常の中には夢と楽しみがあった。それを信じられず、忘却してしまったこと。GUNSLINGER GIRLたちを信じきれなかったこと。それが、僕がこの漫画と相田裕に負けた部分だ。
(無論、それはこの物語が絶望の物語”でもあった”ことを否定はしない。彼女たちの傷つき、修理される肉体。失われる記憶と短い寿命。テロリズム。それは絶望の視座から描かれてしかるべきだ。だがそれでも。そう、僕はこの「だがそれでも」という両極に傾かない視点を、気づけば失ってしまっていたのだろう。相田裕は無論失わなかった。だからこの漫画は、こう終わったのだ。それを「負け」だと感じるのはやはり、近年の読書の中で「こう来たらこう来るだろう」という予測がそこまで外れなかったことへの慢心、そして裏切られ上を行かれることの絶対的な快楽からだ。)

希望と絶望が渦を巻いて、何処かに上昇していく物語。読者としての僕がそれを見失ってしまった理由は多分色々あるけれども、何より大きいのはやはり、女の子たちがとても可愛くて、だから可哀想だったということなのだろう。もう一度言えば、彼女たちは『メッチャ萌え萌え』なのだ。
夢見がちで自分勝手なエッタも、情が薄いようでさみしがりやなリコも、才気と前向きな情熱を兼ね備えたトリエラも、一番大人で意地の強いクラエスも、はかなくて健気だったアンジェも、己の生き方を再獲得したペトラも、ぼんやり屋のビーチェも、僕はみんな大好きだった。だから、「どうせ死んでしまうのだから」「この話は絶望の話だから」と早めに諦めて、信じることを止めてしまったのだろう。
そんな僕の脆い自己防衛よりもはるかに、彼女たちと作者は強靭で、作中の人物たちは己の人生をつかみとり、全うした。悲しく思えるエンディングも、希望に満ちているように思える終わりも、様々にあるけれど、群像劇であったこの漫画にとってその終わり方の豊かさというのは、立派な祝福なのだろう。唐突さがないのはエピローグにかなりの紙幅を割いているのもあるが、それ以前の14巻、10年の歴史の中で、登場人物たちが何を考え、何を願い、何を行なってきたかをちゃんと描いてきたからだと思う。それは、連載という形体が持っている、最も豊かで美しい果実だ。


これは確証のない妄想なのだが、「Hope」がスペランツァのルーツを探るドキュメンタリーであること、スペランツァが授賞式で述べた「二人の母」という言葉、20年という歳月、そして首相の「5年後10年後わしが檻の中に〜」という言葉の原因が公社の行動が表沙汰になることから生じているのだとすれば、スペランツァ(とアカデミー受賞作を見たすべての人)にとって、トリエラの人生と彼女が属した公社の歴史は明らかなのかなぁ、などと考える。だとすれば、彼女のルーツを探った「Hope」は公社の物語ということになり、今僕らが手にしている公社の物語、つまりは『GUNSLINGER GIRL』という漫画の単行本が描いてきた、少女と担当官の人生の物語が、物語の最後を締めくくる「Hope」とシンクロするのではないか。
そんな妄想に引っ張られるように、僕は三度目の再読をしてこの感想文を書いている。一回目は疑念から、二度目は確認のために、そして三度目は噛み締めるように。それはとても幸せなことだ。この漫画は、それに耐えるだけの強度を持っているのだ。そんなにも強靭なものをこの世に生み出し、続け、終わらせることが出来た作者に、それに同席した一人の読者として、感謝と賛辞を言いたい。

ありがとうございました。とても、素晴らしかった。