イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アニメ感想日記 14/07/17

・ ハナヤマタ
ナイト気取りのめんどくせぇツンデレが、自分だけが良さを判っている内気ガールを取られてモヤモヤする回でした。
ややちゃんマジめんどくせぇ……ハナちゃんが行動力のお化けじゃなかったら、刃物が出ているレベル。
でも彼女中二だしなぁ、年齢にふさわしいこじらせ方といえばそうか。
……いや、やっぱ重いわあの子。今年のGPL大賞候補だわ。
GPL:Gravity Psycho Lesbianのこと。内側に感情を貯めこみ、そのうち重力崩壊しそうな重たい視線を、同姓に向けている女の人を指す。艦これで言うと筑摩、けいおんで言うと憂)

逆に言えば、ハナが非常に成熟した人格持ってるんだな。
何かというとコンドルスパイアパナす量産型のホークみたいな距離感も、面倒くさくなりがちな女の子たちには有効。
傷を負わない完璧超人ではなく、色々悩んでるけど行動出来てしまう人物という描写は、爽快感があっていいですね。

あと、よさこい始めました回でもあった。
よさこいで青春の面倒くさいところを爆破していく話なので、さっさと体動かし始めたのは、とてもいい。
低スペック主人公にふさわしく、どんだけ頑張ってもなかなかうまく行かない描写は説得力があったし、だからこそ重力型レズビアンややちゃんが素直になる展開も映える。
演出の特徴である『劇的なシーンでは、劇的な世界が生まれる』という鉄則も、「太陽7つとかあるの?
」と聞きたくなるビカビカした夕日を画面に写すことで達成。
画面の光量からして根本的に変わるので、重要なシーン見逃さない効果があって、なかなか面白いですよねこの演出。

やや-なるのこじれた距離感はなんとか為ったけど、よくよく考えるとややちゃんよさこい部入ってねぇ。
わりかしじっくりと、面倒くさい思春期の女の子の心の機微を描くお話なんだな。
となると、ややちゃんのバンドでまた一悶着ありそうだなぁ……。
今回見せた取り扱いの巧さを見るに、不快感なく展開させてくれそうではありますけどね。
面倒くさい女の子たちの面倒くさい青春、楽しみです。
……楽しいのはいいんだが、ハナへの負担がマッハだなこりゃ。

 

・ 幕末ROCK
「バックステージから見るEXILE……じゃなかった、新選組のステージはキラキラ輝いていて、アイツラ結構やるなって思いました」回。
徹底的にロックキッズもの(つーかステージもの)の基本を踏むアニメやな。
前回腑抜けた部分を見せて主人公を立てたので、今回は情熱大陸でライバルサイドを立てる展開だ。
物販の地獄っぷり、統制の取れた客、キャラ作り、アンコールはTシャツ着るなどなど、ドルの現場をよーく取材した土台に、頭の弱い展開が乗っかって、このアニメらしい面白さが出た回だと思います。

情熱大陸のパロディを借りて、新選組サイドの努力を見せ、ライバルの何が凄いかを楽しく見せる演出はなかなか良かった。
アレだけ熱狂し、統制されたファンを作り出せるんだから、本イキでやればすごい存在なんだな、新選組
いきなりロックバンドが出てきて、即座にパーソナルカラーの赤に切り替えてからサイリウムを投げる客は練度高すぎ。
本ステージでもサイリウム・チャンバラの時スムーズ過ぎる切り替えが起きてたんで、ステージ側から制御してんのかな……幕末テクノロジーすげぇな。

ただステージを見せるのではなく、設定面をザクザク見せる回でもあって、そういう意味でもアクターと客の真ん中に立つスタッフという立場は、今回の話にぴったりなポジションだったんだと思う。
井伊大老自ら、マイク握ってたのはビビったがな。
細ッかいキャラ作りにまで書面で口出ししてくる辺り、井伊大老はアイドル相当隙なんだと思う。
ナレーションも自分でやってたし。

こうしてライバルの強さを認めた主人公バンドですが、来週は桂小五郎を掘り下げつつ風呂場ライブらしいよ。
ゴメンゴメン、やっぱ頭おかしいわこのアニメ。
文字だけでキチガイスカウターが爆裂する"風呂雷舞"、映像に為ったらどうなるんだろうか。
……今気づいたが、肌色系アニメでいうところの温泉回・水着回なのか……サービス方面も頭オカシイわこのアニメ。
素晴らしい。

 

・ Free!
怜ちゃんの健気な努力と、綺麗になった凛ちゃんの親方力と、Free! というアニメの限界点が見える回でした。
なんというか、全体的に画面作りがネチッこくイヤらしくて、Free! の原動力である一種の執念みたいのが垣間見えて凄かった。
自分はヘテロですし趣味として男性愛を玩弄もあんましないのですが、それでも背筋にビリビリ来るモンがござったね。

怜ちゃん個人回として見ると、彼の繊細な所、真面目な所、真摯な所、全てが詰まった素晴らしい出来でした。
これだけ健気にひっそり努力し、世界を変えてくれた遥のために結果を出そうとしてる男の子に、好感を抱かないわけがない。
ホンマ、あの子はいい子です。


そして、その健気さが描写されればされるほど、残りの三人への不信感というか違和感というか、ともかく「なんかちげーだろ、お前ら」という感覚は拭えなくなっていく。
根本的に、凛ちゃんではなくあの三人のうちの誰かが怜ちゃんに泳ぎを教えないといけない話だったんじゃないかと、今回思いました。
一期の経験を経て変わった凛ちゃんを描写することで、彼に執着している新キャラ・宗介くんを掘り下げるという目的があったとしても、そこは岩鳶水泳部の誰かが担当しなきゃいかんと、僕は考えてしまう。
いつまで怜ちゃんは、あの三人にとってお客さんじゃなきゃいけないのかなぁ、というのが、見終わった時の感想でした。
このままだと、またあの子に全部おっかぶせて、かつての四人にとって都合のいい結論引っ張りだして終わっちゃう気配みたいのが、僕の被害妄想を煽るわけです。

一期で解決された、かつての仲間四人組のこじれた関係ですが、そこから抜け出たように見えるのは凛だけだというのが、二期をこれまで見た感想です。
「学校は違っても、アイツは仲間」という凛ちゃんの言葉は素敵だし、それが出るまでの描写はスムーズなものでした。
一期の尖っていた彼では考えもできない面倒見の良さだし、それを反映する鮫柄水泳部部長という社会的立場も、彼の態度に追い付いてきている。
全体的に、二期の凛ちゃんは健全です。

でも、そこで凛ちゃんにコーチングを任せてしまうFree! という創作物の論理は、いいことなのかどうか。
遥に対する怜の憧れやプライド、複雑な感情を鑑みれば、部活の仲間ではなく鮫柄の人間にコーチを頼むのは、"キャラとして正しい"と思います。
今回熱い心情を素直に吐露していたとはいえ、孤独で唯我的な遥のメンタリティの根本的な部分に変化がないのは、作中人物を便利に使うつもりがない故の、製作者サイドのこだわりでしょう。

ただ、作中で言っていたように「全国でお前のバタフライを見せる」という視点があるのならば、"三人+一人"のまま突き進んでいる現状の岩鳶サンクチュアリは、少し都合が良すぎる。
鮫柄に新入生が二人入り、部長としての責任を的確に果たしながら前進している姿に比べて、岩鳶の閉鎖性、遊技性、身内感は一期のまま変化していないし、それは競技の中では不健全だと思わざるをえない。
岩鳶の腐ったサークル感が「小学校時代の思い出」に存立している以上、その空気が続く限り怜ちゃんはお客さんだし、危うい自意識を乗り越えて"部活の先輩"に自分の弱点をさらけ出し、恥を忍んで競技技術の向上を頼むことが出来ない。

怜ちゃんが子供のように自身の成長を遥に披露し、褒められて感動しているシーンは、キャラ萌えする前に「これでいいのかな」と危ぶんでしまうシーンでした。
部活でやっている(のだから「全国でお前のバタフライ」云々の台詞が出てくる)以上、それが過大な愛情に由来するものでも、先輩に対して弱点を克服できない関係性は歪んでいると思うし、そこを是正して発展するべき"傷"だと、僕は感じてしまうわけです。
そしてFree! の競技描写・青春描写は非常にルックが良く、スムーズだからこそ、一般的で"正常"で"健全"な問題解決を期待し、一期は最後の最後でその期待を(あえてこの言葉を使いますが)裏切られたわけです。

二期も果たしてそうなるのか、予知者ではない僕にはさっぱり分かりません。
宗介くんに秘められた危うさがあるものの、凛部長体制の鮫柄が沢山描写されていることが、一体何を狙っているかも、確言は出来ません。
ただ、今回見せた怜ちゃんのやわらかな心境というのはけして裏切ってはいけないものだし、もし仮に一期のままの"三人+一人"な岩鳶水泳部のままなら、外側から見てけして誠実とは思えない取り扱いがされるでしょう。
そして、あの三人の閉じたサークルにも、少しだけ変化があるように今回思えたわけです。


創作物から何を受け取るかは、読者の欲望が常に反映され、作者の意図が全て是とされるわけでもありません。
僕はFree! という作品から、青春期に経験しておくべき"正しさと楽しさの葛藤"を、僕が見たいものとして読み取ったわけですが、それはおそらく誤読だった。
でも圧倒的に京都アニメーションという制作会社、内海監督を筆頭とする創作者は"巧"くて、成功するべき物語が所持しているオーソドックスなラインというものを、どうしても読んでしまう。
別の言葉を使うなら、Free! は『普通に面白い』。
だからこそ、普通に進んで、普通に歪んだ部分を直して、普通に開かれたお話として展開してほしいなぁと、僕は感じてしまう。
でも、製作者サイドが『普通に面白い』とは違う場所を睨みながら作っているのも色んな所から感じられて、そこに関して一視聴者たる僕が「違う」と言い切ってしまうのも、また傲慢かなと思います。

こうして文字にしてみると、ホント僕とこのアニメの距離感はこじれているなぁ。
でも、今感じている感覚や予兆が果たしてどういう結果に繋がるかは、見続けることでしか分からないことです。
そして、今回の映像は「これからどうなるのか」という確言は出来ないけど、「何かがある」と感じさせるものであり、やっぱ面白かった。
色々めんどくさいオッサンですが、その面倒くささを素直に記述しながら、終わりまで見ようと思っています。

 

・ 少年ハリウッド
何者でもない風見颯くんの個別回は、特に何も起こらないひどく地味なもので、死ぬほど丁寧にメタファー盛り込んだ凄い出来だった。
"マイク・コペルニクスの靴"を巡る主人公とモブ、アイドルと一般人の差にまつわる話なんだけど、それはデビューしてから効いてくる部分で、二話にして先の下準備に話回すのは凄いね。
やっぱ凄いなぁ、少年ハリウッド

友人たちが自分なりのフェイクを作るくらいに憧れ、並んで買った"マイク・コペルニクスの靴"
「もうアイドルではない」社長が、並んで買った"マイク・コペルニクスの靴"
そしてカケルが友人の輪から外れ手に入れることを諦め、それでも勝手に手の中に入ってしまった"マイク・コペルニクスの靴"
今回の話に出てくる三つの"マイク・コペルニクスの靴"は、"特別であること"のメタファーであり、一話の電車での会話シーンから見て判るように、このアニメにおいて"特別であること"はその両極を掘り下げる価値のある、重要なテーマとして扱われています。

カケルは一話アバンナレーションで言っていたように"普通"であることに飽きている。
だけど、今回お金で買えるツマラナイ"特別"である"マイク・コペルニクスの靴"を友人に見せなかったように、"特別"であることに怯えてもいる。
"普通"と"特別"両方の極で悩みながらも、結局社長が与えてくれた"特別"の嬉しさを噛み締めて、かつ"普通"の友人にはそれを隠して、アイドルという名前の"特別"に飛び込んでいく決心を密かに(もしかすると自分すら気付かないまま)決めたのが、今回の話だったんじゃないかなあ。
"並んで買う"という"普通"の選択をしなくても、手元にやってきてしまう"マイク・コペルニクスの靴"が、カケルがアイドルの天分を望むと望まざると持ってしまっていることの、暗喩のように感じましたね。
それを持ってしまっている以上、セルフイメージとしてカケルが持っている『何の変哲もない、普通の高校生』として一緒に並んで"マイク・コペルニクスの靴"を買う"正しい道"は、どう足掻いても歩けない。
その資質を見きってスカウトしたのならば、やっぱ社長は圧倒的に正しいってことになります。

個人的にいいなぁ、と思ったのは、アホ高校生たちが求める安い"特別"を、けして無価値なものとか、無意味な存在として描いていなかった所です。
望むと望まざると"特別"になってしまうカケルにとって、上履きにマジックで書いたオンリーワンの"マイク・コペルニクスの靴"も、友達と一緒に並んで買った"マイク・コペルニクスの靴"も、望んでも届かない場所。
"普通"であることが気付けば"特別"になってしまっているアイドル・風見颯が、どんな憧憬と不安を抱いているのか、上手く見せていたと思います。


この話で"マイク・コペルニクスの靴"が持っているテーマは実はもう一枚あって、三つの"マイク・コペルニクスの靴"は全て復刻版であり、いうなれば15年前のオリジナルのコピー、つまり『今回の話は初代少年ハリウッド(であり、シリーズ構成&脚本である橋口いくよが手がけた小説版)のリボーンだ』という構図の重ね焼きです。
次回予告で言っていたように、オリジナルを作中で所持しているのは社長だけです。
一話挿入歌のキャストクレジットで地味にバラしていたように、彼は初代少年ハリウッドの柊剛人でもあるので、社長が5つの"マイク・コペルニクスの靴"をプレゼントしたシーンは「色々あってスレた視線を手に入れた社長が、新しく歩み出す少年ハリウッドに託したエール」として受け取れるわけです。

今回社長とカケルが会話していたのは、余りにエキセントリックで人間味のない社長の背景を匂わせることでキャラを深くすると同時に、カケルと「かつてのカケル」である社長との間にある時間のギャップ、価値観のギャップを描写する意味もあったと思います。
「かつてのカケル」として初代少年ハリウッドで活躍していた社長は、しかしもう「アイドルではない」し、高校生でもない。(アイドルやってたのは32才の時ですけどね、柊さん)
かけ離れてしまったかつての自分に対して、大人になった社長が出来るのは、才能を見抜きスカウトして靴を送り人生を語り舞台を用意しレッスンを仕上げ……結構あるな、すげーな大人。
ともあれ、"マイク・コペルニクスの靴"が見せたギャップは、"普通"と"特別"だけではなく、"青年"と"大人"の距離感でもあったわけです。
そう考えると、特に何も考えず「ヤッター靴だ! 嬉しい!! お礼言おうぜ!!」とはしゃぐカケル&シュンの姿は、正しく何も知らない若者の姿であり、もう社長サイドの歳になってしまった僕個人としては、眩しくてみてらんない光景です。

そんな感じで、カケルと社長の内面/社会的地位を"マイク・コペルニクスの靴"に託して描いた、地味な話でした。
地味なんだが、やっぱ圧倒的によく出来てる……みんな見て……。
一つのメタファーにいくつもテーマが織り込まれていて、しかも足を止めて考えるだけではなく、初見でさらっと見ても楽しいようにできているのは、やっぱ凄いなと思います。

今回は脚本メインで感想を書きましたが、映像にもたいそう気を使っていて、見ていて楽しいです。
靴をもらって喜ぶ二人の表情、ロングで全員を見せる構図の安定感、カットインで入る街角の風景。
映像の説得力があるからこそ、かなり面倒くさい構造をしたお話も、ぐいっと胸に届くと思います。
やっぱすげーなー少年ハリウッド