イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アニメ感想日記 14/08/28

・ 少年ハリウッド(七話)
クールの折り返しということで、『少年ハリウッドの修行時代』最終回という感じのお話。
一話で社長が言っていた「恥ずかしいことを、恥ずかしいと思ったままやるのが一番恥ずかしい」という欠点を、カケルを残りの四人が引っ張り上げることで突破する回でした。
キックスターターとしての社長が一切介入してないことも引っ括めて、一番最初の課題を克服し、アイドルとして羽ばたいていく段階に入った少年ハリウッドが活写されており、とても良かったです。
間に個別回をはさみ、各キャラクターの持っている強さと弱さを描写しているからこそ、EDで「ハロー世界」が流れた時のグッとくる感じがありますね。

前半はカケルが一人で頑張り、どうにも殻を破れない展開が続きます。
前半の「ダメなカケル」の描写は逢坂さんの演技が光っていて、声を大きくしてもロングトーンにしても抜けない「気まずさ」をしっかり乗せていて、凄いなぁと関心しました。
このアニメはすごく健全かつ優れた表現を使って、「仲間っていいよな!」という青臭いメッセージを毎回伝えて来るアニメですので、問題解決には必ず他人の手が必要。
妹ちゃんはカケルにとっての"無理解な世間"そのものですので、助けにはなりません。

世間の冷たい意見に対して「俺達は、少年ハリウッドだ!!」で勇気を奮い立たせる所とかも、「仲間とだから、出来ることがある」というこのアニメの主張を強く感じるシーンでした。

散々ダメな描写を貯めこんで、後半は怒涛の無伴奏ミュージカル展開。
青春の迸りそのままに外に出て大暴れして、バカにされてポリスに目をつけられて、でもやりきって拍手もされるという盛り沢山な内容。
いきなり歌い出しお外練り歩きまでやっちゃう勢い重視が、相変わらず男子高校生の頭の弱さを的確に捉えてるアニメだなと感心することしかり。
そのバカさ加減が、必ずしも悪い結果を導くわけではないという優しい視線も引っ括めて、みんなでカケルを街に引っ張っていく展開好きだなぁ。

身内の悪ふざけで始まったはずのミュージカルは、気づけば劇場の"外"を巻き込んだ表現になっています。
ここら辺は舞台デビューを果たし、アイドルとして衆目に振れる立場になった少年ハリウッドの現状そのままであり、少年ハリウッドの得意技である『1シーンに2つ以上の意味を覆い焼きする』手法となっています。
嘲笑や手厳しい意見は当然あるけど、アイドルである以上、表現者である以上、信じて踏み込まなければいけない領域が劇場の"外"であり、底に向かって少年ハリウッドは飛び出していく。
「アイドルは恥ずかしい」という一話で示された視点を未だ持っている観客もいるけど、七話ついてきた僕達と同じように、やりきった彼らの成長を見て拍手する観客もいる。
一話の自己紹介と今回の自己紹介を比べてみると、各員個別回で手に入れた人生の財産が表現に生きていて、「積むアニメはおもしれぇなぁ」と心から思うねホント。

また今まで常に正解を言って来た社長が今回は登場せず、自発的な行動として「アイドルらしさ」を手に入れているのも、今回の重要なポイントだったと思います。
一話の段階では全員駄目だしされていた少年ハリウッドが、各々の人生経験(≒個別回)を経て成長し、一番最初の問題点である「恥ずかしいことを、恥ずかしいと思ってやる」段階を乗り越えた。
そういう確かな「ポイントが入った感じ」があるお話は、やっぱり成長譚として見ていて面白いです。
社長に言われるまま、先輩に導かれるままではなく、自分の意志と力で道を手に入れていく少年の姿は、バカバカしくも清々しく、かっこよくて素敵です。
他にもBパート頭、客の前に立った一番頭で「なりたい自分」を歌わせてる所とか、やっぱ凄くいいわ、このアニメ。
EDまでの流れを見るに、一つのお話が終わった感じがありますが、これから先の少年ハリウッド、一体どうなってしまうんでしょうか。

 

・ 少年ハリウッド(8話)
飛躍の予感を残しつつ、今回はトミー回のリフレインとしての合宿回。
あの回で流れた過去の合宿映像は相当の叙情性爆弾だったわけですが、それを活かし発展させる堅実な展開に少年ハリウッドを感じました。
時代の流れを見守ってきたテッシー、見守られる側から見守る側に変わった社長にもライトが当たり、"夢"と"時の流れ"という作品のテーマを捉えた良い回だったと思います。

今回の白眉はなんといっても最後、初代が叶えられなかった夢を二代目がリフレインするシーンの叙情性だと思います。
初代のビデオを既に見て「夢が叶わず終わることもある」という残酷さを一人思い知っているトミーが、ウザいくらいビデオ撮影に拘る一連のシーケンスも含めて、よく出来た展開でした。
三話で切り取らrている「過去」と今回切り取った「現在」によって、場面の三角測量が行われて、時間的奥行きが作品内部に生まれてる当たりほんと凄い。

過去と現在の間の距離感という意味では、前回出番のなかった社長の存在がいい仕事をしていて、アイドルの夢が既に色あせていても、今度は見守る立場に変わってハリウッド東京を守っている彼の矜持が、上手く画面に焼き付けられていました。
かつての少年ハリウッドへの郷愁と、これからの少年ハリウッドへの期待。
その中間点として今回の合宿場はあって、過去と現在において当事者/保護者と立場を変えているのは社長(テッシーは両方の立場において保護者、二代目たちは過去においては存在しない)なので、彼を画面に多く写し、印象的なシーンを作ることで立体的な構成が可能になるというね。
よく出来てます。


そこ以外だと、テッシーの観客論とかもこのアニメらしいド直球ドル論で、アイドル論というか
エンターテインメント論でした。
サービス業としてのアイドルは「わがままを叶えることは出来ないから、ただ聞いてやることしか出来ない立場」というテッシーの言葉にも現れていて、ファンの目に触れる状況では常に、ファンの望む仮面をかぶり続けるサービス業者としてのアイドルと言う視点は、ディープなドル論を迷わず展開するこのアニメらしい踏み込み。
それを引き受ける覚悟ができてきた成長を見せるのが、前回のストリートミュージカルだったのかなぁとか思えてきますね。

このタイミングで合宿を挟んできたのは、何もノスタルジーの核弾頭でおっさんの心を破壊するためだけではなく、特訓を積んだことで今後発生する"少年ハリウッドの飛躍"に説得力を出す仕事も狙ったと思います。
彼らが既に注目され、期待されていることはアバンの週刊誌のシーンで見えますし、視聴者のテンション的にも「そろそろドカンと欲しい」という流れになっている。
その上で「ガッツリ時間をかけて努力したんだよ」という回を挟むことで、今後の展開に説得力を積むという、堅実な構成でもありました。
いやー、やっぱ面白いなこのアニメ。

 

・ Free!
『若き七瀬遙の悩み、もしくはみんな目の前三センチしか見えねぇ』という回でした。
前回・前々回と真琴を一気に"大人"にした展開だったわけですが、それはやっぱり今回、"子供"としての遥(と宗介)を孤立させるためだったんだなぁ、と再確認。
意地の悪い構成といえばそうだし、青春期のお話として終わらせるためには絶対に触らなきゃいけないネタでもある。

一期開始時では「何にも縛られず、ただ一人で泳ぎ続けていたい」という願いを、そして一期終了時では「何にも縛られず、ただ仲間と泳ぎ続けていたい」という願いを抱いていた遥。
県大会での決戦やスクールでのバイトを経て、あっという間に大人の階段を登り成長へのプレッシャーを克服してしまった真琴に対して、誰にも相談することなく追い詰められ、泳ぐことをやめてしまいました。
相変わらず競技とそれを成り立たせている組織、それに参加している無名の他者に対してなんのリスペクトもない態度でむしろ感動すら覚えます(嘘です。今後の展開のための"フリ"だとしても競技を扱う以上、僕は競技それ自体に対するリスペクトを忘れた行動を、主人公にとって欲しくはない。それを製作者から是認して欲しくもない。個人の欲望によって競技そのものを飲み込んでしまうほどの、まさに"競技それ自体"と言えるような天才がいたとしても、一種の理想論としてあらゆる競技者は競技へのリスペクトを持つべきだと、僕は考えています。なので、今回の遥の競技放棄は本当に嫌いです。Free! のこういう所が本当に嫌い。大嫌い。水泳なんて題材にしなけりゃいいのに)が、それでもリレーはやりたい。

それは、「俺と仲間」で泳げる競技だから。
そこに「俺」が入るのであれば個人自由形も泳ぎ切る責務があったように僕個人は思うし、一期の面倒くさい歴編を経てバランスの良い精神を手に入れた凛も、手に入れた正しさで遥を責めるわけです。
凛の追求に対しての遥のあのキレ方は、作中の人物としても視聴者としても「唐突だなぁ」と思うところであり、同時に結構注意深く見ていると「まぁそうなるよね」というシーンでもあります。
遥が狭まっていくモラトリアムの檻の中で窒息していってる描写はそこかしこにあったし、それに対して、登場人物の誰も助け舟を出していないのも見て取れる。
一見面倒見がよく思える真琴も、二期は特に"場の空気を乱さない"距離の取り方に徹していて、地雷が炸裂するまで動きませんでした。
宗介への対応もそうなんですが、彼もけして完璧な思いやりを持った慈母などではなく、痛みを極力避けたい高校三年生であり、そこら辺のエゴイズムも引っ括めて、全体的に二期の真琴の方が僕は好きです。

さておき、遥は「なんの理由もなく」泳ぎ続けることの出来る季節(≒小学六年生の時の"あの仲間"と泳いだリレー)の終わり、水泳の純粋さが失われるリミットを極端に嫌い、その代わりになる理由を見つけられないまま、今回の結果に至るわけです。
でも、遥が泳いでいた世界はそんなに純粋だったんでしょうか。
順位が付けられ他社と比べられ、泳いで良い奴と泳いではいけない奴が厳しく区別される世界が既に訪れているというのは、それこそ「父親のために、オリンピックで泳ぐ」という目標のために海外に出て、挫折を味わった凛を見ていれば即座にわかるはず。
つまり、百太郎が言っていた「絆で結ばれた夢みたいな」関係だったはずの二人は、"世間"という存在への対応を分水嶺に、綺麗に分割されていたわけです。
それが露呈するのが、今回のラスト一個前のシーンだと思います。

それこそまるで質の悪いBLみたいな、ずっと同じ方向を向いていてずっと同じことを考えているファンタジーのガワを一旦脱ぎ去って、このアニメは衝突を描きました。
その舞台になっているのは「夢の終わり」であり、争点は「夢の終わりに対して、どう対応するのか」というポイントに成ります。
真琴は自分で夢の息の根を止めて勝手に大人になり、凛は一期全てを使って(一種暴力的といえるほどに)健全な自己実現理論を手に入れました。
三年生最後の一人である遥が、どのような道を選ぶかがこの青春譚の最後の争点になるでしょう。
個人的な予測(希望?)としては「遥は天才なので、ずっと水たまりでパチャパチャする権利がある」という落とし所が好みです。
ここまで競技におけるリスペクトを蹴っ飛ばしたんだから、凛ちゃんみたいに物分かりよく大人になるんじゃなくて、子供の横暴を一生貫けるくらいに選ばれた孤独な存在に跳ね上げてほしいもんです。
……あさのあつこの『バッテリー』がこの問題を突き詰めようとして、作者が限界に達して途中で終わってたな……。


なお、"三年生最後の一人である遥"と書いたのは見落としではなく、宗介の扱いはどう考えても"三年生最後の一人"にするには酷すぎるからです。
鮫柄、強豪なのに監督何にもしてねぇな……凛が選手兼監督なのかと疑いたくなるくらい。
『凛に思う存分泳がせるために、健気に隠し続けていた』という美談にしたいのかもしれねぇけど……自分たちの青春で手一杯の高校三年生に、そこまで望むのも酷か。
Free! は展開の美しさのために、特定のキャラクターにワリを食わす展開が非常に多く、そこも気に食わないポイントの一つであります。

同時に視聴者のファンタジーをたっぷり詰め込み、各々のキャラクターに安住し続けた閉鎖的コミュニティが、キャラクターの持つ人間性の発露で内破した今回の展開は、"ゆる系"の半歩先に踏み込んでいて好きです。
遥がここまで追い込まれたのは「遥はそういう奴だから」という記号論を、視聴者だけではなく登場人物も受け入れ、遥の内面にある柔らかな動きを聞き出さなかった結果だと思うので。
ぶっきらぼうな遥を、包容力のある真琴が受け止める」という安定した形をこうも丁寧に公式がぶっ壊してくれるのは、僕個人の嗜好にはベストマッチであり素晴らしい。
この後更にグチャグチャにするのか、多くの視聴者が求めその結果一大コンテンツとしての支持を受けるに至ったファンタジーに帰還するのか、Free! の終わり方が楽しみになる回でした。