イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アニメ感想日記 15/02/05

アイカツ!:第119話『ナデシコの舞い!』
一ヶ月間限定アイドルことみやびちゃんが、自分のアイドル道を見つけるお話。
次回予告だとバリバリ絡むオーラ出していたさくらちゃんが、フタを開けると必要なことを告げてステージ無しでフィニッシュした時、アイカツ!が戦場だということを思い出した。
『ブログでやれ』と言わんばかりの長文がほぼさくらちゃんからの訓告流し込みだった所を見るに、大事な何かに気づかせる役はやってんだけどな……。
すごい勢いで脱線していった図書館のシーンをカットして、その分さくらちゃんかトモヨちゃんに回したほうが、個人的には良かったかな。

『熱心なファンとの交流を通し、自分の強みを見つける』という意味では第89話『あこがれは永遠に』とかと似通った作り。
みやびちゃんのクエストは『クソ真面目で可愛くない自分が、どんなアイドルになればいいのか』というもの。
さくらちゃんから『最初の一歩』の大切さを、あかりちゃんから実際に『最初の一歩』を進んだ結果を受け取り、アイドルとしてファンに『最初の一歩』を踏み出す勇気を伝えたいと思うようになる流れは、素直で結構好き。
アイカツ! はアイドルを『ファンに力を与える、とてもキラキラした存在』としっかり定義し、ファンとのコール&レスポンスを重視してエピソードを作るところが、アイドルフィクションとして強いところだと思います。

今回クエストを達成して、次回は季節モノエピソード
再来週帰京することを考えると、キャラが抱える問題点を手早く解決したのは、結構良かったのではないでしょうか。
後は〆るだけという所まで来たので、次々回のみやびエピソード3でどうキャラクターを解決するのか、とても楽しみです。

 

・幸腹グラフィティ:第4話『じんわり、バリリッ。』
目線と食事が絡みあう重力系日常食事アニメの四話目は、主人公たるリョウ単騎の状態を作ってキャラを掘り下げよう! というお話。
発掘してみたらコイツ、思いの外重力係数の高い面倒くさいレズビアンであることが発覚し、『このアニメの主役張ってるだけはあるな』と冷や汗を流すのであった。
いや、なんか祖母との思い出を回想してイイ話風になってはいたけどさ……細かい情動の描写が、どう考えても日常系の粘度じゃないんだよね。

リョウがクッソ面倒くさいのは、一つには何かというときりんのことばっか考え、その癖それが行動に繋がるのではなく、自意識の沼の中でループしていく自己完結性。
そんだけきりんに依存しているのに、彼女とコンタクトが取れないと見るや、即座に椎名にコナをかけるクソレズビッチっぷり。
その癖、結論の部分で飯を作ってあげたいと思い返すののはきりんだけという、博愛を装った無関心のように見える極度の依存持ち。
無害透明な主人公キャラかと思いきや、三重に拗らせすぎた心理を持っていることが判り、リョウがとっても好きになりました。

一見いい話風なお婆さんの思い出も、捻った取り方をすると『食事が祖母の無償の愛情と繋がるアイコンであることを見せ、それをきりんに振る舞うことで、自分が祖母を愛するようにきりんにも自分を愛してもらうことを期待している』と見せたいんじゃないか、と思ってしまいました。
イヤ判るよ、如何にもきらら的な毒のなーいステキなエピソードという外面があるのは。
しかし今回のリョウの描き方は、彼女がきりんに抱いている依存を強調したものであり、きりんも重度の依存を受けてまんざらではない描写もあって、そうそう素直には受け取れないスピンかかってたと思うわけです。
そして、こういうジャンルと描写が捻れている奇っ怪な状態こそ、僕がこのアニメを楽しんでいる足場の一つなわけです。

クッソ面倒くさいクソレズのクッソ面倒くさいお話としても、クッソ面倒くさくて単純に素晴らしかったですけどね。
メール爆撃してくるリョウを「結構良いかも!」と受け取る辺り、お似合いの二人なんだろうなぁ……。
一歩間違うと即座にしゅにんた時空(※)に飛び込んでいきそうな危うさを秘めつつ、清潔な外装で百合っぽい仕草をし続けるこのアニメ、今後も歪みつつ破綻しないよう、ギリギリの綱渡りを続けて欲しいものです。

※しゅにんた時空
天野しゅにんた先生の漫画のように、クッソ面倒くさいレズビアンが会話代わりに、もしくは会話とともに肌を重ねては傷つけあって、離れて近づいて生き延びたりグズグズ腐っていったりする時空。
恋愛のゴールにビカビカ光ってるセックスを手に入れた所で、クソみたいな自意識を取り巻く世界は即座には変わらないし、むしろその事が永遠を傷つけていくアンチ・クライマックスな世界。
完全に不健全な世界だが、一箇所だけ爽やかな穴が開いてるのが特長。
穴が開いてるからといって、そこから見える青空に、泥の中から手がとどく訳でもないのがミソ。

 

ミルキィホームズTD:第5話『キャロルの身代金』
探偵共がグダグダ過ごし、それとはあまり関係なく燻りアイドルが自分の道を見つけていくアニメ、今回は子役と狂言誘拐のお話。
全体的に毛並みの整ったお話で、ミルホはトイズを駆使して探偵っぽいことしてたし、それとはあまり関係なくドジスンさんとマリエちゃんは新しい何かを見つけ、一歩前に進んでいた。
ミルホにくっついていることで事件が発生し、その中でマリエちゃんが学習・成長しているので、見た目ほどミルホが何もしていないわけではないのも、五話になって見えてきた。

逆に言うと、お気楽なハイテンションギャグを担当する宿命にあるミルホは、成長とか学習とかを蓄積してはいけない立場なのかもしれない。
野原しんのすけや、野比のび太と同じく『永遠に同じ場所で足踏みすることを期待されている子供』というか。
一期でグイッと視聴者を掴んだのは、走り続ける投げっぱなしのギャグや、良い意味で雑でぶん投げた展開だけではなく、おバカなゴミクズ人間なりに何かを成し遂げようと奮闘する姿だったのは間違いないのが、ミルホを扱う上で難しいところなのかもしれない。

ミルホがやってる『永遠に同じ場所での足踏み』は物語の形態が要求するものであり、貴賎善悪の違いとイコールではない。
足踏みしてるから即座に下らないとか、前に進んでいるから無条件に上級だとか、そういう単純な図式は成り立たないわけで、重要なのはどう足踏し、なぜ足踏みし、足踏みによって何を見せようとしてるのか、その内実だ。
そういう前提を踏まえた上で、単なる健忘症のおバカ四人組としてではなく、劇作に許される範囲での人格的成熟を見せてる手綱さばきは、なかなか見事に思える。


そして成長して物語の舞台から去っていく仕事は、新主人公たるマリエちゃんがやる、ということなんだろう。
一般的な成長物語的時間が流れていくことを許されるマリエちゃんの世界と、コメディ的に整った『笑える足踏み』を要求されるミルホの世界がねじれの位置にあるのは、お互いの劇作的目標を達成する上ではむしろ正しいんじゃなかろうか。
自分たちの成長物語を終えたフェザーズが、ミルホと一緒に『永遠に同じ場所で足踏みをする』立場になったのも、自分的には納得が行く。

そういう意味では、ドジスンさんが捕らわれていたネバーランドが『特別で抜け出せる場所』として描写されているのは、どこに抜け出しても(≒いくらエピソードを積み重ねていっても)『コメディエンヌ集団ミルキィホームズ』という茫漠としたイメージを期待され、それを果たし続けるミルホとの対比で、ちょっと物悲しくすらある。
マリエちゃんとドジスンさんは年を取ることはできるけど、少なくともTVアニメーションシリーズの中のミルキィホームズはずっと子供で在り続けるという見方は、感傷的でメタに過ぎるとは自分でも思うけど。

……だからアリスネタだったのかな今回。
アリスとともに鏡の国を旅することが出来る白騎士と、アリス・リデルの成長とともに距離が離れていくチャールズ・ラトウィジ・ドジスンとの断絶が、マリエちゃんとミルホの間には横たわってるんだろうか。
無駄な考えがここまで来ると、ウテナに出てきた『お猿を捕まえるロボット』の話を思い出したりもするので、此処らへんで止めておこう。


そんな身勝手なノスタルジアはさておき、やっぱりパロディの選択にはスタッフの好みが出るようで、今回はアリスにガラスの仮面進撃の巨人
アリスネタの拾い方は結構コアで、ルイス・キャロル(筆名)+チャールズ・ラトウィジ・ドジスン(本名)でルイス・ドジスンだったり、体が大きくなるキャンディバーは始まりと終わりの体型変化をピックしてたり、抜いてくる所が『結構好きなんだな』と思える所でグッドナイス。
TDの特徴である『一期へのリスペクトをハッキリ打ち出す』方針もよく見えて、ミルキィホームズというアニメーションを、結構しっかりブラッシュアップしているんだなという思いは、見るたびに強くなる。

全体的に落ち着いたペースを貫きつつ、笑いも盛り込んだ、整ったお話だったと思います。
暴走超特急気味に突っ走るのも好きですけど、ミルホの面々がただのバカではない所が見えるお話があると、彼女らがバカなりに積み上げてきた人生に敬意が払われているのが感じられて、とても気分よく見ることが出来ます。
バカな部分もたっぷり見たいけどね、やっぱ。
まぁ過度な思い入れの結果の誤読かもしんねーけど、僕はこんなことを感じて、こう言う感想を抱かせてくれた今回のお話とても好きですよ、って所で筆を置きます。

 

ユリ熊嵐:第5話『あなたをヒトリジメにしたい』
ユリとクマが織りなす青春期フェミニズム童話、そろそろ折り返しの五話。
前回るるちゃんがどういう子なのか説明したのに引き続き、銀子の内面やオリジンがかいま見える回でした。
クールなキメ顔で王子気取ってるクマが、まさか脳みそドピンクの中学生男子とは思ってなかったぜ。
しかし腐れ妄想ぶん回しのヨダレだらだら熊だとバレた方が、素直に銀子を受け入れる事ができたので良かったと思います。

銀子が中学生マインドなのは何かと紅羽を剥きたがるからではなく、塩辛ナポリタンで判るように、相手の事情を斟酌せず自分の好きだけを振り回すから。
そのことに彼女は自覚的で、今回の裁判で議題になったのも『スキという感情のエゴイズム』でした。
確かに相手が自分のことを『本当にスキ』なのかは、人間にもユリにもクマにも判らないことであり、スキは常に一方通行で時に相手を傷つけるものなのでしょう。
その上で、自分の中の『本当にスキ』を諦めず前に進む所が銀子の未熟であり、同時に王子の冠を被る資格なわけです。

そこで空気を読んで引き下がってしまえば、彼女が捕食している『空気を読んでスキを諦めた、透明な女の子』になってしまうわけで、バカでスケベで絞れば青汁が取れるくらいに青臭かろうと、銀子は銀子の『スキ』を諦めず猪突猛進(熊突猛進か?)する。
そのことでぶち壊れる壁もあるだろうし、相手のことを考えずにぶつけた『スキ』が裏返って『キス』が帰ってくることも、あるかも知れないしないかも知れない。
結果を手に入れるためにはとにかくやってみるしかないわけで、その行動力が銀子を主人公たらしめているのでしょう。

紅羽にはむっちゃ欲情するのに、一緒にお風呂に入って裸エプロンするるるちゃんには毛筋もピクリしてない辺り、銀子からるるちゃんへの『キス』は確かに望み薄。
それでも断絶の壁を超え、敵の只中に一緒に飛び込み、銀子の中学生恋愛をサポートしてくれるるるちゃんの献身は尊いなぁと思います。
クマの恋は(今まで演出された部分を見ると)打算と肉欲にまみれてるわけですが、特別なクマである銀るる両方が、プラトニックに相手を思いやる恋をしているのは面白いところだ。


銀子が理想化された中学生男子だとしたら、純花を『ただ一人の相手』と思いつめ、狭くて苦しい世界を守ろうと足掻いている紅羽は、理想化された中学生女子だと言えます。
『ただ一人の相手』が失われても、大概の子どもたちはその消失に折り合いをつけ、何とか生きる術を手に入れ、面白くもなんともない普通の大人になっていくわけですが、純花はそういう普通の解決法を、頑なに拒絶します。
これは純花が母を一度喪失し、その時にクマとユリが仲良く暮らせるような、理想化され保護された世界も同時に失ってしまっていることが、影響しているのかもと思いました。
銀子のことを思い出せないのも、失ってしまった黄金期の記憶を思い出せば出すほど、それがもう手に入らない現実を痛感し、その痛みを避けるべく防衛行動にでているのかも。
しかしそうなると、紅羽は既に一度『スキを諦めている』ことになるわけで、ココらへんの謎解きはまだまだ予断を許さないところであります。

紅羽の頑なな態度は変化の拒絶なわけですが、純花は既に死んでしまっているし、紅羽自身も銃をとって蜜子を殺している。
紅羽自身がいくら望んでも、時間という止まることを知らない川は流れ続け、子供じみた紅羽を押し流していく。
このアニメにおいて、変わらなくても満たされていた二人だけ-最初は紅羽+母親、後に紅羽+純花-の世界は最初から失われており、そういう意味においては非常に残忍なリアリズムが埋め込まれた物語なんだと思います。(青春の季節を切り取った物語がより良いものになるためには、絶対この認識が必要だし、幾原邦彦作品は全て、ここを立脚点に物語を開始しています)

抽象度が極端に高いため、全てをメタファーとして読んでしまいがちなこのアニメですが、紅羽の頑なな態度の描写は、孤高に世界と戦う少女の姿として、何らかの秘められた価値をほのめかす以上の意味、映像単独の肌理をしっかり持っていると感じました。
銃という実力の行使を引きずり、己が持っている暴力に怯える様子も引っ括めて、脆くて強く、綺麗で汚い紅羽の姿に、単なる象徴以上の感情を抱いてしまう。
透明な嵐に毅然とNOを叩きつけ、フツウになってしまうことに抗う紅羽の姿は、とても苦しそうで気高く、僕はとても好きなのです。
そういう感情のうねりがしっかり生まれるのは、アニメとしてとても良いなと思います。

変わっていく景色、変わっていく立場に適応し巧く生きていく方法は沢山あり、一つは全て忘れて透明になってしまうことであり、もう一つは『スキを諦めない』まま変化に抵抗する(もしくは変化と巧く付き合う)方法を見つけることです。
死んでいるはずの純花は、『誕生日の日まで封印された手紙』という秘密を今回提出してきました。
秘められたものが明らかになり、困難に対応するすべが見つかったり、あるいは新たな困難が出現したりすることが相互対話の重要な仕事であるのなら、『封印された手紙』は死者との対話を可能にする重要な装置になるでしょう。
既に己の死を予感していたようなやり取りも含め、『封印された手紙』との対話が始まれば、紅羽の閉じて尖った世界は否応なく変化と直面させられるんじゃないでしょうか。


理想化された子どもたちは以上のように、泥の中から生まれた蓮のような描写をされていますが、それを取り巻く顔のない人たちはまぁ胡散臭いことこの上ない。
『クマ=ユリ』という世界の真実を巧みに否定し、何かと肉体的接触を図るユリーカ先生の保護者面。
哀しみを偽装して紅羽に近づき、彼女の最も大切な場所を愚弄しにかかる針島さんの狡猾さ。
音頭を取っていた鬼山さんが行方不明になっても、制度として継承されてしまう『排除の儀』。
『クマもユリもろくなもんじゃねぇなぁ』と思わざるをえない、薄汚い描写が冴え渡っておりました。
『雑巾を一番みすぼらしく見せるためには、飾り立てるのが一番』というメイキャッパー理論をナチュラルに実践する辺り、すんげーイヤーな描写だったねアレ。

今回衝撃的だったのは、今までさんざん好き勝手に食い散らかしてきたクマも、狡猾なユリの知恵に返り討ちにされることがあるというラストの展開です。
『そういうもの』として説明されていたクマの捕食は、それこそ嵐のように作品の中で絶対かと思っていたわけですが、綺麗にひっくり返されてしまいました。
同時に王子たる銀子も罠にかかり、血を流す一匹のクマであると示されました。
ここら辺は前半、コメディ成分たっぷりに見せられた煩悩全開のキャラ崩壊と、背中合わせかなと思います。

心を閉ざしたお姫様を救いに来たクマの王子は、脳みそドピンクな上に下らん奸智の罠にハマる、等身大のクマでした。
『この話童話と象徴一辺倒ってわけじゃなく、結構生臭い人間の血まみれ青春闘争なんだぜ?』と囁かれるようなエピソードだったかと思います。
透明な嵐に取り巻かれながら、自分たちのスキを諦めず、それ故分かり合うのが難しい子供たちのお話は、まだまだ続きます。
彼女たちのことがより好きになれて、とても良い回でした。