イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アニメ感想日記 15/03/16

蒼穹のファフナーEXODUS:第10話『希望の地へ』
残り二話となったEXODUS、アザゼル殺し達成と序章終了が今回の内容。
タイトルにもあるように、希望の地への脱出が始まった所で今回ヒキましたけども、いやー不穏だ不穏過ぎる。
超常パワーで敵のBOSSをぶっ倒しても、絶望しないためにどこかを目指しても、何も安心できない作りに信頼が置ける。

ニヒトとザインの救世主タッグVSアザゼル型の限界ギリギリバトルに関しては、あからさまに人間の領域じゃない感じが出てて良かったです。
ジョナサンがプロメテウスの火に憧れてる感じ引っ括めてな!
あれゼッテー碌でもないことになるよ……今回そういうものしか画面に映らなかったけど。

その一つである、手の届く範囲を守るのか、理想の限りを尽くすのかの反目……ってわけでもないか、齟齬も竜宮島メンバーの間にチリチリしてた。
この厳しい世界でメディアの道を目指すだけあって、広登は理想が高く、それが不穏だ。
暉が正反対の考え方を持っているのがなぁ……高速連絡艇は十中八九落ちるだろうし、彼らの揺れが過酷な亡命の中でどう破裂するのか、気になる所です。

そして、弓子さん(偽)の不穏っぷりが凄いことに。
衝撃的な死と誕生以来あんま描写がなかったフェストゥム人間ですが、ボタンを掛け違えたような細かい違和感を連発してきて、凄くキモチ悪い(褒め言葉
鉄砲渡された真矢も困っちゃうだろうが、確実に使う時が来るんだろうなぁ……誰に撃つんだろう?
真矢はインド行ってから、カノンの代わりにヒロイン仕事を徹底的にやり切っていて、可愛いと同時に悲壮だ。

毎度おなじみ、ラストのデスポエムで『全てを犠牲にする旅』と明言された出インド。
『ヒドいことになるぞ!!』と視聴者に突き付けるような、不穏さを丁寧に積み重ねる回でした。
崩れて欲しくないけどそろそろ1クール終わりだし、派手に瓦解すんだろうなぁこのフラグジェンガ……。

 

・アルドノア・ゼロ:第22話『邂逅と訣別』
カルマ渦巻くフラッシュバックにヤツの影、そろそろ二クール目終わりが見えてきたこのアニメ。
地球防衛軍回転の王手詰めに対向するべく、ワンマンアーミーとして敵基地に突撃したイナホマンと、何がしたいのか自分でもわかってないブレッブレ加減で半信半疑あっちこっちなスレイン君のお話が展開されてました。
もともと無かった姫様からの脈が完全に途絶えたり、偽姫さまが露骨な死亡ルートに入ったり、クルーテオJrが面倒くさい展開を呼び込んだり、結構色々あったなぁ。

ヴァースという国家、アルドノアという兵装システムの特質上、王族に詰めろをかけるのは圧倒的に正しい訳で、暗殺部隊派遣は正しい手筋。
問題があるとすれば、想定してるのに対処できないスレイン君のツメの甘さなんだが……まぁあの子そう言う子(として作品内で定義されていて、そこから出ることを許可されていない子)だからねぇ。
そのツメの甘さで、死ななくてもいい偽姫さまが死ぬのは、あんま納得出来ないけどね。
あの子可哀想だよホント……。

今や王国の首魁のはずなのに、姫様に詰めろがかかれば現場に行っちゃう。
その癖、恋敵を見つけたら姫様との合流を放棄しても殺しに来る。
最終決戦(?)の場においてすら、行動指針がブレブレなスレイン君は本当に何もかも上手く行かない宿命。
久しぶりに直接殺しあった仇敵にも逃げられるし、信頼出来ない身内に姫様を確保されるし……『間違える』存在が徹底されてるのは、ある意味見やすくていいのか。


姫様はドライにペンダントを切り捨て、スレインとの絆をエゴに変えていましたが、アイツが今までやってきたことを考えるとまぁ当然。
そもそも、お話始まってからスレ員くんと姫さまが直接交流したこと、数えるくらいしか無いんだよね。
一期は地球サイドにいたし、二期は姫様寝てたし。
それ以前に、最初から勝ち目のない戦いを強いられてた部分もあるしな……哀れだ。

そんな姫様の運命たるイナホマンは、HP代償払い過ぎた結果気絶し、このままじゃシーンが成り立たないので、メカ目玉の親父が告白代行してた。
このすれ違いはどう考えてもイナホが死ぬ流れではあるんだが……後二話で終わるか判んねぇからな、このアニメ。
メカ目玉の親父に関しては、もうちょっと早い段階で見せてくれると良かったかな……イナホマン無敵過ぎて、弱点見せる隙間無かったか。

メカで宇宙戦闘頑張ってる班に関しては、イナホマンが生身先頭に入ってから描写が無くなったので、あんま言えることがない。
結局この戦い、クイーンにチェックをかけれるか否かが勝敗に直結するので、作戦の大局はあんま重要ではないのかもしれんね。
今まで地球側のネームドに死人が出ていないので、『最終決戦(?)だし死ぬかも』って感じがあんましないのも、微妙な弛緩を後押ししてる感じ。
お話がどういう形になるにせよ、次回以降でビシッと締めて欲しいもんです。

 

ミルキィホームズTD:第10話『きずなプラス1』
TD初の跨ぎネタ後半戦は、シャロの個別エピと大量のパロディと犯人確定のトリガーをごたまぜにして、色々てんこ盛りなお話でした。
第7話といい、ザッパ先生はミルホメンバーの掘り下げを丁寧にやるなぁ。
ただゴミクズ人間にするのではなく、ダメダメな所も見せつついい話にしつつなバランス感覚が素晴らしい。

お話の主軸はシャロ子とロボ子の触れ合いであり、これを成り立たせるために最初の五分ノワールさんが延々設定を垂れ流しにしてた。
視聴者に『ラピュタじゃんソレ!』と突っ込ませることで、唐突な設定語りを飽きさせないのは技アリだった。
フワッとしたワープゲートの設定で三人と切り離して、シーンに出るキャラを限定してる所とかも巧い。
マリネちゃんは寝てるし三人は地上だしで、思う存分シャロがドタバタし、ダメダメし、ロボ子と仲良くし、キメるところはキメる時間が生まれてたわけで。
タイトな状況を作るために無理ある展開をしてはいるんだけど、その無理くりさ自体を笑いに変えて受け入れさせるのは、コメディでは強い手腕だぁな。

笑いに紛れつつも、シャロの健気で純粋なところはしっかりと描写されていて、見ていて気持ちが良かったです。
久々のシャロかわだったなぁ……素晴らしい。
7話でもそうだったけど、強いリスペクトの感じられるキャラ回は、オールドファンとしてはとても有り難いです。
投獄芸人と化していたフェザーズにも決め所があったり、ただ下げるだけじゃない扱いの丁寧さが光ってました。

パロネタに関してはラピュタマクロス(初代)にマクロスFボトムズイデオンのロボアニメとか、遊戯王にヴァンガードにバディファイトのカードゲームアニメとか、しばいぬ子とか。
ラインギリギリ通り越し、ガードレールをぶち抜いて空まで飛んで行くような、パワーに満ち溢れたネタ山盛り回でした。
個人的に一番受けたのは、環境を支配するクソカードと、それに対するピンポイント過ぎる個別メタの流れ。

そろそろクールも終わるので、最終話=天城茉莉音エレメント剥奪事件の解決に直接繋がるトスをしっかり上げていたのも、お話の収まりが良くなりそうでグッドでした。
視聴者にはバレバレながらも名言はしない見せ方は、コメディミステリというジャンルにぴったりで巧いなぁ。
7話の役者母娘といい、今回の赤黒母娘といい、黒幕紫色といい、TDのヨコハマは拗らせたクソレズ養成所かなにかか……全部ザッパ先生じゃんッ!!
いや、紫色のクソレズに関しては一話から黒幕オーラマンマンだったから、シリーズ構成の犯行だと思うけど。
あのクソアマのクソっぷりが思う存分堪能できると思うと、来週が待ち遠しいですね。

 

・四月は君の嘘:第21話『雪』
愛と青春の旅立ち、最終話一個前でした。
今までの物語をなぞるように、死に躓き、少女に出会い、世界に気付き、音楽に目覚めるまでを、ストイックに、情感豊かに描くお話。
此処に辿り着くために、このお話はあったというピークがやってきた感じです。

まず、渡の話がしたい。
彼はスゲーいいやつで頭も良く、必要なことを必要なタイミングで行える、頼りになる青年です。
それ故、OP出だしの表情を見ることで、彼と公生が受けた傷がどれだけ深いか、良く分かる。
そんな傷を受けてなお、病院に行って、手紙を貰ってきて、公生に最後の対面をさせてやる彼の男気に、開幕からやられました。

アイツ良い奴過ぎる……この世界のボーイ達はみんな好漢ですが、今回の行動で聖人ランキングトップに踊り出たなぁ……。
死病が迫るかをりちゃんはあんま自分を装っている余裕もないはずで、ということは彼女が誰が好きなのか、本当のところを渡の鋭敏な感覚は捉えているはずで、それでも病院に行き続け、普段の顔を見せ続けてる渡は、ホント15歳とは思えない。
……こういう人生をどう歩いていくかの姿勢は、あんま年齢関係ないのかもしれないな。


15歳には酷な荷物を背負い込んだのは無論公生も同じで、「もう無理です、頑張れません」という言葉には、「そっか……」と頷くしか無い重さがありました。
これはあの瞬間に生まれたものではけして無く、今まで積んできた物語、。今まで紡がれてきた感情の重さそのものなので、公生にはなんでそうなったか説明する義務はない。
見てりゃ判るものをそのままお出しするのは、自作と読者両方への信頼が必要だと思うのですが、このアニメはそこら辺の見切りが巧いです。

母を失った体験に引っ張られ、『君だよ、君なんだよ』としか言いようのない出会いが反転した痛みに飲み込まれかけた公生ですが、渡渾身のアシストでかをりちゃんと再開し、自分が歩んできた道を思い出す。
回想シーンが多用されるのは、あの屋上が最後の土壇場、物語の集積地点だからでしょう。
宮園かをりという演奏家、少女、好きな人に出会ったことで、有馬公生は何を手に入れたのか。
それを再確認しさえすれば、公生はとても辛い道を三度歩き出せる。
母を失った時かをりちゃんがステージに引っ張り上げてくれたように、かをりちゃんを失うこの時、有馬公生を引っ張り上げるのはかをりちゃんとの思い出であり、これから先につながるかもしれないという希望なのです。
公生と話す時、かをりちゃんが全ての言葉を過去形で言わないことに、強い哀切を感じました。


演奏家としての生き方を思い出した公生ですが、かをりちゃんの喪失はあまりにも重たく、義務感だけで弾くには足らない。
この状況を打破したのが椿なのは、この作品に常につきまとってきた『演奏家以外の人間は、演奏家の人生に踏み入る権利を持たないのか?』という疑問に、完璧な答を出す展開だったと思います。
ステージという聖域に立ち入る資格を持たない観客でも、苦しんでいる少年にしてやれることは、確かにあるのです。

無様に凡俗に、かをりちゃんのように鮮烈には出来なくても、有馬公生に寄り添ってきた無才の隣人。
澤部椿のくしゃみは、下を向きっぱなしの公生の顔を上げさせるという、かをりちゃんに出来なかった奇跡を起こします。
公生が顔を上げて再発見したように、世界には様々な人がいて、それと出会ったことで今、此処で有馬公生はピアノを弾いているという事実。
そこに思い至り、ピアニストとしての一つの完成、物語の終わりを見せる公生に決定的な切っ掛けを与えたのが、無様に負け犬街道を突っ走り続けた椿ちゃんだということが、僕にはとても嬉しかったのです。

世界の中に自分がいることを、魂の底から実感できた有馬公生に、もう語るべき物語は残っていないはずです。
あるとすれば、母との一度目の離別では制御しきれなかった愛の哀しみを、かをりちゃんとの別れにおいてどう弾きこなすのかという、物語になると思います。
四月は君の嘘のエピローグがどうなるのか。
僕はとても見届けたい。

おめでとう、有馬公生。
君は立派な演奏家になった。

 


・少年ハリウッド-HOLLY STAGE FOR 50-:第22話『正しさと正しさの狭間で』
そろそろ物語の区切りが見えてきたアイドルのど真ん中アニメ、大揺れの第22話。
夢を殺せなかった永遠の少年が、大人の力を携えて大切な場所を奪いに来る中、夢の真ん中にいる子供たちはぶつかり合いながら漂う。
サブタイトル通り、立ち位置的には悪役のシーマの正しさ、シーマの夢の名残に共感できるように話を作っていて、それが複雑な印象を与えるエピソーどでした。

なぜシーマに共感できるかというと、22話かけて視聴者が『二代目少年ハリウッドに続いて欲しい』『もしこの夢が失われてしまったら、もう一度取り戻したい』と思えるように、話が組んであるからです。
僕達が見た少年ハリウッドの軌跡、『エアボーイズ』を上演したり、クリスマスステージで輝く舞台に飛び出したり、劇場が埋まるようになったり、恥ずかしい自己紹介を恥ずかしがらずにやれたり、そう言う一つ一つの出来事が僕達の心のなかにある限り、僕達は少年ハリウッドを好きになる。
彼らの夢に、自分を重ねて見てしまう。
その心の動きは、シーマが抱いている感情そのままなわけです。

シーマが持ち出してきた生臭い銭のお話は、アイドルが経済活動である以上正しい言葉です。
そして同時に、ここまでお話を見てきた視聴者は、シャチョウが並べ立てるわけのわからない夢がどれだけ少年たちを導いてきた、正しい言葉だったのか、しっかり判っている。
『シャチョウの発言は常時正しく、それをガイドにして少年が成長していくお話』という構造は、第一話からしっかりと示されてきた少ハリの根本であり、視聴者を物語世界に導く強烈な柱でもあります。
だから、シーマの行動が持ってるリアリスティックな正しさを認めつつも、シャチョウの正しさを否定する気にはなれないわけです。
ここに、正しさと正しさの衝突がある。

シーマの発言が正しく思えるのは、二期において積み上げてきた描写を、正確に反映した言葉だからです。
『それなりにファンも付いて、好意的に見てくれる人が周りに集まってきて、でも劇場の外に飛び出していくには足らないし、永遠になるための現実的基盤も確保できていない』という中途半端で生ぬるい少年ハリウッド。
二期の彼らの社会的な地位は、このラインをはみ出すことなく演出され続けてきました。
全国区のドラマはバーターだし、劇場はそれなりに埋まるけどコンサートはやってないし、街で合ってもファン以外は気づかない。
思い返せば返すほど少ハリは半端なアイドルのままであり、青春の蹉跌を乗り越える描写に満足を感じさせつつ、対外的な発達を描かなかった演出ラインが、此処で生きてくる構成に為っています。


今回の話の主役がトミーなのは、二代目で唯一初代に強い意識を持っていて、彼らがアイドルでいることで夢を見れた、生きることを諦めずにすんだ少年として、当然の配置です。
かつて、今の自分と同じ位置にいて、同じことを感じていたシーマが持っている『あの輝いていた時間を、永遠にしたい』という気持ち。
それは変化をつきつけられたトミーが感じた気持ちと、同じものなのです。
シーマへの共感は視聴者だけではなく、トミーの中にも生まれている。

子供のまま大人になってしまったシーマに、今の自分を揺すぶられ乱されていくトミーは、かつてシャチョウが予言していたように、隠していた刺を剥き出しに暴れ回ります。
それはセンターを巡る騒動の中でカケルとトミーが体験したような、成長のために絶対必要な通過儀礼です。
それをくぐり抜けてリーダーの自覚を得たマッキーや、プロ意識の塊であるキラが揺れるトミーをしっかりフォローしてくれるのが、嬉しくも有り難い。

支え合えるからこそぶつかり合うことも出来て、プロ意識と揺れる感情の間で、キラとトミーは衝突します。
キラの言ってることはとてつもなく正論で、トミーの感じている気持ちも凄くリアルですので、この衝突はサブタイトル通り『正しさと正しさの狭間で』起きている衝突なのです。
シーマと二代目、トミーとキラ、シャチョウとシーマ。
今回の話には、複数の正しさが埋め込まれているわけです。


その上で、シーマが持ち込みキラが強く意識している『外目線』の正しさよりも、トミーが代表する傷つきやすい心の揺れを大事にする『中目線』の正しさに共感するのは、致し方ない……というか製作者が狙ってる反応だと思います。
だって、少年ハリウッドは僕達が彼らを好きになれるアニメだったから。
彼らが感じた痛みや喜びに、強い共感を覚えられるよう計算され、組み立てられたアニメだったから。
他の奴らがどう思うかは関係ない、俺がこいつらのことを好きなんだと思えるようなアニメだったから。
トミーやシャチョウの正しさに肩入れしてしまうように、今回のお話は作られている。

そして、シーマの『外目線』はあくまで建前で、彼にとっての永遠である初代少年ハリウッドを大事にしたいという心の揺れ、『中目線』の正しさこそが、彼を突き動かす衝動だと、今回何度も強調されていました。
トミーが、そして僕達が二代目を大事に守りたいと願うように、シーマも初代が大事なんだよとしっかり見せることで、シーマを『外目線』のワケワカンない部外者と切り捨てるのではなく、立場は違えど同じ気持を抱いた『内目線』の男だと思える構成は、本当に見事です。
どちらの気持ちもわかってしまうが故に、どちらの正義も理解でき、その間にある世界の豊かさもスッと心に入ってくる。
一見対立している物事の類似点と、やっぱり存在する相違点をしっかり見せることで、物語の豊穣さを演出する手腕は少ハリで目立つところですが、ラストエピソード(かな?)で華麗に的確に使ってきました。

ラストカット、鞄を手に劇場を去るシャチョウで、今回のお話は終わります。
二つの正しさに、物語を牽引してきた偉大なメンターはどんな答えを出したのか。
僕達の好きな少年ハリウッドはどんな運命に立ち向かい、どんな結末に辿り着くのか。
予断を許さない展開です。
楽しみに、じっくりと次回を待つとしましょう。