イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アニメ感想日記 15/04/02

アイカツ!:第127話『星空エントランス』
美月もいちごもいないけど、続いていますアイドル活動! というわけで、あかりジェネレーション本格始動なアイカツ11クール目。
上が抜けて開いた隙間に入ったのは、"踊るイナズマ"黒沢凛と"幼き女帝"天羽まどか。
新体制のお披露目となる回でしたが、特に凛ちゃんのキャラがよく見えるいい滑り出しでした。

"アイドルアニメ三人目の凛ちゃん""最初尖ってるけどなまくらになりそう""セイラっぽい"
"蘭ちゃんっぽい"等など、色んな噂が立ってた凛ちゃん。
話が始まってみると、ストリートダンスというバックボーンを軸に、真っ直ぐな情熱と素直な人格を併せ持つ、非常に魅力的な女の子でした。
アイカツ!はアイドルの話なので、『何故アイドルになりたいのか』という根本的なモチベーションを一番最初に出してきたのは、分かりやすくてとても良い。

ただ自分の夢にまい進するだけではなく、先輩や先生にリスペクトを持ち、同室のまどかちゃんともコミュニケーションをしっかり取って、欠点らしい欠点がない。
弱いところも早めに出してきたしな……蘭ちゃん・セイラ・美月さん、それぞれが劇作上で犯したミスを、的確に潰した印象。
早めにポンコツることで、そっちに引っ張られすぎないようコントロールしている所とか、なかなか良かったです。
リスペクトJ勢だったけど、次回のデザイナー話といい、三期後半はジョニーを物語リソースとして活用してく感じなのかなぁ。
あとまどかに振り回されてる感じが天性の受けって感じがして、非常にグッドです。

ハキハキと前向きな姿勢だけども好感度高いわけですけど、まさに渾身と行っていいブレイキンの作画で、気持ちだけではない実力が垣間見えてとても良かったです。
2D作画もダンスの気持ちよさが全面に出た素晴らしい動きでしたが、3D作画の方もキレッキレ。
ただキレてるだけではなく、まどかちゃんとの差をしっかり出してたのはホントスゲェ。

あと出だしのエビ反りは、どう考えても百田夏菜子リスペクト。
実技面で明瞭な利点があると、素直な人格がより良く見えてくるわけで、新キャラクターのお目見え回としてとてもグッドでした。


もう一人のニューカマー、天羽まどかちゃんは全然自分の話しなかったので、正直どういうキャラか分かりませんでした。
かなりあざとい動きを体得していて、入学したてでオーラもSAも出る実力があって、計算高い側面がある、くらいかなぁ……。
いや、いい子だというのは分かってる……分かっていますよ!?

ネタで腹黒腹黒言ってたけど、履歴書の備考欄に『私の祖母はASのデザイナーです!』って書いてあったり、ステージ終えた後に「私の可愛さ」言うたり、結構シャレにならない要素がポンポン出てきてさぁ……。
ぜってぇアイドル/ロードであり、<世を動かすもの>3レベル所持ですよ……(BBTマニア的読み)
おとめも序盤では作りだの腹黒だの言われていたので、早めに個別回やって、不安を払底してほしいものです。
あ、ステージ前の個別ポーズはスンゴイあざとさで『やりおるわ……』って感じでグッドですね。

新展開は他にもあって、まさかの涼川さん教師化。
まぁReyはもう無いからね……バンカツもクソもないよね……。
教師という窓を置いておかないと、主役と分割される一年の描写が薄くなるわけで、非常に巧いリサイクルだと思います。
眼鏡涼川さん、いいルックスしてるしなぁ。

先輩になったあかりちゃん&スミレちゃんは、見事に先輩風をビュービューふかしていて、頼もしさが見えました。
あかりちゃんはレポーター、スミレちゃんは歌手として既にバリバリ仕事しているわけで、そら成長もするよなという。
いちご世代が本格的に抜けたので、そろそろ引っ張られる末っ子から、自分の足で進み時には後輩に道を示す立場になっていくんでしょうね。
こうやって新しい楽しみが見えるのも、世代が移る大きな魅力の一つだなぁ。

四月からの心機一転として、爽やかな風が吹いた第一話となりました。
凛ちゃんは可愛いし、前向きだし、武器もあるし、優しいしと、嫌いになる要素が一切ない非常にグッドなキャラ。
来週早速プレミアムドレス回のようですが、更に描写が深まると思うと楽しみです。
……はやくまどかちゃんの個別回をやって、風評被害をぶっ飛ばして欲しい気持ちもあるけどね。


・少年ハリウッド -HOLLY STAGE FOR 50-:第25話『瞳を閉じる日が来ても』
少年ハリウッドついに解散!! しなくていいです!! 君たちは真実のアイドルへの一歩を確かに踏み出しました!!! という回。
仕込というかドッキリ落ちなんだが、アンフェアな感じより先に『良かった……解散しなくてホント……』ってなった辺り、俺は少ハリ好きなんだと思う。
同時にシーマさんが見せていた本気がフェイクではないことを表明することで、今までのシリアスな蓄積が無駄になっていなくて、少ハリ達だけではなく、視聴者にとっても喝を入れられる展開に為っていました。

今回第23話から三部作使ってやった『少年ハリウッド解散式』を〆るに辺り、必要なのは真に迫った『終わっちゃう』感じ。
それを出すために、前半は徹底して部室パート豪華版に徹していました。
少ハリの魅力は沢山あるけれど、フレッシュなダイアログを活かした『10代の少年集団あるある感』は本当に大きな力であり、彼らがキャイキャイするシーンはロボットアニメで言えば戦闘シーン、ゆる系日常アニメなら情景をパノラマで見せるシーンに相当する、このアニメの決め所。
どーでもいい彼らの日常を、『こうです』ではなく『こうあって欲しいよね?』というラインで組み立てて、しっかり見せてくれることは、このアニメに潜り込んでいく入り口に、絶対なっていたと思います。
僕達が見たいものを『これでもか!』とばかりにグイグイ見せてくれることで、それを惜しむ気持ちもどんどん湧いてきて、凄い楽しいのに(もしくは楽しいからこそ)『終わっちゃう』感じが加速していく。
切なさの扱い方が、ほんとうに上手いアニメです。

同時に部室の出し物が『身内のモノマネ』なのも巧くて、ここまで25話彼らを見つめてきた視聴者にとって、それは知らない人が知らない人の形態模写をしているものではない。
キャラクターを理解し、彼らがやりそうなことを把握していればこそ、そして彼らに愛着があればこそ、『うわー似てる!!』という、親近感に満ちたリアクションを引き出す演出になっているわけです。
画面を見ながら『ああ、シャチョウはそういうこと言う』『相変わらずマッキーDisりすぎ。愛されてんな』と思う気持ちは、画面の中にいる少年たちと綺麗にシンクロしている。
25話かけてこのアニメは、デジタルな絵の塊に生命の息吹を宿して、『こいつらは俺達のアイドルなんだ。よく知ってる、凄く好きな奴らなんだ』という気持ちを生み出すことに成功しているわけです。
これは、とても凄いことだと思います。


ひとしきり笑いを取った後は、緩んだ腹筋に本気の青春パンチを打ち込むのが少ハリ流でして、カケルが『少ハリらしさ』を演じていく流れの青春力と叙情性は、もうスンゴイことになってた。
『アイドルである』のではなく、『アイドルになる』ことから始まったこのアニメは、綺麗にそこに戻って、答えを見つけることで終わるわけです。
しかも、今までのようにシャチョウの出した問題に直接答える形ではなく、起きてしまった状況の中で、五人が自分たちで辿り着く形で、『自分たちは少年ハリウッドになり続けていたい。なり続けなければいけない』という所まで行く。
何者でもない少年たちの青春譚として、凄く綺麗な収まり方です。
(種明かしをした後では。今までのように最強のメンターであるシャチョウの引いたレースを疾走し、彼らが答えに辿り着いたとも判るのですが、彼らにとってハリウッド東京の解体は非常にシリアスかつリアルな問題であり、そのシリアスさは視聴者にも共有されていたと思っています)

もう終わってしまうからこそ、メンバー紹介で普段言わなかった純粋な尊敬や好意を口にしていて、そこにもグッっと来ました。
あれはカケルが口にしているのだけど、同時にメンバー全員の共通した気持ちでもあって、だから茶化す言葉や恥ずかしがる態度が一切ない。
凄くピュアでシリアスな、バラバラだった五人が辿り着いた到達点なわけです。
逆に言えば、今までエピソードを積む中で今回のような直線的な表現を使わなかったからこそ、今回の真っ直ぐな言葉が意味を持つというシーンでもあり、最後の最後で最高速の直球を使ってストライクを取られました。
二話で重要なフェティッシュだったマイク・コペルニクスの靴がしっかり映ってるのがね、最高にいい。


こうして『二代目少ハリが何処に辿り着いたのか』を見せることで、シーマ三部作が一種のフェイクであり、少年ハリウッドは無くならないという『終わりの先』に説得力が出る。
あれだけ見事な答えに辿り着いたなら、初代に固執していたシーマが心変わりをし、二代目を認める展開にも納得がいきます。
自分で説明していたように、腑抜けた二代目をぶっ潰すというシーマの行動原理は、フェイクではなくリアルだった。
解散か存続か、どちらの目も出得る真剣勝負だからこそ、少ハリが今ままで積み上げてきたモノ全てをまとめあげる答えに、彼ら自身がたどり着かなければいけなかった。
そう言う必然性が、今回のフェイクの中にはあるわけです。

今まで話の方向を迷わせず導いてきたシャチョウを外し、シーマの行動原理にも強い説得力を持たせることで、フェイクをフェイクと気付かせなかった(少なくとも僕は、作りだとは全然思わなかったです)緊張感は、凄く重要だったと思います。
此処が巧く演出できなければ、最大限の圧をかけ、カケルにセンターを託した時のような覚醒を、少ハリ全体に促すというシャチョウの狙いにも、説得力がなくなる。
物語を大団円に導く『また一つ大きくなった少年ハリウッド』という到達点が、嘘っぱちに堕してしまうわけです。

それを避けるべく最大の仕事をしていたのは、実はシーマ三部作ではなく、二期全体で演出されていた『中だるみ感』だと思います。
シャチョウが危惧し今回の試練を計画する原因になった『中だるみ感』は、急に生まれたものではない。
一期でアイドルとしての形を手に入れ、二期でそれなりに成功しつつも、どこか突き抜けられない感じ。
MCも上手く出来るようになり、ファンも適当にいて、それなりに充実した『アイドルである』ことに慣れてしまった少ハリの姿は、二期の映像内部に計画的に、緻密に組み込まれていました。
その蓄積があればこそ、シャチョウの目論見にも、シーマの殺意にも、それが明かされた瞬間から逆算して説得力が生まれる。
『なるほど、確かにそうだよな』という気持ちで、彼らの思惑を飲み込める。
これは、二期全体を今回の話に集約する緻密な計算がなければ、けして生まれなかった感慨だと思います。

『リアルとフェイク、主観と客観、自意識と幻想の中間地点でしか生きられないのがアイドルだ』というのは、このアニメが持っている強い主張です。
今回の『巧妙に準備された、シリアスなフェイク』という種明かしは、このアニメが目指してきた『永遠のアイドル』のあり方そのものとも呼応していて、凄く豊かだなと感じました。
テーマと物語装置の豊かな呼応はこのアニメそのものの特長でもあって、最後の最後で自分たちの武器を忘れず、強く振り回せるアニメってのは、ホント素晴らしい。


かくして、少年ハリウッドは終わらない。
来週は多分、まるまるクリスマスライブです。
彼らが到達した『最高の当たり前』がどういうものなのか、僕は凄く見たい。
ほんといいアニメです。

 

ユリ熊嵐:第12話『ユリ熊嵐
ユリで熊で嵐! ユリと熊が嵐!! なアニメもついに最終回。
透明な嵐を内包した世界の厳しさは一切忽せにしないまま、一筋の光明を掴みとる終わり方でした。
とても良いアニメです。


色々と考えたいことはあるのですが、とりあえず見ながら気になっていた所で、最終話になって腑に落ちた所を書いていきたいと思います。
ミステリでもあるこのお話に最後に残った謎、『過去、運命に操を立てたのは誰?』という問いかけに、今回答えが出ていました。
紅羽の記憶がなくなったのだから、それは当然紅羽……というロジックを、現物が出るまで一切思いつかなかった僕は偉そうなこと言えないなぁ……とか思ったりした。

この謎解きは『自分の願いを他者に押し付ける高慢の罪を、紅羽は過去に犯している』ということでもあり、その事がヒトがクマになる最後の決断に繋がっているわけです。
クマは自分の望むままに人を食べ、自堕落に肌を重ね、相手の気持を考えず行動する宿命を持った生き物だという描写は、例えば蜜子だとかユリーカ先生だとか、過去にたくさんされてきました。
銀子も蜜子と同化することで、クマ的な自分に一度は支配され、それを乗り越えて紅羽の前にもう一度立つ。
それを追いかけるように、紅羽は過去の罪を思い出し、クマ的な自分を受け入れクマへと変わる。
ユリ的なクマとして断絶の壁を乗り越えてきた銀子とルルと出会うことで、『クマを殺す』ことをアイデンティティとして物語に立ち現れる紅羽は、自身の罪によって失われた過去に立ち戻り、クマ的なユリとして再誕し、死ぬわけです。
銀子と紅羽の死については、後で話します。


ともあれ、他人が変わることを望んでいた紅羽も、他人をヒトリジメにすることを願っていた銀子も共に歩み寄り、ヒトがクマになるという奇跡が起こる。
それを前にして、今まで無邪気な子供のように(実際子供の年齢なのですが)銃という暴力を弄んでいた透明な女の子たちは、それが命を奪う道具であることを思い出したように、暴力の行使をためらい始める。
紅羽が最初から銃が下手くそな子であったことを考えると、あの子達は奇跡を目の前にして、紅羽のように変わることが出来る可能性、決断のチャンスを突きつけられたのだ、と言えます。
壁の模様も、トモダチの扉に変化してましたしね。

しかし世界は奇跡に目をつぶり、新たな同胞を受け入れることなく排除し、誰か生贄を捧げて維持される日常の中に帰還していく。
奇跡は目の前で起きているのに、今までそれでやって来た世界から飛び出す勇気を持てず、また人狼ゲームに帰ってしまう蝶子たちを、愚かだなぁと切り捨てることが、僕はどうしても出来ない。
多分僕も、あの場にいたら銀子と紅羽を殺していただろうな、と思います。
蝶子のように、奇跡など起きていないのだと、アイツラは人間じゃないんだと言い聞かせながら、同調圧に背中をされて暴力を振り下ろす決断をしていたと思います。
それが『普通』です。

学園ではなくウテナが消えたTV版ウテナや、全てが消えた荒野に走りだした映画版ウテナ、世界を呪う眞悧という悪意を祓わないまま陽毬の死だけを退けたピングドラム
奇跡には常に犠牲を必要とし、その癖残忍なまま巨大なシステムには変化がない世界を、幾原邦彦という作家はいつでも睨んでいるように思います。
その視線には、強烈なニヒリズムがある。
その上で、一条の光を諦めない信念があるからこそ、僕は彼が監督するアニメーションが好きなのですが。


奇跡は確かに起きていて、たった二人、変わった存在もいる。
あの時銃口を下し、透明な嵐の輪廻から降りることを選択した(つまりは、次の生贄になることを決意した)撃子は、紅羽と銀子が、紅羽と純花が、ユリーカと澪愛が、恋人たちがいつでも出会う場所である『あの場所』でこのみを見つける。
撃子も一人であるなら他の子と同じように、銃を手放さず透明な嵐に加担していたのでしょうが、彼女だけが死んだはずのこのみが涙を流す姿を見ている。
死人でありクマでありサイボーグであるという、他者の刻印を三重に押されたこのみも、奇跡を前にして涙を流す存在に戻る。

もしそれを見ていなかったら、もしくは他の子はそれを見ていないからこそ、銃を手放すことは出来なかったと思います。
透明な存在は透明なままではないけれども、そこから一歩を踏み出すのはとても難しくて、一人ではけして出来ないものだという答えは、銀子が奪ってしまった命の意味を何処に置くかがずっと気になっていた身としては、しっくり来る解答でした。

透明な嵐のシステムが存続した以上、二人のこれからは、銀子やるるや紅羽や純花やユリーカ先生がそうだったように、嵐の中に飛び込むように厳しいことでしょう。
今回の奇跡がそうだったように、巨大なシステムへの無謀な足掻きであり、死を以ってしか成就しない恋が再び生まれるのかも知れません。
世界は依然として、冷たく厳しい氷の世界のままです。


銀子と紅羽がクマリアの元へと旅立っていく幸せな終わり方が、このアニメでは描写されています。
しかしそれはあくまで撃子がガンスモークの果てに見た光景であり、一人称的な世界です。
有り体に言えば、妄想とも希望とも現実ともつかない、箱の中の描写です。
既に銃を手放し世界からドロップアウトする覚悟を決めた撃子にとって、紅羽と銀子に訪れた奇跡は世界と戦う覚悟の源であり、けして否定したくはない『スキ』であると思います。
『スキ』が身勝手なものでもあるというこのアニメのルールに基づいて言えば、紅羽と銀子の旅立ちは、撃子がこの後嵐の中で生きていくために必要な、身勝手な願いかもしれないわけです。
あのシーンを虚実定かならぬシーンとして描いた残忍さは、妥協がなくてとても凄い。

その上で、透明な嵐に飲み込まれないまま一人生き残ることなんて出来ないし、エゴから生まれた愛でも、というかそういう愛しか、私達には術がないということも、このアニメでずっと描かれていたことです。
だから、撃子が見た二人の旅立ちは、現実であろうと虚構であろうと真実であり、真実は強いものなのだと、僕は思います。
身勝手でも何でも希望は投げかけるしかないし、それを受け取ってくれるかもしれないという可能性それ自体が希望だということは、このアニメずっと言って来たわけですから。


虚実定かならぬ描写というのは、抽象度が極端に高いこのアニメにおいて、様々な描写に言えます。
何故クマリア様は純花の姿をしていたのか。
『スキがキスになる場所』というのは(作中における)現実に存在する場所なのか。
ラストシーンで二人が出会った『あの場所』は、断絶の壁を飛び越えたどこかなのか、死後の世界なのか。
これらは全てあやふやで、見る側に委ねられた描写です。

そもだに、断絶の壁によって隔てられたクマとユリという根本設定自体が、非常に抽象度が高く、どうとでも解釈できる要素です。
そして、そこに何を見るかというのは、それこそ紅羽が立ち竦み決意を持って砕いた鏡のように、視聴者の興味や感心を写す所です。
このお話でカメラが捉えていた様々なものは、現実において何を照応するのかというのは、見た人それぞれ答えがあると思います。
同性愛の問題やいじめの問題、地域紛争や高度情報化社会。
もっと個人的なものを投影される視聴者の方も、もちろんいるでしょう。
神話やおとぎ話のように、現実をそのまま照応しないこのお話は、多様な解釈と答えを許容している作品だと思います。

そして、全ての答えは十分以上に価値があるように、このアニメは作られていると思います。
マニアックな設定遊びでも、ペダンティックなメタファーの遊戯でもなく、愛と断絶と排除の話をする上で必要な措置だから、抽象度を上げた。
あやふやで曖昧で、現実には起こりえない設定を持ち込むことでしか、見せられないものがあると信じた。
その結果、直球勝負では辿りつくのが難しい確かさと豊かさで、テーマを語り終えたのだと、見終わって僕は思いました。

『これはどういうことかな』『俺はこう思うな』という反応を導くのは、作品が内包する描写と、反応する視聴者の内側にあるものしかありません。
24分なら24分のボリュームを足場にして、見た人の気持ちや感想、もしかしたら感動というものは飛び立っていくわけで、足場が確かでなければ、高い跳躍は出来ない。
そして、ユリ熊嵐という足場は豊かで確かです。
そこを土台にして飛び立った多様な感想、その人なりの受け取り方というのは、たったひとつの真実によって叩き潰されるものではなく、一個一個がそれ自体貴重なものだと思うわけです。

多様性を許容しておいて自分自身の意見を出さないのもアンフェアなので、この段落の一番最初で上げた、あやふやな描写の僕なりの解釈を書いておきます。
クマリア様が純花の姿をしていたのは、その前に立ったのが紅羽だからでしょう。
峻厳な世界の小さな希望が、個人的な経験の中で最大限自分を助けてくれた尊い人の姿で見えるというのは、個人的に納得がいく所です。

そして、『スキがキスになる場所』も『あの場所』も、両方死後の世界です。
天国か地獄かは判らないですが、ミルン王子もるるも、銀子も紅羽も死んでいます。
そして、そのことはけして絶望ではない。
対話する意識が残っている(≒意識を生の定義とする立場を取れば、亡霊は生存しているという結末を導けるから)からでも、彼女たちの愛の軌跡が鮮烈で『十分生きたから死んでもいい』というわけでもないです。
撃子とこのみという、希望を受け継いた次世代が作品世界に残ったからでもない。
彼女たちの物語はあくまで彼女たちのものであり、死者が大きな影響を与えたとしても、死人のものではないですから。

それは多分、彼女たちの物語がこのようにして収まるしかないように、このお話が説得力を持っていたからだと思います。
自分はこのアニメの『銃』の描写をずっと気にしていて、何も打ち抜けない紅羽の銃弾が最終的に何を捉えるのか、とても注目していました。
彼女が選んだ標的が『鏡に写った自分』だというのは、そういう立場からすると非常に『してやられた』描写でした。
頑なな自分と過去の罪を、持て余し続けた力の象徴で撃ち抜くというのは、思春期の少女が成長していくお話でもあったこのアニメにおいて、圧倒的に正解だと思います。
そして暴力をそのように使ってしまった以上、あの二人に応戦する選択肢はそもそも存在しない。
そういう意味においても、あの二人の死は必然だし、それ故に単なるエンドマーク、作中人物の退場という意味合いを大きく超えている。

死ななきゃいけない宿命にあったというわけではなく、峻厳として動かない透明な嵐の中で、断絶していた二人が出会い、別れ、再び出会うお話として、此処に辿り着くようにしっかりと組みててられたからだと思います。
虚実定かならぬ世界での救いも、『どうせ嘘っぱちじゃねぇの?』というニヒルな反応より、『ああ、そうだと善いなぁ、本当に失ったものを取り戻せる場所があるといいなぁ』と願ってしまうような気持ちを、僕は持っています。
12話(実写も合わせれば13話)見てきて、僕は凄くこのお話に納得している。


それにはこのお話の構成が、強く関係していると思います。
ウテナの1/3、ピングドラムの1/2という尺の短さが逆に、メイン・テーマに関係ない部分をすべて切り捨て、作品の抽象度も天井まで上げる決断を産んで、シンプルで骨太なお話になっていました。
ぱっと見感じるフレイバーに相反して、このお話はとても解りやすいし、飲み込み易いアニメだと僕は思っています。

ただ抽象的なだけのお話は退屈ですが、観客を引っ張る物語としての強さもまた、このアニメにはありました。
過酷な世界に迫害されつつ、宿命に引き裂かれた二人が再び出会うラブ・ストーリーとしての強さ。
別れに傷つき、悪意に躓き、思い出に支えられ、出会いに立ち上がる、波瀾万丈の青春物語としての強さ。
失われた記憶をキーとして、絶妙なタイミングで真相が明らかになっていくミステリとしての強さ。
色んな物語の強さがしっかりとあって、『クマの星が爆発して、クマが二足歩行で人間襲うようになった』なんていう、妄想全開の筋書きが気付けば心のなかに染み渡って、前のめりになるように見ていました。

お話の強さが視聴者を引き込む片輪だとすれば、もう一個の車輪はキャラクターです。
みんなトンチキだけど自分の願いに素直で、自分勝手で優しくて、哀しい子たちばかりでした。
みんな好きなんだけど、一人だけ選ぶなら……純花とるるちゃんで悩むなぁ……。
僕純花好きでねぇ……彼女が見せる優しさと強さは、凄くキラキラして見えたんです。
るるちゃんは個人回で満塁ホームランを撃った後、銀子への愛が暴走しちゃう所まで引っ括めて、最高に愛しかった。
銀子も紅羽も、蜜子もユリーカ先生も撃子もライフ・ジャッジメント・ガイズも、このアニメのキャラみんな好きだったなぁ、俺。


自分たちが描きたいものから逃げず、不器用なくらいに真っ直ぐ、本気で挑んだ作品でした。
そしてその本気は、楽しい亜に目を見たなぁという気持ちに、ちゃんと結実したと思います。
一視聴者の立場から偉そうなんですが、凄く良く出来ていて、凄く好きになれた、大事なアニメになりました。
スタッフの皆さん、ありがとうございました。
ユリ熊嵐、本当に素晴らしい、最高のアニメです。