イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ラブライブ! The School Idol Movie感想

劇場版ラブライブ!を見ました。

ネタバレした感想を書きますので、これから見る予定がある方や、ネタバレを気にされる方は注意をお願いします。

 

 


●章立て
1)   全体を通して
1-1)  視聴前の不信感
1-2)  劇場版が立ち向かったもの
2)   NYパート
2-1)  ファンサービス
2-2)  今後の展開を準備する場所としてのNY
2-2)  女性アーティストとの邂逅
3)   帰国後
3-1)  悩める穂乃果
3-2)  他者との対話
3-2-1)  妹達
3-2-2)  A-RISE
3-2-3)  女性シンガー
3-2-4)  三年生
4)   秋葉原ライブと穂乃果の決断
4-1)   事前準備
4-2)   秋葉原ライブ、もしくは『SUNNY DAY SONG』
4-3)   μ'sの終わり、もしくは『僕たちはひとつの光』
5)   まとめ

 

1)  全体を通して
この映画は三部構成になっており
 開始~40分 NYパート  ファンサービスと問題の準備を行う『序』
 40 ~70分 帰国パート 問題の顕在化と解決方法の模索を行う『破』
 70 ~終了 秋葉原ライブパート 解答に辿り着き二つのライブというクライマックスまで駆け抜ける『急』
という内訳です。
今回のお話は音ノ木坂学院という狭い場所で進んできたTV版から世界を拡大し、物理的にも社会的にも広い場所にμ'sとスクールアイドルが拡大していくお話であり、この三幕構成もそれを描くべく選択された方法だと言えます。


1-1) 視聴前の不信感
と、論をはじめるまえに、映画を見る前の僕自身の立場と気持ちについて書いておきます。
これを書いておいたほうが、僕がこの映画の何に心を動かされたか、分かりやすいと思うので。


劇場に向かうまで、この映画に一種の不信感がなかったといえば、それは嘘になります。
完膚なきまでに終わっているμ'sの物語の続きとして、何を見せるのか。
空疎なファンサービスだけが繰り返される、テーマも信念もない映画を見るのではないか。
それどころか、死人を墓穴から掘り返して玉座に据え付けるような、哀しい延命処置が行われるのではないか。
そういう恐れと不信感が、僕の中になかったとはとても言えません。
僕はこの映画を、恐れながら見始めたのです。

二期最終話、穂乃果が屋上で幻視したように、μ'sは完璧に己の物語を見つけ、集い、成し遂げ、終わりました。
一期がμ'sを結成し、廃校阻止という目的を奪われ、それを再確認するまでの『いかに始まるか』という物語でした。
それに対し、第二期は第1話からして絵里から穂乃果への生徒会長職の禅定を見せ、三年生がいなくなったあとの音ノ木坂を見据えた、『いかに終わるか』を強く意識した物語として始まりました。

その始まりに呼応する形で、二期第10話から第13話までの4話は、様々な問題に決着をつける展開が連続します。
『スクール』であること、『アイドル』であること、『スクールアイドル』であること、『μ's』であること。
九人の女の子たちが探し求めた物語の終わりには、スクールアイドルとしての舞台上で、学生としてすごす日常の中で、これでもいうほど濃厚な答えが連続して返ってくる。
ラブライブ二期はそういうお話だったと、僕は思っています。


その上で、μ'sは終わらなかった。
天井に描いたμ'sという夢が消え去り、三年生が学園から去ろうとしたタイミングで、花陽がいつものように『衝撃の知らせ』を受け取って引く。
それが、二期最終回のラストシーンでした。
しばらくして『衝撃の知らせ』が劇場版製作であると判り、僕はスクリーンで彼女たちの青春がまだ見れることを嬉しく思うと同時に、訝しくも感じました。

物語が活き活きと前進していくためには、欠落を埋めていく必要があります。
それは『我々は一体何であるか』『我々の望みは何であるか』という疑問の追求であったり、迫り来る困難の克服であったり、キャラクターが抱えている弱点を長所に変える成長であったり、形は様々です。
ともあれ、様々な形態の欠落を埋め、より完成した形に向かっていく運動こそが、物語が前進していくレールだと言えます。

しかし、μ'sはスクールアイドルの頂点に立ち、主人公ほのかは『スクールアイドルをなぜやるのか』という問いに幾度も答えを出し、九人の関係にも『μ'sはここでお終いにする』という結論も既に出てしまっている。
鮮烈に少女たちの青春を描き、彼女たちの欠落を丁寧に回復していったが故に、μ'sの物語には前進する余地がありません。
つまり、一度出した答えをひっくり返すか、同じ欠落をこねくり回すことでしか、μ'sのお話を再演することは難しいのではないか。
それが、劇場版製作決定の報を聞いた時、僕が一番最初に考えたことでした。
簡単にいえば『劇場版では、やることがもうないんじゃないの?』と、僕は思ったのです。


終わった物語を続ける理由が、製作者たちの未だ燃える情熱であるとか、視聴者が気づいていない物語的欠損の補綴といった『内側』の理由であるのならば、ラブライブ! をあくまで物語としてしか見れない自分の立場からすれば、受け入れやすいでしょう。
しかし、ラブライブ! は巨大化した。
ライブは盛況で、グッズはあらゆるメディアにおいて生産され、ファン層も多種多様な年齢・性別・文化的背景に広がった。
そういう『外側』の事情(あえてあけすけで露悪的な言い方をすれば『銭勘定』の事情)がこの映画を作らせるのであれば、既に完結しているμ'sの物語は強制的に終わらなかったことにされ、青春を駆け抜けた九人の女の子はコンテンツ的ゾンビとして、魅力ではなく死臭を放って復活させられるのではないか。
そういう余計な勘ぐりすら、僕の中にあったわけです。

無論、巨大化(肥大化ではなく)したラブライブ! がより広く、より深く、より熱く様々な人に突き刺さり、『雑誌企画原作のアニメーション』という枠を超え、一種の現象と化したことは、とても素晴らしいと思います。
自分はあくまでラブライブ! を一アニメとして楽しんでいる立場ですが、TVアニメで描かれたμ'sのお話がどう終わるか(もしくは終わらないか)と、μ'sの物語を足場にした現象が人々を楽しませていることは、別のお話だと思います。
しかしながら同時に、僕の好きな九人の女の子の物語が、一体どう終わるのか不安だったというのも、僕の中での事実でした。

 

1-2) 劇場版が立ち向かったもの
個人的な価値のお話を長々と続けたのは、無論それを梃子に評価をひっくり返すためです。
この映画、『ラブライブ!The School Idol Movie』は、まさに僕が感じていた不信感を、真っ向から打ち砕く映画でした。
この映画が問題にしているのは、基本的にはただ一つ『μ'sの物語が終わってしまっていること』です。
一種私小説的な味わいすら生まれるほどに、製作者達がこのことに真摯に取り組み、必要な疑問と答えを映像に焼きつけ続けます。

NYでのライブを成功裏に終わらせた結果、μ'sはただの『音ノ木坂学院所属スクールアイドル』ではなく、『スクールアイドルの象徴』に変化します。
廃校に立ち向かうためにはじまったμ'sは気づけばスクールアイドルの頂点に立ち、学校の外側の人々の期待と羨望を背負う、社会的な存在に変化していたわけです。
あくまで音ノ木坂学院というホームを守り、そこからラブライブという決戦の場所に巣立っていったTV版に対し、今回の劇場版ではそれこそ海を渡ったNYまで、彼女たちの世界は拡張していく。

あくまで学生として、自分たちらしく自己を表現し、自己の延長であるかけがえのないホームを廃校から守り、自分を支えてくれた身近な人々のために歌い、踊ってきたμ's。
しかし彼女たちのセルフイメージとは関係なくμ'sは神話化し、学生ならば必然的に訪れる『卒業』と同タイミングの終わりを、μ's以外は受け入れてはくれない。
『学生=スクール』としては終わっている、終わるべき物語を推し進めようとすれば、『社会的存在=アイドル』としての責任を果たせないような位置に、NYライブの成功を受けてμ'sは上り詰める(もしくは追い込まれる)。
『学生=スクール』と『社会的存在=アイドル』との間にあるギャップ。
これこそが、一度終わったかに見えたμ'sの物語がもう一度運動を始める、重要な欠落になります。


NYから帰還して後、穂乃果は一人で悩み続けます。
カメラは執拗に穂乃果の一人称で進み、彼女の苦悩をとらえ続ける。
μ'sの残り八人は、真姫が口にしたように『言わなくても何がいいたいか解る』状態を維持し、個別に答えを探す主体としてはクローズアップされません。
この絞り込みは、スクールアイドルμ'sが抱える『学生=スクール』と『社会的存在=アイドル』との矛盾を認識し、悩み、解決策を思いつくまでの過程を深く掘り下げることを可能にしている、意味のある劇作だと思います。
九人の物語として主体を拡散させるのではなく、九人を代表する一人の物語として主体を集約していくことで、この映画で解決すべき問題点はより強く、視聴者の前にさらけ出される。

自分の想定よりもはるかに大きくなったμ'sが背負う責任を、どう果たすのか。
穂乃果の悩みは同時に、視聴者(というか僕が)が強く気にかけるポイントでもあり、さらに言えば製作者たちも問題視した点なのだと、僕は思います。
終わったはずのμ'sの物語を、どうやってもう一度終わらせるのか。
そういう物語的視座だけではなく、自分たちが作った物語が今置かれている状況に目を向け、μ'sの物語を囲い込む一つの現象としてラブライブ!を考え直した痕跡が、この映画にはそこかしこに見て取れる。
その結果、μ's全体の問題をあえて一人で背負う穂乃果の当惑は、作中世界だけではなく、ラブライブ! という作品/現象が置かれている現実世界の立場に、奇妙に重なり始めます。
拡大したμ'sに穂乃果が感じる困惑は気づけば、この映画に不信と疑念を抱いてチケットを買った僕の個人的な感情と、奇妙にシンクロし始めたわけです。
その上であくまで九人の女の子の終わりを描くことに注力した結果、製作者の苦悩を妄想せざるをえない映像でありながら、しっかりとμ'sと高坂穂乃果の、個人的な物語になっていました。

そして、悩みに悩んだ穂乃果はひとつの結論に達する。
『μ'sの物語を終わらせた上で、終わらせてはいけないラブライブ!をどう続けるべきなのか』という難問に、彼女は自分なりの、そして多分最高の答えを出して、この映画は終わる。
それはμ'sと高坂穂乃果の物語の終わりであると同時に、巨大化したラブライブ!が迎えるべき一つの終わりであり、一つの希望への始まりでもある。
悩んだ時間がそうであったように、穂乃果が出した答えは作中世界だけではなく、これからのラブライブ!全体を前に進めるような、彼女個人の物語でありながらそれを超えた、とても大きな答えでした。

μ'sは何をしてきて、何処にいて、何を残して終わるのか。
自分たちが生み出した『スクールアイドル』という存在はなんだったのか。
『学生=スクール』と『社会的存在=アイドル』との間にあるギャップをどう埋め、どう終わらせ、どう始めるのか。
この映画はアニメ版ラブライブ!の終わりとして、取り扱うべき問題を見据え、真正面から勝負し、真摯な答えを出した作品だったと思います。
そして個人的な感情を吐露すれば、この映画は俺の映画で、高坂穂乃果の映画で、μ'sの映画で、作った人の映画で、みんなの映画だと、この映画を見終えて僕は感じたのです。
そういう気持ちになれる映画でした。

 


2) NYパート
では、具体的に映像に向かい、μ'sと高坂穂乃果がどのように問いにたどり着き、答えを導いていったかを見て行きたいと思います。

まずは序盤、NYパートからです。
今回の映画は、音ノ木坂学院から飛び出し、μ'sの世界が拡大する話です。
序盤で海外に渡り、具体的に世界を広げる展開があるのは、後半浮き彫りになる問題の準備として、大事な効果を持っています。
無論それだけではなく、μ'sの卒業旅行に密着して、彼女たちが元気にはしゃぐ姿を楽しんだり、いつもと違う素敵な場所で輝く彼女たちの姿を見せてくれたりもします。
ファンサービスとテーマを展開するための事前準備が、NYパートの主要な機能だと言えるでしょう。


2-1) ファンサービス
序章であるNYパートは後半への布石というべきシーケンスであり、同時にすさまじい密度のファンサービスが画面をうめつくすパートでもあります。
劇場版に相応しい細やかな表情付け、背景で常時なにかやってる情報量の多さを生かし、可愛いμ'sの可愛い仕草をあらゆるシーンで見せつける手際の良さは、μ'sのことがとても好きな人たちへの、強烈なメッセージになっています。
μ'sファンである僕は可愛らしい彼女たちがとても好きで、μ'sがキラキラと輝いている姿をタップリ見ると、とても幸せな気持ちになります。
リッチな作画と映画らしい可動的なライティングで、彼女たちの新しい魅力を引き出してくれたことは、お話が完遂されることと同じくらい、僕を嬉しい気持ちにしてくれました。

要所要所で挟まれる自己言及・自己引用のラッシュも、μ'sの物語を過剰に摂取したコアなファンの気持ちを盛り上げ、楽しい気分にさせる重要な要素です。
ファンと創作物の間でいくども反復され、消費された結果、一つの文脈となった種々の台詞・仕草・お約束を、大量に埋め込むこと。
ちゃんと『にっこにっこにー』も『ダレカタスケテー』も『ホノカチャン!』もやってくれるということ。
これは、視聴者が持つ『僕達の好きなμ'sを、幾度も見せて欲しい!』という欲望に、しっかりと答える行為だと思います。
そこを、おそらくμ's最後の物語であるこの映画は、けっして怠けていない。
これらのサービスは後半でも手を抜かず適度に挟まれるのですが、物語がまだ本格的に始動しない序盤に、大量に埋め込まれています。


アニメ版のラブライブ!は基本的に高坂穂乃果の物語であり、お話が前進するためのポイントは穂乃果が発見し、決断し、前進していく構造が貫かれていました。
NYから帰国して後、この映画はその基本パターンを取り戻すのですが、逆にNYにいる間は、お話の牽引役は穂乃果以外のキャラクターが担います。
後半フォーカスが穂乃果に当てられる分、NYパートで他のキャラクターを目立たせ、軸を分散させようという意図を感じます。
具体的には凛ちゃんがNYと秋葉原の類似点(これは秋葉原をテーマにした一期九話、ならびに二期十話との類似点でもあります)を指摘したり、NYパート最大の見せ場である『Angelic Angel』のセンターを絵里が担当したり、というところでしょうか。

凛ちゃんは一年三人がフレッド・アステア風にNYを踊り抜ける新曲『Hello,星を数えて』でもセンターを担当し、獅子奮迅の大活躍でした。
三回披露される学年別の新曲は、ラブライブ!のステージアクティングの特徴である2D-3Dのシームレスな融合をあえて外し、フル2D作画で美麗に描かれていました。
TV版では中々実現しなかった、カロリーの高いシーンが惜しげも無く見れるのも、映画版ならではの喜びといえるでしょう。

交差点に据えられた夜のステージと、真昼の公園がフラッシュバックを繰り返す『Angelic Angel』は、残像を残す扇子が印象的な、どこか幻想的なステージングでした。
真昼の公園に関しては、彼女たちのホームである音ノ木坂学園との重ね合わせも狙っているのではないでしょうか。
Webメディアを通じて幾度も繰り返される『Angelic Angel』は、μ'sが社会的存在に拡大する足場であり、同時に現実感の薄い成功の証明でもあります。
現れては消える扇子の幻影と、夜と昼とを行ったり来たりする舞台の演出は、ただ絵里が圧倒的センター適性を示して素晴らしいとか、スクールアイドルとして全盛期にあるμ'sの表現力が切り取られているだけではなく、のちの劇作に効く布石になっていたと思います。

 

2-2)今後の展開を準備する場所としてのNY
NYパートは可愛いμ'sを見せる舞台というだけではなく、後半μ'sの物語を展開されるための土台でもあります。
NYパートの狙いの一つは、『Angelic Angel』を成功させることで、帰国後のμ'sフィーバーに説得力を持たせることです。
μ'sが全国的に注目され、『音ノ木坂学院のスクールアイドル』という枠の外に飛び出していかざるをえない状況こそが、後半の物語には必要です。
NYでのライブは、それを生み出すための布石となります。

それはつまり、μ'sが社会的な存在になるための条件です。
一期では廃校阻止を目標に掲げ、それが叶った後の二期ではA-RISEの打倒とラブライブ!決勝の成功を目指して進んできたμ'sは、あくまで『スクール』アイドルという枠組みの中で活動してきました。
『学校』という場所で生きていけば避ける事の出来ない『卒業』を重視すればこそ、『三年生の卒業と同時にμ'sをお終いにする』という答えが導かれる。
『μ'sは『アイドル』的な存在というよりも、『スクール』的な存在である』というテーマは、例えば帰国後にこが口にした終わりへのこだわりだとか、三年生の総意として語られる絵里からのメールでも繰り返されます。

音ノ木坂学院というホームを拠点に、その外側に出るにしてもあくまで足場は『スクール』に置いてきたμ'sはしかし、NYライブの成功を受け、学園の外に大量のファンを獲得することになります。
それは非常に重い責任であり、穂乃果がホテルに帰還する時長く伸びた影の十字架は、彼女たちが将来的に背負うもの、映画の中で解決しなけえばいけないものを暗示しています。
『スクール』の外側にいるファンたち、NYライブを受け取ったファンたちが求めるのは、『スクールアイドル』から『スクール』を切り離した『アイドル』です。
そこに学校の制度としての『卒業』はなく、つまり『三年生の卒業と同時にμ'sをお終いにする』という結論もまた、共有の難しい答えになっています。

そしてサングラスなしでは外も歩けないほどの『アイドル』になったμ'sは、『頂点である自分たちが去ればスクールアイドル自体が倒れてしまう』という、大きな社会的責任を背負います。
廃校阻止の時は『私達ができることをしよう!』という欲求から行われていたアイドル活動が、μ'sの世界が広がった帰国後は『私達がやめてしまえば、みんなに迷惑がかかる』という義務に変わってしまう。
NYでのライブは、欲求から義務へ、個的集団してのμ'sから公的集団としてのμ'sへの変化を呼びこむために、完全に終わっているように思えたμ'sの物語に新たな視点を付け加え、物語を前進させる欠落を自覚させるために、非常に重要なイベントなのです。


(ここに、もはや現象と言っていいほどの熱量と物量を、おそらく狙わずして手に入れてしまった制作スタッフの当惑を重ねあわせるのは、必ずしも無理のある読みではないと僕は思います。
『部活動としてのアイドル』という奇抜な発想を、世界観の背骨として埋め込んだラブライブ!は、作品の仕上がりと数多の幸運の結果、非常に大きなコンテンツになりました。
卒業という期限が区切られ、学校という場所が限定され、あくまで個人の心のなかで問題が解決すれば世界が改善されていくようなルールを持った、『学園モノ』としてのラブライブ!
それはTV版26話を経て的確に終わっているのに、巨大化したラブライブ!の総体は急停止を許してくれない。
そこには、終わるべき物語と終わらない物語の相克があり、これを解決しない限り、μ'sの物語は本当に終わることが出来ない状況がある、という製作者の認識を、僕は勝手に読み取ります。

そして、ラブライブ!が加速し巨大化した大きな(唯一ではない)理由は、『学校』を舞台として瑞々しく魅力的に描かれた、アニメ版ラブライブ! に他ならないわけです。
『μ'sがコケれば、ラブライブ!がコケる』という作中の状況は、『ラブライブという現象を強烈に引っ張ったアニメ・ラブライブが終われば、ラブライブという総体が停止してしまう』という危惧を反映しているように、僕には感じられました。
いかにして、『スクール』を舞台にしたμ'sの終わりを、『アイドル』としてのμ'sの終わり、そしてラブライブのはじまりに変えていくのか。
NYライブが生み出したμ'sフィーバーと、その結果広がった世界、μ'sが背負う責任はμ'sの物語であると同時に、μ'sの物語を創りだした人々の物語でもあると、僕は感じてしまったのです。)

 

2-3) 女性アーティストとの邂逅
NYパートの役割はもう一つあって、高山みなみさんが演じる女性アーティストと穂乃果を邂逅させることです。
帰国後穂乃果は、名前の無い彼女が予言した『自分が何をしたいのか』『なにを楽しいと感じるのか』という問題に悩み続け、それに答えを出すことで物語が進んでいきます。
後半穂乃果を答えに導くメンターである彼女と穂乃果を接触させ、この後ほのかが思い悩むことになる問題への地ならしをしておくことは、とても大事です。

初対面であるはずの穂乃果が抱えている問題、そしてこれから悩むことになる問題をあまりに的確に見抜く彼女が、一体何者なのか。
象徴的に描写される紫色のマイクが、彼女と穂乃果の間でバトンされていること。
髪の毛や瞳の色。
高山さんが無理して(失礼!)穂乃果に寄せた演技をしていることなどから、未来の穂乃果が過去の自分を手助けしに来た、という読みが可能でしょう。
歌っている曲も『As Time Goes By』ですしね。

群衆の前には姿を見せても、自分を特定できるμ'sや穂乃果の家族の前に姿を見せないこと。
最終的に穂乃果が答えに辿りついたシーンの幻想性などを見ると、穂乃果の中の良心や正当性が他者の形をとった存在、一種のイマジナリーフレンドという見方もできるでしょう。
無論、そうした不可思議な要素を一切持たない、共感性の高い只人だという見方も可能です。

しかし彼女が何者であるかという疑問は、ほのめかされることはあっても明確な答えは出ない謎であり、それを特定することでなにか重要な結論にたどり着く問いでもないと思います。
重要なのは、彼女がとても穂乃果に親しい存在であり、同時に悩める穂乃果より一歩先に答えに辿り着いた、似ているけど違う『他者』であるということです。
悩める青春期の少女を導くのに、これほど適任の存在もいないでしょう。

彼女が穂乃果の未来、もしくは超自我に類するものだとすれば、彼女の導きは一種の自問自答ということになります。
しかし別の顔、別の声、別の経験を持ったキャラクターとして、穂乃果が選ぶべき道を切り離すことで、一種の健全性がNY以降の懊悩に約束されている印象を、僕は受けるのです。
自分一人で悩んだ結果、一期終盤でことりと穂乃果はすれ違い、μ'sの青春は崩壊の危機を迎えます。
学習し成長する青年として、穂乃果は同じ落とし穴にハマるわけにはいかない。
過去の過ちを繰り返さないためにも、穂乃果には自問自答だけではなく、あくまで他者との対話が必要になります。
そのためには、穂乃果自身よりも穂乃果が抱えている問題と、その解決法についてよく知っている女性が必要であり、NYにおいて彼女と不思議な邂逅を果たしておくことは、非常に重要なのです。

 


3) 帰国後
NYライブを成功裏に終え、μ'sは無事帰国します。
ここから先はTVシリーズのほとんどがそうであったように、穂乃果が悩み、考え、決断し行動することで、お話が前進していきます。
結論に辿り着く前に、穂乃果がたどった回り道について書いていきましょう。


3-1)悩める穂乃果
NYライブが終わった直後、穂乃果は機内で目を覚まし、夢から醒めます。
直後の空港でのシーンが示すように、一夜にして全国区の人気を得、『アイドル的存在』になってしまったμ'sは、サインを受ける彼女たち自身が言葉にしているように、どこからどこまでが夢なのかわからない、現実感の薄い存在です。
何度も強調されるモニター越しの『Angelic Angel』にしても、TVの中の『アイドル』と矢澤家で寛ぐ『学生』を対比させた『?←HEARTBEAT』にしても、μ'sの目に映るμ'sはあくまで、メディアを通して間接的に認識されるものであり、そこに実感は薄い。
メディアという鏡の中に映るμ'sは、音ノ木坂学院で青春を駆け抜けた自分たちとは、全く違う存在のように感じられるのです。

結局穂乃果(が代表を務めるμ's)は学生であり、自分の延長線上にある音ノ木坂や家族、学友、そして部活動の全国大会としてのラブライブといった近しい存在に痛みを感じることは出来ても、スクールアイドル全体の浮沈やドーム大会の成功といった、巨大で遠い問題を実感することは出来ません。
目の前の問題と自分の気持のみに全力で立ち向かっていった結果、μ'sの物語が輝いている側面もあるので、これは善し悪しではなく傾向の問題だと思います。

重要なのは、どうやって彼女たちが解決可能な距離まで問題を引き寄せるかであり、そもそも問題とは何なのかを見定めることです。
どうすればTV版で扱った『音ノ木坂廃校阻止』『ラブライブ優勝』のような、血が通って身近な目標として、『スクールアイドル全体の浮沈』を感じることが出来るようになるのか。
映画の中盤穂乃果が悩むのは、そういう問題になります。


急速に拡大し社会化したμ'sに対し、当人たちはかなりあっさりと方針を決めます。
ラストライブをしっかりやって対外的責任を果たした上で、あくまで『スクール』的存在としてμ'sは終わること。
TV版で出した結論の再確認であり、穂乃果以外の八人はこの結論からブレることはありません。
穂乃果一人に焦点を当てるべくまとめつつ、μ'sで一番『アイドル』に拘っていた矢澤に強い口調で『終わる』と断言する役を振っているのは、キャラの背負っているものを忘れない、良い配役でした。

この映画で穂乃果が特別なのは、八人が行儀よく手放した社会的責任を真剣に受け取り、μ'sの願いとみんなの願いを、どうにかして両立させようと奮闘するからです。
μ'sがどうなるべきかという結論はTV版で出しきっており、映画内において九人がこの結論自体を動揺させることは、一度もありません。
お話のこの段階でμ's内部の意見ががまとまるということは、逆に言えばμ's内部でμ'sがどう終わるかは映画全体のテーマではない、ということでもあります。
この映画でほのかが悩み、答えを見つけるべきテーマは、もっと別の角度と広さを持っている。

μ'sが自分たちの結論を確認したところで、学園長が代表するμ'sの外側は、『社会的責任を果たせ、ラブライブを終わらせるな』と迫ってきます。
絵里がいつもの様に賢くまとめていますが、μ'sが拘る『スクール』的存在としてのμ'sを、μ's以外はそれほど重要視していないからです。
『そんな風に自分たちをわかってくれない世界なんて、どーでもいい!』とならないのが穂乃果らしさでして、それはこのお話のはじまり、音ノ木坂学院廃校のためにμ'sを作るという決意と共通した、強い責任感です。

巨大化したμ'sに実感がわかない中、しかしその影響と責任は強く感じていて、かつ自分たちが辿りついたμ'sの終わりは完遂したい。
穂乃果が直面する矛盾はかなり大きく複雑で、解決の難しい問題です。
NY編に比べて八人が後ろに下がりっているのは、この問題の大きさを視聴者に実感させるためであり、同時に解決のための時間を穂乃果に注力するためでもあります。

 

3-2)他者との対話
煮詰まった状況を打破するべく、今回の映画ではμ's以外のキャラクターが穂乃果の助けになっていきます。
μ'sの後継者としての雪穂と亜里沙、『アイドル』になることを選んだA-RISE、そして再会なった女性アーティスト。
彼女らの助けを受け、穂乃果はこの映画がたどり着くべき答えに、一歩づつ近づいていきます。


3-2-1) 妹達
アシストの一番手として出てくるのは雪穂と亜里沙であり、彼女たちは無邪気な質問者としての役目を果たします。
彼女たちはμ'sが解散することをまだ知らず、ただただ憧れの視線でμ'sを見上げ続けています。
穂乃果の一番近くにいる、一番熱烈なファンとも言うべき立場であり、帰国してから穂乃果が表明していた当惑を和らげるキャラクターだとも言えます。
メディア越しに自分たちを追いかけ、祭り上げ、意にそぐわない事を強要してくるファンとはまた違った、対話可能で、期待に応えたいと思わせ、しかし重荷を一緒に背負ってはくれないファン。
妹達と対話することで、穂乃果はμ'sを求めるファンの気持ちが、必ずしも一方通行ではないこと、自分たちもまたファンを喜ばせたいと思っていることを思い出していくわけです。
そのうえで、まだ問題は解決、というか表面化すら済ましていないので、μ'sの解散を『一番身近な他者』である妹達に告げることは出来ません。
自分に期待の目を向けてくれる存在、μ'sが永遠につづくことを信じている無邪気なファンたちとの適切な距離が確認できた時が、μ's解散という事実を告げるタイミングになります。

彼女たちは「私達、今すごく楽しいんだ!」「穂乃果さん……楽しくないの?」という言葉を使って、穂乃果の内面的矛盾を拾い上げます。
『楽しい』彼女たちと『楽しくない』穂乃果という対比で浮き彫りになっているのは、義務と欲求の矛盾です。
一期を思い返すと、『音ノ木坂を守りたい』という義務感は、『スクールアイドルをしたい』という欲求と見事に重なっていました。
廃校問題が解決してしばし迷走した後は、三年の卒業を前にして『この九人でスクールアイドルのてっぺんを取る』という欲求で走り始め、『応援してくれる人たちの期待に応えたい』という義務感(=欲求)を途中で発見する。
どちらにしても、その二つを結びつけていたのは『スクールアイドルが楽しい』という感覚であり、心の底から楽しむからこそ対外的な結果が付いてきて、誰かの期待に答えているという感覚が喜びに繋がりもする。
高坂穂乃果というキャラクターにとって、義務と欲求のバランスが取れていることは、彼女の資質を最大限発揮する前提条件になります。

翻って現在の穂乃果を取り巻く状況は、何もかもがバラバラです。
卒業にともなってμ'sを終わりにするという内部的な結論と、ラブライブのために存続を望む外部的な願い。
全国的な人気を手に入れてしまったメディア上のμ'sと、あくまで九人の友達として繋がっている穂乃果の中のμ's。
何とかしたいという願いと、何をしたらいいのかわからない気持ち。

全てが矛盾に引き裂かれていて、それを繋ぐことの出来る『楽しさ』はまだ、穂乃果の手元にはない。
何も手に入れていない『楽しそうな』妹たちが無邪気に指摘しているのは、矛盾を止揚するために絶対必要な『楽しさ』を穂乃果が失っているという現状であり、どうにかして『楽しい』ことに辿り着ければ全てが解決するという可能性でもあるのです。


3-2-2) A-IRSE
後輩である妹達が現在の問題点を指摘する一方、先輩であるA-RISEが教えるのは、μ'sが選ばなかった未来の形、もう一つの選択肢の価値になります。
μ'sは『スクールアイドル』から『アイドル』を引いた『スクール』を重視し、卒業と時を同じくして解散することを選びました。
A-RISEは反対に、『スクールアイドル』から『スクール』を引いた『アイドル』として存続することを選びます。
名刺が用意され、外部スタッフに支えられ、経済活動もおそらく関係する、部活動ではないアイドルに、A-RISEはこれからなっていく。
デザインからして二年生三人のシャドウとして設計されているA-RISEは、映画版でも綺麗にμ'sの反対側に立つわけです。

ここでのA-RISEはμ'sの選択にカウンターを当て、問題に強い光を当てる仕事をしています。
μ'sとは正反対の道を選んだA-RISEと対話することで、μ'sが突破しなければいけない問題はなんなのか、より鮮明に見えてくるわけです。
同時に、μ'sが選んだ『終わる』という選択の価値を絶対化しないことで、彼女たちが選んだ道を健全化し、逆に価値を高める効果を発揮してもいます。
『終わる』ことを選んだμ'sに価値が有るように、『続く』ことを選んだA-RISEにしっかり出番を割り振り、正反対の立場と価値観を画面に写すことで、彼女たちが青春を費やしたラブライブ(そして多分、ラブライブ!というシリーズそのもの)が様々な選択に価値を付与できる、豊かな場所だと判るのです。
妹達がファンイメージの悪印象を和らげたように、A-RISEは『終わらない』ことの価値を具体化し、穂乃果に教えています。
それは必ずしも他者に押し付けられるものではなく、自発的な選択の結果選び取られるものであり、μ'sが選んだ『終わること』と同じ尊さを持っているわけです。


また、A-RISEの毅然とした態度は、上手く物語の公平性を生み出しています。
この映画の後半は、穂乃果というカリスマ性のある主人公が事態解決のために悩み、持ち前の行動力で一気に解答を引き寄せてくる展開です。
ここでA-RISEがμ'sとは別の回答を出すことで、ともすれば穂乃果にとっての都合の良さが目立ちかねない展開に幅をもたせ、自然さを生んでいるように思えます。

自身のシャドウであるツバサと対話することで、穂乃果は『続ける』という立場と答えがあるというだけではなく、自分たちが選んだ『終わる』という答えと向き合い、より強く悩んでいきます。
何が問題点なのかハッキリさせるための鏡という仕事は、妹達と似通ったものです。
しかしここで穂乃果は、妹達には言えなかった心中を素直に吐露し、自分の置かれた立場と気持ちを整理していく。
妹達にとってμ'sは憧れであり、見上げる対象なのに対し、A-RISEはかつて穂乃果がUTXで見上げ、μ'sを結成する契機となった、憧れの対象です。
そして、A-RISEを見上げて走りだした穂乃果は予選でA-RISEに追い付き、そのままスクールアイドルの頂点まで走り抜けていった。
この差がそのまま、妹達には悩みを打ち明けられなかった穂乃果が、A-RISEに弱みを見せる理由になります。
あくまで『スクール』的な存在である穂乃果は、ファンとアイドルという距離感を巧く扱うことが出来ず、学友のように親しい距離に調整することで初めて、重荷を一緒に背負ってもらえる人物なのでしょう。

『自分に憧れている対象に、弱さを見せられない』という穂乃果の気持ちは、彼女が持っているアイドルのプライドと背中合わせです。
そのプライドを下ろし、『NO1スクールアイドル』という立場からいかにして降りるか(もしくは、他のスクールアイドルをA-RISEと同じ場所に引っ張り上げるか)という運動が、帰国してからこの映画を貫く一つの軸だとも言えます。
『μ's解散』というずっと言えなかった弱みを妹達(と他のスクールアイドル、ファン、世界全て)に公開するのは、憧れる/憧れられるという上下の格差をいったん平らにし、みんなで一緒にライブの準備を終えたときです。
それはまだ未来のお話であり、今の穂乃果と肩を並べ、悩みを共有できるのはA-RISEだけなのです。


3-2-3) 女性アーティスト
A-RISEとの対話を通し、自分の悩みと直面した穂乃果ですが、既にμ'sとは別の答えを出してしまっているA-RISEは、問題を表面化させる役にはたっても、問題を解決する手助けはしてくれません。
『スクール』的な問題を優先すると決めたμ'sの行く末は、穂乃果自身が決めなければいけません。
他人の出した答えを追認する解決では、物事を解決していく原動力である『楽しさ』もないですしね。

そんな状況で現れるのが、NYで颯爽と登場した女性アーティストです。
彼女が持つ物語的役割は穂乃果自身であり、今回の対話でもまた、穂乃果しか知り得ないことを知り、穂乃果が気づいていないことを指摘し、決断を導いていきます。
彼女は別の年齢、別の顔、別の声を持っている外部的存在であると同時に、穂乃果の延長線上にいる内面的存在でもあるわけです。

なので、彼女との対話が現実と夢想の間を行き来し、内部と外部の境界が分かりにくい状態で展開するのも、ある意味必然と言えます。
彼女との対話はA-RISEと行ったような他者での対話であると同時に、自分しか知り得ない内面を共有する、もうひとりの自己との対話でもある。
広大な花畑と水たまりを跳躍するシーンがファンタジックなのも、彼女との対話が持つ二面性を強調しています。

彼女があくまで外面化された『他人』であることも強調はされていて、NYから何度も行き来していたマイクは、決断から目覚めた後穂乃果の部屋にちゃんと存在しています。
たとえ彼女との出会いや対話が夢のようであっても、それが導いた決断自体は本当のことであり、これから起こる全ての素敵なことはその出会いからはじまったのだと、あのマイクは象徴しているように思えます。
その上で彼女は二度とフィルムには出てこないわけで、夢と現実、内部と外部の合わせ鏡の間を、幾度も行ったり来たりする不思議な存在だと言えます。


自分とよく似た誰かと対話する中で再確認するのは、彼女がNYで口にしていた『何が好きで、どうありたくて、どうなりたいか』という願いです。
ここで重視されているのは、あくまで自分の気持であり、外部の事情は後回しです。
適切な決断と自発性があれば世界は望むままに変化していくという意味では、ラブライブ!は心象優先的な世界なのでしょう。
μ'sが『スクール』アイドルという若い(幼い?)存在であることを考えると、常に心が優位に立つ力関係はむしろ自然ですし、TV版もまたそのルールに従って展開してきました。

自発性が最重要視されるのはおそらく、このアニメで最も大事なルールが『楽しい』ということだからでしょう。
自分が心の底から『楽しんだ』結果生まれた行動は、奇跡を引き寄せ世界を変えていくというのは、このアニメを貫く根本的なルールです。
穂乃果が悩んでいた矛盾を解消するためには、まず穂乃果自身が楽しまなければいけなかったということに、穂乃果は女性アーティストと対話する中で気付いたのです。


無論、あの跳躍はただ『楽しさ』の重要性を再発見しただけではありません。
その上で、ただ楽しいだけで終わらず、それを他人に働きかけ具体的な結果を出すことが良いことだというのも、ラブライブ!の重要なルールです。
出発点はあくまで個人の心ですが、気持ちは閉じこもることなく、行動を伴って世界に向かって跳躍しなければいけないというのは、今回の映画だけではなく、TVシリーズで放送されたμ'sのメンバー個別のエピソード全てに共通するルールでした。

帰国してからの穂乃果は、ずっと矛盾と乖離に悩んでいました。
セルフイメージとパブリックイメージ、終わりと継続、気持ちと現実。
山ほどある背理をまとめあげ、全てが収まるべき所に収まるためには、つまり物語が終わるためには、世界からの要求にしたがって望まないアイドルを継続しても、μ'sが終わるためのステージをもう一度やっても、十分ではありません。
帰国してから丁寧に穂乃果の悩みを追いかけ、問題点を表面化してきたからこそ、それを解決する具体的な方法には、大きなアイデア的飛躍が必要になる。

この後穂乃果が思いつく、物語を終わらせる秘策。
それはこれまでの映像の中で発掘してきた矛盾全てを統一できる、まさに逆転の一手です。
あの幻想的な空間での跳躍はただ『楽しさ』という原動力を再発見しただけでなく、『スクールアイドル全員による、秋葉原路上ライブ』という具体的解決策に辿り着いた、アイデア的飛躍でもあるわけです。
それは妹達もA-RISEもμ'sの残り八人も思いつかなかった、まさに主人公だけがたどり着ける境地なのであり、『楽しさ』の再発見という心的エネルギーの発露と合わせて、飛躍というモチーフにまとめたあのシーンは、とても良いシーンだと思います。

思い返せば一期第一話、『廃校を阻止したい』という思いを抱え、しかし具体的方策を思いつかなかった穂乃果が、UTXのヴィジョンでA-RISEを見上げることで『スクールアイドル』という答えに辿り着いたところから、このアニメは始まりました。
今回の跳躍は物語の始まりの再演であると同時に、あの時は(それこそ妹達がμ'sにしているように)見上げるだけだったA-RISEと肩を並べる所まで来た、物語の到達点の高さを示しています。
見ている側の感情の盛り上がりとしても、映画全体の起伏としても、μ'sの旅路全体としても、あの美しい世界での跳躍が物語の最高点であるのは間違いなく、そういうシーンがちゃんとあるのは、映像作品として強靭な表現でしょう。

 

3-2-4) 三年生
メンターとして穂乃果の迷いを払っていく存在として、決断を後押しする三年生たちを忘れてはいけません。
μ'sの意志は統一されており、常に一つの方向を向いているというのは、映画の冒頭からずっと繰り返されているわけですが、絵里からのメールはあくまで『三年生で話し合った結果』を伝えています。
その内容はあくまで『スクール』アイドルであることにこだわり、卒業と同時に解散するという既定路線の確認です。
問題点の表面化や別の立場からの答えを与えてきた他の助言者に比べ、既に確定している穂乃果の意思を後押ししているのが、μ'sの仲間らしいアシストです。

ここでメールを送ってきたのがμ's全員ではなく、絵里を代表とする三年生であるのは、『μ'sはここでおしまいにする』という結論を決めた、二期十一話の描写を深める意味合いを感じます。
『三年が卒業した後μ'sはどうなっていくのか』というのがあの話の主題なわけですが、今回のメールと同じように絵里を代表とする三年生は、残される二年・一年に決断を任せていました。
結果として『μ'sはここでおしまいにする』という後輩の結論を自分たちのものとして受け入れるわけですが、そこに三年生の自発的な意思は薄い。

穂乃果が回り道を走り切り決断に至ろうとするこのタイミングで、卒業の当事者である三年生からメールが届くのは、勿論『μ'sはここでおしまいにする』という結論は何度でも確認するべき重大なものであり、そのゴールを全員が共有していることを再度示す意味があるでしょう。
しかし同時に、絵里たちがあくまで『スクール』アイドルであることに拘り、卒業とμ's解散を同期させておしまいに辿りつくことに意味を感じていることも、あのメールの意味としてあると思います。
μ'sのこれまでの活動と同じくその終わりも、『6+3』ではなく『9』が出した決断だというちょっとした補足が、あのメールにはあるのではないでしょうか。

勿論『μ'sはここでおしまいにする』という決断に持って行くまでの二期十一話の運び方は見事なものなので、三年生がしょうがなく後輩の決断を尊重したという感じは受けず、心の底からその結論に辿り着いたのだと判るわけですが。
基本的には絵里に代表させてμ'sの結論を再確認し、穂乃果の決断が独り善がりなものではなくμ's全員の意志であることを見せつつ、少しおまけを貰った、位のニュアンスだと思います。

 


4)   秋葉原ライブと穂乃果の決断
こうして問題は表面化し、悩み、迷い、助けられて、穂乃果は決断します。
内面的な跳躍は即座に世界に飛び出して行き、物語は『スクールアイドル全員参加の秋葉原ライブ』という具体的なイベントを準備し、実行するフェイズへと移ります。
NYでの準備と帰国後の煩悶を溜め込んだこのパートは、青春の季節への真っ直ぐな視線とひたむきさに満ち溢れていて、映画の、そしてアニメ版ラブライブのクライマックスに相応しい詩情と活力に溢れています。


4-1)  事前準備
悩みを抜けだして結論を手に入れた穂乃果は、いつもの様に、自分の思いつきを仲間と共有します。
部室で自分のアイデアを語る穂乃果は短く的確に物語のテーマをまとめあげていて、いかにも主人公らしい。
一応バカとされるキャラだとは思えませんが、TV版でも彼女は物事の本質に辿りつく時はいつだって天才的だったので、むしろ懐かしいというか、有り難い。
『ここを抑えれば間違えない』というポイントを素早く直感し、他者と共有する穂乃果の姿勢は、青春を走り抜けていく物語としてのラブライブを加速させ、安定させていました。
そんな頼れる主人公・穂乃果の姿を見ることで、悩む時間が終わり、クライマックスがはじまったという印象を受けるわけです。

穂乃果が出した『スクールアイドル全員参加の秋葉原ライブ』という答えは、暫定的にμ'sが出していた『ケジメを付けるためのラストライブ』とは、質的も量的にも異なった答えです。
ラストライブが決着させるのはあくまでμ's単体ですが、穂乃果の案は名前もないようなスクールアイドルたちを巻き込むことで、問題をスクールアイドルとラブライブに拡大していきます。
これにより、内部としてのμ'sと外部としてのスクールアイドルの敷居がなくなり、スクールアイドルとμ'sが一体化するのです。

量的/質的な拡大により、秋葉原ライブはスクールアイドルの代表であるμ'sの到達点ではなく、μ'sに引っ張られる形でスクールアイドル全体の成果になります。
見方を変えると、μ's一人が背負って成功させなければいけなかったラブライブ全体の浮沈を、当事者であるスクールアイドル全体に担当させるアイデアだとも言える。
どちらにしても、このライブが成功することで、映画が始まって以来μ'sが背負ってきた『スクールアイドル全体の浮沈』は解決します。


いかに優れたアイデアでも、ただそれだけでは問題を全て解決する魔法にはなりません。
ラブライブというアニメーションが重視してきたのは何よりも『楽しさ』であり、心の底から湧き出る情熱のまま走りだす自発性です。
それが伴わなければいかに合理的でも上手く行かないし、逆に言えば多少の瑕疵があっても、気持ちの強さで全てをぶちぬいていくのが、ラブライブというアニメのルールでした。
『やりたいからやる』μ'sリーダー・穂乃果と『やらなければならないからやる』生徒会長・絵里の対比にしても、穂乃果がスクールアイドルを『やりたい』と思う理由を片っ端から奪う一期終盤の展開にしても、確認されていたのはそのルールだったと思います。

秋葉原ライブの準備を進めるメンバーはみんなノリノリで、おバカで、とても楽しそうです。
原宿でアイドル対決するシーンにしても、井の頭公園でラブライブの女神するシーンにしても、μ'sのみんなは心から楽しんでいる。
NYライブの準備が『楽しさ』に欠けていたとは言いませんが、長い煩悶を経て答えに辿り着いたアイドル集めのシーンは、別格の明るさと楽しさに満ちていてます。
その姿は楽曲で幾度も強調される『最高の今』そのままであって、凄くラブライブ的な光景だと言えます。


ライブの準備風景が楽しく見えるのは、それが非常に『スクール』的な方法で進められているのと無縁ではないでしょう。
全国からスクールアイドルを集め、秋葉原全体を舞台にした超大規模ライブを行うというプロジェクトの規模に比べ、μ'sたちが取った手段は身の丈にあったものです。
依頼方法は『直接会いに行く』というアナログ極まるものだし、宣伝手段はビラの手配りとSNS、出店もスクールアイドル自身が準備・運営し、徹底して手作り・非商業的に運営されます。

それは一種の学園祭的な空気であり、『仲間』として全国のスクールアイドルをμ'sに引き寄せるために必要な儀式です。
目と目が見える距離で歌詞を考え、衣装を造り、歌と踊りを練習し、出店を出して飾り付けを行う事以外に、μ'sは顔の見えないスクールアイドル達を『仲間』として本当の意味で認識できないのだと、僕は思います。
『スクール』的な存在としてあり続け終わることを決めたμ'sは、あくまで自分の身近な存在にしか現実感を覚えることが出来ず、帰国後のμ'sフィーバーの中で示されたように、各種メディアや『知らない人』の中にあるμ'sには距離を感じています。
非『スクール』的な出来事・人物はやはり、μ'sにとっては他人なのです。
そして、自分たちを非『スクール』的な存在に変化させるのではなく、自分たちを取り巻く全てを『スクール』的な存在に変化させることを選ぶのがμ'sのスタイルだという事も、秋葉原ライブの準備から感じ取れます。

そこには学生という立場、青春という季節だけが許される自由さと自発性があり、ただ『楽しい』だけで全てが解決してしまいそうな万能感があります。
無論『僕らは今のなかで』の歌詞にもあるように、『楽しい』だけではなく『試される』ことも、ラブライブの基本的なルールです。
しかしこの映画の『試される』期間は、帰国してから穂乃果が代表してたっぷり堪能してきたわけで、物語も佳境に差し掛かったこのタイミングは、ただただ『楽しさ』を強調しても許される時間でしょう。


この過剰に『スクール』的な時間をA-RISEが共有しているのは、個人的に興味深いところです。
帰国後の会話シーンで言っていたように、A-RISEはスクールを取っ払った『アイドル』として、卒業後も活動を続けます。
μ'sとは正反対の決断をし、正反対の道を歩いて行くA-RISEが、この瞬間だけは横並びに同じ方向を目指していくということは、とても意味があることだと僕は感じます。

一つには、μ'sに引っ張られるのではなく、μ'sと対等に歩ける唯一の他者としての存在意義。
穂乃果の提案を素直に受け止めたμ'sに対し、A-RISE(というか、穂乃果のシャドウであるツバサ)は『みんなで歌詞を出しあい、歌を作る』という上乗せを提案してきます。
相談シーンでもそうだったように、A-RISEは穂乃果にとってかつて憧れで、ようやく対等になった強大なライバルという立ち位置を崩しません。
ラブライブの象徴』になってしまったμ'sの提案を認めつつ、しっかりカウンターを当ててより良い方校に導いていける説得力は、もうA-RISEにしか担保できないという事なのかもしれません。
μ's内部からの問題提起は、幾度も描写されている『μ'sは一つ』という方針をブレさせるわけで、『いいと思うけど、ちょっとどうかな?』と釘を刺す役は、この映画ではA-RISEがずっと担当するわけです。
どちらにせよ、頼もしい仲間であり他者でもあるA-RISEが隣に立って準備が進んでいくのは、秋葉原ライブがμ's一人の問題ではなく、より拡大した意味をもっていると強調してくれています。

もう一つは、かつて『スクール』アイドルであり、この秋葉原ライブを最後に『アイドル』になってしまう少女たちの、一つの終わりの意味。
素人集団μ'sのシャドウとして、『プロっぽさ』『完成度』を強調され続けたA-RISEですが、あくまで彼女たちは『スクールアイドル』であり、μ'sが大事にしてきた手の届く範囲の暖かさを、彼女たちなりの物語として共有してきたはずです。
彼女たちの描写されなかった物語の中で、しかしμ'sと同じようにぶつかり合い分かり合い気持ちをつなげてきた片鱗というのは、例えばことりに『お互い苦労するわね』と声をかけるあんじゅからも感じ取れます。
『強大なライバル』『乗り越えるべきプロフェッショナル』『王者』という印象の強い彼女たちは、しかし同時に青春を走りきった学生、μ'sと同じ『スクール』的存在なのです。

そんな彼女たちが、一切の利害を超えてただ『楽しい』という欲求のみで、同年代の少女たちと一つの目標に向かって走って行く。
『スクールアイドル』としての経験を足場に『アイドル』に向かっていくA-RISEにとって、それはとても意味と価値のある、学生生活最後の思い出でしょう。
無論このアニメはμ'sの物語なので、A-RISEの『スクール』的な部分は妄想でしかないのですが、音ノ木坂の部室に入り込み、まるでずっと部員だったかのように打ち解けている彼女たちの姿を見ると、僕はそういう過剰な読みをしたくなるのです。


全ての準備を終えようやく、穂乃果はμ'sの解散を外部に告げる体制を整えます。
お話の中盤ではA-RISEにしか告げることの出来なかった解散をこのタイミングで口に出来るのは、秋葉原ライブの準備を通じ、μ'sに無邪気な信頼を投げかけてくる外部との、適切な距離感を確認出来たからに他なりません。
帰国後の空港では夢の中のように現実感のない存在だったファンやスクールアイドル全体は、実際に手を取り言葉をかわすことの出来る文化祭的な空気を共有することで、自分たちの終わりを告げることが出来る、信頼できる仲間に変わったのです。
ここで妹達がクローズアップにされる当り、彼女たちはずっとμ'sの一番近い場所にいながら、μ'sにはけしてならない不安定な存在だったのだと思い知らされます。

話す内容も二期11話のような激情の吐露ではなく、スクールアイドル代表として祭りの先頭に立つ今のμ'sを素直に受け入れ、自分たちの考えを冷静に、しかし熱意を持って言葉にしたものです。
帰国してから続いた煩悶の時間は、今のμ'sが抱える矛盾全てについて深く考え続ける時間でした。
アクターを穂乃果1人に絞りこみ、μ'sの解散がμ'sにとって、そしてスクールアイドル全体にとって考える時間を長く取ったからこそ、ここでの穂乃果の言葉には説得力と強さがある。


μ's解散宣言において、真ん中に立って喋るのはあくまで穂乃果ですが、その周囲は二年生が固めています。
これは一期第3話、μ'sが迎えた初めての本番である講堂ライブと同じ構成です。
希いわく『完敗からのスタート』だったガラガラの講堂は、μ'sの到達点を計る鏡として、何度もリフレインされてきました。
一期最終話、波乱を経て再起を決意したμ'sの舞台も講堂であり、第3話で立てた誓いを果たす形で満員になっていました。
二期第12話、TV放送段階でのμ'sラストライブの後も、講堂とは比較にならないほど巨大な会場をうめつくすアンコールを聞きながら、穂乃果は第3話の決意を思い出していました。
その時もまた、隣に立っていたのはことりと海未です。
視聴者にとってそうであるように、穂乃果にとっても一期第3話は何度も繰り返し思い出す、μ'sの原点なのです。

この映画が三つのパートを使って追いかけてきたのは、μ'sの終わりにまつわる物語でした。
それをμ'sでもA-RISEでもなく、これからのラブライブを担っていくアイドルたち、帰国時は当惑させられた他者たちに告げるこのシーンは、映画が積み上げてきた意味全てが結実する、まさにクライマックスです。
映画の外側、26話あるTV版の物語の中で出したμ'sの内部の結論を、映画の内側で発見されたμ'sの外部とどう共有するのか。
そういうシーンがμ'sの終わりがμ'sの始まりと繋がっていることは、映画全体、μ'sの物語全体をとても豊かにする、良いリフレインだなと思います。

 

4-2)秋葉原ライブ、もしくは『SUNNY DAY SONG』
NYから帰国する機内、煩悶を過ぎて跳躍に至る夢の中と、これまで二回穂乃果は眠り、目覚める描写がありました。
これまでの描写では眠っている最中(≒信じられないような夢の中にいる)穂乃果がカメラに写っていましたが、実際に行動を終え、μ'sが抱える数多の矛盾を解消し、μ'sの終わりをすべての人に伝えた穂乃果は、スッキリと目覚めます。
約90分の時間を使って、ようやく穂乃果は夢のように手応えのない世界を抜け出し、夢を現実のものとして掴むことが出来たわけです。


と言いたいところなんですが、ライブに向かうために全員で集合した後、地面に落ちた花びらを捕まえようと1人遅れる穂乃果を写すシーンがあります。
あのシーンは非常にふわふわした、孤独で夢の続きを見ているような印象を受けます。
一切の台詞がないあのシーンが、どういう意味を持っているのか。
視聴者一人ひとりに答えがあると思いますが、自分としては『魔法が解けた』意味合いが強いのかな、と思っています。
一切の歌唱なく、ただ1人で踊る穂乃果の姿は、作品世界がずっと彼女にかけ続けていた魔法、やりたいと強く願えば必ず叶うような心因主義的リアリズムの魔法から離れた、奇妙なシーンです。

一期一話冒頭(とラスト)、穂乃果は突然歌い出し、世界は花に満ちて車が走り出します。
それはキャラクターの心情が世界と演出を書き換えてしまうミュージカル的な演出なわけですが、それは単なる演出の枠を超えて、素人の高校生が思い悩み、決意を込めて走りだせばプロのPVのような映像が広がるという、世界のルールを示してもいます。
いかにも都合よく人がいない道路も、ぎりぎり鼻先を掠めていく車も、それは現実に起きているわけではなく、穂乃果の願望に引き寄せられて世界が変化していくこれからの日々の暗示でしょう。
このルールは映画の中でも徹底していて、三回挿入される学園合同の歌はすべてミュージカル的(もしくはPV的)な、歌とそこに込められた心情によって現実が変容する演出がされています。
逆に言えば、演出という魔法を剥ぎとってみれば、『やるったらやる!』と決意を込めて踊りだした一期一話の穂乃果は、このシーンのように孤独で寂しく、綺麗で不思議なものだった、ということかもしれません。

翻って、穂乃果が花びらを掴んでからの踊りはあくまで穂乃果の身一つであり、心の在り方によって世界を変えてきたラブライブのルールとは、大きく異る現象です。
それが示しているのは、これから待っているのがラブライブ!という物語の終わり、μ'sの終わりだという残酷な事実ではないのか。
適切な方法で強く願えば必ず叶うという、作品全体を支配してきたスクールアイドルの魔法でも、μ'sの終わりは変えられないという現実が、いくら踊っても賑やかな仲間もやってこない、寂しい踊りには秘められていると、僕は思います。
そして、そういう欲望が穂乃香にあったほうが、彼女にとって善いなとも。

それでも穂乃果が踊るのは、全てを解決してくれるような魔法を願っているからだと思います。
穂乃果にとってμ'sとは、可能であれば終わって欲しくない最高の時間であり、同時に終わらなければならないと自分で決めた、矛盾した存在です。
映画の中で何度もμ'sが『ここでおしまいにする』と確認するのも、『おしまいにしたくない』という欲望を秘めていればこそ、ベストな選択を強調し道を間違えないためでしょう。
ラブライブが在るべくように終わるためにはこのタイミングしかないわけで、終わりに辿りつくために穂乃果は悩み決断してきた。
物語の牽引役として身勝手な欲望を表に出さなかった彼女は、ここに来て無言で踊ります。
それは多分、廃校阻止のためにスクールアイドルをはじめた時と同じく、全てを解決してくれる魔法への意思と願いのこもった仕草です。

その矛盾した気持ちは、少なからずμ'sの物語を見てきた視聴者の気持ちでもあるでしょう。
適切に悩みもがき決断し、終わりに向かってひた走っていくμ'sを見ながら、もう一度音楽がはじまって、最高の時間が続いて欲しいという想いを、終わらないでくれという気持ちが生まれてしまうのは、μ'sの九人が好きだった僕達にとって、自然なことだと思います。
でもそれは終わらなければいけない。
穂乃果の踊りは彼女自身の迷いと祈りを表現すると同時に、僕達の気持ちの置きどころを探す時間でもあると思います。

そして魔法は起きず、穂乃果は太陽と仲間の待つ場所にたどり着き、為すべきことをします。
『Sunny Day Song』です。


秋葉原全体を打ち抜き、スクールアイドルの頂点に相応しい花道をくぐり抜けて曲は始まります。
ここはμ's終演の場所ではなくスクールアイドルが始まる場所なので、『Sunny Day Song』は非常に前向きな曲です。
これから何かが始まり、明日への期待が膨らみ、どんなことも乗り越えられる気がするような曲。
μ'sが成し遂げてきた物語を、名前もないスクールアイドルたちも達成できると後押しするような、元気で明るい曲です。
例えば二期OP頭サビ終わり、二期13話の『HappyMaker』サビなど、μ'sを後押しする名前の無い人たちはこれまでの楽曲でも映り込んでいました。
しかしこれほどの規模と時間でμ'sのステージに『他人』が上がり込んだことはなく、映画が取り組んだ『社会的存在としてのμ's』という問題と解決が、絵的・量的な説得力を以って示されているシーンだと言えます。

曲がある程度進むと、ライブを準備する間スクールアイドル達がどういう交流をしてきたかが改装されます。
物語的な緊張感が極限まで高まったところでまずライブをスタートさせ、後出しで『何があったのか』の説明をやるのは、ラブライブ得意の演出です。
一期八話では『僕らのLIVE 君とのLIFE』の中で絵里が加入してからのμ'sの日々を、二期13話でも『僕らは今のなかで』衣装がいかに届いたかを、ライブがはじまってからセリフ無しで説明しています。
表現者を主役にしたアニメにとってライブとは感情の爆発であり、物語的な蓄積を炸裂させる最高のカタルシスですから、盛り上げた温度が冷めないうちに初めてしまい、ロジックの裏付けを後回しにするのは、興奮を逃さずつかめる手法だと思います。
身体表現だけで場が保たなくなったら、物語的展開を見せて保たせるという意味合いもあると思いますが。

 

4-3)μ'sの終わり、もしくは『僕たちはひとつの光』
『叶え、みんなの夢!』と穂乃果が願った次の瞬間、映画内部の時間は二年進み、妹達のリボンは緑色になっています。
『SUNNY DAY SONG』で時を巻き戻したのとは真逆に、この映画の中で追いかけてきた穂乃果の願いがどう叶ったのか、時計の針を進めることで具体的に確認してしまう手法です。
アイドル研究会は僕達が見慣れた姿で今もそこにあって、高校3年生になった雪穂と亜里沙はμ'sのラストライブについて語り始めます。
懸案だったドームでのラブライブが成功しているということは、μ'sが秋葉原ライブで願った『ラブライブ民主化』は達成され、μ'sだけが『ラブライブの象徴』だった過去からは変化が起きたのだと分かります。

こうして時間を進め、μ'sが映画で願った未来を見せたのは、映画の中で表面化させ悩み解決したた悩みが、どういう成果をもたらしたのかハッキリと明示する意味があります。
それと同時に、26話続いてきたμ'sの物語をこれ以上ないほど終わらせるためには、『彼女たちの願いがかなったかどうかは、あなたが決める物語です』という幅をもたせるわけにはいかなかったのだと思います。
μ's最後の物語であるこの映画で、彼女たちはより広い場所に旅立ち、より大きなものに立ち向かい、より貴い答えに辿り着いた。
彼女たちが出した答えの結末、ラブライブの存続と拡大と多様化という成果をはっきりさせることで、一切のうれいなくμ'sはラストステージに立つことが出来ます。
それはμ'sが終わる瞬間であり、未来に向けて歌った『SUNNY DAY SONG』とは異なる、μ'sの個人的な終わりです。

『社会的存在としてのμ's』が責任を果たす事だけが、この映画においてキャラクターが果たすべきミッションであるならば、このラストステージ(と時を飛ばしてみせた夢の達成)は必要のないシーンでしょう。
秋葉原ライブが視聴者に与える満足感・達成感を鑑みれば、『叶え、みんなの夢!』というμ'sの願いは達成されると、物語的に信じるのに十分だからです。
しかしこの映画は『ラブライブの象徴』としてのμ'sが退位する物語であると同時に、九人の少女たちが自分たちが決めた終わりを完遂する、個人的な物語でもあった。
社会と個人という相反する要素をしっかり捉えていた映画だからこそ、『SUNNY DAY SONG』という『社会的μ's』のクライマックスの後に、『僕たちはひとつの光』という『個人的μ's』のクライマックスを配置しなければ、この映画は終わりません。

思い返せばNYにおいて既に、『ケジメを付けるためのラストライブ』という発想は生まれています。
それだけをやって終わる映画ではないからこそ、帰国してから穂乃果が悩み、秋葉原ライブという特別なアイデアを思いつく必要がありました。
しかし映画で見つけた『社会的μ's』の終わり方が貴いことと同じように、TV版で既に見つけていた結論、『μ'sをおしまいにする』という個人的な終わりもまた、μ'sと視聴者、そして多分製作者にとって同等に貴いものです。
作中で表面化した全ての問題を解決し、μ'sが背負った重荷を全て外した上で行われるラストステージは、映画で取り扱った広く大きい問題と同等(かそれ以上)に、TV版で取り扱ってきた小さく狭い、十代後半の少女たちが『スクール』の中で出会って悩んだ問題の価値を認めているからこそ、丁寧に用意されたセレモニーなわけです。


こうして始まる『僕たちはひとつの光』ですが、この曲にはセンターがありません。
中心から横に伸びて行くこれまでの曲と異なり、円周上に広がっていくこの曲には、立ち位置の違いがない。
アーサー王宮廷の円卓にも似た、上座下座の区別がない曲が、μ'sのラストソングになります。

一期6話でテーマにしたように、アイドルグループにはリーダーとセンターが有ります。
あくまで『スクールアイドル』であるμ'sは『みんながセンターで、みんながリーダー』という理想論に落ち着きますが、それは主役と端役という区別を消滅させるわけではありません。
曲ごとに(もしくは曲の最中で)真ん中を取り替えるにしても、『真ん中がいること』それ自体を否定はできなかったわけです。
花陽曰く『過酷な競争社会』でもあるアイドルは、比べられることで前に進みます。
A-RISEに代表される外部のライバルとも、μ's内部とも比較され、上下の区別が付くことでお話は前進していく。
今回の映画にしても、お話の中心に座って物語を前進させていく穂乃果と、それ以外のメンバーには明確な役割の違いがありました。
アニメの外側に目を向ければ、人気投票でシングルセンターを決め、PVの主役を決めてきたμ'sは、上下の区別をつけ真ん中を必要とする『アイドル』のロジックに、とても忠実だと言えます。

その上で、理想として『みんながセンターで、みんながリーダー』というスクールアイドルの姿が、アニメ版ラブライブでは常にありました。
経済論理からも競争原理からも切り離された、『スクール』の部活としての『アイドル』。
誰かの下に立って妬み、真ん中に立って嫉まれる、現実的なアイドルのエンジンを取り外した、夢のように優しいアイドル物語を、μ'sはずっと続けてきた。
その理想と、センターを常に必要とする現実が最終的に融和したのが、円形に広がる『僕たちはひとつの光』なのだと思います。
その活動を終える段になってようやく、μ'sは彼女たちが望んだ『みんながセンターで、みんながリーダー』という理想を、自分たちが青春を賭して表現してきた形式の中で表現できたのであり、『過酷な競争社会』から降りることが出来たのです。


曲の方はμ's九人の名前を歌詞に折り込みつつ、その終わりを端的に表現した叙情的な曲です。
この曲が僕達の胸に刺さるのは、綺麗に終わることだけが素晴らしいという理想ではなく、終わってほしくないという身勝手な未練を、しっかりすくい取っているからでしょう。
いかに旅立つ準備が整っても、今が最高だと心から思えるとしても、離れたくないという気持ちも、時を巻き戻したいという願いも、同時に存在しているものです。
その気持を切り捨てず詩に込めた上で、握っていた手を離し大きく振ろうと呼びかけてくるこの歌は、μ'sの終わりと、それを見守る人たちの気持ちに、良く突き刺さる歌だと思います。
ここで過剰に名残惜しさを歌うからこそ、僕は穂乃果が一人踊るシーンに、彼女の後悔を見たのかもしれません。
ただ寄り添うだけではなく、『時を巻き戻してみるかい?』と挑発的に訊いてきて『NO NO 今が最高』と切り返す奔放さが、僕は好きです。

これまでの物語を『夢の中で描いた絵のようだ』と歌う曲にのせて、μ'sは去っていきます。
エンドロールが流れる中映るのは、少女たちの身体ではなく、光のなかで置いてけぼりにされた『アイドル』のアイコンです。
μ'sが現世に置いていくべき象徴として選ばれたのが、あくまで学校の中で行われた練習着だというのが、このお話が『スクールアイドル』のお話だったことの証明でしょう。
ステージという成果ではなく、仲良く楽しく、それだけではなく試されながら積み上げてきた『今』の物語が終わるのです。

アイドル自体は舞台の後ろに引いて、思い出と持ち物だけが残るという終わりは、マイクを置き去りにして去っていった、山口百恵の引退に少し似ている気がします。
人間的な身体を消滅させ、彼女たちが残したイメージとそれを増幅させる象徴だけを見せることで、μ'sはとても『アイドル』らしい終わり、伝説として『今』を永遠に焼き付けるような終わりを達成するのです。
それは多分、優しくて誠実で残酷な、この映画らしい、これ以上ないほどラブライブらしい終わり方でしょう。

 

5)  まとめ
いい映画でした。
『もうやることはないんじゃないか』という小賢しい危惧は正面から打ち砕かれ、終わるべくして終わりに辿り着く、TV版ラブライブ26話の後を受ける映画として、これ以上ない仕上がりでした。
TV版で『μ'sをおしまいにする』ことを決めた少女たちを一切裏切らないまま、より広くて高い場所の景色を彼女たちと一緒に見せてくれるような映画でした。
新しく掘り下げられたテーマはTV版と連続性を持ちつつも、映画という表現と『今』ラブライブを取り巻く状況がなければ扱えない、必然性のあるものでした。
テーマを僕達に体験させるために、役割をはっきりさせた三幕構成、くるくると移り変わる少女たちの表情、緊張感のあるレイアウト、活き活きとした楽曲表現、数限りないほどのアニメーションの努力が、誠実に積み上げられた映画でした。
やりたいことと、やるべきことが、しっかり一致している。
そんな映画でした。

こんなに長い文章を書いても、まだ言い足りないことがある気がしています。
園田は相変わらず面倒くさくて最高だったとか、リーダーらしくなった凛ちゃんの姿がもっと見たいとか、あんじゅさんはなんであんなに足を組み替えるんだろうかとか、UTXリムジンは校費で運営されてるんだろうかとか、未練を感じさせつつも毅然としてる矢澤はやっぱ宇宙ナンバーワンアイドルだとか、話の本筋がぶっ飛んでいくので省略した雑感とはまた別に、色んなモノが詰まったこの映画のことを、全て言い尽せた気がしません。
その上で終わりの言葉として記せるのは、この映画があって良かったということです。
ラブライブ!が好きでよかったし、μ'sが好きでよかったし、今もまだ彼女たちが好きで良いなと思っています。
そういう気持ちにさせてくれる映画って、とっても素敵な映画だと思います。
ありがとうございました。