イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ:第2話『バルバドス』感想

悪魔と契約するしか生き残るすべを持たない迷い子たちの物語、第2話め。
今週も地獄のような火星の船上で、子供をが殺し殺され、子供を殺すことをためらう人たちが殺し殺され、何処まで言っても地獄なのに小さな幸せが転がってしまっているという事実に身を斬られるような切なさを感じる、凄く不思議な話です。
この『生き死にがフツーに転がっている感じ』というのは、なかなかアニメでは得難い感触だなぁと思う。

かなりの圧縮率だった第一話に比べると、少しゆったりとした構成になっていましたが、今回も中身はぎっしり。
時間を巻き戻してのバルバドス発進シーケンス、MS級同士の死闘、すれ違いと暴力と家族の暖かさ。
いろんなことが同時に起こっていく、少年たちの戦場は情報量が多いね。

がっつりと戦闘シーンを描写したこともあって、前回見えなかった三日月の顔の彫りが、今回はクッキリ見えた感じがします。
愚鈍というわけでも無感情というわけでもなく、というかかなり言うことは言うしむかっ腹も立てるけれども、あまりに危うい純真さで人生をオルガに預けてしまっている少年。
それが、今回のお話を見ていて感じた三日月・オーガスに感じた印象でした。
少年兵として3つの阿頼耶識を埋め込んでいるだけあって、色んなことに擦り切れているように見えて、芯の部分はあまりにも無垢なままというのが、ヒリつき危険度だぜ。

超絶無敵なガンダム様でヒャッハー!! かと思っていたら、尋常ではない量の鼻血を出して『これ、命がけの契約だよ』という説得力を生んでいたのは、とっても良かった。
あの不格好な鼻血ブー顔はしかし、『負けないために戦い続ける』弱者が命を削って戦う証拠でもあって、やっぱり奇妙な清々しさがあった。
少年たちの半裸と同じく、あんまりポジティブに捉えちゃいけないモティーフなんだが、切れ味が鋭いので見てて気持ちいいのよね。


そんな三日月とバッチバチぶつかることで、クーデリアお嬢もぐっと描写が深まった。
『自分のせいで人が死んだ』と悩むお嬢の立場も、『見ず知らずのアンタのために仲間が死んだとか言うな』という三日月の気持ちも、俯瞰で見ている視聴者には納得できる。
しかしお互いの生まれも育ちも、教養も立場も違いすぎる貴族と少年兵は、神の視点からは認識できる差異を乗り越えて歩み寄る余裕などあるわけもないし、あの衝突は必然でもある。
キャラクターが自分というものをしっかり持っているからこそ、双方の言い分に納得がいく見せ方になっていたと思います。

典型的な理想主義者かと思ったお嬢は、少年兵の現実を知って自分の無垢を恥じる見識も、状況から自分が親に捨てられた孤児になった現実を推測する知性も、両方持ってました。
自分が今まさに、少年兵たちと同じ『孤児』になったのだと解ってしまう知性はしかし、僕には少し哀しくも見える。
荒野に放り出されたクーデリアが今後、赤いリンボで何を考え、どう行動するかはとても気になるところですね。


一方、オルガ&ビスケの三番組首脳陣は着々とクーデーターへの道を歩んでいた。
『そら反旗も翻したくなるわ』という一番組のゴミクズっぷり、あえて自分を殴らせることでテロルの空気を醸成するオルガの才覚は、かなり鋭く描かれていたと思います。
頭ではなく肌で、人を動かす勘所を抑えていくオルガの才能描写はかなりの切れ味だと思うのですが、前髪で目線を隠して表情読めなくするのだけは、面白いからやめてね。

三日月がオルガの道具的存在であることを当然死しているように、オルガも三日月が自分を一切疑わないことを当然として受け止めている歪な関係は、一話より強調されていました。
スラム街で生き残るために必要だった役割分担であり、もはや皮膚感覚になってしまった生き様はしかし、やっぱり危険で不自然でもある。
スラムや戦場の外側の論理を持っているお嬢と三日月が絡むことで、男と男、男と女の関係がどう変わっていくかも、今後気になるところですねぇ。

そして俺のビスケたんは、なんと可愛い妹が二人も存在していることが判明し、萌えキャラとしての完成度をさらに上げていた。
妹さん達が泥臭く頭弱い感じなのが、クソみたいな識字率の火星の現実を肌で教えてくれて、イヤーな気分になった。
ビスケたんは現状、三番組の中でもバランスの取れた人格をしすぎているので、そうそうに何かを奪われそうで怖くてしょうがないです……妹さん達が可愛ければ可愛いほど、怖い。
この思い入れ方は"ピンポン"見てる時の佐久間への感情そっくりなので、色々危ういなと自分でも思います。


子供たちは生きたり死んだりすることに慣れているわけですが、それでも仲間が死ねば心が痛むし、喪失に慣れることも出来ない。
無茶苦茶な現実の中で軋む気持ちが、『でっかいおっぱいの中で死にたかった』という台詞の中で輝いてきたと思います。
岡田麿里の悪趣味な部分が、凄くいい方向に作用して異化作用を起こしているというか、なんというか。
バッカでー! と笑い飛ばしたいんだけど、すんごい奇妙なリアリティが台詞の中に生まれてしまっているので半笑いで凍りついちゃう感じとか、なかなか無いなぁと思いました。

ゴミクズみたいな大人の中に、(比較的平和な日本という国でアニメを見ていられる)視聴者の感性に近い、『まとも』な大人をしっかり配置しているのも、生き死にの話が変な方向にネジ曲がらない、大事なポイントだと思います。
味方サイドのカッサバおじさんもそうなんですが(お嬢の寝言を完全に無視して話を進めていくシーン、凄く好き)、よりにもよって敵であるギャラルホルンのゼント二尉が『いや、ガキとか殺すのおかしいでしょ』とか言い始めて、僕はブルブルしました。
ゼント二尉の言っていることは正論というよりも真実で、ガキが戦場で死ななきゃならん世の中は絶対に間違っている。
しかし三日月が言ったように、当のゼント二尉が殺して殺されてる相手が子供であるという事実は、厳然として存在している。
綺麗事が通用しない現実の中で、しかし真実でもある綺麗事をどう扱っていくかという問題は、お嬢と共通するものがあると思います。

ダルトン三尉を戦場に送らなかったのは、子供を殺すような汚れ仕事は自分がやればいいという決意なのかなぁ。
どう考えてもゼント二尉が死んで、ダルトン三尉がトチ狂っていくフラグにしか見えなくて、僕は哀しい。
火星ギャラルホルンと地球ギャラルホルンの間にも対立があるし、どこもかしこも火種ばかりだなぁ、この世界。
……戦場なんだから、当たり前なのか、これが。


火星の幼い地獄がどんな匂いがするのか、モニター越しに伝わってくるような第二話でした。
どこもかしこも不和と対立の種がまかれ、真実が何処にも通用しない戦場の中で、あまりにへだったっている少年たちと少女の距離。
しかしそんな中でも、理解しようという意思と、理解可能かもしれないという一筋の希望は忘れられず描写されていました。
露悪的な過剰現実主義に押し流されず、ちゃんと真実を描写しようという意志が感じられたのは、作品のことが好きになり、信頼できるようにもなる重要な足場だと思います。

彼らの運命がこれから何処に転がって、何が削られていくのか。
既に彼らの描写の軽い痛みを感じるようになってきた僕は、実はあまり楽しみではありません。
彼らが歩くしんどい道を見守りたい、見守ろうという気持ちが、だんだん強くなっています。
良いアニメですね。