イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

コンクリート・レボルティオ~超人幻想~:第2話『『黒い霧』の中で』感想


もう一つの昭和、もう一つの世界を舞台にしたノスタルジアと正義の終わりの物語、第二話。
『過去編』と『未来編』を行ったり来たりしつつ、『昔はよかった』と思い返される昔が本当に良かったのか、問いを投げかけるお話でした。
紹介編的な意味合いが強かった一話よりも、お話のテーマや狙いがより強く見える、良いエピソードでしたね。


今回のメインはオバケ(NOT妖怪)の風郎太でして、永遠に幼い存在が時間の中に取り残される哀しみと貴重さを軸に据えたお話となりました。
似た感じのお話を探すと、"オバケのQ太郎+劇画・オバQ""メタルギアソリッド3"辺りと共通すんのかな。
『時の流れと、それに伴う残酷な変化』というのはこのアニメの大事なテーマらしいのは、前回の輝子を見ていても判る所。
第2話というかなり早い段階で、老いることもなく永遠に幼い風太郎メインの話を持ってきたのは、『時の流れに取りこぼされることの哀しさ』を重要視したからかな。

『過去編』に於いては無邪気に信じられている正義と悪との二分論は、『未来編』に於いて残忍に入り混じり、風郎太いう所の『ややこしい時代』に変わってしまっている。
『過去編』では悪いバケモノを退治して超人課の仲間に入れてもらおうと、陽気にこなしていた行為も、『未来編』で真実を知らされた後はウィルスを散布して先史人類を皆殺しにした虐殺行為に変わってしまう。(ここら辺、アメリカ先住民への天然痘攻撃を思い出して、陰惨さが増してました)
一つの事件の光と影を、5年間という断絶を間に挟むことで鮮烈にしたいからこそ、この凝った構成なのかな、と思いました。

その上で、このアニメ『過去』は良くて『未来≒現在』は悪い、という単純な二元論のお話ではない。
白黒はっきり付いて分かりやすいはずの『過去』でも、博士は計画的に昆虫人間絶滅の手立てを準備しているし、昆虫人間側も黒い霧によって人の命を奪っている。
シンプルで分かりやすい『子供だましの』正義の物語として描かれている『過去編』は同時に、既に『未来編』と同じように、虚実敵味方明らかならざる複雑怪奇な現実性、残酷性をちゃんと持っているわけです。

その上で、『過去編』のキャラクターたちは『正義』を疑うことはない。
視聴者は時間を超越した神の視点から物語を貫通することができるけど、物語の時間を今まさに行きているキャラクターにとっては、未来の真実は不可知の出来事です。
何も知らないまま無垢に罪を犯し、しかも償うことなど出来はしない残忍さは、超人課に入りたての風郎太には絶対に知り得ない。
好きになった女の子の仲間を皆殺しにして、『仲間ができた!』と無邪気に喜ぶ風郎太を憐れむことが出来るのは、視聴者の特権なわけです。
こういう断絶を産みたいがための凝った構成だとしたら、それは巧く機能しているなぁと思いました。


今回のお話、断絶は至る所にあります。
老いない風郎太を幾度も置いていって、勝手に大人になってしまう『仲間』たちとの断絶。
そんな風郎太を、失われてしまった正義の無垢さの象徴として身勝手に崇める爾郎との断絶。
殺戮の意図を知らせないまま、風郎太をウイルステロの実行者として利用した大人たちとの断絶。
色んな所に裂け目があって、しかも登場人物(少なくとも『過去編』において成熟しきっていない爾郎、輝子、風郎太)はその断絶に気付いていない。
無垢が持っている危うさと痛みを知ることが出来るのは、それが失われた後だけだし、『未来編』において風郎太が慟哭したのは、まさにその断絶を認知し、しかも永遠に幼くなければならない『オバケ』という存在の宿命に気づいたからこそなのでしょう。

そしてこの作品最大の断絶は、作品世界と僕達の間に引いてある。
『神化』という年号が選ばれなかったからこそ僕たちは『昭和』という時代を経て『平成』に辿り着いているし、作中のヒーローたちはあくまでフィクションとして目の前に置かれてきた。
作中の人物たちが行ったり来たりする二つの『神化』はしかし、『平成』の僕達にとっては両方共過ぎ去った過去(それが暗黒の時代か、黄金の時代かは人によるでしょうが)でしかない。
メタフィクショナルな裂け目が、このお話には意図的に用意されています。
そして、その意図的な裂け目はともすれば、作中で展開されるキャラクターたちの物語に没入することから、視聴者を遠ざけかねない。

『過去編』と『未来編』を行ったり来たりする構成はその裂け目を強調し、物語に没入すると同時に、分析的で一歩引いた目線を作品に用意することを要求しています。
このお話の中で描かれていることは、何かの暗喩なのではないかと疑うように、お話の構造自体が工夫されている。
例えば『正義と悪とがはっきり別れて分かりやすかった時代』を冷戦期のメタファーとして読む視座は分かりやすいし、製作者サイドもおそらく狙っている。

しかしそこで作品をただの象徴記号として扱ってしまえば、人が生き、人が死ぬお話の形態をわざわざ取っている意味は、ほとんど無に近いほどに薄れてしまうでしょう。
僕はこのお話しの中で展開されるドラマは、キャラクターが生きる人生の物語として十分な重さと熱さを持っていると感じているし、どんなにテーマ性がクッキリと浮かび上がり、どんなにメタフィクショナルな構造が用意されていても、物語はやはりキャラクターの人生として受け取ったほうが、正しいし面白いと思っています。
分かりやすくライトアップされたメタフィクションの装置を弄ぶことに没入せず、風郎太や爾郎の痛みや熱をしっかり感じ取って物語を受け取るのも、大事かな、と。
そして風郎太が見せた断絶への慟哭と、そこに秘められた真摯な態度は、断絶を認識し乗り越える努力を助ける、重要な足場足りえるのではないかとも。


時間、変化、種族、無知、現実、そして正義。
今回提示された断絶は、どれも乗り越えるのがとても難しい、重たくて深い裂け目です。
昆虫人最後の生き残りは虐殺者にして友人を殺すことはなかったけど、同じ時間・同じ世界で生きていくのを拒んで去っていってしまう。
無垢な風郎太がしでかしたことはそれくらい重い取り返しの付かないことだからです。
今後もまた、こういう断絶はたくさん描かれるでしょう。

しかし同時に、断絶は認識不能なままではないし、それが必ずしも絶望を呼び込むものではないということも、ちゃんと描かれていた。
そうでなければ、風郎太は永遠の幼さを嘆くことすら許されないし、恨みは風郎太の死で贖われていたでしょう。
『暗くて苦い、裂け目だらけの世界の中で一筋の光明はある……のかもしれない』という今回の落とし方は、個人的な好みとしても、語り部の誠実さとしても、なかなか良かったと思います。

正義と悪との分かりやすい線引は、どうあがいても確定した未来で失われてしまう。
何がどうあろうと、単純なはずの世界は断絶に満ちていて、それは簡単には乗り越えられない。
そういう苦い認識が土台となって、このお話が描かれていることが見えてくるお話でした。
それをライトアップするために、時間を行ったり来たりする構成を選んだのだということも。
これから先の神化でどういう断絶と、それを乗り越えうる微かな希望が描かれるのか。
とても楽しみになってきました。