イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アイドルマスターシンデレラガールズ -2nd Season-:第24話『Barefoot Girl』感想


章立て
0)はじめに
1)『縦』と『横』の物語としてのアニメ・シンデレラガールズ
2)今回のエピソードの特異性
3)本編感想 -レガリア集め-
4)本編感想 -裸足の女の子、と男の子-
5)本編感想 -今週の美城常務-
6)おわりに

 

0)はじめに
時に逆境に逆らって立ちすくみ、時に傷を負って血を流して来たシンデラ達のお話、第24話目は島村卯月のお話、最終章でした。
群像劇として沢山の女の子を同時にカメラに写してきたこのアニメには非常に珍しく、今回のお話はその尺ほぼすべてが、島村卯月のためにあります。
これまでのモバマスアニメ『らしくない』方法論をあえて選択し、島村卯月の傷と痛み、震えと再起のために時間を使う理由が、このエピソードにはあったということでしょう。
今回の感想はシリーズ全体、エピソード全体をまず俯瞰し、その後実際の映像に従って感想を述べていく形式で進めます。

 

1)『縦』と『横』の物語としてのアニメ・シンデレラガールズ
メインだけでもアイドル14人+プロデューサー、話に深く絡んだゲストアイドルもたっぷり存在しているこのアニメは、彼女たちの物語の『数』と『質』を両立させるべく、一つのエピソードに複数人のアクターを用意し、同時並列的に物語を進行させていきます。
これは一話のエピソード内部での物語進行(いわば『横』の物語進行)だけではなく、話数を跨いで展開する総合的なエピソードの進行(『縦』の物語進行)でもそうです。
あるエピソードでは脇役、もしくは助言役として少し印象に残るカットを担当していたキャラクターが、次の次の回では主役となり、彼女の物語において以前描写されていた要素が非常に重要になる。
こういう作り方は、シリーズ全体を貫通する重要な見せ方でした。

例えば第3話は主人公格に当たるNGの三人が、城ヶ崎美嘉に見出されて初めての舞台に上がる物語ですが、同時に前川みくが彼女たちにつっかかり、色々と挑戦を仕掛けてくる物語でもある。
ここで『凡人』『不平を言う役』としての印象を残した前川は、自分のエピソードである第5話において溜め込んだ不満を爆発させ、NG以外のアイドル、デビューできない存在の代弁者としてシリーズを引き締める仕事をします。
もし第3話で前川が登場せず、子供のじゃれあいのようにも見える不満の表出をしていなかったら。
もしくは、第4話までに丁寧に描写されている、キャラをかぶりつつも自分に自身が持てず、シリアスとギャグの中間でふらふらしている前川未来という描写が薄ければ。
第5話で前川が爆発させた不安と不満が、ハッと視聴者の胸を深く突き刺すことはなかったでしょう。

もちろん第3話は基本的にはNGのための、そして第6-7話を睨めば本田未央のための物語であって、尺の殆どは彼女たちの期待と不安、それを飲み込むステージでの開放感に費やされています。
アイドルとしての初ステージをじっくりと描写したこのエピソードでは、緊張に飲み込まれ、『いつも元気な本田未央』という仮面が剥がれていく本田未央(第2話でこの仮面を強烈に印象付けているからこそ、機能する描写)と、それでも前に進んでいく少女たちの歩みが丁寧に描かれていました。
画面の明暗やレイアウトをコントロールし、適切にストレスを与えることに成功していればこそ、「フラ・イド・チキン!」の掛け声と同時に飛び出したステージの開放感とカタルシスが、強く視聴者の胸を打つ。
そしてそれこそが、第6話での本田未央の失望と、そこから這い上がる第7話のカタルシスを用意し、さらに言えば第13話で描かれた「私……アイドルやっていてよかった!」という言葉に帰結するわけです。
そして、主役を貰ったエピソード以外の本田の描写-お調子者で、集団の中での視野が広く、思いの外自己評価が低く、リーダーという社会的地位に強い意識を持っている-が細かく、丁寧に挟まれればこそ、3-6-7-13話という本田未央主役のエピソードの流れは、一つの奔流として力を与えられています。

あくまで前川と本田を例に上げましたが、『複数人数のキャラクターを同時並列的に舞台に上げ、キャラクターが深まる描写を細かくはさみ、『縦』『横』両面の物語進行に活かすことで群像劇を展開させていく』という手法の恩恵は、このアニメに登場する全てのキャラクターが受けるものです。
第10話で莉嘉が傷を負って初めてしゃがみ込むきらりの描写は、それまで常に最後尾でNG全体に目を配り、孤立しそうな子がいれば必ず目線を合わせて話しかける彼女の姿があればこそ、意味のある傷になる。
第21話において蘭子が『普通の言葉』を使って自分の気持ちを喋り、混乱するCPが再起するきっかけを作る描写は、第8話でプロデューサーと心を通わせ、第13話で自分の意志を言葉にした描写、さらに言えば合間合間に挟まれる『熊本弁』の楽しいコメディーシーンがあればこそ機能する。
事ほど左様に、群像劇として『数』を捌きつつ、キャラクターが持っている感情の揺れや痛み、立ち上がる心の強さなどをちゃんと描く『質』の両立を達成するべく、このアニメは常に、たくさんのアイドルのお話を同時並列的に処理してきました。

 

2)今回のエピソードの特異性
その上で、今回のお話はほぼ島村卯月がこれまでどういう気持で、今どういう気持でいるのかという問題に重点し、他者との交流も彼女の一人称で意味を持つよう描かれています。
それはつまり、島村卯月の物語はこれまでと違った方法、違った重さで終わらせなければならない性質を持っている、ということです。
島村卯月が今抱えている問題は、既に第1話の登場シーンから発生していたというのは、前回執拗に描かれた孤独な特訓シーンを見ても分かります。
その孤独をより深めてしまった、彼女のあまりにも魅力的な笑顔と、その奥にある普通の女の子としての柔らかく傷つきやすい気持ちの描写も、既に第1話にある。
『縦』の描写の積み重ねで言えば、NG14人の中で最も重たい蓄積を島村卯月は持っています。
(同じく第1話から描写を積み上げてきた渋谷凛ですが、『衝動』という根源が表面化しつつ、本田や島村のように人格の根本が引き起こした問題がエピソード化していない彼女の物語は、まだ始まってすらいません。映画あるんだろうなぁ……あって欲しい)

それを解決するべく、今回のお話はすべてが島村卯月に捧げられています。
お話全体の勝ち負け-ほぼ全ての視聴者が認める『勝ち』はしまむーの復活でしょう-としては、実は前回のラストシーン、346本社ホールに意を決して立った瞬間に付いてしまっている。
渋谷凛が切開し、本田未央が手当した島村卯月の傷は致命傷ではなく、彼女はもう一度アイドルという戦場に立った。
『なら、この流れで負けるはずがない』というのは、ある程度物語の形式に慣れ親しんだ視聴者にとっては、読み解ける暗号です。
というかむしろ、暗号を読み解かせてNG三人の本気が必ず報われるのだという安心感を与えるべく、あのラストシーンが置かれている、というべきでしょうか。

だから、今回重要なのは『勝つ』ことではなく、『どう勝つ』かになる。
あの公園で頑是ない子供のように怯えを露わにした島村卯月は、『どう』したらもう一度笑顔になって、「アイドルやっててよかった!」という気持ちになれるのか。
今回の24分は、ほぼ全てがその説明に使われているわけです。

 

3)本編感想 -レガリア集め-
ここから、実際の映像にそって見ていきます。
開幕常務のポエムパンチで一発当てられつつも、島村さんは手早くNGと合流し、話が転がり始めます。
真っ先に瞳が潤みつつ歩き出せない渋谷凛と、心を動かされつつも『いつも元気な本田未央』の仮面をかぶり、状況をコントロールする決意を噛み締めた本田との対比が面白い。
この瞬間被った仮面を本田はクライマックスまで外さず、ずーっと周囲に目を配りつつ、島村さんがもう一度歩き出せるよう、状況を整え続けます。
『集団内部での視野の広さ』というずっと描かれていた彼女の特長が、最高に報われている描写で僕は最高に好きです。
第22話と同じく、本田のハグを正面から受け止めることはまだ出来ない島村さんであった。

プロデューサーも顔を出し、お城での面談となるわけですが、このシーンの狙いは『しまむーがステージに上ったら『勝ち』』というエピソードの到達点の確認ですね。
島村さん正面(そしてプロデューサーの隣)の席が開いているのに斜めの位置に座る凛ちゃんが、素直になれない子過ぎて可愛い。
煮え切らない島村さんに「やだっ!!」と叫び、衝動を迸らせる姿は、あまりに渋谷凛らしい。

それを優しく諌める本田もな。
『何しろあれしろ頑張れ本気出せ』という『べき』論の強い言葉ではなく、「来てくれて嬉しい」という気持ちを体温に乗せて伝えるだけにした本田は、ホント人格強度高い。
一度『ステージには沢山人が入る『べき』』『恥ずかしい思いはする『べき』じゃない』というロジックで自分自身を追い詰めた経験があることが、いい方向に働いてるのかなぁ。
『しまむーが好き過ぎて頭がおかしい女』渋谷凛の衝動をどっかでガス抜きしないと危なっかしい訳で、そういう仕事をしっかりしている所が、NGのリーダーだと思います。
未央は凄い。


レッスン室に入って即、前川が噛み付いてくる。
前川はずーっと『言う役』だったので、「どんな理由があっても、仕事をほっぽり出すのはプロ失格だと思う」という、視聴者の感想(の一部)を代弁するのは、コイツしかいません。
『にゃ』語尾がついていないことから考えても、ここの前川はかなり本気なのですが、「ホント心配したんだよ」という気遣いの言葉も、本当のことだというのも判る。

前川にとってネコミミは世界と戦うための武器であり、凡人がアイドルであるために必要な冠でもありました。
自分が取り外すことはあっても、他人に預けることは(*の相方にも、尊敬するウサミン星人にも)無かったそれを、卯月に預けるこの仕草が特別だと感じるのは、前川の物語を見守らせてもらってきた視聴者には、あまり不自然ではない気がします。
目をつむり顎を引いた島村さんと被せられるネコミミはそのまんま、女王の戴冠の光景であり、シンデレラをモチーフにしたこのアニメ、このエピソードがどこに落ち着くのか、暗示的に見せるシーンでもあります。

自分と卯月、卯月と世界との関係をネコミミの戴冠で整理し、『ああ、いつもの卯月チャンだにゃ』と思ったのか、前川は気軽に「いつもの笑顔で」と声をかけ、元気づけようとする。
しかしその「いつもの笑顔」こそが今の卯月には一番見つけられないものであって、逆に言えばそれを取り返しさえすれば『勝つ』事が出来る、魔法のアイテムでもある。
アイドル・島村卯月を支えていた根幹を失った不安を感じ取って、前川を諌めるのはいつもの様にきらりです。
「心配したんだよー」という(つまりは「心配させてしまった」という後悔を生み出しかねない)言葉を無邪気に発している莉嘉も合わせて、キャラクターの持つ人間関の係視力がどう異なっているのか、再確認できる描写だと思います。


体を動かしできることをして不安を紛らわすのは、地下送りになった第15話と同じ、CPの基本姿勢だといえます。
少しリラックスした雰囲気の中で語られるのは、昔の話。
みりあちゃんや莉嘉の述懐は彼女たちが画面に映る前の物語で、切り取っている時間軸としては前回卯月の特訓風景が語っている事柄と、同じものになります。
この後、卯月はこれまで関わった様々な人々の間を歩き、自分と彼女たちが何処をどう歩いて第24話でで辿り着いたのか、再確認の度に出ます。
ここでの昔語りはその端緒といえるものですが、それが示しているものはなんなのでしょうか。

一つには、時間と経験の積み重ねがなかなか大したものだ、という事実です。
これまで島村卯月と仲間たちは、反目したり挫折したり感情を迸らせたり、支えあったり守りあったりしながら、大層なことをしてきた。
『自分にはなんにもない』と告白した島村さんはこの事実を見失っているわけで、仲間と過去を述懐していくことによって、その事実を思い出していくことが、『勝つ』ためにはどうしても必要なのです。

もう一つは、その現実は自分一人で積み上げたのではなく、みんなで頑張ってきた結果だ、ということです。
記憶や経験というのは形に残らないものですが、それを共有した人々の間でこそ意味をなし、実質として意味を持つ。
それは仲間とだからこそ出来た物語であり、その仲間の中には、島村卯月という人物も確実に存在していたのだと、島村さんは思い出さなければいけない。
『立派なことを成し遂げたみんなの中に、自分もいた』ことを思い出さなければいけない島村さんの空疎な自我は、『立派なはずの自分が、なんでこんな惨めなことになっているんだ』という気持ちを暴発させた、本田未央の肥大した自我とは対比的ですね。

自分が成し遂げた事実と、それを一緒に共有した仲間。
それは空から降って湧いたわけではなく、これまで24話分のエピソードと、そこでは語られなかった(語ることが出来なかった)島村卯月の物語が積み上がって到達した、物語的な精髄です。
笑顔でみんなを助けたり、アイドルである自分の自信が持てなかったり、そのことに気付いていなかったり、気づいて前に進めなくなったり。
楽しいことも辛いことも引っ括めて色んな事があって、その結果として今の島村卯月がいるということ。
大好きな仲間との記憶をたどることで、『島村卯月は結構、大したことをしてきたんだ』という単純な事実を否定することは、それを共有する仲間の『大したこと』も否定することなのだと、島村さんは気づかなければいけないのでしょう。
それを辿るのは結構入り組んだ道なので、この後島村さんは色んな所をめぐり、色んな人と会い、これまでの物語を凝縮したレガリアを託されていきます。


過去を振り返る中で、アイドルたちはアイドルになった時の初期衝動を語っていく。
それは様々な色合いと肌触りをしているものの、感動的で優しい気持ちになる、『良い』経験だったということは共通しています。
思っていたのとは違った、色々大変だった、でも楽しかった。
仲間たちがそれぞれの言葉で語るアイドルとの出会いは、これまで島村さんが見せてくれてきた彼女自身の初期衝動と、奇妙に同じ顔をしています。
アイドルになりたいという気持ち、アイドルになれたという喜びは、『良い』ものである。
その事実もまた、島村卯月が思い出さなければいけないものであり、他者との対話の中で思い出していく事実でもあります。
仲間たちの言葉を集める間、島村さんが一言も言葉を発しないのは、混乱した現状をまとめ上げ、そこから抜け出すためのヒントを探すために、必要な沈黙なのでしょう。

ここでの対話の中でアイドルは、誰も『卯月ちゃんの気持ちがわかる』という共感は口にしません。
卯月自身が自分の心理を言葉にしていないし、沈黙に対して身勝手な推測をすることもなく、ただ自分の経験とその時の気持を、素直に伝えている。
その誠実な態度の中にはしかし言外に、『そして、卯月ちゃんも一緒だよね』という期待と願いが込められている。
島村卯月の沈黙を見守るアイドルの視線と態度は、どうにかしてしまむーにもう一度笑って欲しい視聴者(と僕)の態度と、狙い通りにシンクロしています。
卯月の沈黙を守りつつ、期待と願いを熟成させ後半の爆発の準備をする大事なシーンといえますが、それが視聴者の心情と重なり合っているのは、なかなか強い描写だと感じます。

前川のネコミミ、智絵里のクローバー、かな子のプティ・シュー、そして沢山の言葉と想い。
シンデレラとして玉座に帰還するために必要な玉璽-レガリア-をたくさん集めた卯月は、最後にNGと合流して、白紙の星を託されます。
他のアイドルたちにも配られ、共有しているはずの想いと願いを効率的に可視化する劇的装置。
CPのアイドルたちのようにセリフと尺が与えられなくても、卯月を愛し、信じて待っているアイドルたちの気持ちを表現する最高の舞台装置だと思いますが、これを手渡されてなお、卯月は階段最後の一歩が上がれない。
白紙の星は白紙のまま、Bパートに入ります。


Bパートは星に希望を託すアイドルたちのカットから入ります。
これまでの物語で描かれ、触れ合ってきたアイドルたちを手際よく写し、彼女たち全てが(僕達と同じように)島村卯月を信じ、愛し、帰還を願っているという気持ちを束ねるシーンです。
このように手際よく横幅の広い描写を展開できることも、このアニメが群像劇を運営する手腕に長けている、一つの証左でしょう。
『敵』たるべき立場だったプロジェクトクローネの面々も、第21話での格付けとノーサイドを経て、星を送る側になっているのが感慨深い。
そして散々振り回されながらも「また、卯月ちゃんと一緒に全力で仕事がしたいです」と描いてくれう小日向さんはマジで聖人(エル・サント)。

色々動きまわって星を集める本田と渋谷の姿は、どん底に落ちてしまった島村卯月をどう扱うのか、色々悩んであがいた結果の最終形といえます。
あまりに鋭すぎる言葉をぶつけるでもなく、ダメになっていく姿を凝視するでもなく、信じて待ちつつ、それを形にする。
本田未央と渋谷凛にとっての『出来ること』が星集めであり、それが暖かく意味のあるものだと感じられるよう演出できているのは、とても良いことでしょう。

テンポよく決戦前日の風景を移していくカメラは、島村さんを最後に写します。
暗い部屋に一つと持った灯りは、オーディション合格証を照らし、むりくり笑顔を作る卯月の表情を切り取って消える。
レガリアを集める時にたくさん聞いた、仲間たちの初期衝動。
意味深に切り取られるオーディション合格証は、島村卯月のスタートラインが何処にあったのか、彼女が猛烈に考えなおしている最中なのだということを強調しています。
自分からは一切発話しなかったあの旅がしかし、島村卯月の中でとてつもなく重たい意味を持って、今まさにぐるぐると心を回転させている真っ最中なのだと。
そしてそれでもまだ、巧く笑えないのだと、効果的に見せるシーンでした。

 

4)本編感想-裸足の女の子、と男の子-
常に足が語ってきたこのアニメに相応しく、卯月のローファーがアップになって話の潮目が変わります。
これまで他者の言葉を集め、他者の中にいる自分を見つめてきた卯月は、ここから自分の話を語り始める。
自分をアイドルにしてくれたガラスの靴はもう無くなってしまって、今はただの学生が履くローファーしかない。
学校のシーンが示すのは、伽藍堂だと気づいてしまった島村卯月の心象風景そのものです。

そして、第7話と同じようにプロデューサーへの職務質問が挟まり、息が詰まる時間が破れる。
『プロデューサーがポリスに絡まれたら、一息ついて笑っても良い』という物語的ルールを作ってしまったのは、劇作のスイッチを切り替える重要なパーツであって、強い事だなぁと思います。
肩の力が抜けた所で卯月は車に乗り、しかしNGクリスマスライブの会場ではなく、第1話アバンの舞台となったライブ会場に足を向けます。


既に述べたように、島村卯月の物語は非常に例外的に描かれた、時間的にも描写的にも長いお話です。
本田未央前川みくのように感情を爆発させるでもなく、雪のように無音で降り積もった卯月のストレスは、そうそう簡単に拭われるわけではありません。
凛の衝動が切開し未央が受け止めても問題は解決に至らなかったし、共有した時間と思いを仲間と確かめ合っても、すぐさまステージに行けるわけでもない。
24話かけて蓄積させ、第24話全てをその解決に当てる特別待遇が必要なほどに、普通の女の子の普通の悩みは、根深くて重い。

だからこそ、決着の場所が意図的な遠回りだというのは、説得力のある構成です。
回り道をしてでも、自分がアイドルになりたいと願い、後の仲間たちと気づかぬうちに邂逅していた運命の始動点に帰ってくること。
そして、その場所で自分の『言葉』を探し、見つけ、音に変えて口から出し、気持ちを共有してもらうこと。
島村卯月の曲がりくねった物語の終幕には、そういう劇的な場所が絶対に必要なのであり、そこに立ち寄るという『回り道』が可能な余裕を創りだすことが、プロデューサーの役目でもあるのでしょう。

本当の気持を告白するために必要な劇的な空間を探して、二人はどんどん闇の中を降りていきます。
それは物理的な降下運動であると同時に、『天使の』『笑顔の』島村卯月がずっと、隠してきたことにも気づかないほど常態化し重症化した『普通』の仮面を取り去り、物事を根本的に解決させるための本音を引き出すのに必要な、心理的降下でもあります。
劇的効果としては、"少女革命ウテナ"の根室記念館にあるエレベーターと、非常によく似た装置だといえます。

闇の中で迷わないためには光が必要で、それを卯月ではなく、プロデューサーが持っていることは意味深であり、重要でもあります。
自分一人で自分の中の闇と取っ組み合った結果、島村卯月はここまでこじれたわけで、自分以外の他者に光を預けなければ、カラ枚あった気持ちを解きほぐすことは出来ないからです。
卯月が舞台にもう一度上がり『勝つ』ために必要な、最後の一押しをアイドルではなく、プロデューサーが果たすということは、最も視聴者の代理人として期待される立ち位置であるという意味合いからも、物語内部で一番最初に卯月と話したのが彼であるという意味合いからも、重要な描写でしょう。


イベント会場の最深部、これ以上降りるところのない場所で卯月の告白が始まるわけですが、ここのレイアウトは非常にこのアニメらしい作りです。
画面を真ん中にぶった切る非常扉、光を持って左側に立つプロデューサーと、闇に取り巻かれて右側に居座る卯月。
境界線、明暗、左右という要素をこれでもかと強調した、高雄監督の印象主義的演出哲学が最前線に踊りでた、勝負のカットです。

前回は混乱の中で語られた島村卯月の恐怖と当惑ですが、今回は比較的まとめ上げられ、因果関係も整理された語り口になっています。
渋谷の切開によって曝け出された直後よりも、落ち着くだけの時間が経っているというのもありますが、やはりレガリアを収集していた時の沈黙の中で、島村さんがどれだけ自分の状況を考え、恐怖や怯えといった感情の泥とどれだけ向かい合ったのかが、強く伝わってくるといえます。
あまりにも鋭すぎ強烈にすぎる渋谷の衝動を、卯月が「でも、凛ちゃん怒ってくれるんです。何にもなくないって」と正確に受け止めてくれているのも、おそらくは時間と黙考が可能にしたのでしょう。
未央の冷静なコントロールだけではあの状況は変化していないはずなので、危うさと痛みと同時に、隠していた真実を切り開く渋谷の特性を正確に見抜いてくれているのは、卯月の知性の描写という意味でも、凛の真心が無駄になっていないという意味でも、有り難い限りですね。

回想を踏まえて状況を整理した上で、「傍に行きたい、でも怖い」という卯月のジレンマが語られます。
二律背反が『背反』足りえるためには、『でも』の前に当たる欲求を形にしなければいけない。
これまでの卯月は自分が怯えている事自体に気付いていない状態から、自分が何かに怯え、期待している事を自覚する所まで歩みを進めていました。
物語が始まった場所に帰還し、暗い階段を降りて、降りて、ようやく辿り着いた劇的な空間に背中を押されて、卯月はようやく「傍に行きたい」という自分の欲求を語る。
血も涙も流さない『天使』が「怖い」「自分には何もない」というネガティブな人間らしさを曝け出したのが前回のお話だとしたら、今回の長い旅路はここに辿り着いて、「傍に行きたい」というポジティブな欲求を言葉にするために用意されていると言えます。
逆に言えば、ただの女の子が夢に辿り着いてから走り続け、雪のようにストレスを貯めこみ、壊れて自分が人間であることに気付き、そこから何をしたいのか思い出すためには、これだけ大量の物語が必要だった、ということです。
そういう意味でも、島村卯月の物語はやはり、非常に例外的なのです。


『自分のことが怖い。頑張っても空っぽだと確かめるのが怖い』という卯月の言葉を受けて、プロデューサーが言葉を紡ぐ。
第1話の「笑顔、です」という印象的なセリフに込められた、自分の意図と意思を説明する。
第1話と第24話の「笑顔、です」の間にあるのは、そのままプロデューサーが達成した変化と成長でしょう。
過剰な正しさを振り回しアイドルを傷つけた過去に怯え、言葉の奥に込めた自分の願いや意思を押し殺し、アイドルを運ぶ車輪であろうと自分を押さえつけてきた、第1話のプロデューサー。
例えば智絵里とかな子を厳しく導き、例えば卯月が自分の殻にこもろうとした時にクリスマスライブというハードルをあえて用意するようになった、第24話のプロデューサー。
卯月の物語がそうであるように、この2つの「笑顔、です」の間には、沢山の痛みがあり楽しみがあり、変化がある。
視聴者に対してそれをクリアーに見せる意味で、非常にインパクトのあった「笑顔、です」という言葉を再話することは、強烈かつ的確な選択だといえます。

身体的な仕草と心理的な状態がシンクロすることは、このアニメーションにおける演出の基本的な哲学です。
第7話において島村さんの家を訪れたプロデューサーは、下を向いて卯月の目を見ておらず、第24話現在の彼は闇の中で光を握りしめ、まっすぐに卯月を見つめている。
当時満面の笑顔で下がりきった視聴者のテンションを回復させ、『しまむーマジ天使!!』と思わせた島村さんは今、薄暗い足元を見つめ、ガラスの靴の代わりに何処にでもあるようなローファーを履いた自分を凝視している。
ここでも過去の状況に照らした再話が行われ、何が変化し何が変化していないのかは、効果的に見せられています。

闇の中の卯月を拾い上げる決定的な言葉は「今、あなたが信じられなくても、私は信じています。あなたの笑顔がなければ、ニュージェネレーションズは、私達はここまで来られなかったからです」というものです。
たとえ当人が『私』を見失ったとしても、散逸したはずの『私』は『私』が行きて関わりあってきた『他人』の中にあって、むしろそのような『他者の中の私』にこそ『私』らしさが強く刻印されているというのは、例えば第17話のラストシーンで美嘉が莉嘉の中に見たような、もしくは第18話できらりが杏との触れ合いの中に感じ取ったような、幾度もリフレインされたテーマだといえます。
手応えのない中をもがいてもがいて、孤独に『私』を探した結果「何もない、私にはなんにもない」と慟哭した卯月の『私』は、24話一緒に戦ってきた『私達』の中にこそあったわけです。
おそらく卯月は、再びシンデレラとして戴冠するのに必要なレガリアを探すAパートの中で、仲間たちの言葉を集める間に、そのことを薄々(もしくは強く)感じていたはずです。

だからプロデューサーのこの言葉は、ある意味当然のことを言ったのにすぎない。
回想の中で繰り返される卯月の笑顔と、NGとCPが前に進むための決断を既に見知っている側からすれば、当たり前のことを言葉にしているにすぎない。
しかしそれでも、卯月を舞台に送り出すという決定的な『勝ち』をつかむためには、始まりの場所の底にある闇というこの『場所』、クリスマスライブ直前という『時間』、そして卯月を見つけ出し卯月に救われ卯月とともにあったプロデューサーという『人』、全てが必要だったわけです。
長い長い特別な卯月の物語は、同時にプロデューサーの長い長い特別な物語でもあって、今この瞬間、二人の物語は決定的な衝突を果たした。
この第24の長い時間を卯月のためだけに回したのも、全24話に及ぶ島村卯月の長い物語も、この瞬間のためにあります。

「そうだったら嬉しいです」『でも』「春はどうやって笑ってたんでしょう」『でも』『でも』「私、凛ちゃんと未央ちゃんと進みたいから」
事ここに及んでもジレンマ(トリレンマ?)に縛られ、何処に歩みだして良いのかわからない卯月ですが、『進みたい』という願いを言葉にできていることからも、状況が改善していることは見て取れます。
本田未央の問題が問題の表面化から解決まで第6話ラスト-第7話かかっていたのに比べ、島村卯月の問題は第21話から第24話全体を包み込みつつ、じっくりと進んできました。
未だ笑顔は作りものですが、この逡巡も特別あしらえの第24話らしいといえなくもないでしょう。


そして、プロデューサーの手が境界を超える。
真ん中をぶち抜いた扉の結界を抜けて、「このままここに留まるのか、可能性を信じて先に進むのか」という選択を要求してきます。
それは仲間たちの誰も言わなかったことであり、言えなかったことであり、言う資格のないことでもあった。
プロデューサーという存在が持つ職業的立場、主人公として視聴者の自我を強く投影される物語的立場だけが可能にする、身勝手な境界侵犯です。
しかし、そんな強引で身勝手な選択肢の提示ができるのは、アイドルを導き舞台に上げるプロデューサーだけの特権であり、車輪を己に任じていた男はようやく、プロデューサーの本文に立ち返ったのだとも言えます。

仲間がつぎつぎ辞めていく中、孤独に選ばれる時を待っていた島村さんは、第1話で差し出されたプロデューサーの手を取り「笑顔、です」という言葉を信じてアイドルになりました。
隘路に迷って闇の底までやってきてしまったわけですが、そこから引っ張り上げてくれる腕もまた、第1話と同じように、プロデューサーの不器用で誠実な腕であるという再話。
その結論が、階段を登りきり闇から光へと歩みをすすめる島村卯月の決断だというのは、第1話では掘り下げられなかった要素です。
あの時決断をしたのは、あくまで渋谷凛だと描かれていたわけですから。
同じ状況、同じ構図を繰り返しつつもそこには差異と変化があり、それを生み出すものこそ物語であるという根源的な主張が、島村卯月が階段を駆け上がる最後の一歩までの描写には、強く込められていたように思います。
そのような再話の力を確認する意味でも、島村卯月に焦点を定め、例外的なロングスパンで展開した今回のお話は、シリーズ全体にとって必要なお話だったのでしょう。


第21話でも、第23話でも、第24話でも登りきれなかった階段を上がった卯月は、未だ視線を足元に集め迷っている。
それでも言葉を振り絞って、自分の中の空虚さに分け入って、可能性に飛び込んでいく勇気を語る。
「でも、信じたいから。私もキラキラ出来るって信じたいから。このままは嫌だから」と泣きながら言葉にする。
天使が天使ではなく、心に傷を負って赤い血を流すただの女の子だと再確認するために、長い時間がかかりました。
ガラスの靴を奪われた女の子が、裸足のままで駆け出す勇気を手に入れるためにも、長い時間がかかりました。

それだけの特別な時間を、何でもない普通の女の子には使わなければいけなかった。
何でもない普通の女の子の物語は、僕達の物語でもあるから。
今回描写された島村卯月の姿は、幾ばくかの欠片でも僕達の中に、必ずあるものだから。
特定のキャラクターを拾い上げて形成される、選ばれた物語がしかし、あまりにも広範な一般性を獲得して胸に届くということ。
『このお話は、私の物語だ』という感覚を奇跡のようにもぎ取ることが、どれだけ大変で貴重かということ。
色んな事を引っ括めて、島村卯月二度目の告白が渋谷凛と本田未央に届き、制服とローファーのまま『S(mile)ING!』が始まるわけです。

346本社に卯月が顔を見せた時も、階段を上がって卯月が本心を吐露した時も、本田未央は一息嘆息し、足元を見つめてから顔を上げ、卯月を抱擁しています。
それは多分、彼女が仮面をかぶり直すために必要な儀式なのだと思います。
『いつも元気な本田未央』『ニュージェネレーションのリーダー』という、本田未央の資質が一番生きる場所に、自分自身の感動を閉じ込めて制御するために、必要な儀式。
第6-7話の激動を経てそこに辿り着いたのだとしたら、やっぱり本田未央は誇りに値する存在だなぁと、僕は思います。
お前は凄い、歴史の教科書に乗るくらい凄い。


白紙の星を白紙のままで、素裸の足を素足のままで、卯月はステージに上る。
空疎でなんにもない自分を見つめても、もう絶望せずに受け入れることが出来る。
プロデューサーが言ったように、踏み出した先に仲間がちゃんといると、自分の足と目で幾度も確かめたから。
一見遠回りのように見える今回のお話は、卯月がたどり着いた結論に実感と説得力を与えるために、最短ルートで整えられた物語でもあります。
レガリアを探すAパートがなければ、プロデューサーの手を取って、光の側にに踏み出すと決めた卯月にかかる『アナタは一人ではない』という言葉は、その真実性を欠いていたかもしれません。
長くて回りくどい歩みが、結局は最適で最高の答えにたどり着くために必要だったというのは、24話を使って展開された島村卯月の物語にも、言えることなのでしょう。

今回のエピソードはいつにもまして『縦』の展開、印象的な情景の再話が効果的に使われていますが、観客席にいるCPのメンバーは、第3話のNGライブの再話だといえます。
繰り返しは差異を強調するためにも使用されているので、ここに第3話ではステージに上がる側だった小日向さんが存在しているのは、大きな意味を持っているのでしょう。
それは島村卯月がアイドルとして辿り着いた距離の大きさの表現でもあるし、『仲間』として23話一緒に戦ってきたCPの中に、小日向さんを滑りこませなければいけない特別性の表現でもある。
やっぱり何度考えても、卯月の迷走のしわ寄せを一番身近に受けたのは小日向さんであり、そんな彼女が『仲間』の一人として卯月を応援してくれていることのありがたさは、とてつもなく大きいです。
第3話との差異という意味では、あの時サイリウムを握ってすらいなかった杏ちゃんが、やる気満々で二本の足で立ってる所とか最高ですね。

島村卯月の物語がステージで終わるのは、物語的な盛り上がりという意味でも、アイドルという表現者をテーマに据えた作品としても、とても大事だと思います。
島村卯月は第1話のアイドル候補生ではなく、CDデビューも果たし、TVにもラジオにも出たアイドルそれ自体になってしまっている。
だから、ファンの前にドレスもガラスの靴も装備していない状態で立ち、渋谷凛をアイドルの道に引き込んだ最高の笑顔を見せ、唄って踊ってファンを魅了しなければいけない。
表現者は、表現することで存在できるのだから。


島村卯月は迷う。
これまで笑顔の天使として仲間の危機を救ってきた利鞘を取り立てるかのように、最後の最後まで迷っています。
凛の衝動に心理を切開され、仲間たちの言葉を受け取り、闇の底でプロデューサーに手を惹かれてなお、ステージの上に立ってすら迷う。
幾度も幾度も繰り返される逡巡を最後に跳ね飛ばすのは、仲間(小日向美穂含む!)が振るピンクのサイリウムであり、NGに託された白紙の星です。
普通の女の子をアイドルに戻すためには、これまでの物語で触れ合ってきた全てを確認し、目に見える形で提示する必要があったのだと、サイリウムと白紙の星が語ってくれます。
言うなればこの2つは、シンデレラが戴冠するための最後のレガリアだったのでしょう。

卯月が無事『S(mile)ING!』を歌いきった瞬間、凛と未央は涙を流します。
ここ最近衝動に突き動かされ続けた凛はさておき、本田がここで泣いたというのは、仮面を外したということです。
島村卯月をもう一度舞台に上げるために、必要とされることをやる。
身勝手なエゴに流されず、必要なことをしっかり見つける。
そういう覚悟で被った『いつも元気な本田未央』を剥がすシーンがちゃんとあることに、僕は感謝したい。
良いアニメだ、本当に。

 


5)本編感想-今週の美城常務-
卯月軸でお話を見ていくと、どうしても美城常務の描写を掬いきれないので、こっちにまとめて書きます。
前回見せたイヤミな悪役っぷりを今回も発揮し、要所要所でチクチク差してくる今週の常務。
クローネ管理役という、安易に適役にできない立場から開放されたおかげか、良い悪役をしています。
「アナタには、分からないかもしれませんが」と言い切ったプロデューサーの言は第15話のカエデさんとほぼ同じであり、9話遅れでようやく、あの時のカエデさんと同じ精神的立場に登ったと言えるかもしれません。
それにしたって、ポエムパワー強いな、このお姉さん。

冒頭で卯月にかけた言葉は辛辣かつ意味が分かりませんが、彼女の抱えている問題をかなり的確に分析し、シビアに言語化しています。
色々と描写がとっちらかっている彼女ですが、アイドルと真摯に向き合い、その資質を見誤らないということは共通しているように思います。
自分の理想を他人に押し付け、それが破られるとはつゆも考えないところが、目の良さを曇らせてしまっているのも、ずっと共通。

そういう事態を突破するべく、CPサイドで常務を担当してきた部長が決定的な一発を入れます。
「必ず行きなさい」という強い命令を発した時、常務は部長に背中を向けているのに、部長はまっすぐ常務を見ているのが面白い。
これまで父権的な態度を利して強要する女性だった常務が、真実男性でありより父権的な部長によって土壇場に追い込まれる流れは、ちょっとフェミニズム的な描写だと思う。

ふてくされつつも部長の言に素直に従い、初めてアイドルの現場と水平な視線で客席に座る常務。
第22話でプロデューサーに助け舟を出してもらって以来、高い場所にいるのをやめて地面に降りる描写が散見されてましたが、今回はレッスンではなくステージです。
『切り捨てろ』『もう輝いていない』と散々にけなしていた卯月渾身のステージを間近に見て、ドラゴンと対話した後のアクマばりに「少し泣く」となっていたのも、まぁ当然といえば当然。
常務はもともとアイドル大好き(現状に流されまま個々人の個性を保護しようとしていたPCよりも、アイドル業界全体の潮流を一気に変えようとしたPKの方が野望はデカイとまで言える)だし、現場に出てアイドルの熱と涙を感じ取ったら、即座に方向転換しちゃうからこれまで現場に出さなかったんだろうなぁ……。

第22話でPKとの格付けを終わらせ、『本当は『敵』なんて何処にもいなかったんだ』という第7話メソッドの再演をして、二期で導入した対立の構図を弱めたように、今回は卯月にノックアウトされる常務の姿をいれこむことで、更に対立構造を崩壊させてました。
そもそもにおいて常務が『悪すぎず、強すぎず』な敵役だったこともあって、あんまり堅牢な構図だったわけではないですが、あのシーンを入れることでお話が綺麗に終わる地ならしを丁寧にやっている感じです。
第25話は舞踏会本番なので、白旗を上げて終わる準備が万端整ったかな。

 

6)おわりに
というわけで、普通の女の子の普通な悩みを解決するのに、どれだけ手間と時間がかかるかというエピソードでした。
最初は卯月のための物語かと思ったのですが、思いの外プロデューサーの役割が大きく、彼ら二人の物語のエンドマークなのだなという再発見をしました。
これでシリーズ全体の物語がだいたい平らになって、クライマックスとして舞踏会をやっておしまい……と言いたいところなんですが、『渋谷凛の衝動は時に人を傷つけるけど、彼女はその危うさに気付いていない』という伏線は、のこった時間で回収できるものではありません。
本田未央が一期を、その隙間と二期を利用して島村卯月が、己の根源にあるネガティブな要素を表面化させ、周囲を巻き込んで爆発させ、色々あって収めて成長していった物語は、渋谷凛においてはまだ始まってすらいない。
それは多分、意図的に物語の外側にはみ出るよう、周到に用意されていると僕は思っています。
来週の25話最終回と、その後にあるものに、僕は強く期待しています。