イマワノキワ

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コンクリート・レボルティオ~超人幻想~:第5話『日本『怪獣』史 後編』感想

巨大な空白、もしくは幻想としての怪獣をめぐるエピソード、その後編。
学生運動やブロークンアローなど、現在にまで残響する過去のネタを拾い上げつつ、超人課のハラワタを思う存分ぶちまける回となりました。
『敵』として出て来たメディアの偉い人も、けして『正義』ではないんだろうなぁ……というやるせなさが漂うね。

『未来編』に至るまで超人課の『正義』を疑うことを許されていない爾郎にとって、メガゴンはあってほしくはない自分、力と欲望のままに暴走する破壊王であり、ケジメとして殺さなければいけない『悪』となります。
しかし早川くんにとっては弟であり、超人課にとっては自分たちの悪事の証拠であり、一分の愛好家にとっては深大なテーマの象徴であり、また大衆にとっては胸がスカッとする破壊活動の権化である。
フィクションの中の『怪獣』がそうであるように、様々なものを覆い焼きされ、見るものによって立場を変える、この作品の中の『怪獣』。
しかしその本質は、人間社会から遠く離れた価値観を持つウルが言っていた『ただの動物』だったのではないでしょうか。

同時にこのアニメは過剰に解釈主義的といいますか、人間の欲望と立場が必要とする皮相こそが実社会の中では本質になり変わってしまうという、皮肉な見方を強く押し出しています。
人間は『ただの動物』に『正義』の『悪』の、人間性の発露だの破滅の祝祭だの、弟だの、身勝手な解釈を貼り付けるわけだけど、それを否定し『ただの動物』に戻る自由はガゴンには与えられていない。
解釈がまかり通る世界でこそ美しいイノセンスが、必然的に持っている無力さは、例えば第2話の風郎太にしても強調されていたところです。


では無垢さを踏みにじり、弄び、利用する側が『正義』という開き直りが行われているかといえば、そうでもない。
ガゴンを『ただの動物』として遇し、ペット・アニマルが受けられる最大限の真心で家族に迎い入れていた早川くんの姿は、前回も今回も描かれていました。
彼は弟であるガゴンが米国の兵器・メガゴンに変わってしまった後も、頑なに『ガゴン』と呼び続ける。
ただただストレス発散の代理人として怪獣を求めるデモ参加者の中で、彼だけが『人間の友達』である優しい怪獣ガゴンを信じ続けていた。

その上で、ガゴンの瞳に懐中電灯を最初に当てたのは、早川少年自身です。
あの瞬間、少年は世界の悪意から『弟』を守り切る夢を諦め、『人間の友達』という綱をガゴンから切った。
彼の覚悟は、最期の瞬間『弟』をメガゴンと呼んでいることからもわかります。
無垢ではい続けられない荒野のような世界に、オバケではない早川少年は屈してしまった。
あまりにも沢山の『大人』の悪意から、まるでスポットライトのように集め続ける『弟』が自衛するためには、暴力以外の手段がないと思い詰めてしまった。
彼をそこまで追い込んだのは『子供の涙を見ないために、怪獣を殺す』という『正義』を叫んだ爾郎であり、その『正義』を支える超人課なわけです。

母の面影を見た笑美に裏切られた彼は、前回と今回のお話しの間で世界の醜さを思い知らされ、風郎太よりも早く『大人』になってしまっています。
爾郎に対するテロリズムを、自分の怒りの発露として観光している以上、彼はもう無垢な子供ではない。
柴警部のように、理不尽への怒りを世界に対してて叩きつけなければいけない激情を、身を持って知った社会の敵なわけです。
それでも、ガゴンがメガゴンになってしまっているという事実を受け入れずに、『人間の友達』という幻想を大事に、自分の中だけの真実を守ろうとした。
結局超人課の暗躍で加速した暴力に屈し、彼自身がガゴンをメガゴンに、『人間の友達』を『破壊兵器』に変えるスイッチを押すことになるわけですが。

そこには無垢性という『本質』を維持し続けることが出来ない、風当たりが強い世界への眼差しがあります。
しかし同時に、それが捻じ曲げられてしまうものだという認識、事実として無垢性は汚れていってしまうけども、同時に真実としてそれはそこにある、あってほしいという願いもまた感じ取れる。
『過去編』の爾郎が『正義』にとって投げかける真っ直ぐな視線と、『未来編』で超人課を抜けて『俺もお前も正義ではない』と嘯く、折れ曲がって変質した覚悟。
その捻れは製作者が『正義』とか『無垢性』とか『ただの動物』とか『機械』とか『怪獣』とか、シンプルで綺麗な本質を強く希求する姿勢と、同時にそれは折れ曲がらざるを得ないという現実認識との間にある捻れなのでしょう。
そして、『弟』に懐中電灯から出る光の悪意を投げた早川少年は、爾郎が経験することを約束された挫折を先取りして『大人』になってしまった。
そう感じました。


小器用に立ちまわる『大人』たちの手前勝手さは『正義』ではないのだけれども、『』付きの『正義』(過去編で爾郎がしがみつかざるをえない『正義』)を維持していくためには、『子供』のやり口は無力。
これは女の戦いにも延長されていて、煙草も吸えれば嘘も言える笑美と、あまりにも稚拙な慰め方しか出来ない輝子との対比にその姿が見えました。
怪獣王子として博士に拾われ、母を知らずに育った爾郎(こう言う意味でも、早川少年は二人目の爾郎なのだと思う)にとって笑美はあまりに圧倒的な女であり、笑美もまたその優位性を強く認識しつつ、爾郎を慈しみ弄ぶように立ちまわっている。
まだ20歳ではない『過去編』の輝子はその小狡いやり口にうまい返しを当てられないわけですが、『大人』の小狡いやり口を毅然と否定する誇り高さは、笑美にはない彼女の武器です。
超人課の中で唯一、人を殺す以外の解決方法を持っている辺り、やっぱり輝子は特別だなぁ。

『未来編』で笑美がどうなっているかが描写されていないので、確言することは出来ませんが、爾郎は己の中の無垢性、ただまっすぐに『正義』を信じる本質を歪められ、『大人』になっている。
20歳になった輝子が、『過去編』でみせているあまりに貴重なイノセンスをどこまで守れているか分かりませんが、『正義』を失った爾郎にとって、永遠に子供の風郎太のよう大事な存在だと良いなぁと、僕は思います。
『大人』になる条件に母殺しが含まれるのだとしたら、超人課を離れる過程で笑美を吹っ切らないといけないのかな、爾郎は。
笑美のエゴの奥底も含めて、ここら辺はまだまだ分からないところですね。


『大人』たちは怪獣ブームの裏側で、メディアを通じて世論を操作したり、自作自演の列車事故を演出したり、猿を殺したり大暴れでした。
彼らが『正義』を行って守りたいものは何なのかは。やっぱり今回のお話ではまだ見えてこないわけですが、もしかしたら明言されないのかなぁとか思っております。
常に私利と私欲は暴走し、正義は貶められ、本質は見失われる。
それは世界のルールであって、形のある『悪』や明確な理由があって行われる訂正可能な事件というよりは、みんなご存知の倫理エントロピー的常識だという世界認識は、いろいろ透けて見えるので。

それにしたって超人課の連中は胸糞悪い我利我利亡者ばかりでして、同時に彼らが小狡く立ちまわっていればこそ、超人にとって塩梅が良いように世の中が回っていることも多分事実。
『超人なんていうわけのわからないものより』というモブのセリフから考えるに、そうとう生きにくい世の中っぽいですし、その捻れ方に耐え切れなくなったからこそ、爾郎は『未来編』で超人課を出るんでしょうしね。
人吉博士に関しては、知的好奇心の満足という私利が分かりやすいので、思う存分株を下げることが出来るけどね。
「久しぶりに実験ができて良かった」はねぇだろ、マジで。
もともと真っ黒な描写の多い博士でしたが、ラスト10秒で更に黒く染まる辺り、流石會川アニメの父親だな。

松本くんも怪獣に対する思いをさんざん拗らせてましたけど、『神化元禄』という言葉から察するに、階級ルサンチマンといいますか、借金背負って苦しい生活を強いられた恨みを怪獣テロルで晴らしていた側面も、チラホラ見えました。
『人間の友達』を望んだキレイ事も全部嘘ってわけじゃないんだろうけど、「俺と同じように、お前らも全部失え」って破滅願望に猿と子供巻き込むのは、あんま褒められないと思うよ。
彼が用意した破滅の祝祭に、学生が無責任に乗っかっていくシーンは、かなり分かりやすいメタファーだったな。

芳村さんは何考えて事故を提案したのかいまいち見えないけども、起こる未来は変えられないので有効に活用しようと考えたのか、はたまた別の狙いがあるのか。
タイムトラベラーとして背負った事情は、まだ個別エピソードが来ていないので分かりませんしね。
とまれ、自分の目的のために様々なものを利用する『大人』の側面があるってのは、間違いがないっぽいですけども。

超人課の『敵』として出て来た里見顧問も、メディアという力を操る『大人』でした。
厚生省外郭団体という表の顔を持つ超人課ですが、柴警部という個人レベルの『敵』だけではなく、組織を抱える『敵』もいるようで。
広告代理店によるブームの捏造という『大人』の手段を持つ里見が、超人課の何を敵視しているかは、今後の描写次第ですか。
少なくとも『正義』じゃあないよなぁ……このアニメのニヒルな見方だと、もう一つの『正義』ってのは十分ありえるけどさ。


というわけで、爾郎の無垢な正義が子供を泣かし、猿を殺すお話でした。
ガゴンはマジでなんにも悪いことしてないただの猿であり、キレイ事じゃ渡れない世の中とか百万の顔の正義とかはさておいて、あの子ほんと可哀想。
大人の良いように利用される怪獣という意味では、兄弟とも言えるメガゴンを殺される爾郎も本当に酷い。

そういう存在が報われず、むしろ踏みにじられるニヒリズムを秘めつつも、輝子や爾郎のようなキャラクターも配置されているこのアニメ。
どういうバランスで走っていくのか、とても気になるエピソードとなりました。
個人的な好みとしては、抱え込んだ虚無主義を大事にしつつも、物語が持っている前向きな力を少しでも発露する、今のバランスを守って進んで欲しいところです。
會川アニメで言うと、"UN-GO"くらいの苦さと甘さのバランスが好きなのですね、僕は。