イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

すべてがFになる -THE PERFECT INSIDER-:第5話『銀色の希望』感想

真賀田四季の存在と不在を巡る冒険、5回目の今回はいつにも増してダイアログ多め。
実際に起きたはずの所長殺人は遠景に遠のき、二人はいないはずの四季博士に振り回されながら、時に身勝手な子供のように、時には落ち着いた賢者のように会話を続ける。
一方十三歳の真賀田四季は、恋を知ってナイフを買うのであった。

アニメになってみると、真賀田四季のいる彼岸に引き寄せられつつ、犀川創平と西園寺萌絵という二人の天才/変人がどうにかこうにか尋常な岸に居続けようとあがく、一種の綱引きのようなお話だということが見えてきます。
四季の異常な魅力は様々な人を引き寄せ、それで狂ってしまったのが所長であり、狂いそうになりつつお互い引き戻しているのが犀川&西園寺のコンビなわけです。
天才として異常な人格重力を持つ真賀田四季に抗いつつも引き寄せられていく、恒星運動のような物語なわけですが、犀川先生と萌ちゃんの間にもまた恋という引力がある。

今回のアニメ、13歳の四季と19歳の萌絵は重ね合わせで語られるシーンが多く、しかも年上のはずの萌絵のほうが遥かに幼く描かれています。
ロリ四季は所長をソッコー誑かして貫通判定も成功させたのに、萌絵ちゃんはグダグダと面倒くさいことで絡みまくり、わんわん泣きわめき、自分で自分の言っていることを把握すらしていません。
13歳の真賀田四季にすら負けているのに、現在の真賀田四季に西園寺萌絵が勝てる筈がなく、時分は恋の綱引きで負けて犀川先生をとられてしまう。
この焦りが、今回萌絵がグダグダ言っていた原因の一つです。

重ね合わされているのは幼い恋だけではなく、親殺しのトラウマもまた、二人の女に共通しています。
空港の事故で奪われてしまった両親に萌絵は強烈な慕情と、その反動としての孤独感と恨みを抱いている。
犀川先生への執着も、半分くらいは捻れたファザー・コンプレックスの発露なのかもしれません。
萌絵が愛しているのに憎んでもいる両親を、真賀田博士はその天才性を思う存分発露してぶっ殺し、しがらみからとっとと自由になってしまった。
グズグズと倫理的であろうとし続ける西園寺萌絵にとって、そういうところも嫉妬の対象なのであり、同時に四季博士に惹かれる理由でもある。
このお話しの人格的綱引きは個人の間だけではなく、個人の内部でも複雑に機能しています。


何かと危なっかしい西園寺くんをこっちに引き止めるべく、今回犀川先生は結構熱心に語りかけています。
倫理的な糾弾者という立場を維持しようとする萌絵が気づかない、殺人者・真賀田四季への嫌悪感と背中合わせの執着に、犀川先生は気づいている。
そのロジックを萌絵自身に気づかせ、解析させようとして今回の面倒くさい会話があったのだと思いますが、激情家でもある萌絵は師匠の親心には気づきません。
こう言うところも、13歳の四季よりも子供っぽいポイントです。

両親の死というトラウマを背景に、窓のない研究所で起こった殺人と逸脱者である四季博士を恐れつつ惹かれていく萌絵。
全体的に白い世界の中で、イチゴジャムやワインを使って鮮烈に強調されていた赤は、萌絵の興味の色なわけです。
萌絵が赤に押し流されれば、一切の歯止めなくセックスと殺人に滑り込んでいった13歳の四季のように、人間社会から逸脱してしまう。

それを危惧したからこそ今回、犀川先生は会話で探りを入れ、度が過ぎた不安定さに追い込まれていると判断したからこそ、白い世界から一旦離脱することにしたのでしょう。
四季に引き寄せられる犀川先生を止めているつもりの萌絵は、その実犀川先生にギリギリのところで引き止めてもらったわけです。
ここらへんの綱引きは色んな所で屈折していて、面倒くさいですね。


不在故に二人を妖しく引き寄せる真賀田四季は、視聴者には13歳の時の物語を、同時並列的に開示されています。
これは研究所での殺人に13歳の事件が深く関わっているからでもあり、二人の女の姿を重ね合わせて見せるためでもありますが、同時に天才・真賀田四季が未だ人間でもあった時代を視聴者に見せる意味合いもある。
窓のない研究所に隔離され、殺人も犯していない13歳の真賀田四季
彼女は恋をし、セックスをし、それが許されない柵を意識した瞬間、まるで魔法の鍵のようにナイフを購入し、恋人に手渡す。

その逸脱は軽やかであると同時に危うくもあって、散々6歳上の萌絵の幼さを強調してきたスマートな姿は、取り返しの付かない事態にどんどん踏み込んでいってしまう軽率さも兼ね備えている。
あっという間に彼岸に行ってしまった四季博士と、いつまでも柵の内側で駄々をこね続ける萌絵の対比は一見、四季のほうが優越しているように見えるし、萌絵もまたそう認識している。
しかし現在と過去を並列で流すことで視聴者には神の視点が分かりやすく与えられ、柵を迂回したりより建設的に改良したりする努力を飛び越えてナイフに頼った四季の危うさ、幼さもまた俯瞰できるように、今回のお話は構成されていました。
自ら両親を殺した/殺させた四季と、自分が関与しない両親の死の影から逃げられない萌絵。
現在と過去を行ったり来たりする構成は、二人の女どちらが良くて、まともで、強いのか視聴者に考えさせる役目を果たしているように、僕には思えました。

そして今回強調されていた赤が殺人の結果流れる血であると同時に、経血と処女血というセックスにまつわる赤だとするなら、真賀田四季は所長のことが結構好きだったんだろうなぁなどと、勝手に妄想したりした。
好きな人と肌を合わせたい、一緒になりたいという欲望に素直に行動した結果、年齢やら血縁やらを理由にそれを否定されてしまうのなら、純粋でないのは確かに社会やルールのほうなのかもしれない。
フリーダム過ぎていろいろ大変なことになるんだが、四季博士には関係のないことだもんなぁ……。

同時に仮装の人格を任意に製造できる四季博士にとって、生身の人間がたったひとつの人格を持ってウロウロしている現世のほうが彼岸というか、現実感のない場所なのかもしれんと思う。
そういう意味では、生来の彼岸性に所長を引き込んでしまった結果、一線を飛び越えてしまった結果が現在に繋がるのであり、博士と所長は犀川先生と萌絵が犯しかけている失敗を先取りする『悪い手本』なのかもしれない。
つくづくアウトサイダーというか、大多数の人が共有していルールからズレている人ではあって、そういう要素型小なりと共通すればこそ、犀川&西之園との綱引きもまた成立するのだろう。
脳内に仮装人格を多数作れるほどのディジタルな思考を考えると、真賀田博士の末路があなるのも納得というか、肉体のある真賀田四季を結節点にした鏡合わせというか、なんというかだな。(多分本編にはあんまり関係のない考察)

というわけで、過去と未来、不在と存在、倫理と破戒が相互に影響し合いながら回転する、動きのない回でした。
"魍魎の匣"でもそうなんだが、IQ高い登場人物が喋りまくるお話をアニメにするのは、なかなか大変そうだ。
セックスありヴァイオレンスあり転落人生ありと、色んな意味でカラフルな過去編を合間合間に挟み込んでいるのは、視聴者の興味が枯れない工夫でもあるんだろうなぁ。
原作既読ってのもあるけど、面倒くささが魅力の原作を巧くアニメにしてくれていて、好きだし面白いですね、このアニメ。