イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

コンクリート・レボルティオ~超人幻想~:第6話『やつらはいつでも笑ってる』感想

もう一つの昭和史を行ったり来たりしながら、フィクションと現実の昭和史を総括するアニメ、六話目はスターダストボーイズの哀しみ。
これまで凄惨な陰謀を繰り広げ、謀ったり潰したり、騙したり殺したりしてきたサツバツアニメですが、今週は音楽とコントで笑いをお届け! 
とでも思ったか、陰謀はあるし普通に死人は出るぞ!! というお話でした。
會川、マジ容赦ねぇ。


今回のバックボーンはビートルズドリフターズ、時間軸は違えどグリコ・森永事件というところなんでしょうが、相変わらず色々混ぜつつコンレボ色に染め上げる料理加減。
やはり軸になっているのは登場人物たちの感情のドラマでして、二流のバンド・二流のコメディアンとして地べたを舐めつつ、『笑えるか、笑えないか』を人生の判断基準に据えた覚悟の男たちの、命がけの道化芝居が繰り広げられました。
『なぜメンバーの死を悼まないのか』と問われれば、それは『泣いたって、笑えないからさ』とおそらく応えるだろう、ピエロたちの矜持。

これまで派手な能力で大暴れしてきた超人たちに対し、ドン達の力はひどく半端で地味です。
それこそ場末のキャバレーで笑いを取るくらいにしか使えない能力は、バンドとしても芸人としても中途半端な彼等に相応しい物。
罪のないオモシロ能力で笑いを取るのは法律で禁じられ、超人稼業を気取るにはパワーが足りない。
超人への中途半端な態度は、そのまま彼らの音楽性にも繋がっていきます。

"マウンテンホース"は音楽性の面でも、超人能力への対応でも、メンバーごとにかなりバラバラです。
口止め料代わりの仕事に飛びつこうとするもの、活きる意味をヒロイックな活躍に求めるもの、コミック・バンドを恥ずかしがるもの、二流仕事が与える客の笑いに誇りを持つもの。
彼等は現実の『四人組』がそうであったようにいつもバラバラで、しかし唯一の戦中派であり妻子持ちの『大人』として筋の通った意見をもつドンに従って、一度限りの超人仕事に手を染めます。

この『バラバラなものが、強い信念のもとに一つにまとまる』運動は凄く物語のダイナミズムとして気持ちよくて、見ていて強烈な視聴体験をさせてもらいました。
ドンの言う『超人は笑えねぇ』という感覚は、彼等にまつわる陰謀をこれまで見てきた視聴者の視線と重なるものですし、『二流でも客が笑ってるのは良いことだ』というシンプルでスムーズな人生哲学は、無駄を削ぎ落とした美しさがある。
色々意見が分かれつつメンバーがドンに付き従って命を賭けたのは、無論彼が年長者でありリーダーだという立場的なものもあるのでしょうが、『二流でもこれだけコケにされて、立ち上がらなければ三流だ』というドンの怒り、それを生み出す彼の生き様に共感したからなのだと、僕は思います。
後の鉄火場での意外な能力の使い方、そのコンビネーションの気持ちよさも含めて、『負け犬たちのワンスアゲイン』として気持ちの良い展開でした。
……だからこそ、ディーの犠牲が刺さるっていうね、ホントね。


『超人は笑えねぇ』というドンの直感のとおり、メンバーの一人、キリストのような容貌をしたディーは爆発に巻き込まれてあっさり死ぬ。
コミック・バンドだろうと、しょぼい能力だろうと、そんなものは一切斟酌せず、超人が持つリアリズムはいつでも生け贄を求め死人が出るという、厳しい作品のルールが彼を磔にしたのだと言えます。
しかし彼等は涙を他人には見せないし、クールに交渉を済ませさらりと去っていく。
そこには最後まで『笑えねぇのは良くねぇ』という一種のダンディズムが漂っているわけで、超人の大義に身を任せ傷つき変質してしまった、爾郎や柴警部やガゴンや、その他沢山の生け贄たちとは一線を画す、強かなスタンスが見て取れる。
(あんま関係ないんですが、『メンバーのうち一人が暴力に倒れて消える』という構図自体はコミック・バンドではありえない『素敵な四人』の方の史実でして、ジョンの文化的アイコンとディーの風貌を見るだに、彼が贄になったという構図を見ると実は"マウンテンホース"は『解散せず、ジョンだけが欠けたビートルズ』の絵写しなんじゃないかという妄想を、どうしても振り払えずにいます。いや、コミック・バンドやドリフターズが、ロック・バンドやビートルズよりも上だの下だのって話じゃないですし、今回のお話からドリフへの強い愛情とリスペクトは感じられるわけで、本筋はやっぱそっちだと思いますが)

物語のラスト、『未来編』のシーンは超人課のシリアスな現実に磨き上げられた精悍な風郎太と、正義を見失い笑顔もなくした爾郎が"マウンテンホース"の歌を聞いているシーンです。
二流コメディアンと自身を蔑んでいた彼等ですが、罪のないハルの引き寄せ能力で、真実の自分を隠すコートを奪われた爾郎はコミカルな動きをして、一服の笑いを届ける。
これまでの物語五話全てを渋面で見終えただろう視聴者もまた、初めて少し爽やかな笑いと一緒にお話を見終えることが出来る。
作中の人物にも、画面の向こうの視聴者にも、これまで作中になかった『笑い』を届けることができているなら、やっぱり『笑ってるのは良いことだ』という彼らの哲学はとても大したものだし、二流コメディアンには出来ない仕事をしっかりこなしたのでしょう。
"マウンテンホース"は、立派な超人だし、立派なバンドだし、立派なコメディアンだし、立派な人間です。


そんな誇りある道化師から視線を外すと、今回は超人にまつわる設定が色々出たお話だと思います。
戦前は超人法規制は無かったということ、戦争で大国が兵器として使った結果タブーとなったこと、『未来編』では『過去編』の報道規制を超え、超人と判るだけで『保安隊』に確保される犯罪者扱いであるということ。
このような社会的な側面だけではなく、『素敵な四人』の歌で超人は『増える』ものであること、特定の化学(?)物質によって超人は『止める』事ができるものであることなど、物質的な側面もクローズアップされていたように思います。
比較的息を抜いたかいだからこそ、会話の隙間に設定を紛れ込ませる見せ方はスマートで、かなり好きです。

キャラクター的な面から言いますと、メディアの走狗東崎さんが思いの外甘ちゃんといいますか、死人が出るシリアスな超人世界に慣れきっていない感じを見せていました。
『ちょっと脅せば帰るでしょ……』位のつもりで破壊者けいおんバンドを出したんだろうが、ドンの覚悟とディーのメサイアコンプレックスを見誤ったのがなぁ……。
あの人ガゴンの時も慌ててたし、根は善人なんだと思う。
そういう人が超人にまつわる地獄の真ん中にいると壊れていくとも思うので、未来世界だと案外、爾郎の仲間とかやってんじゃないかなぁ。(罪のないおサルに優しくしてくれた人は、未来でも正しい岸にいて欲しいという願望剥き出しの予測)

あと志村リスペクトでボーヤやってた風郎太が、『未来編』との対比含めて良い動きしてた。
第2話では号泣しながら『俺も大人になりてぇよ!』と言っていた風郎太ですが、まだ無垢だった時代の幸せな思い出として"マウンテンホース"を見つめ、それを保護しようとする目線は、『大人』として風郎太の無垢なる特権を愛した『未来編』の爾郎と、実はさほど変わらない。
ということは、いつまでも幼く完璧に無垢なままで在り続けてくれる都合のいい存在など何処にもいないということであり、爾郎の願いもまた風に吹かれて消えていく哀しい幻想であるということなのでしょうが。
そういう部分へのシビアさは常に徹底されていて、『超人に郷愁の張り付く余裕はない』というルールを思い知らされます。
それと背中合わせに存在する、『超人は郷愁を抱かざるをえない』というルールも、また。

というわけで、閑話休題、これまでとテイストは違いながら、やはりシビアなルールを感じさせるお話でした。
そんな逆風にも襟を立てて、背筋を伸ばし『笑ってるのは良いことだ』と言い続ける"マウンテンホース"の偉容は、輝子とはまた別角度から超人の希望を一筋示したように、僕には思えます。
とてもいい話でした。