イマワノキワ

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アイドルマスターシンデレラガールズ感想 最終回記念外伝 -過去の感想に見る期待と願望- 第21話~第25話

もしくは、灰かぶりノスタルジア

振り返り企画もついにラストラップ、第21話から第25話までであります。嵐の秋フェスから島村卯月魂の遍歴、そして舞踏会と一つの終わりまで。期待と願望のチェックだけではなく、補足感想なんぞも書いていきますよ。

 

第21話

最初にCP全体の話をすると、無印アイマスアニメ第23話にも似た、アイドルとして花が開いてきたからこそお互いの時間が取れない不自由さが、メンバーを動揺させる展開でした。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd season:第21話『Crown for each』感想 - イマワノキワ

『 無印の構成を横目で見つつ、同じことをしない』という演出方針は最初から最後まで徹底されていたわけだけど、『団結があったからこそ人気になり、忙しさが団結を削っていく』というポイントは共通しつつ、そこを貫通してCPを解散させちゃう終わり方を見るだに、この話って大事なんだろうな。個別エピと秋フェスを通過して他メンバーほぼ完成するわけだけど、最後のピースとして卯月の空疎さに突っ込んでいくのは、彼女が『普通』の女の子だからか。無印のラストピースが『地味』『普通』な天海春香だったのとも対比なのかな、この選択。

常務がもたらした変化にはネガティブな価値しか見いだせないCPですが、これまで描写されたCP内部の共通体験は受け入れれられるわけで、蘭子が自分の体験を語ることでみんなに『思い出させ』ていたのは、有効かつ重要な手筋だった気がします。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd season:第21話『Crown for each』感想 - イマワノキワ

 本当に大事なテーマはどうあがいても変化せず、過去の自分史の中で既に演奏されているというのも、このアニメの基本哲学だと思う。だから『見つける』のではなく『思い出す』ことがほぼ全てのエピソードで解決策になるわけだし、そこにはリフレインの豊かさがある。その上で、『思い出』しただけでは解決にならない卯月を最終問題として使うのは、最後に別格のハードルを超えている感じがある。

常務への敵対意識を、秋フェスという『現場』を通過しないと/すれば解消できない活動第一主義は彼女らが『アイドル』を職業にする以上、納得のいく描写である。体動かして、圧力が現場でかかって舞台という土壇場に座って、ようやく実感を持ってPKを受け入れられるというか。そこら辺の身体性は結構重視されてた印象。

あそこまで体をいじめ抜く姿には一種の内罰性というか、アーニャが離れていくことを大人らしく笑顔で受け入れつつも、離れていく不甲斐なさを痛みに変換して穴埋めしている被虐趣味を感じなくもないですが、それは捻くれた読みというものでしょう。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd season:第21話『Crown for each』感想 - イマワノキワ

 新田さんはエピローグでも体をいじめていたので、やっぱマゾヒストなんだと思う。体が追い込めれば追い込まれれるほど、アーニャを必要とする自分を再確認して快楽を得られるという苦行者体質。つまりアナスタシアは神。(キチ眼でボソボソ呟くマン)

一人置いてけぼりにされた状況も、二人のように『何か』があるわけでもない空疎さを自覚して自分の武器を問いかけて、魔法の言葉である『笑顔』を受け取って満足する。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd season:第21話『Crown for each』感想 - イマワノキワ

 「笑顔です」って凄く火力のある言葉だし、ぱっと聞いて胸に刺さる素敵な台詞なんだけど、だからこそあらゆる困難を打破する魔法の言葉として多用され、その祝福性だけではなく呪詛性も見えてしまった。そのことから目を背けず、呪いとしての『笑顔』を真正面から描いた上で、Pチャンが一番最初に言った「笑顔です」の真意を伝えることでもう一度『笑顔』に戻ってくる卯月の遍歴は、作品全体を代表するテーマを丁寧に巡る良い構造をしている。お話のラストを飾る舞踏会のサブタイトルが『笑顔の力』であることを考えると、やはり第1話から作品を貫通する一本の軸なのだな、『笑顔』は。

『いつも元気な本田未央』が完全に仮面だとは言わないけど、前川のネコミミくらいに外付けだよね、本田さん。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd season:第21話『Crown for each』感想 - イマワノキワ

 『借り物だからなんだ。仮面だから意味ないのか。外付けなら本物じゃないか。そもそも自分を偽っていない存在が人間社会の中にいるのか。真実と虚偽の境界線って、そんなに明確に引けるのか。全部が偽物であるなら、「本物か偽物か」は内実ではなく振る舞いで決めるのがロジカルだろう。論理的にも実際的にも、彼女は『いつも元気な本田未央』であり続けようとして、そこに辿り着いたんだ。それは尊い。偉い』という言葉が、この後卯月を支え続ける本田、『流れ星キセキ』前の軽口を叩くリーダー本田を見ていると聞こえてくる。多分妄想なんだが、そこまで妄想でもない気もする。さてはて。

空っぽな彼女の感性が揺れ、動き、トキメキに出会って階段を登る日は絶対にくるし、こなければならないと、僕は思っています。 今回蘭子が冒険の価値を『思い出させ』たことを考えると、島村さんの美点もまた、いつか必ず『思い出』されるんでしょうね。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd season:第21話『Crown for each』感想 - イマワノキワ

 卯月の物語はこの時の予感(希望?)からは少しズレたところに着弾し、何もない自分を徹底的に掘り下げ、夢の階段に本当の意味で足をかけたところで物語は終わった。そういう意味では一般的なシンデレラ・ストーリーと島村卯月のお話は異なっているし、彼女の達成(職業キャリア的な意味でも、人格育成的な意味でも、物語的な意味でも)は語られず想像し、確信する物語だといえる。

ここまでCPと一緒に走ってきた、素敵なアイドル物語。ここから地の底まで下がる、人格探求の物語。島村卯月の孤独でありながら友情に満ちた歩みは、その孤独を確かめてある意味『開き直った』ところで終わってしまうわけだが、途中経過がここまで描かれていればゴールは確信できるというか、書かないほうが豊かであるとまで言えると思う。ただ『思い出せ』ば完成するのではなく、『思い出した』ところから始まる物語。結論がないからこそ無限に前進する、人生の物語。島村卯月の物語はやはり、僕の想像を遥かに超えて展開していった。

今回の冷たい印象が『常務=敵』という、これまでの二期を貫通するイメージに沿ったものなのか、はたまた別の意味合いがあるかは、秋ライブで分かってくるでしょう。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd season:第21話『Crown for each』感想 - イマワノキワ

 第22話でPKを支える古参兵の立場になることで、PKとCP、常務とプロデューサーの『格付け』は完了し、二期のエンジンだった対立軸にも一応以上の決着が付いたと思う。延長戦でしまむーに嫌味を言ったり、Pチャンとポエムバトルをしたりするものの、大筋としてはやっぱり第22話で『常務=敵』という構図は破綻してしまう。

そもそもにおいて『常務=敵』ではないし、そうではないように出だしからして描写されていたし、お話が収まるところでもそうではないと再確認しているわけで、覆されるべきイメージではあるんだけども、正直分かりにくい。もともと分かりにくいアニメではあるんだけど、常務が頑なに維持し続ける不可侵性は一番

ポエム語の多様といい、分かりやすいデレを回避し続けるところといい、常務は分かりにくさと他者性を最後まで維持できるように描かれていた。『他者=敵』となってしまえば他者の中に飛び込んでいく『開放』(『団結』ではなく)でお話を閉じるこのアニメのテーマは全て逆さまに受け止められてしまう。『悪すぎず、狡すぎず、間違えすぎず』の中途半端な敵役として常務を描いていたのは、他者がどうしても持っている理解不可能性を拒絶し、身内の暖かさの中でまどろみ続ける落着を拒絶するためには必要だったのかもしれない。

他人は他人、自分は自分。そこを消滅させて一つになることは原理的に不可能だし、倫理的にも良いことではない。しかし他者性を認め理解不可能性を踏まえた上で、歩み寄ろうとする努力や分かり合える気持ちの良さ、他者が他者であるがゆえに手に入る進歩というものは大事だし、その一線を越えることが出来る可能性こそアイドルなのだ。第25話の対話の背中には、こんな言葉があったのかもなぁなどと今は思っている。

 

第22話

常務の持つ強権的とも言える強烈なイメージと、親しみやすいCPとNGにはない鮮烈さがあってこそ、『敵』の懐に飛び込んだからこそ、『新しい冒険』に飛び込んだからこそ、渋谷凛はTPと"Trancing Pulse"にたどり着いた。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第22話『The best place to see the stars』感想 - イマワノキワ 

ここまで戦闘的な言語をわざわざ選択して 、『敵』としての側面を強調されてきた常務のやり方。それが思いの外理のある、CPのスタンスでは拾いきれないものを回収する網として機能することを示すのに、TPと渋谷凛の出会いは最大のパーツとして配置されている。それが十全に機能していたかどうかは、個人的には断言しかねるところだが、作画カロリーを使った"Trancing Pulse"のステージングにはかなりの説得力があったように思う。

PKサイドの描写はやや控えめでしたが、ありすの名前呼びを核に使って関係の変化をコンパクトに描いていました。 相方を支えきれなかったありすですが、この失敗を糧にして、LOVE LAIKAやCandy Islandのような強い絆を育んでいくのでしょう……LLの湿度は見習うと危ないけど。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第22話『The best place to see the stars』感想 - イマワノキワ

 この後しまむー編に注力していくので、ありすを筆頭にしたPKのお話は最低限に切り詰めて展開される。なのだが、エピローグで新田さんにビシバシ鍛えられてるシーンが入ったり、やっぱ二代目ラブライカとしてありふみは描かれている。かつてアイドルに憧れた者たちが気づけば何者かになり、未だ何者でもないかつての自分を導いていく円環は、挑戦を求め続け前進を続ける風通しの良い運動である。エピローグで提示される作品全体のテーマ、支配的な運動が予兆的に発露するシーンとして、この話におけるありふみは結構大事なシーンな気がする。

常務のアッパーレイヤーな価値観や高圧的な方法論にも一分の理があって、全てを否定しきれないというどっちつかずの(もしくは中庸的な)描き方を続けた結果、今回PKのアイドルたちがCPに支えられ、導かれる展開はすっと入ってくる。 ちひろが言っていたように、『どの部署でも、アイドルたちの活躍は嬉しい』という気持ちがファンにはあるわけで、融和の可能性が一切ない『敵』(正確には『敵』の味方)として描かれていたら、今回の決着はなかなか難しかったと思います。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第22話『The best place to see the stars』感想 - イマワノキワ

 正確に言うと『敵』として描かれていた常務のロジックを別角度から照射し、埋め込まれていた一分の理を強調し再発見させる連続した運動の初動が、この秋フェスだった気がする。この後しまむーに強く当たり、彼女の本気の涙に当てられて心がグラつき、現場にも出るようになった常務の変化の始まり。彼女が歩み寄ることで、頑なにCPを守り続けてきた(故に守護者として視聴者の信頼を得てきた)プロデューサーもまた、自分のスタンスの不足を思い知り、第25話の対話に至るわけだが。テーマを収束させるにはやや歩み寄りが遅く、この後も徹底的にしまむー軸で話が動く(上に、常務側のロジックが別にしまむーを救わない)ことで、要求される水準までこの歩み寄りが機能していたかは悩ましい。

順調に進んでいく秋フェスの中でも卯月の危うさは幾度か描写されていて、例えばTPを見送った後の浮かない表情だとか、それに気づいてハグしてきた未央を抱きしめきれない描写だとか、秋フェスを成功させた後の円陣で一人一歩引いている姿だとか、最後の助走は十分という感じでした。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第22話『The best place to see the stars』感想 - イマワノキワ

 卯月が『抱きしめてくれる誰か』を抱きしめきれない描写、誰かを背負うには弱すぎる臆病さを持っているというのは、第24話まで続く彼女の根本的な業である。『頑張ります』という魔法、笑顔の仮面で人を遠ざける優等生の処世術として、彼女が身を預けない描写は続く。そこを乗り越えるためには、暗黒の一番底まで降りて行って島村卯月を素裸にする第24話が必要になる。

それはおそらく、アイドルマスターシンデレラガールズ二期、それ自体です。 凛と卯月とプロデューサーが出会うところから始まり、NGというユニット、CPというプロジェクトが一つのチームとしてまとまって行き、ユニットデビューを果たし、夏フェスというクライマックスを迎えるまでの物語から、卯月が出れていないからです。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第22話『The best place to see the stars』感想 - イマワノキワ

このシーンから"S(mil)ing!!"のステージまで続く卯月の迷い路はつまり、作品全体を総括するラストエピソードである。『普通の女の子』である卯月が迷う己の何者でもなさ、アイドルであることへのモチベーションのなさというのは非常に一般的な問題で、つまり島村卯月は僕らなのだ。そんな彼女がお話の終わりにお話から置いておかれ、自分を見つけ直す運動はつまり、彼女を通して視聴者がシンデレラガールズというアニメを再発見する物語でもある。お話の総括という論理的・批評的な営為に徹底的にエモーショナルな物語を乗っけて、視聴者にお話の輪郭を『体験』させるシステマティックな戦術ひっくるめて、ココから始まる物語は非常に正しくデレアニ的でしょう。

しかし卯月がどれだけ一期のCPを望んでも、時間は残酷かつ身勝手に先に進む。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第22話『The best place to see the stars』感想 - イマワノキワ

『 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず』

間断なく続いていながら変質し続けている時間の流れ、掛け替えのない一瞬をつなぎあわせて奇跡のように成立している時間意識はデレアニに常に特徴的であったし、25話の物語で学んだことを活かして新しい光に飛び込んでいくエピローグを踏まえれば、世界全てを支配するルールでもある。なので、ラストエピソードでありお話を総括する全てでもある島村卯月の物語時間が、停滞することも停止することも許されていないのはある意味当然。

卯月はそういう形で気持ちを吐き出すことは出来ませんし、おんなじように抱え込む子もまた、智恵理を筆頭にたくさんいる。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第22話『The best place to see the stars』感想 - イマワノキワ

 ここで『貯めこむ子供』という卯月の姿をもう一度見せたことで、第23話で号泣する卯月が刺さるのなんのである。

だって島村さんが生み出してきたもの、達成してきたことは、とっても立派なのだから。 凛ちゃんをアイドルの道に進ませたのも、崩壊しかけた未央と凛が戻ってくるきっかけを作ったのも、プロジェクトルームがいつも朗らかで明るいのも、このアニメが楽しいのも、みんな島村さんがやってきたことだから。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第22話『The best place to see the stars』感想 - イマワノキワ

 『思い出す』こと、物語のスタートポイントに帰還することでお話が前進する運動というのは物語る行為のもっとも基本的な推進方法であり、これまで幾度もデレアニを先に進めてきた類型である。自分が『失敗』などしていなかったことを『思い出した』本田、凸凹コンビの魅力を『思い出して』前川を選ぶ多田、妹の姿に自分の原点を『思い出して』自分らしさを取り戻す美嘉、冒険の価値を『思い出して』動揺するCPをまとめる緒方。枚挙に暇はない。

しかし卯月の物語はその一歩先、『思い出した』程度では乗り越えられない空虚さ、自分への不信感、自分自身を深く掘り下げた経験のない『幸福ゆえの不幸』みたいなものへ、何度も何度も突入していく。幾度もお話が『上が』りそうな気配を漂わせつつ、卯月はずっと迷って、幾度も(一見)振り出しに戻(ったように見えるが、無駄に思える経験は卯月の中に確実に蓄積していき、仲間の行動や経験一つが欠けたとしてもラストステージには立てないわけだが、見た目上は戻)る。だから、凛ちゃんが俺たちの代弁者として『しまむーの笑顔最高じゃん! それ忘れないでよ!!』と叫んでも、それだけでは事態は解決しないのだ。作中最大の尺を使って行きつ戻りつする卯月の迷いは、ラストエピソードとしてこれまでやってきたある種の『お約束』の外側に一歩出る、非常に挑戦的なエピソードだといえる。

当然僕は預言者ではないので、この段階ではいつもどおりのメソッドで物語が解決すると思っており、それを期待して落着のための願いを文字にしている。

特にようやく『やりたいこと』を見つけて走り始めた凛は、スタートラインまで手を引いてきてくれた卯月に恩返しをするチャンスです。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第22話『The best place to see the stars』感想 - イマワノキワ

 と思っていたら、凛ちゃんのあまりに真っ直ぐな言葉はしまむーを傷つけるばかりで、魔法の処方箋として物語を改善したりはしないのであった。しまむーは賢いし優しいので、自分を傷つける凛ちゃんの叱咤まで感謝して受け止めているわけで、けして無駄というわけではないのだが。つくづく、卯月のお話だけはこれまでの物語と収め方が違うし、それを強調・確認するべく丁寧に『これまでの物語の収め方』を効率的に再演していく物語構成には感心する。

ガッツンと下げるまで下げて、そこからしか飛び上がれない高みに島村さんを押し上げてやって欲しいと、強く願っています。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第22話『The best place to see the stars』感想 - イマワノキワ

 この後一話と3/4ほど使って下げ続けるわけで、こっちの想定を遥かに超えて卯月は迷ったと思う。しかしその単純な尺があればこそ、デレアニが作ってきた『お約束』というか、何者でもない少女が何者かになる物語のメソッドとして、更に一歩踏み込んだ結論を出すことが可能になっている。

『プロデューサーと常務の対立』という二期からの軸の処理はやや不格好だったが、『顔も名前もない少女がアイドルになる』という一期アバンからのメインストーリーに関しては、非常に太く深く掘り下げていったという感想を僕は抱く。自分たちが出した一つの答えを批判的に発展させ、もう一つの答えに止揚する批評的営為を、シリーズアニメーションという形式(もしくはメディア)の中で達成すること。それはめったに起きないことで多分、偉業と言って良い。

 

 

第23話

本田がどうしても踏み越えられない距離を「誤魔化さないでよ!」という絶叫とともに踏み越えたのは、やっぱり衝動の女・渋谷凛でした。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第23話『Glass Slippers』感想 - イマワノキワ

 渋谷凛というキャラクターが常に視聴者が物語に入っていく『窓』であり、代弁者としての役割を担っていたことを考えると、ここから凛ちゃんが叩きつける正論と衝動は視聴者が感じる(と製作者が計算している)感情そのものである。一話でズッシリと胸に突き刺さったしまむーの笑顔の火力がどの程度か、正確に把握しているからこそここで凛ちゃんはあの時の笑顔を無にするような卯月の発言に怒る。

その怒りは僕らの怒りであり、本田の謝罪は僕らの謝罪でもある。過剰に物語に入れ込んだ結果の妄想なのかもしれないが、そのような共感を物語に抱く事ができることはとても幸せだし、そうなるべくして構築された物語があるということは、かなりとんでもないことだとも思う。『このレイアウトとこの演出でこの絵を差し込むと、このくらいの印象が帰ってくる』という、一種の物語的エコーロケーティング予測の性能に関して、高雄監督は相当の精度を持っていたと思うわけだ。そしてそれこそが、印象主義的演出よりもより強力でより根本的な、このアニメーションの力だったのではないかと、終わった今になっては感じる

公園での凛ちゃんの発言をよく聞くと、全ての主語が自分自身であることに気付きます。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第23話『Glass Slippers』感想 - イマワノキワ

 そして渋谷凛が僕らの代弁者であるのなら、彼女のエゴイズムは僕のエゴイズムだ。彼女の真っ直ぐで苛烈な言葉に怒る時、その怒りは鏡に跳ね返って僕に刺さる。視聴者を特権的な立場に置かず、キャラクターが演じる感情の泥沼に引き釣りこむ手腕を的確に発揮しながら、気持よく物語との間合いをとって観客席で楽しむ余地を残す手腕。

それなりに分析的な目を持ち込まないと、『でも、しぶりんに怒るあなたの声はあなた自身にも刺さるでしょう?』というサジェストに気付くことが出来ない感情動線の引き方の巧さ。性格が悪いということは、物語を的確に運営する上で絶対に必要な素質なのだろう。

それが限界に達したことを、凛ちゃんの残忍な正しさが切り裂いていくことで、卯月はどんどん自分を知っていきます。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第23話『Glass Slippers』感想 - イマワノキワ

 己を知る卯月の運動はここでとどまらず、始まりの場所であるコンサートホールの深奥にどんどんと潜っていて、泥まみれの自分のさらに奥にある『キラキラしたい』という欲望に辿り着くまで止まることはない。泥濘の中から咲く蓮という意味では凡夫の小さな悟りに近く、無印アイマス(映画含む)で天海春香が菩薩になってしまった運動ほど高くない視線で、アイドルへの理想を取り扱うシーンだといえる。劇場版アイカツ!が菩薩が人間に戻る物語である事も踏まえて、超越的になること/なれないことの喜びと痛みが、アイドルアニメには付きまとうのだ。

物語の本流から意図的に外された島村卯月は、この人間的な感情の泥と格闘する時間を与えられなかった結果、これだけの痛みを溜め込んでいたわけです。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第23話『Glass Slippers』感想 - イマワノキワ

 『しまむー空気じゃんwww』みたいなツッコミは、意識的にせよ無意識的にせよでレアに見続けた人は一回はしていると思うが、そこもひっくるめて後半のための罠っていうのは最高に性格悪いと思う。プリリズADで『りずむちゃん凡人すぎじゃんwww』って嘲笑えば嘲笑うほど、ラスト付近の展開で一発食らうのに似た誘い込み。素晴らしい。

だからある意味、あの泣き声は産声でもあるのでしょう。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第23話『Glass Slippers』感想 - イマワノキワ

 『社会的動物としてのアイドル』というのは(特に二期での)デレアニの大きなテーマだと思うが、社会性は身体・精神的な成長、時間的経過とともに獲得される。このことを考えると、何もかも失って物語的ゼロ地点(以前のマイナス地点)である養成所から公園、コンサートホールとたどっていく卯月の旅路は、顔も名前もない少女が何者でもない自分に向かい合い、それを認めた上で前に進む意味を再発見してステージという観客のいる社会に帰還する、短期間に圧縮された『人生の物語』だといえる。

笑顔の天使から泥まみれの赤ん坊に戻り、暗闇の底で胎児の夢を思い出して制服を来た17歳に戻る。第22話から第24話の物語の中で、島村卯月は生まれ直すのだ。それと並列して、一人の少女を象徴にデレアニ全体もまた、何者でもない女の子がアイドルになる物語を再話する。卯月の再誕の物語は同時に、デレアニ全てを再確認するための鏡でもある。

自分の感じた衝動にとらわれ、卯月に歩み寄れない凛の手を未央が取り、三人はもう一度友だちになります。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第23話『Glass Slippers』感想 - イマワノキワ

 第7話で凛の手をとってプロデューサーと握手させた時と、この絵は全く同じ。社会的視野が広く、ロールモデルへの意識が強い本田は『つなぎ合わせる』人なんだと思う。凛ちゃんは『前に行く』人なわけだが、では島村卯月はなんなのか。

何者でもない無限の可能性を、己の初期衝動に立ち戻ってもなお保持している彼女は実は、『こういう存在である』と確言するのが、かなり難しいキャラクターのような気がする。正確に言えば、自分が『』でくくれる何か(それは社会的に有用な、自分の強みを理解している成熟した人格である。時に暴走する個性を強みに置き換え、アイドルという職業において成功する物語を、島村卯月以外は泳ぐ。二期は特に)であることに気づく前に、文字通り階段の前に立ち直すところで物語が終わっているというか。

無限に続く挑戦を肯定したこのお話において、その在り方というのは貴重かつ必要である。不定形の可能性だからこそ、アイドルの物語だったデレアニ、ラストエピソードの主役に抜擢された、というべきか。だから、島村卯月は『こういう存在である』と分からなくて、別に良い気もするのだ。それは永遠に語られない、これからの物語である。

これで卯月の溜め込んだ泥は全て出た……と思いたい所ですが、もしかしたら未だあるのかなぁ。 未央が自分の地金をさらけ出すのにかけたより、更に時間を使ってここまで来たので、いまいち自信を持って『問題点は全部出たし、それを受け止める土台はあるし、全然オッケーです!』と言えないのが正直な所。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第23話『Glass Slippers』感想 - イマワノキワ

 実際の話、この後卯月は更に迷って迷ってギリギリまで迷って、プロデューサーから言葉と光を託されてようやくクリスマスステージに向かう。卯月の物語が解決する文法は、このアニメがこれまで使っていたメソッドとは明確に違っていて、だからこそ格別の意味がある。

しかしまぁ、やっぱ『敵』が分かりやすく『味方』を否定する立場に立ってくれると、『味方』の正しさは分かりやすくなって良いのも事実よね。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第23話『Glass Slippers』感想 - イマワノキワ

 なぜ常務は『単純な悪役』ではなかったのか。複層的な常務のキャラクター性とその見せ方の是非は、デレアニ全体を評価する上でなかなか難しいポイントだ。常務が例えば961社長のような『単純な悪役』だった場合、CPとPKがお互いを認め合い交じり合っていくような展開は難しかったろうし、それとは別のダイナミズムを用意しなければいけなくなる。

常務という不完全なアクターを舞台から排除するのは良いとして、では代役をどんなキャラクターにし、彼(彼女)を使ってどんな物語を展開させることが、シンデレラたちを輝かせるのか。無能な僕は今でも空想を巡らせるが、答えは出ない。少なくとも、常務がかけた圧力と別の答えがなければ卯月が一人取り残される状況の説得力は薄れ、ラストエピソードの切れ味は落ちていたと思う。一ファンの身勝手な妄想ながら、常務抜きの二期は悩ましい妄想だ。

舞踏会でどうデレるのか楽しみだ。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第23話『Glass Slippers』感想 - イマワノキワ

 舞踏会どころか、クリスマスライブでほぼ完落ちでした! 第25話の常務ポエトリーは当たりは強いものの白旗であり、あれだけ拘っていた『城の頂上からの景色』を捨ててまで現場に降りているエピローグを考えると、常務はやっぱしまむーの涙で相当グッと来て生き方を変えているのだ。

物語の面白さの根本に『生き方の変化』、頑なで(一分)間違っていたこだわりを捨てるなり変えるなりしてより良くなっていく運動がある以上、『敵』ではない常務はどっかでデレないといけない。(そこら辺も、961社長とは違う)『敵役』であることを維持しなければいけないので、ラストで一気に崩れるように見えるけども、それがキャラクター性から考えて不自然でないような布石は要所要所に埋まっているのだ。それを発掘する能力が、平均的視聴者の範疇に収まるのか否かは、議論の余地がある部分だろう。

 

 

第24話

第1話と第24話の「笑顔、です」の間にあるのは、そのままプロデューサーが達成した変化と成長でしょう。

アイドルマスターシンデレラガールズ -2nd Season-:第24話『Barefoot Girl』感想 - イマワノキワ

 二期のPチャンは一期ほど話の真ん中にいないんだけど、蘭子への熊本弁しかり、凛ちゃんへの『あなたの、プロデューサーですから』しかり、パーフェクトコミュニケーションを達成することでおもいっきり目立っていた印象。

真ん中をぶち抜いた扉の結界を抜けて、「このままここに留まるのか、可能性を信じて先に進むのか」という選択を要求してきます。

アイドルマスターシンデレラガールズ -2nd Season-:第24話『Barefoot Girl』感想 - イマワノキワ

 ここで問うているのは島村卯月の物語であると同時に、無印アイマスと対比されるデレアニの物語だと思う。765プロの物語が『留まる』物語だとは思わないが、『飛び出す』よりも『戻ってくる』物語であったのは違いがない。ファンにも新規視聴者にも大きな満足を与えた偉大な先達とは、どのように異なる物語を紡いでいくか。デレアニが出した結論は765プロが歩んだ道を一期までは一部踏襲しつつ、二期で思い切り舵を切り替えるという方法論だった。

島村卯月のエピソードが、デレアニの集大成となるラストエピソードだということも考えると、ここで『先に進む』という選択をするのは当然だといえる。お話全体が進むことを選んだんだから、最後のセンターが同じ選択をする。理にかなった話運びである。

同じ状況、同じ構図を繰り返しつつもそこには差異と変化があり、それを生み出すものこそ物語であるという根源的な主張が、島村卯月が階段を駆け上がる最後の一歩までの描写には、強く込められていたように思います。

アイドルマスターシンデレラガールズ -2nd Season-:第24話『Barefoot Girl』感想 - イマワノキワ

 デレアニはリフレインを幾度も使ったし、その使い方も印象的だったので、映像作品における再話の意味合いを考えさせられた。僕らは時に『同じである』という発見それ自体に溺れてしまって、製作者がなぜ同じ話を繰り返しているのか、その作用を見落としてしまうことがある。再話においてもっとも重要なのは何が同じかではなく、何が異なっているかに気付くことなのだろう。

物語の時間が基本的には静止していない以上、それを受け取る僕達の認識もまた静止していない以上、例え完全に同じ映像を使ったとしても、リフレインは原点とは異なった印象を与える。再話することの意味合いをしっかり考えている製作者であれば、それを前提とした上で『違う』部分を必ず入れ込み、ここで同じ話をする意味合いを強調しているはずだ。

同じシーンが繰り返されていることに気付くのは、作品に集中している、つまり作品を好きになっている証拠である。自分が気持ちよく思ったシーンだからこそ、『僕の好きなモノがもう一度出て来た』という快楽がマーカーとなって、合同に気付く。しかしそこで止まってしまえば、リフレインの意味は半分しか受け止められない。一人称的な合同の快楽で足を止めず、三人称的な差異の意味まで踏み込むこと。リフレインを読むのであれば、そこには留意したい。

何でもない普通の女の子の物語は、僕達の物語でもあるから。

アイドルマスターシンデレラガールズ -2nd Season-:第24話『Barefoot Girl』感想 - イマワノキワ

 デレアニの二期を受け入れられるかどうかは、この気持ちになれるかどうかがかなりの部分影響していると思う。卯月の物語は第1話(描写され得ないそれ以前)からずっと始まっていて、後の破綻に繋がる前駆も描写されている。それはある程度以上の共感性と読解力(と作品・キャラクターへの好意)を必要すると思うが、仮に卯月の前駆的痙攣に気づいていなかったとしても、その見落としそれ自体を本田未央が代弁し、『気付けなかった気まずさ』を足場にお話に引き込む罠は仕込まれている。だから、卯月の物語への共感を作品全体の共感の足場として賭けに出たスタッフの行動には、ある程度以上の妥当性がある。

卯月の物語は普通の女の子の話だ。自分に自信が持てず、やってきたこともやりたかったことも見失い、何がなんだか分からなくなってしまうような、何処にでもある物語。他の女の子たちの劇的な物語、劇的な失敗と劇的な成功に比べて、時間をかけて幾度も行きつ戻りつしながら、自分と自分に繋がる仲間の成功を思い出してスタートラインに立ち戻る卯月の話は、物語的都合の良さが薄い。そこに爽快感のなさを読むか、現実との距離の近さを見るかは、人によるだろう。だがおそらく、製作者は卯月の物語をより近く、より共感できる物語としてラストに配置している。その足場を信頼して体重を預けれるかどうかが、デレアニ二期全体の評価に繋がっているのではないかと、僕は思っている。

お前は凄い、歴史の教科書に乗るくらい凄い。

アイドルマスターシンデレラガールズ -2nd Season-:第24話『Barefoot Girl』感想 - イマワノキワ

 つくづく、僕は本田未央に引き寄せられてデレアニに前のめりになったのだなと思う。

長くて回りくどい歩みが、結局は最適で最高の答えにたどり着くために必要だったというのは、24話を使って展開された島村卯月の物語にも、言えることなのでしょう。

アイドルマスターシンデレラガールズ -2nd Season-:第24話『Barefoot Girl』感想 - イマワノキワ

 シンデレラガールズのお話は終わりや完成の物語ではなく、新しい始まりに付くまでの物語である。卯月の長い回り道は、第25話で示される彼女たちの終わりを考えると、お話全体が新しいスタートのための、あまりに貴重な回り道だと示唆する前兆だといえる。

島村卯月は迷う。 これまで笑顔の天使として仲間の危機を救ってきた利鞘を取り立てるかのように、最後の最後まで迷っています。 凛の衝動に心理を切開され、仲間たちの言葉を受け取り、闇の底でプロデューサーに手を惹かれてなお、ステージの上に立ってすら迷う。

アイドルマスターシンデレラガールズ -2nd Season-:第24話『Barefoot Girl』感想 - イマワノキワ

 卯月の迷い路の長さは逆に、このアニメがこれまでどれだけ手際よく女の子を悩ませて、巧く解決してきたかをも表している。第6-7話の本田の迷い路ですら、(衝撃の大きさはさておき)卯月のお話しの長さに比べれば未だ短く、都合が良い。それがさかしまに、卯月の物語の特別性を強調もする。

『普通』の女の子が立ち直ることが、才能に恵まれていたり、自分の道を自分で見つけられたり、衝動で全てを切り開いていく『特別な女の子』の物語より困難なのは、考えれば当然なのだが過度に物語的なこのアニメにおいては忘れがちな事実だ。それを強調し、視聴者の現実に物語を滑りこませる最後の一手にすること。そのために時間を使うこと。その意味。

常務はもともとアイドル大好き(現状に流されまま個々人の個性を保護しようとしていたPCよりも、アイドル業界全体の潮流を一気に変えようとしたPKの方が野望はデカイとまで言える)だし、現場に出てアイドルの熱と涙を感じ取ったら、即座に方向転換しちゃうからこれまで現場に出さなかったんだろうなぁ……。

アイドルマスターシンデレラガールズ -2nd Season-:第24話『Barefoot Girl』感想 - イマワノキワ

 だがワシは見てみたい! ツンツンな常務がクローネのオモシロアイドルに徐々に溶かされていく様子を!!

とか思ったんだが、それ一期でPチャンがやった物語の焼き直しにしかならないよねと誰かが囁いたのでこの話はおしまい、おしまいなんだロック。(唐突なベニー召喚)

第25話は舞踏会本番なので、白旗を上げて終わる準備が万端整ったかな。

アイドルマスターシンデレラガールズ -2nd Season-:第24話『Barefoot Girl』感想 - イマワノキワ

 白旗上げるというか、『お前もよくやったよ! 私も凄いがな!!』みたいなまとめ方になった。常務の持ってる『理』が描写しきれていないので、Pチャンがどれだけ言っても勝ち負け付いちゃったみたいな空気があるのは、少しさみしいところだと僕は思う。

これでシリーズ全体の物語がだいたい平らになって、クライマックスとして舞踏会をやっておしまい……と言いたいところなんですが、『渋谷凛の衝動は時に人を傷つけるけど、彼女はその危うさに気付いていない』という伏線は、のこった時間で回収できるものではありません。 本田未央が一期を、その隙間と二期を利用して島村卯月が、己の根源にあるネガティブな要素を表面化させ、周囲を巻き込んで爆発させ、色々あって収めて成長していった物語は、渋谷凛においてはまだ始まってすらいない。 それは多分、意図的に物語の外側にはみ出るよう、周到に用意されていると僕は思っています。

アイドルマスターシンデレラガールズ -2nd Season-:第24話『Barefoot Girl』感想 - イマワノキワ

 一期が本田の話、二期が島村の話なので、どっかで渋谷の話をやらないとNG主役のデレアニは収まりが悪い。僕は構造体の完成に物語の快楽を見出すタイプの嗜好を持っているので、三人いて二人の物語を発掘したのならば、残る一人も掘って欲しくなる。しかしスケジュールが逼迫したのは数々の特番でもあきらかだし、追加の物語が行われるかどうかはコンテンツビジネスとしてどういう布石をするかにも関わってくるだろう。映画はあって欲しいが、厳しいというのも判る。さてはて。

 

 

第25話

1話まるまるエピローグという作り方は、余韻があってとても好きな終わり方です。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第25話『Cinderella Girls at the Ball』感想 - イマワノキワ

 この作り方で思い出すのはやっぱり菱田正和のお話しの作り方なんだけど、それを引き継いだ京極尚彦は競合他社である"ラブライブ"をやってるってのが、シンクロニシティとして個人的には面白い。

最終話、アイドルたちの物語がゴールを迎えた後に一気に語られた、理念者達の対論。 それがどこかドラマの熱気を伴わず、理念以上の実感を生み出さないのは何も過剰に詩的な言葉遣いだけが原因ではなく、プロデューサーの反対側に立つ常務の描写が不足していることに、強い原因があるように思います。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第25話『Cinderella Girls at the Ball』感想 - イマワノキワ

 要するに常務話をもっとやってくれよ! ってことだろー。(何でもかんでも感情論に引きずり込んで、論全体を矮小化して勝とうとする議論の見本)

どうにかして、プロデューサーと常務にはあと一つ、一期でプロデューサーを描いた時のような熱量と感情量を込め、時間を使って分かり合うシーンが欲しかったと、思ってしまうわけです。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第25話『Cinderella Girls at the Ball』感想 - イマワノキワ

 この周辺で言い訳がましく書いているけど、『常務の話は欲しいけど、みんな俺みたいに常務キチってわけじゃねぇし、トータルの満足度考えるとアイドルの出番の方に時間使うよね……』っていう理屈は分かる。分かるが、分かるわけにはイカンのだ。

アイドルマスターシンデレラガールズというお話は終わって、一旦カメラは彼女たちを映すのを止める。 でも彼女たちの『コマの外側』の物語は続いていくし、CPという制度が終わりになったからといって、そこで手に入れた繋がりや感情、経験が消え去って無駄になることは、けしてない。 二期全体が常に視野に入れ続けた『変化』への肯定、『挑戦』への是認が前面に押し出ているのに、押し付けがましくなく物語を受け入れられるのは、やはり生理的な気持ちよさを突き詰めたカットのつなぎ方に大きな理由があると思います。 繋いだ手を離して、一歩先に踏み出していく彼女たちを笑顔で祝福できる、とても気持ちの良いエピローグでした。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第25話『Cinderella Girls at the Ball』感想 - イマワノキワ

 これはお話しの豊かさが確保した発展性であると同時に、スタートラインに立つまでの物語というお話しの作り方自体が引っ張ってきた感慨でもある。CPを終わりにするという決断を込めたからこそ、新しい始まりが彼女たちを待っているというロジックは素直に受け止められるし、手を離すことでより強く繋がれるという矛盾(もしくは必然)はお話全体が産んだ説得力に満ちている。このアニメに『コマの外側』の物語があるとすれば、それは映像演出含めた作品のすべてが呼び込んだものなのだろう。そういうことは、なかなか起きない、一種の奇跡なのだろう。

にょわにょわ言うデカ女にニートアイドル、にわかロッカーにネコミミ、ずっと笑顔の天使。 イカニモなキャラ記号に囲まれた少女たちはしかし、記号性の一歩奥に踏み込んで自分のお話を始める。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第25話『Cinderella Girls at the Ball』感想 - イマワノキワ

 記号論を極めて生み出されたキャラクターが、記号的な物語を展開する、一種のオタク向けポルノ。ギャルゲーというジャンルは大概そういう人造性とマチズモに満ちていると思うのだが、そこを飛び抜けて、もしくは記号論的ジャンルだからこそベーシックな物語的人間味を足していく劇作。それは無印アイマスけいおん!(特に二期と映画)でも強く感じたわけで、僕の好きなお話には大概共通する要素だと思う。

コッテコテの記号論的操作が嫌いなわけではないし、オタク的記号で構成されたキャラクターのわかり易さというのは強烈な強みだと思うのだが、そこに甘えずもう一歩踏み込み、カウンターを当ててくれると嬉しいなぁ、と思いながら僕はアニメを見ている。そして、デレアニはそれを叶えてくれた。

高雄監督の苛烈な印象主義を最後まで維持し切り、一つのトーンで作品を包み込んだのは、やはり凄いことだと思います。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第25話『Cinderella Girls at the Ball』感想 - イマワノキワ

 デレアニの演出が達成したのは、強烈な作家性とメッセージを込めた高圧縮の演出を続けていくと、いつしか視聴者が自発的に演出の意味を見出し始める、ということだ。それは外国語にも似ている。バルバロイとして演出の言語を読み解けなかった者たちも、物語の進行に従って『あれはそういう意味か』『これが多用されているのはそういう表現か』と、自分なりの辞書を(他人の意見を参照したり、過去作との類似を発見したりしながら)作っていく。

この自発性は多分創作者が喉から手が出るほど求めながら、なかなか獲得できない砂漠の水だ。無論、そこに到達するのは熱意と暇と余裕のある一部のファンだけだし、読み取った過剰な意味が製作者側の意図とズレることもあるだろう。しかしシリーズアニメの中で演出言語を積極的に読む層が、一定以上の一般性を持って地位を占めたというのは、快挙と言って良いように思う。

良いアニメだったし、巧いアニメだったし、好きになれるアニメでした。

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第25話『Cinderella Girls at the Ball』感想 - イマワノキワ

 結局僕は、デレアニの何が好きだったのか。

この前後に書いたような色々も当然重要なのだが、書き忘れていた一番大きなものがある。それは『何者でもないものが、何者かになる』という教養小説的物語類型を、丁寧に完遂してくれた喜びだ。デレアニは(自分にとっては)アイドルアニメである以前にジュブナイル、もしくはビルディングロマンスであり、芸能という要素はないがしろにされていないにせよ、少女たちが何者でもない己を発見し、悩み、苦しみ、青春の蹉跌に悩んでいく姿をこそ、僕は興奮しながら見ていた。仲間と時に衝突しながら認め合い、力を合わせて困難を乗り越えていく姿を喜んでいた。

見る人によってこのアニメのジャンルは変わる。推しアイドルのアイドル映画である人も、芸能物語と見る人も、可愛い女の子のお話と見る人も、それぞれいるだろう。僕は僕の中に形成された嗜好の水路に従って、デレアニに教養小説のジャンルを当てはめた。何者でもない少女が、アイドルという顔と名前のある存在になる物語を望んで、それはこれ以上ない形で叶えられた。そのことが、僕は何よりも嬉しかったのだろう。『好みの話』だったわけだ。

好みのジャンルだというだけなら、僕はこれだけの文字をこのアニメに費やしていない。テーマの使い方、キャラクターの魅力、映像表現としての言語の豊かさ。アニメーションを構成する要素が全て仕上がっている作品が、好みのジャンルだったのだ。

このあとこのアニメがどういう展開をするのかは、現時点(2015/11/24)ではわからない。映画版があるかもしれないし、無いかもしれない。凛ちゃんのキャラクター要素の使いきり(正確には使いきれなさ)を考えると、無いのは片手落ちというのが個人的意見だが、それでも充分以上の満足がやっぱりある。一歩先の彼女たちの物語を見たくもあるが、可能なかぎりの物語を展開しているようにも思える。だから、シンデレラガールズというアニメーションの先を、期待して待っていようと思う。例え第26話以降の展開がなかったとしても、やっぱり彼女たちが成し遂げた物語はとっても大したもので、良いアニメだった。映画あれば嬉しいけどね、俺はこのアニメのファンだし。

たっぷり語ってきたこのアニメにまつわる文字も、一旦終わりにしたい。有難う、シンデレラガールズ。僕はこのアニメが好きだ。