イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

コンクリート・レボルティオ ~超人幻想~:第9話『果てしなき家族の果て』感想

無邪気なる新進の幻影を追いかける者達の挽歌、今回は初の會川昇以外の脚本家が登板する回。
それがよりにもよって辻真先ってんだから、昭和のフィクション史を遡っていくこのアニメにはピッタリよねっていう。
このアニメがオマージュしパロディしているオリジナルそのものを築き上げた世代であり、神化として異化されている昭和を遡るのではなく腰まで浸って生きていた世代は、この昭和史再構築アニメにどのような爪痕を刻んだのか。
まとめてみましょう。


実は會川昇単独脚本で進んできたこのアニメ、テーマは基本的に全話共通です。
『どうしようもなく失われ傷ついていく無垢さと、薄汚れたとしてもイノセンスを諦めきれない大人たちの視線』
『悪』を挫き『正義』を助けるヒーローのお話しの裏で、薄汚い欲得や陰謀が渦を巻く神化世界はおしなべて、このテーマを追いかけるべく設定されています。
20歳になってしまった輝子から爾郎への視線、「いつまでも子供でいてくれ」という爾郎から風郎太への願い、早川少年が弟に投げかけた懐中電灯の光、己の正義をメガッシンに否定されたライトの怒り、空から落ちてくるアースちゃんにジュダスが向ける憧れ。
とても大切なモノなのに、どうしても損なわれて行ってしまう純粋さ(無垢さ、正義、幼さ)の宿命と、それでもいつまでも純粋でいて欲しいという切実で身勝手な願いのぶつかり合い、それが生み出す大きな渦が、これまでのお話には必ず含まれていました。

これはお話に強烈な背骨をぶち込み、このフィクションが何を捕らえるつもりなのかハッキリさせる、とても大事な仕事をしています。
このアニメはブレることなく何度も、綺麗なものを描き、それが損なわれ汚れていく過程を描き、悲しくも変化してしまった後も無様に抱き寄せられる憧れを、様々な画角から描いています。
アングルは異なれどテーマは同じということは、このお話しの中で何が重要なのかをしっかりと伝え、視聴者を迷わせない上で非常に重要です。
年代ザッピングや大量のオマージュなど、高度にメタ的な演出をたっぷり詰め込みつつ、きゃrカウターの感情のうねりがぼやけず見えるのも、この背骨があればこそでしょう。

しかし長所は必ず短所になるわけで、いかに様々な工夫をこらしても、題材それ自体が変化しないということは物語の奥行きを狭める。
同じことを何度も語らなければならない情熱(もしくは一種の強迫観念)を込めて作品を作ることで、アニメに塗り込めた『本気』が伝わってくるとしても、一種のパターナイズというか、良くない意味での慣れが発生してしまっていることは、否定しきれないと思います。
會川昇が渾身の筆で創造した神化世界には、創造主の一本気なカメラが捉えきれていない魅力がかならずあるはずで、しかしそれはあくまで縦一本にテーマを構え、同じ場所をいくども掘ることで深奥に到達しようというシリーズ構成のスタンスからは、なかなか捕まえることの出来ない要素なのです。

ここで別の脚本家に筆を渡すことは、作品世界に新しい血を与えることであり、この豊かな物語世界にある、失われゆくイノセンス以外の魅力にクローズアップするチャンスでもあります。
それはテーマがブレることを意味せず、むしろ會川昇が一本気に掘り進めてきた、哀切なる憧れの世界に穿たれた脇道を発見することで、その広がりと奥行きを更に進めていくことになるはずです。
創造主が捉えきれなかった神化世界の魅力を、一体どのように見つけ、どのように膨らませてくれるのか。
第9回目となる今回、僕が一番楽しみだったのはそこでした。


そして期待通り、辻真先會川昇とは異なったものをテーマに据え、これまでとは違った演出を用い、今まで光の当たりにくかった場所を掘り下げました。(無論辻先生だけがアニメを作るわけではなく、各スタッフの化学反応として今回の話しができているわけですが、そこを代表して脚本に名前を背負って貰う形で論を進めていきます)
『未来編』が爾郎の側ではなく超人課の視点メインで進むのも珍しいですし、アメリカの殺人ロボットを止める時のチームワークの見せ方、畑山家への潜入工作を企む時の連携なども、これまで味わえなかった面白み。
キャラの描き方ももちろん異なっていて、現在の状況や設定をコンパクトに分かりやすく台詞で説明する描き方や、風郎太の『かわいこちゃんには弱いけど』な惚れっぽいキャラ、変身能力を使いこなしたコミカルな見せ方など、今までなかった魅力だなぁと思いました。
博士が畑山一家を証する「人間の管理保護を必要としない、超人を超えた超人」とか、テーマを説明するセリフなんだけどわざとらしさや堅さがなくて、かつ端的に言いたいことを言葉にできており、素晴らしかったですね。
こう言う見せ方をするのであれば、台詞でガンガン説明するスタイルにも詩情が宿るというのは、ちょっと目を開かされた印象です。

年代ザッピングも、複雑かつ激しく行き来するこれまでの見せ方に比べ、爾郎が離脱した直後の神化44年を補佐する回想シーンとしての使い方が主で、落ち着いた印象を受けました。
これは『過去編』の無垢と『未来編』の残酷を一話内部で対比してみせるこれまでの構成と異なり、時間の流れを超越した畑山一家という対比軸が内部にあるため、ジャンプする必要が薄いからだと思います。
子供が大人になっていく残忍で当然な時間の流れを超越し、生物的な生死すら超越した『超人以上の超人』が軸になることで、これまでの話が視野に入れていたスケールそれ自体が相対化し、別のものさしが入る。
辻脚本が呼び込んだ新しい風は、は超人を制御しようとする超人課と、それを開放しようとする未来爾郎との対立をゆうゆうと飛び越え、永遠の家族としてどこかに旅立っていく畑山一家のシルエットに色濃く象徴されています。

時間軸的にもおそらく爾郎が離反した直後の神化44年前半が舞台となり、課長はいないながらも対立も決定的ではない、絵美が母のごとく『怒ってないから帰ってらっしゃい』と言えるような関係が描かれていました。
これは『過去編』と『未来編』の間を埋める時間設定であり、これまでの『未来編』で描かれた明確な対立とは少し異なる、協力はしないけど敵対でもない微妙な関係です。
この穏やかな関係がどのようにして変化して、爾郎は超人課のお仕着せを脱ぎ捨て、超人課とは別の仲間を集め、『正義』に弓引く存在になるのか。
過去と未来の隙間を徐々に埋めていくこのアニメの形式を考えると、必要なピースをしっかり埋めた印象があり、そういう意味でも見事なエピソードでした。
博士がジャケット着込んでやる気満々にリーダーやってる絵は面白いが、一体何がどうなってそこにたどり着くんだろうな……。


生死を超越し生命の概念となった畑山一家は、無論辻先生が第一話を担当したサザエさん時空のキャラクター化ではあるんだけど、ただのパロディではないテーマ性とキャラクター性をしっかり持っている。
人間の範疇から離れた超人の中ですら異質な、しかし超人よりも人間よりも暖かな人間性をしっかり持った『家族』という皮肉。
超人課の面々があまりにも人間らしく思い悩む、生死や正義と悪といった業を超越する「誰にも害されず、誰も害さない」生き方。
第9話という話数でこのエピソードが入ってくる意味をしっかり背負える、良いキャラクターだったと思います。
しかし、現代風にリファインすると縦セタ巨乳とロリババアの姉妹になんだな、サザエさん

一セリフごとにしっかり説明を入れる今回の中にももちろん語られない部分はあって、コンボイとオキシジェン・デストロイヤーの間の子という、このアニメらしい混じり方をしたロボットの意味合いとかは、作中の言語では見えてこないところです。
『自分自身が工場となり、戦場で兵器を生産し続ける怪物』『水を吸い上げ毒に変える機械工学の権化』に、例えば昭和で言えばこの年代から問題化した公害だとか、戦時中に"バンビ"を造っていたアメリカという国家を重ねてみることも、また可能でしょう。
視聴者に読み取らせるところと、作中の言語で説明するところのバランスの良さもまた、これまでのこの作品にはなかった強みであり、この話がここにあって良かったなと感じる、大きな理由です。

というわけで、強烈な作家性を持つこのアニメに、別の作家性が入り込んで見事な化学反応を起こす回でした。
超人や神化世界、これまでの語り口やその方法論を俯瞰するようなエピソードになったのは、脚本を担当した辻真先の感性やロジックの独自性を証明すると同時に、會川昇が音頭を取って積み上げたこの作品の独自性、一本気なテーマ性が背景にあればこそだと思います。
異質なものが浮かび上がるのではなく、その異質性もまた一つの豊穣さとして取り込めるのであれば、そのお話はやっぱり、豊かで良いお話なんじゃないか。
そんなことを、この毛色の違うお話を大満足とともに見終えて思いました。
いやー、良いアニメだ。