イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画 ハイスピード! -Free! Starting Days-感想

プールの中の閉じた楽園を巣立っていった少年たちの物語、映画版を見てきました。
バリバリとネタバレで語るので、未見の方は注意をお願いします。
自分がFree! という作品をどう捉えているかに関しては、↑の『Free!』タグを参照していただけると解りやすいかと思います。
簡単にまとめると、内側に閉じていく身勝手な情熱の表現の凄さに圧倒されつつも、エゴイズムに飲み込まれて身内でパチャパチャやり続ける風通しの悪さが嫌いで、でもそこから一歩ずつ離れていく勇気の物語はすごく好きという、面倒くさいオッサンです。

 

 


今回の感想は、TV版と映画版の差異と共通点、それが捉えている映画版の良さとFree! らしさというものに重点して展開します。

TV版を通読していることが前提になってしまいますので、ご了承ください。

高校時代を描いたTV版と異なり、劇場版は小説第二巻を下敷きにした中学1年生の時期が舞台となります。

渚や怜は顔見世程度の出番はあれど、遙や真琴と肩を並べるのは旭や郁弥、夏也先輩や尚先輩といった、TV版とは異なったメンバー。
スタッフも監督が内海さんから武本さんに変わり、お話全体で重点を置く部分もかなり変化したように思いました。


まず目につくには肉体表現の変化です。
濃厚な性的フェティシズムを隠そうともしなかった、興奮したフェロモンの匂いさえ漂ってきそうなTV版の筋肉描写に比べ、未だ13歳の遙達の肉体はどこか清潔で、大人と子供の間の季節にしか無い透明さにみちています。
性的に未分化だった時代の名残りを肉体に残しつつ、物語の進行に従って成長していく精神に合わせて少しずつ頼もしくなっていく体の表現は、13歳という季節を舞台にした展開と非常に噛み合っていて、絵的な説得力がありました。

今回のお話はとにかく『13歳である』という必然性が強いお話で、中学に入学し、新しい制服を着て、幼なじみと離れて新しい友達が出来る年齢でなければ出来ない、不安と期待の物語です。
このお話が一週間も一人で家にいることを任されるけれども、飯を雑に食いすぎて低血糖で倒れてしまうような、巧く自分を制御出来ない青い季節の物語である以上、彼等が『13歳である』という説得力が肉体に漂っているのは、無言で放たれる絵のオーラを生んでいて、京都アニメーションという制作集団の強いところが出た印象があります。
物語の出だし、じっくりと描かれるつんつらてんな制服は少年たちの不安な環境を如実に表現し、物語の終わり、いつの間にか馴染んだ夏服は一つの季節を終えて彼等が果たした成長をよく表しています。
肉体の延長としての着衣も含めて彼等のビジュアルは非常に客観的に、物語の進行に必要な要素を適格に抽出して描かれており、個人的なエロティシズムの圧倒的な熱量故に僕らを惹きつけたTV版とは、また異なった表現になっていました。

TV版で印象的だった水の表現はさらに鋭さを増していて、飛び散る飛沫と光の反射が心地よく描かれていました。
水というものが持つ多様性が見事に表現されていたのも見どころで、イップスに怯える旭から見る水はちゃんと不気味に見えるし、和解した遙と真琴が泳ぐプールの中は柔らかい羊水のように感じ取られ、心が繋がりあった競技会のプールは圧倒的にキラキラと輝いている。
いかようにも形を変え鏡にもなる可塑性を、少年たちの感じやすい心、変化していく思春期の物語と重ねあわせ、的確なメタファーとしてコントロールしていた演出の見事さは、いくら強調してもよいでしょう。
水の表現が綺麗なので、彼等が青春を投じる『競泳』という行動もまた気持よく見えてきて、キャラクターへのシンクロ性がより高まるというのも、重要なポイントだと思います。

他にもボタンの開け閉めで他者にどれだけ心を許しているか的確に表現していたり、兄恋しさ故に遙をコピーする郁弥が同じ服装をしている(その問題を克服した夏服では別の着こなしをしている)など、『衣・食・住』の『衣』の表現も抜きん出ていました。
『食』もまた大きな意味を持っていて、少年たちは昼飯を共にすることでだんだん仲良くなっていくし、クラスが別の真琴の疎外感はその場を共にしないことで強調される。
少年たちが置かれている家庭環境、家族との距離感も手際よくスケッチされた各家庭の食事風景で見えてくる。
遙が昏倒する原因は粗末な食事による低血糖ですし、真琴との間に距離を感じている間は彼から手渡された食事に口はつけないわけです。
視聴者が人間である以上非常に身近な『衣』や『食』、プールという彼等の居『住』空間の表現が物語的な意味合いを何十にも覆い焼きにされ、非言語的な意味をしっかり持っていることは、皮膚感覚的な直感を映像に埋め込むことに成功し、お話しの奥行きを大きく広げていると思います。
この映画の映像表現は美麗ですが、ただ美しいだけではなく過剰といえるまでの意味を持って美しいというのは、やはり強いところです。

 

製作者の客観性は絵的な表現だけではなく、物語の骨格や進行においても、キャラクターとの間合いを適切に離した描き方が見て取れます。
今回のお話は非常にありふれた『13歳である』ことの悩みと、それを乗り越えての成長、社会性を描き、他人の顔色を見る客観性を子どもたちが獲得して大人になる、コンパクトなお話です。
無論TV版の特徴であった男たちの濃厚な関係性や、愛情と憎悪が背中合わせになったアンビバレントな執着は切り捨てられておらず、特に真琴が遙に寄せる感情の濃度は大変なことになっていますが、しかしそこが主眼ではない。
あくまでオーソドックスなジュブナイルを111分の尺にみっしりと詰め込むことを主眼に、キャラクターのエゴイズムは適切にコントロールされ、レールを踏み外しかねない暴走は未然に去勢されています。

キャラクターの配置を見ますと、一年生の四人組のバランスが非常に良い事がわかります。
天才肌で空気を読まない遙、自分を殺してまで周囲をまとめる真琴、無根拠な自信につまづきつつもみんなを引っ張る旭、兄への愛情と憎悪に振り回されつつ友人に惹かれる郁弥。
全員明確な欠点を持ち、それを作中で深め、振り回され、解消していく基本的な物語をしっかり走りきれるよう、良く計算された長所と短所、個性を持っています。
彼らの性格的な凸凹はよく噛みあうように設計され、演出され、描写され展開されるので、お互い良く知らない少年集団が段々とお互いを知り合い、個人の魅力を見つけ、もしくは反発しあいながら一つになっていく展開が、非常に気持ちよくできている。
この気持ち良さがお話しの中心軸である『競泳』『メドレーリレー』というテーマとよく噛み合っており、少年たちがバラバラなうちはリレーも結果が出ないし、問題を解決しお互いを認め合えば結果が出るという連動が、非常にスムーズになっています。

四人の少年はそれぞれ欠点を持ち、これを発露させ認識し克服していくことで、お話が展開します。
遙であれば凛との関係を上手く消化出来ていないことと、強烈な自我を周囲になじませる努力の不足。
真琴であれば遙を過剰に愛するあまり、自分を持っていないこと。
旭は幼く過剰な自信と、遥の天才性を目の当たりにした結果それが砕けてしまうこと。
郁弥ならば兄に見捨てられたという心の傷。
成長物語は傷を癒やしより強くなることがお話しの根本的なエンジンですので、ともすれば物分りの良いお母さん役になってしまいがちな真琴もしっかり問題を抱え、それを解消するまでは貴澄が自分勝手な三人のまとめ役を担当します。
自分の居場所を奪われ、昼飯を一緒に食べれない孤独が真琴を追い詰めていくことを考えると、後半ほとんど出番が無い貴澄が物語の中で果たしている役割は、見た目より遥かに大きいといえるでしょう。
これらの欠点は彼らが出会っていく過程の中で素晴らしい自然さで描写され、良く考えられた演出と一緒に視聴者の胸の中に滑り込んでいきます。

例えば郁弥と旭が部活に参加するかしないかで言い争うシーン。
『新しいことに飛び込むのを恐れているんだろ!』と喝破した旭の言葉は、直接には郁也に投げかけられているのですが、凛との思い出を消化しきれていない遙にとっても問題の本質を突かれる言葉であり、その痛みの表情は画面の端でちゃんと捉えられています
旭が遙の自由形を眼にして自信に傷がつく様子、クラスが別になった分離不安に寄る辺ない真の姿、自分を取り巻く子供と大人の中間の世界に怯える遙。
TV版でも優れていた繊細な感情表現は健在であり、彼らが克服すべき問題をまずは絵で演出し、じっくりと見せる手腕は流石の一言です。


ただ欠点を見せるのではなく、四人の少年を『ムカつくクソガキ』ではなく『良いところもある思春期の少年』として好感を抱けるよう、的確にコントロールしていることも見逃せません。
彼らが出会い、分かり合い、ありふれている故にかけがえのない出会いを果たしていく序盤の風は懐かしさと爽やかさを孕んでいますし、特に旭の前向きで陽性の人格はお話をどんどんと光の方向に進めていきます。
TV版で確定している遙のエキセントリックな孤立性を『部活』という場で衝突させないために、開幕30分で部長との対決を用意しているところなど、周到な巧さを感じます。
あの場で三年生と実力的には同等なところを見せることで、遙には天才で在り続ける特別扱いが許され、同着であることでその孤立性が問題になるメドレーリレーにも参加しなければいけない理由が生まれる。
キャラの特質を殺さない、見事なイベントだと思います。

個人的には、遙の天才性の描写はTV版よりも説得力を増しているように感じました。
今回遙はとにかく直感力に優れ、何かに『気付く』目の良さを強調されて描写していました。
人を引きつけてやまない天才性の描写に説得力があるため、キャラクターの視線が遙(≒主人公)に集中し、お話の焦点がブレない展開も自然に流れていくわけです。
イップスになるほど衝撃を受ける旭にしても、兄の愛を盗もうとコピーに励む郁也にしても、自分を滅する程に遙に尽くす真琴にしても、このお話しの少年たちは全て遙に引き寄せられ、自分を見失って迷走します。
その特別性は主人公の価値を高めることに貢献し、その主人公を通じて世界を見ている視聴者の自尊心を気づかせないうちにくすぐる、天才の疑似体験としての快楽を生み出しているわけです。
遙を足場に物語を見ていると、自然とチヤホヤされて良い気持ちになり、しかし同時に彼の不完全性(それは視聴者である僕らと同じものであり、共感の足場になる大事なものです)も的確に描写されているので、物語の都合で甘やかされている感じをそこまで受けない。
この映画の快楽の文法は、なかなかに巧みなのです。


少年たちの幼い欠点を時に指摘し、時に導く二人の先輩たちも、見事な仕事をしています。
明らかに13歳の少年とは異なる、二年年上の肉体の描写も相まって、不安定な少年たちが思い切りぶつかり、体を預けても良い『大人』としての説得力が、しっかりとありました。
後輩たちの良い所を二人だけで確認し、彼らの未来に大きく期待するシーンは、視聴者に分かりやすく『どうだ、こいつら素敵だろ。好きになってくれよ!』と呼びかける素晴らしいシーンでした。
ただ後輩の値段を吊り上げるだけではなく、少年たちの美点を的確に見抜く知性、可能性に強く期待できる真っ直ぐな心象を描写する場面にもなっていて、あのシーンを見るだけで先輩たちがすごく好きになれる、良いシーンです。
馬齢を重ねて少年を見守る立場になってしまった僕としては、強い共感を抱ける描写でしたね。
ただただ完璧な指導者ではなく、夏也であれば弟に相対するときの不器用さ、尚であれば網膜剥離という弱点を一つ付け加え、人間味を増幅させているのも巧いでしょう、

さらに言えば、競技者から離れている尚がいることで、旭のかかえるイップスという弱点に強い共感を抱かせ、解決への道筋をつける配置は最高でした。
健気に元気に振る舞う旭の「俺は天才!」がだんだん弱くなって、ついに尚の胸で「他の競技も泳げなくなったらどうしよう……!」と弱音を吐くシーンは、思わず手を固く握りしめ『頑張れ……旭頑張れ!』と思い、『ありがとう……尚先輩ホンマありがとう……』と感謝する、アツい見せ場でした。
告白の直前に『落とし穴の看板』を一瞬写して不穏な空気を醸造したり、その看板を遙が昏倒するシーンで再利用してリフレインの気持ち良さを出したり、画面に何を写してどんな気持ちが生まれるか計算し尽くす、京アニ演出の妙技が見れるシーンでもありますね。

先輩たちの指導はキャラクターの枠を超えて、『競泳』『メドレーリレー』という大きなテーマへの敬意を表現する意味でも、重要な仕事を果たしています。
しっかり尺と描写力を使い、説得力のあるスタート練習の描写を入れたことで、少年たちが本気で『競泳部活動』に挑んでいるんだという気概を伝えてくれています。
やはり具体的で説得力のある練習描写があると、『競泳』をわざわざ選んでいる意味合い、作品の中で選びとった理由が伝わってきますね。
これは初期の段階では部活をナメている遙と郁弥がガツンとやられる描写でもあり、背筋を伸ばして本気で『競泳部活動』に飛び込んでいく姿にオッサンは『頑張れ!』と思ってしまうわけです。


先輩たちの存在からも判るように、この映画はTV版よりも世間が広く、社会と他者に対してより強く繋がり開かれたアニメーションです。
部活には女(!)がいて、気に喰わないことも言ってくる先輩がいて、メドレーリレーをやらされて、『個人のベスト』をつなぎあわせても『引き継ぎ』が上手く行かないと結果が出ない小さな社会性がある。
遙が昏倒する遠因は両親の不在ですし、四人の少年と生活をともにしつつ見守(時々いがみ合い)ってくれる家族の存在も、TV版(特に一期)よりも強調して描かれていました。

『自分がいて、他人がいて、分かり合えないけど分かりあわなければいけない面倒な社会があって、喜びがある』という健全な意識は、このアニメすべてを貫いています。
このキレイ事を学習することが思春期の大きな役割である以上、『13歳である』ことに必然性があるべきこの物語は常に『閉じこもらないこと』を貴重な価値として描きます。
そのためには他人に対して胸襟を開き(旭の制服のように!)、『引き継ぎ』のタイミングを見計らい、『網膜剥離で泳げない尚先輩のために勝つ!!』という青臭い目標を、印象的に描く必要があるわけです。
そして、的確に画面に映すべきものと描くべきではないものを峻別したこの映画は、それに成功していると思います。

巧妙に計算されたキャラクター、性格設定、テーマ配置を活かし、まとまり良くジャンルが求める要素を見事に解決して描かれる、『開かれた物語』
希望に向かって駆け出していく『13歳である』季節を描くには、それは当然描かれるべき物語であり、同時に描くことがとても難しい物語だとも思います。
一言で言えば、Free! の映画は『とても良く出来た』映画なのです。
ただお約束的にジュブナイルが求める社会性を埋め込んだだけではなく、『社会的であるとは何か』『社会的であるために何をするべきか』『物語の中で社会的であることの意味を伝えるためには、何を描くべきか』『また何を描かないべきか』を徹底的に考え抜き、表現しきった立派な映画なのです。

 

(以降、TV版と映画版を通読してまとめた、個人的な感慨)
何故、映画版は開かれた物語になったのか。
無論『13歳である』ことを主眼においた年齢設定は大きいでしょうが、個人的な妄想としてはやはり、監督が変更されたことによる最大のテーマの変化が、大きく影響しているように思うのです。
内海監督が持っていた一種ボーイズラブ的とまで言える濃厚なエゴイズムを消臭し、完成度の高いジュブナイル、『普通』の少年物語として再構築した結果、『普通』の青年なら『当然』身を投じるべき青春の蹉跌の物語へと、Free! は変質しています。
正直な話をすれば僕にとってそれは好ましい変化だし、『普通』の価値観からすれば『良くなっている』と判断できるところだとも思うのですが、同時にTV版を牽引していた感情の熱量、愛憎の間で捻じれ、惹かれ合い顔を背ける複雑な運動のきめ細かさは、どうしても損なわれていると思います。
それは猛毒であり内海監督の作家的特質でもあるわけで、入れたくても入れられないし、入れることで抑えようもない死臭が漂ってくる要素でもあります。
だから、どちらが良いということではない。
ただ、TV版と映画版は違う、ということです。

TVシリーズにおいて遥は他者性に目を瞑り、自分とその延長線にいるかけがえのない仲間だけで構築された幼い世界に、かなりの時間閉じこもります。
フリーだけ泳げば良い。
あのメンバー以外とメドレーは泳がない。
バラバラに成ってしまう岩鳶高校水泳部と永遠に泳いでいたい。
勝手に大人になっていってしまう仲間に置いて行かれる構図は、昏倒する直前三人の背中を追いかけていた映画のシーンと共通する、七瀬遙の象徴だといえます。

自分に取って心地よい他人(その代表が真琴なわけですが)と切り離されることを嫌い、自分の延長線上にいない他者性を持った他者をないがしろにする遙のエゴイズムがあればこそ、彼は規約を破りずっと一緒に戦ってきた怜を外して『子供の頃の最高の思い出』を公的な競技会で再現するし、泳ぎ方が分からなくなったら対戦相手を無視しても泳ぐのをやめてしまう。
このお話の主人公は物語が閉じるその寸前まで、思春期の檻から脱出することなく自分と自分の延長線を求めるキャラクター性を維持し続けるわけです。
そして、そんな彼の身勝手は(少なくとも一期では)肯定され、まるで善きもののように演出される。
僕はそんなFree! の描写を憎悪すらしていて、このお話が持っている開かれるべき物語としての外見と、ねっとりと腐った檻に閉じ込められて展開されるエゴイズムとのギャップを、二期最終回まで埋めることが出来ませんでした。
『この物語の少年たちのように愛と憎悪を拗じらせて、僕はFree!を睨みつけていたのだ』と書いてしまえば、あまりにもロマンチシズムが過ぎますが、まぁそんな塩梅で七瀬遙たちの物語を見てきた僕にとって、映画版で行われた空気の入れ替えは、凄く気持ちが良かったわけです。

同時に同じキャラクターが別のアングルから切り取られたことで、内海監督の持っていた画角がどれだけ特殊で有効なものだったか、より強く感じられたきもします。
今回もまたお話の展開に協力的に、嫌なことを言ってくる宗介はラストシーン、凛からの手紙を遙に手渡します。
凛の心のなかに居座る遙を、書き直しという形で叩きつけられながら宗介はお話を終わらせるために、手紙という形で凛を物語に登場させ、遙に手渡す。
結局この二人の物語として終わることしか許されていないFree! の在り方を思い知らされたような、本当に手酷い宗介への扱いでした。
凛のために怒りつつも、何より『競泳』を侮辱していることにいきり立つ宗介の姿はやっぱり涙がでるくらい好ましくて、そのあまりに正しい姿から放たれる愛情が、どうやったって凛の一番にはなれない運命に、僕は奥歯を噛み締めました。

より開かれより社会的になったはずの物語は、TV版を支配していた遙と凛の間の重力から決して脱出ることが出来ないまま終わるわけです。
これだけ消臭されながらもどうしても残る『お前だけ』の視線の強さ、喉笛に噛みつくようなエゴのぶつかり合いが物語を閉じる姿を見ていると、やはりこの物語を動かしていたエンジンは身勝手で閉じた非社会性であり、どこにもいけないまま腐敗していく永遠の幼年期への憧れなのだと思わざるをえない。
一期最終回ではそれに飲み込まれた物語が、二期でギリギリ泥から脱出して空に飛び立っていったのは、やはり奇跡的な方向転換だったのでしょう。
そして、映画版はその方向性を守りつつ、より高い完成度で開かれた物語としてのFree!を成立させています。
たとえ、いくら否定しても悪魔のように魅力的な『お前だけ』の引力に、どうしようもなく惹かれているとしても。

『自分だけいればいい』というエゴイズムと、その延長線上として他人を引きずり込み逃がさない、より罪深いエゴイズム。
僕が憎みつつ惹かれるFree! の赤黒い心臓は、人間本性の根本であり、風通しの良い社会性から常に否定されるべきでありながら、同時にどうしようもなく魅力的な腐った果実です。
だから、たとえ正しくなかったとしても、TV版Free! は魅力的で面白くて、素晴らしい物語だったのです。
エゴイズムと社会性の間の、矛盾した人間的運動。
幼い高校生たちにありふれたドラマを圧倒的に特別な精度で演じさせたお話しの、この映画は腹違いの双子なのです。
より『普通』でより『当然』でより『開かれた』、『13歳であること』に非常に真摯に向き合った『普通』で『特別』な物語として、僕は映画ハイ・スピードをとても好きになれました。

時間的整合性を考えるとどうしても『オイ遙よー、こんな素晴らしい経験をしておいてお前、高校二年生であんな他人蔑ろにした動きして、三年生で他人と自分の境界線大間違いして大暴れすんの? 全部忘れちゃったの? 大丈夫?』と聞きたくなってしまう映画ですが、まぁそれは後出しで過去編やった宿命だからしょうがねぇ。
ここまで話のテーマと表現法が変わってしまうと、TV版との論理的(というか倫理的)整合性をもたせるのはコストが掛かり過ぎるわけで、『映画は映画、TVはTV』という潔い割り切りを前提にしつつ、キャラクターの人格や背負っているカルマを的確に表現したことの方を、僕は声を大にして褒めたいわけです。
Free! の劇場版として、一つのジュブナイル映画として、とても素晴らしい映画でした。
ありがとうございました。