イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

すべてがFになる -THE PERFECT INSIDER-:第11話『無色の週末』感想

事件は終わり、かくして人々は日常に溶けていく。
森博嗣原作のスペキュラティブなミステリのアニメも、ついに最終回であります。
24分間背景は賑やかなれどずっと会話劇ってのは、このお話らしい終わり方だ。

今週は3つの対話をつなげて一つのお話にしていて、二つが犀川先生と女の、そしてもう一つが真賀田四季と娘の対話になります。
犀川と四季の会話は過去の未練を断ち切るための、犀川と萌絵の会話は過去を思い出し未来につなげるための、そして天才・真賀田四季の独言は過去も未来も存在しないあまりにも特異な世界を獲得するための対話だと言えるでしょう。
天才と凡人が相互に影響力を発揮しあう、人間関係の綱引きとして再構築されたアニメ版"すべてがFになる"ですが、最終的に時間的な綱引きに決着を付けて終わるのは面白いところです。

真賀田四季は、犀川創平に惹かれていたのか。
その疑問への答えはYesで間違いのない所で、それはともすれば完全犯罪も可能だった研究所の殺人に手がかりを残したことからも分かります。
今週言っていたように四季博士は結構ヒューマニストで、自己を変化しうる他者をとても愛している。
現存人類の定義から離れた異質な知性が、そこに繋がれる人間の数を極端に少なくしているだけで、博士自身は殺人というコミュニケーションまで含めて他者と関わりたいと思っているわけです。
博士の住む深い海に接した岸辺まで辿りつけた男は非常に少なく、作中では所長と犀川先生しかいません。
そういう希有な存在に近くにいて欲しいというのは、真賀田四季の異質な天才性を差っ引いても共感できるところです。

所長は13歳の博士にころっと転がされて子供まで生ませ殺人までしてしまい、完全に海の底に潜った(そして息が続かないから博士に望んで殺された)わけですが、犀川先生はあくまで岸辺で遊んでいる少年です。
陸には萌絵が待っているし、自分の息が真賀田四季の領域では続かないことも自覚している。
その先にある破滅を恐れるわけではないけれども、岸辺から離れてこちら側の岸に戻ってくることを、今回犀川先生は選択したわけです。
幻影のように切り替わる、図書館のテラスと夕焼けの岸辺の風景は、二人がお互いを引っ張り合い、惹かれ合いつつも結局離れることがかなわなかった、二つの岸の表現なのでしょう。(無論、ずーっと喋って座ってる絵面は地味すぎるので、幻想的に切り替わる客観と主観を映像化して変化をつけるって実務的な意味も、当然あるんでしょうけど)

天才ではなかった娘に殺されるという願いを果たせず、開放されることもなく生き延びた博士は、犀川先生を海に引きずり込むことなく素直に去っていきます。
キスを求めたり、萌絵を引き合いに出したり(まるで萌絵がしてきたような子供じみた仕草!)アプローチを掛けても乗っかってこない犀川を諦め、誘惑に乗っかって殺される結末まで転がっていった所長の思い出を抱えて、真賀田四季は消える。
そこに惹かれていた犀川創平への未練と愛情と敬意を感じると同時に、娘を通じてちょっかいを出していた西園寺萌絵、犀川創平がこちらの岸に留まる大きな理由への敬意もまた感じるのは、少し『感情の綱引き』という僕が見つけた構図に引っ張られすぎた感傷なのでしょうか。
答えは確言されないわけですが、そのあやふやな触感がこのアニメらしいなと、僕は思います。


過去の女にケリをつけた後は、今のくっそ面倒くさい女との関係構築が待っています。
萌絵はせっかく犀川先生がいい塩梅にファム・ファタルとさよならしたのに、また『大人で天才の真賀田四季』と『子供で凡人の西園寺萌絵』を比べて、プンスカ燃え上がっています。
西之園くん、マジ面倒くさい。面倒くさい所が良い。

この話はミステリでありスペキュラティブフィクションであると同時にロマンスでもあるので、犀川先生は研究バカの鈍感人間として、恋の結末を引き延ばしています。
どーにも煮え切らない意味なし冗句ではぐらかされた結果、萌絵のストレスは拡大しイライラは加速していくわけですが、お話も終わりですので今回ばかりは犀川先生も素直になります。
とは言うものの、伝わりにくい言葉ばかりだったけど犀川先生は結構素直に萌絵への好意を吐露していて、今回も『君の癇癪を否定はしない』という、断絶を認めたうえで歩み寄る姿勢を見せます。
これは四季との対話ではついぞ顔を出さなかった歩み寄りですし、空港での事故現場で行われた行為を考えると、すでに過去に存在していた好意だともいえます。

あこがれの対象として離れた岸にいる真賀田四季と、手を差し伸べなければいけない幼子として側にいる西園寺萌絵。
二人の女と犀川創平をめぐる距離感の差、意味合いの差は不安定に揺らぎつつも、物語が始まった時と同じ間合いに落ち着いて終わるわけです。
とても解りにくい形ではあるけど、犀川創平がこの世界にいる理由。
萌絵がこの自己規定まで行き着いてしまえばロマンスも完全に終わりですが、彼女は凡人なので犀川先生の言語をほんとうの意味では理解できません。
だから、一応神の視点を許されている読者が『オイオイ両思いじゃん。勝ったわ萌絵ちゃん』と思ったとしても、まぁなかなか距離は縮まらないわけです。
しっかりとロマンチックなムードを醸造し、犀川創平の真意が伝わる形で見せてくれたアニメ版の演出は、とっても良かったな。

四季との対話が幻想と現実を行き来するのに対し、萌絵との対話は同じように激しく背景を変化させつつも、それはあくまで現実的な歩みです。
カットインされる風景は大学構内のものですし、萌絵と創平が現実に歩いた場所を印象的にコラージュした結果造られた、非現実的に見える現実の風景です。(スゲー神戸守っぽい絵連発で大満足でした)
後の対話の見せ方まで考えると、これは犀川先生が残った陸の映像、いっしょにいたい相手が実際に生きていればこそ辿り着ける場所の表現であり、、天才性の海に住む真賀田四季には見えない風景なのでしょう。
そこに引っ張りあげ固定し帰還させた女は萌絵なので、色々コンプレックスもあるけどやっぱ萌絵ちゃん勝ち組だわな。

犀川先生は萌絵を導き守る立場にいるので、彼女が拗らせた親子関係の修復まで完了してくれます。
西之園教授の思い出を聞くことで、萌絵は失った父を身近に取り戻し、自分を置いていってしまった父を許すことが出来るわけです。
そのための切開はあの白い研究所と真賀田四季(を演じる娘)によって準備されていたわけで、この精神的成長はやっぱり、この奇妙な事件がなければ成立していないのでしょう。

僕個人としては萌絵はそこまで凡人ではなく、四季が持っている超越的な殺人特権をかなり理解していると思うわけですが、父母の死がトラウマになっている彼女は家族間殺人を認める訳にはいかない。
犀川の非常識な共感に対抗するように、萌絵が『あり得ない』と非難し続ける態度の裏には、四季の殺人を認めてしまえば両親の死を無価値化してしまうのではないかという、論理的で倫理的な恐怖があるのだと思います。
四季によりトラウマを切開され、犀川によって治療された物語終了時、萌絵は少しは真賀田四季の殺人を冷静に、論理的に受け止めることが出来るんじゃないのか。
僕はそう考えるわけです。


そして最後の対話は、月の砂漠と思い出の中で行われます。
真賀田四季の天才性は自分の脳内限定で死者をすら蘇らせますが、それは他者と共有できない異界です。
そこでも一切問題を感じないからこそ、四季博士はあの白い研究所の中に身を置き、そこにいることに飽きたからこそ今回の殺人事件を起こし、犀川先生と話す。
犀川先生が浜辺に誘い出されたように、真賀田四季もやっぱり陸が見たくなったというのが、このお話しの中心に位置する心の揺れでしょう。

結局博士は海の底にいたまま陸には上がってこないわけですが、天才性に孤独な海でこそ可能な魔法がある。
死んだ娘や所長と対話できる特権は、『親と最早死でしか繋がることのできない子供』としての共感を抱いている凡人・萌絵には、絶対に与えられません。
あの幸せそうなキッチンの光景が過去実際にあった風景なのか、それとも天才の脳内で完璧にエミュレートされる虚像なのか、それは分かりません。
それを区別することの意味を問いなおすことも含めて、この最終話は海の底にい続けることと、陸に上がって歩き出すこと、両方を価値あるものとして描いている。

僕個人としては、娘が四季に抱いた敬意と愛情がエミュレーションの誤差ではなく、四季の頭のなかにある冥府に、娘と所長という、凡人故に海底に降りられなかった死人を招いた想いが計算ではないことを、強く願っています。
『天才にはなんだって許される』という、アミバ的特権主義で真賀田四季への共感を排除してしまうのは簡単ですが、それで片付けるには魅力的な両義性をこのアニメはちゃんと描いてきたし、やっぱり真賀田四季はチャーミングだった。
凡人たる僕が真賀田四季の世界を理解できないとしても、そこには少しでも僕の世界と共通するような真実が引っかかっていて欲しいと、彼女のことが好きな僕は願うわけです。
それはもしかしたら、こちらの岸に残った西園寺萌絵や犀川創平も同じように願う、儚い幻想なのかもしれません。


こうして『すべてがFになる』のアニメは終わりました。
原作の発行から時間がたち、そのインパクトと新規性によって影響を受けた作品……の影響を受けた作品のその先が発行されるくらいに古典化したお話をどうアニメ化するのか。
なかなか難しいところだったと思うのですが、僕個人としてはとても良いアニメ化だったと思います。

一つには原典のテーマやメッセージ、美味しいところをしっかり咀嚼し、雰囲気を殺さずにアニメーションに仕上げた点。
現実と幻想の淡いがわからなくなる色彩や光の表現、的確に使用される川井憲次のBGM、衒学的でいて真摯なダイアログ、ちょっと盛り足されている可愛げ。
原典通りに料理するところと、アレンジを入れて届きやすくするところの見切りがとてもうまくて、原作が好きな視聴者を大事にしてくれたアニメだと思います。

もう一つは、"四季"や"百年シリーズ"の要素を入れ込み、真賀田四季というキャラクターを深く掘り下げていけるように、大胆に再構築された構成です。
ともすればただのサイコな天才になってしまう真賀田四季の柔らかい部分を描きつつ、視聴のフックになるショッキングな要素として使いこなすこと。
両立が難しい要素を巧みにコントロールし、『子供なのに大人』な四季と『大人なのに子供』な萌絵を対比させて効果的な演出を行うことで、"すべてがFになる"の新しい側面を掘り下げてくれました。

僕はいつからかこのアニメを、原作の大胆ながら魅力的な再解釈として読んでいて、その足場になるのは『人間関係の綱引き』という視点でした。
エキセントリック過ぎて人間味のないキャラクターたちが、しかしお互いの行動や人格に惹かれ合い、自分の側へと引っ張り合う不器用な綱引きとしてのミステリ。
僕が読んだアニメ版の新解釈は思っても見なかった側面であると同時に、原作にしっかり塗り込められ、それ故におそらく当時の読者の心をひきつけ一大事件となった、とても大事な要素だった。
そういう再発見の喜びがこのアニメ化にあったのは、ありがたいし良いことだったのだと、僕は思っています。

『人間関係の綱引き』という視点、『彼岸・此岸』『海・陸』『天才・凡人』『孤独・社会』という対立項。
僕がこのアニメを読む上で使っていた道具が果たして適切だったかは自分で判断できることじゃないですが、少なくとも自己満足できる程度にはお話を分かりやすく飲み込ませてくれる、良いツールでした。
こういう足場を手に入れることで、作品の中に製作者が込めた意味を誤読(何をどうやったって、読解という行為は誤読だって頭においていたほうが、謙虚に読めると僕は思います)出来るのであれば、それはまぁまぁ役に立つことなんでしょう。

映像表現としては、全体的に光の表現に切れ味がありました。
白く光る研究所の描写は『殺人が起こってもおかしくない場所』『天才・真賀田四季の領域』として異界の妖しさを伝えてきたし、作中の人物の気持ちや発見が動くとき常に印象的に描かれていた天候の描写は、叙情性があった。
特に第8話の夜明けのシーンで、黒から青、青から紫へと変貌していく空の演出はほんとうに素晴らしかったです。

誠意と冒険心をもって、しっかりと原作に向かい合った丁寧なアニメだったと思います。
とても大切な作品なのに、気付けば忘却の奥にしまいこんでしまっていた"すべてがFになる"を思い出し、瑞々しい断面を持った新作として向かい直すことを許してくれたこのアニメは、とても素敵で、立派で、好きになれるアニメでした。
ありがとうございました。