イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

Go! プリンセスプリキュア:第50話『はるかなる夢へ! Go! プリンセスプリキュア!』感想

一年間続いてきた12年目のプリキュア、遂に最終回です。
絶望との対峙、別れの受け入れ方、未来への希望。
これまで積み上げてきたお話を活かしつつ、お話しの終わりでしかできない総括と発展を果たし、プリンセスの物語にエンドマークをつけるのに相応しい最終回でした。
本当に、素晴らしいアニメだった。


前回ディスピアとの戦いを終わらせ、さあエピローグ……とはならないのがこのアニメ。
最大の敵であり最大の理解者でもあったクローズとの戦いと、その先にある対話をしっかり果たし、戦いに『殴って勝つ』以上の答えを探してきたアニメらしい結論を探しに行きました。
背負っているドラマが薄めなので人格性が薄い絶望の概念そのものだったディスピア様に対し、クローズさんは個人的執着を剥き出しにして、主人公と幾度もぶつかり合い、成長を果たして大BOSSの地位にたどり着いた、非常に人間的なライバルです。
今回の対話は、絶望の檻に閉ざされた一般人を守ってきたプリンセスが、けして相容れるはずのない絶望を自分のやり方でどういなすかという、最終試験なのかもしれません。

このアニメは夢の素晴らしさや暖かさ、綺麗さを強調すると同時に、(もしかするとそれ以上に意識を配って)夢の残酷さや痛み、困難さを語ってきました。
第38話で夢の痛みに耐えかね心をおり、第39話で『夢は自分自身で諦められない』という結論にたどり着き、第48話でクローズに見守れられながら『絶望も含めて、夢に向かって歩き続けるあり方そのものが夢』という答えに発展させていったはるかは、夢が内包している絶望から守られることなく、厳しい道を歩いて成長してきた主人公です。
そんな彼女が『殴って勝つ』という第11話で到達してしまった終わりを踏まえて違和感を感じ、クローズという自分の影に真っ向から退治して、対話を経て分かり合う展開には、物語的蓄積だけが可能にする説得力があります。

『光と影は背中合わせ、絶望があってこそ希望も意味を持つ』というのは、ヒーロー・フィクションではよく取り沙汰される題目なのですが、そこに説得力をもたせ『この答えしかありえない!』という唯一性を視聴者に感じさせるのは、とても難しい。
クローズとの戦い、その果てにある和解に重さがあるのは、一つには主人公を甘やかさず光の中にある闇をしっかり体験させたこれまでの構成によるものですが、もう一つはクローズというライバルの存在、そのものでしょう。
あくまで希望を信じ夢に向かって歩き続けるプリンセスには、言わせてはいけないもう一つの真実。
現実的でニヒリスティックながら、常にそれに苛まれて一切皆苦の生を生き延びている僕達に近い立場から、クローズさんは何度もはるかに立ちふさがり、彼女(を主人公としてこの作品自体)が掲げる綺麗な理想を叩き、鍛える役目を果たしてくれました。
カナタが光の側からはるかを支える男性支援者だとすると、クローズさんは闇の側からはるかを試す男性的敵対者であり、最後に『俺とお前だけのステージだ! 一緒に踊ろうぜ!!』と誘ったのは、カナタの陰画という役割、闇の王子という配役から考えると、非常に納得がいくポイントです。

『強く・優しく・美しく』というテーマが薄ら寒く感じられるくらい、お話しの外側で視聴者が活きている毎日は楽しくもなく、絶望に満ちて、苦しいものなのが普通だと思います。
そこで足を止めるのではなく、そんな死なない絶望に満ちた世界にも夢と希望はあるし、それを物語として届けることには大きな意味がある。
光に愛されて生まれた主人公と、闇の母に絶望を埋め込まれたライバルという、相入れそうもない存在がようやく本当の意味で『ごきげんよう』と再会を期して別れることが出来る今回のラストバトル。
それは、製作者たちの決意を反映した、一年間の戦いを締めくくるに相応しい和解だったと思います。

(加えて言うと、『絶望に折れて地力で立ち上がれない人はどうすれば良いのか』というツッコミに対しても、第22話から第28話あたりの『トワ様社会復帰編』で丁寧に描かれているのが、このシリーズの完成度だと思います。
どうしても頑張れない瞬間ってのは必ず人生にはあって、そういう時に立ち上がるための準備を整え、信じて受け止めてあげることのかけがえなさ、癒やしのための時間を一緒に過ごしてくれる存在の大事さが、ここら辺のエピソードには詰まっていると思うわけです。
強さも正しさも美しさも見失ってしまった初期のトワ様を描くことで、『そうやって頑張れるのは強い人だけじゃん。弱い私はどうすればいいの?』という疑問を切り捨てなかったことは、最終回から思い返すとすごく意味があったなぁ)

テーマに説得力を持たせるためにも、凄まじく気合の入った超常バトルの演出が活き活きしていて、アクションとドラマが融合したプリプリの強みが最後まで死ななかったのは素晴らしい。
片や最終フォームに辿り着いたヒロイン、片や絶望の概念を託されたライバルという、最強に高まったドラマの盛り上がりを反映して、巧くスケールを上げた神々クラスの戦いが展開され、大興奮でした。
技の出し入れの巧さ、引き出しの多さはずっとこのアニメの興奮を支えてくれましたが、攻めのクローズも守りのフローラも共に死力を出し尽くし、説得力のある殺陣を組み上げていたのは最高でした。
バトル以外でも、仲間を制して戦いに赴くはるかを見守る立場が、はるかを見守り導く先輩だったみなみってところが、はるかの成長をよく表現していたり、気の配られた演出でした。


絶望と和解し戦いが終わった後は、奪われたものが帰還する時間であり、物語が収束する時間でもあります。
ホープキングダムは開放され、カナタの戦いは報われ、少女たちはプリキュアの力を手放し、別れ別れになる。
これまでの苦労や出会い、痛みや喜びはすべてこの瞬間に繋がるため(にも)描写されていた伏線なわけで、積み上げてきた描写が到達するべきところに戻ってきた終わり方には、大きな満足感がありました。

ホープキングダム開放に関しては、カナタの描き方が最高に仕上がっていました。
王族としての誇りと家族の思い出にすがりつつ、絶望に折れそうになりながら戦い続けた、誇り高き王子。
時に幼い女の子との出会いに救われ、時に記憶を失って夢の力をなくしたりしつつも、最後まで走り切った頼れる助言者のプライドを、あえて顔を写さない男泣きで最大限に称揚した演出は、彼のファンとして『ありがとう』しか言えない。
この『泣き顔を描かず、口元と手で演技をさせる』演出プランはカナタとはるかの別れにも受け継がれていて、一年間生き続けた少年少女たちの成長に、敬意を払う見せ方だったと思います。
全てを抑圧するのではなく、泣き顔を見せても良いシーンでは堂々と感情の発露を描いているメリハリもあって、今回の涙の書き方は良かった……本当に良かった。

『選ばれた』プリキュアだけではなく、『選ばれなかった』一般人の物語も丁寧に描いてきたこのお話、主人公たちが『選ばれた』証であるプリキュアの力、キーを手放して終わるのは、自然であるし見事な終局でもあります。
彼女たちがなにか大きなことを成し遂げたのはプリキュアの特別な力があったからではなく、夢と希望を信じ絶望に寄り添わなかった結果だということは、ほぼすべてのエピソードで語られてきました。
第48話で絶望の檻を独力によって踏破したゆいちゃんとか、変身不能状態から夢を思い出して立ち上がった第39話のはるかなんかが分かりやすいですが、例えば一見ギャグ調の第12話でも、アイドル仕事を懸命に頑張るらんこパイセンの勇姿は、(笑いとともに)しっかり描かれています。
ヒーロー・フィクションを『選ばれた』特別な誰かのお話ではなく、大抵の場合『選ばれなかった』視聴者の物語として描いてきた以上、ここでプリキュアたちはキーを返さなければいけないし、しっかりとお別れしなければいけない。

プリンセスたちの別れに関しては、クローズとの和解が前景として非常によく効いていて、寂しさと希望に溢れたシーンになったと思います。
絶望とすら『ごきげんよう』と、再会を期して手を握りあえるのであれば、希望の戦士として一年間戦い続けた仲間の別れが、ただ悲しいものであるはずがない。
それでもやっぱり会えなくなるのは悲しいからトワは我慢できず泣くし、もはやプリキュアでなくなったとしても別れを乗り越える強さはみんなにあるのだから、笑顔を取り戻して声を合わせることが出来る。
迫り来る別れを前に、最後の日常を務めて演じようとする第二生徒会の御茶会含めて、別れの瞬間にやってくる感情全てを肯定した、良い『ごきげんよう』だったと思います。
『ネガティブに思えるものがポジティブに見えるものを支えていて、けして否定はできないから全部受け入れて描く』っていう姿勢は、ホント徹底してたな。


別れた後のそれぞれの道の描写は、コンパクトながら各キャラクターの物語全てを内包して、とても豊かでした
メイン四人はもちろんたっぷりとエプソードを積み上げてきたので当然といえば当然ですが、一瞬映る『選ばれなかった』人々にも印象的なエピソードと、そこを終えた後の小さな出番がちゃんとあった結果、感慨と満足感がちゃんとある。
個別エピソードを計画的に使いきった結果、主役たちの物語が内包しているテーマや困難、それを乗り越えるダイナミズムもしっかりと生まれていたわけで、みんなが探し当てたみんなの夢にちゃんとたどり着く(そしてその先に走っていく)終わりは、別れてもなお余りある感慨に満ちていたと思います。
お話を切り取る視点として『選ばれた』キャラクターにも、それを助け彩る脇役、『選ばれなかった』人々にも、しっかりと敬意と責任感を持って描き切ったことが、今回のエピローグに漂う余韻を生み出しているのは、間違いないでしょう。

特に『殴って勝つ』相手として登場した三銃士がそれぞれ自分の道を見つけ、薔薇の赤という『美しさ』を支えにして前に進んでいく描写は、彼らが好きだった自分としてはとてもありがたかったです。
暴力の外側にある可能性を常に探していたこのアニメで、絶望の側から希望を見つける対象として書かれていたシャットさんが、帽子を脱ぎ捨て居場所を見つけたことや、そこにロックが寄り添っていることは、敵の描き方として豊かだなぁと思いました。
相容れない道を自分の居場所と定めつつ、希望と和解し一時引くことを選んだクローズさん含め、幹部の描き方は凄く良かったです。
『絶望が消えないなら、背中合わせの存在である希望も消えない』というフローラの結論は、クローズさんからすれば『希望が消えないなら、絶望である俺も消えなくていい』ってことだからなぁ……やっぱクローズさん、フローラ好き過ぎやな。

教師として文化人として、プリキュアの少女たちには出来ないやり方で夢と希望を守ってきたシャムールにも、いい終わり方が用意されて最高でした。
これまで教師として他人の夢を守り支えて続けてきたシャムールに、教師志望のクロロが自分の夢をダイレクトに継承してくれる終わり方は、頑張ってきた彼女が報われた感覚があって、『ありがとう』しか言えねぇマジ。
発展途上の少女を主役に据える劇作は、メンターであり保護者でもある『大人』の描き方がすごく大事だと思うわけですが、シャムール筆頭にカナタや白金さん、学園長やプリンセスの家族と、『いい大人』を巧く描いたシリーズだったな、プリプリ。
ただ子供を受け止める包括力だけではなく、大人は大人で感じている(そして隠している)痛みやら、大人になっても終わらない夢にちゃんと目を向けていたのが、ほんと素晴らしい。


そしてじっくりと描かれた、はるかとカナタの別れのシーン。
トワは次元の壁を隔ててホープキングダムへ、きららはモデルとしてパリ、みなみは海洋学者を目指して海へ(思わせぶりな素振りで見事に大魚を釣り上げた北風さん大勝利やな)。
物語の始まりがそうであったように一人になったはるかは、夢を肯定してくれる王子様と出会った花の丘で、物語が終わるときにお別れしなければいけません。
この圧倒的な物語力の高さ、『行きて帰りし物語』類型を叙情的に踏まえたシーンの作り方自体で、エピローグの最期を飾るに相応しい盛り上がりが生まれるわけです。

プリキュアの力を返したように、はるかを物語のお割まで導いてくれたカナタとの出会いも、『ごきげんよう』の言葉と一緒に風に浚ってもらわなければいけません。
春野はるかという女の子は『選ばれた』存在である時間を自分の意志で手放し、『選ばれなかった』女の子としてまだ走り続けなければいけないわけだから、この別れは必然です。
キーに選ばれたから、王子様と出会ったから、プリンセスの血族だったから。
それが春野はるかという人間の尊厳を決めるわけではないし、戦い続けて見つけた結論も、『選ばれた』事実が人を輝かせるのではないと告げています。

ただ、そういうお話しの構造的な収まりの良さや、ホープキングダムとは断絶したというお話的な流れ以上の、感情的な必然性があのシーンにはあったと思います。
それが綺麗だからとか必要だからというだけではなく、トワとの別れにも涙を流さなかったはるかが、最大限ショックを受けた姿をしっかり切り取ることで、グランプリンセスに到達した彼女が未だ人間であり、人間として(つまりは僕達に親しい存在として)走り続ける結論に、凄く説得力が生まれていた。

痛いし辛いし悲しいけど、涙を拭いて立ち上がって、空を見上げながらどこまでも走る。
苦行のようなあり方しか多分僕達には許されていなくて、ならせめて顔を上げて誇り高く、美しく走って欲しいという、切なる願い。
"Go! プリンセスプリキュア"というとんでもない綺麗事を世の中に放つことが、今そこにいるあなたに何かを届けてくれればという、自信と確信に満ちた謙虚なメッセージ。
あの別れの中には、製作者のそういう祈りが確かに篭っていて、そう言うシーンがラストにやってくるのは、本当に凄いことだと感じるわけです。


別れの先には未来があって、特権的に世界の守護者だった時代が終わっても、女の子は生き続けて大きくなる。
もうプリキュアではないはるか達の姿をCパートに持ってきたのは、『プリキュア』というシリーズの外側、永遠に戦闘少女で在り続ける彼女たちのあり方を大きくはみ出した、このアニメらしいエンドマークだったと思います。
時間は流れ姿と形は変わるし、成長すれば少女たちは自分の夢を生きて、同じ時間と場所を共有しなくなる。
普通で当たり前なんだけど、ヒーロー・フィクションとして『選ばれた』存在を取り上げてきたプリキュアが、描こうと努力しつつもなかなか描ききれなかった『お話しの外側』に綺麗に飛び出すエンディングだったと思います。

色のないキーを胸にいだいたはるかを見てようやく、何故このアニメがグランプリンセスという具体性のない夢を主人公に与えたのか、解った気がしました。
白紙のノートにはなんでも描けるからです。
グランプリンセスという夢を叶える過程をこのアニメは切り取り、見事に完成させました。
それは例えばお花屋さんになりたいとか、パイロットになりたいとか、具体的な職業やライフスタイルを伴わない、抽象的な夢です。
ともすればあやふやなそれを追いかけることで、視聴者全てがおそらく抱くだろう個別の夢を、はるかと重ねあわせて完成させる手伝い、一種のロールモデルとしてのグランプリンセス体験記を描くこと。
具体性を背負わせて可能性を狭めることを嫌って、はるかはあえて、グランプリンセスというあやふやな夢を頼りに走って来たんじゃないかと、僕は思いました。

そしてそれを受け取るべきなのは、次の瞬間には一旦歩みを止めてしまうプリンセスたちの世界ではなく、その外側でお話を見ているあなた(もしくは僕)なのでしょう。
絵空事として消費されることを宿命付けられた創作物が、いったいリアルでヘヴィな現実に対し何が出来るのか。
ニヒリスティックな結論に陥りそうな疑問ですが、これに応えることなくして創作物は存在できないと思います。
未だ何者でもなく、何者にでもなれる子どもを主な対象にするこのアニメーションは、特にそうでしょう。

夢の輝きと闇を見つけ、顔と個性のある様々な人々の困難と努力を切り取り、ただのお題目ではなく実感として『強く』『正しく』『美しく』なること、あり続けることの価値をアニメーションにしてきたこの作品は、物語を作って誰かに届けることの意味にも、凄く真正面から向かい合った作品だと思います。
ゆいちゃんが『プリキュアの語り部』として完成させた夢を、かつて自分がそうであり、いつか自分と同じように大人になる少女に対して開放し、広げること。
この豊かなお話がラストシーンにそういう絵を選んだことの意味は、別れることの豊かさと可能性をしっかり描き切った最終回の展開とも呼応して、とんでもなく大きい気がします。


ただ気持ちのいい消費物でもなく、正しさを振り回すだけのお題目でもなく、どうにかして綺麗事を届けなければいけないという切実さに支えられた、一つのメッセージとしてのヒーローフィクション、Go! プリンセスプリキュア
その必死で謙虚で切実な創作物は、結構しっかり視聴者に届いたんじゃないかなぁと、物語の終わり辿り着いて僕は感じました。
良いアニメだった。
本当にそう思います。

『夢』という骨太なテーマを受け取る主人公はるかの気持ちの良いキャラクター性、はるかを導きつつも自分の夢を迷い探すみなみの姿、宇宙で一番かっこいいきららちゃんという女の子、絶望に陥れられ迷い立ち上がったトワの勇姿。
プリキュアとして『選ばれた』彼女たちの物語が、しっかりと構築され骨太だったこと。
彼らを支え、彼らに変えられた『選ばれなかった』脇役たちの人生をけしてないがしろにせず、尊敬を込めて丁寧に描き切ったこと。
一切皆苦の塵世の理にけして背を向けることなく、しかしニヒリズムに堕することもなく、前向きなメッセージに説得力をもたせたこと。
それらをしっかりと視聴者に伝えるべく、レイアウトやタイミングといった映像の言語をしっかりと操り、興奮のアクション・シーンを盛り込んで楽しいアニメーションとして仕上げたこと。

このアニメーションを構成する全てが、良く考えられ、情熱に満ち、誠実で素晴らしかった。
最高のプリキュアで、最高のアニメでした。
それを作り上げていただいた製作者に強く感謝しつつ、50話に渡った感想を終えたいと思います。
本当、良いアニメだった。
ありがとう、Go! プリンセスプリキュア