イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ:第21話『還るべき場所へ』感想

んもおおおおおおおおやだぁあああああああ!!

……申し訳ございません、取り乱しました。
世界に喧嘩を売った革命家と少年たちに、安住の時はない! というわけで、ギャラル式部と愉快な仲間たちが空から攻めてくるオルフェンズ。
罠やら役割分担やら巧く行ってるし、地球外縁軌道統制統合艦隊はギャグ集団だし、余裕で大勝利でしょ! というムードの裏で、着実に積み重なる死亡フラグと、やって来ないと見てるだけで判る明日への約束。
ミカにとっては『殺してもいいやつ』であるが、カルタにとっては『家族』を切られた痛みを糧に、一瞬の隙を突いた道化師の一撃が、的確に指揮車両とビスケットの下半身を消し飛ばし、名曲"オルフェンズの涙"が流れる回でした。
んもおおホント、マジホント無いから、ビスケ死ぬのマジないからホントさーマジ。(認めたくない気持ちと、『まぁ死ぬよな』という気持ちを増幅させる話の作り方の間に挟まれて語彙消滅)


このアニメは火星のどん底少年たちが泥まみれになって夢を掴み、宇宙ヤクザ成り上がりロードを駆け上がるという、爽快感のあるサクセス・ストーリーです。
しかし同時に、彼らを取り巻く残酷な世界には常にシビアな目が向けられ、人が死ぬときは死ぬし、どうにもならないものはどうにもならない。
成功と失敗のバランスを常に見張り、時に他人に負けを押し付け、時に主人公達とよく似た誰かを生け贄に捧げながら、お話が進んできました。
オルガに率いられた鉄華団が窮地を乗り越え、自己を実現し、社会的に認められる成功の気持ちよさと、彼らが置かれている世界が持つ危うさ、失敗の不安さは非常に巧妙に配置され、両方が両方を補うようなバランスで展開されていたわけです。

とは言うものの、実はこれまで鉄華団の名前と顔を持つキャラクターが死という取り返しの付かない失敗に飲み込まれたことは、あまりありませんでした。
一話でバッタバッタと死んだガキどもはまだ親しみが湧いていない段階ですし、タカキも危うい所で帰ってきましたし。
昌弘やフミタンといった身内からの死者も、完全な味方が無残に殺されたわけではなく、敵になるかもしれないし、味方になってくれるかもしれないという境界線をさまよっている間に死神が迫り、主人公達に寄り添うと同時に死んでいくような物語が展開してきました。
つまり、シビアでソリッドな世界をうまく視聴者に感じさせつつも、鉄華団という主人公グループの中で強く感情移入されるキャラクターは、結構死から遠い位置にいたわけです。

しかし今回、ビスケが死にました。
彼の死は非常に上手く計算されていて、鉄華団のブレーキ足りえる能力も、兄の自死を受け取って前に進んでいかなければいけない立場も、火星に残した妹達も、可愛げのある人格も、全てが惜しまれるように描写されている。
『起こって欲しくないことを起こす』のがサスペンスの基本であるならば、彼がどれだけ鉄華団にとって、視聴者にとって大事な存在で、失ってはいけないのか見せつけた上で奪うのは、非常に効果的な方法です。
身内からの初めての死者を効果的に使う意味で、ビスケ以上の選択肢は、確かにないでしょう。

前回オルガの危うさを諌める描写をたっぷり入れたことで、ビスケが欠けたら鉄華団がどう危うくなるのか、しっかり見せていたのも恐ろしいところです。
何が恐ろしいかって、ビスケの欠損によりブレーキを失った鉄華団を再構築する算段と、部外者であるステープルトンさんが鉄華団の『家族』になっていく展開をしっかり埋め込んだ上で、ビスケというキャラの値段をキッチリ上げて殺しているところでしょう。
反発されつつもオルガノ危うさを受け止めているステープルトンさんは、能力面でも情緒面でもビスケの穴を埋める人材として用意されつつ、あまりにもビスケの死のショックが大きくて、なかなかそこには考えが至らない位置にいる。
ビスケの無残な死体を見ると、ステープルトンさんのことを考える余裕は無いし、冷静にビスケの死骸以外に目をやることに『申し訳無さ』を感じるよう、作劇的な煙幕が貼られているように思います。

今後鉄華団の物語はビスケの死による変質を避け得ないと思うのですが、それはただただ暴走し破滅していく物語以外にも、新しい可能性を取り入れより強靭に変化していく物語にも可能性を残しているわけです。
そして、そのことを考えるときに一種の『申し訳無さ』を生み出し、あんなに生き残りたかったのに死んでしまったビスケのことを横において、先を考える冷静さを巧く奪っている。
ビスケの死という衝撃で視聴者を殴りつけることで、目の前の展開に夢中にさせ、視聴者の冷静なガードをこじ開け隙間を作る。
考えもしなかった、しかし必然性がある展開が叩きつけられることが創作の大きな喜びである以上、きっちりその穴埋めまで既に用意されている今回のビスケの死は、巧い手筋なのです。


ビスケの死が僕の心を占領するのは、無論彼が好きだった僕の感情も大きく影響しているのでしょうが、生と死の間で運命を揺らす手管が非常に上手く調整されていたことが主因でしょう。
彼の『還るべき場所』である火星の妹たちから始まって、すぐに奪われる明日に約束を残す油断、形式にこだわり過ぎて道化と化している敵、役割分担と戦法の噛み合い方で楽勝ムードが漂う戦闘と、全てがビスケの死に繋がるよう展開しています。
過剰なほどにビスケが死ななければいけない理由と、死んではいけない理由を積み上げ畳み掛けてきっちり殺すのは、非常に巧みな誘導だと言えるでしょう。

ビスケの死は、これまで生け贄として捧げられた人々の死が全てそうであったように、『還るべき場所』を求める旅路の途上での死であり、彼が何故生き残らなければならないかの説明は丁寧になされます。
妹がいる、学校に行かせなきゃいけない、だから死ねない。
オルガと話し合ってない、明日話さなきゃいけない、だから死ねない。
サバラン兄さんは無残に首を釣った、自分の生きざまで世界が少しはマシな場所だって証明しなきゃいけない、だから死ねない。
ビスケは良いやつだから、鉄華団に絶対に必要なブレーキ役、だから死ねない。
これだけの理由を背負っていても、あっさりと上半身と下半身が真っ二つになった、尊厳も何もない死体になってしまう。
ビスケの死骸を視聴者に見せつけることで、このアニメはもう一度、作中における死の値段を確認してもいるわけです。

そして同時に、死ななければいけない理由も丁寧に積み重ねられている。
戦闘回であることを活かして、戦いの描写の中に丁寧に油断を埋め込んでいたのは、アクションとドラマを融合させるのが巧いこのアニメらしいところです。
戦闘序盤、MSによるミサイル迎撃と、砲台として運用されるグシオンの射撃がだんだん効果を出していく達成感。
鉄華団のヤクザ剣法が、巧くカルタ部隊のお上品な戦い方を見出し、ペースを握っていく時の昏い愉悦。
クーデリアと蒔苗を囮にした誘いこみ戦術が決まり、戦術的目標を達成する描写。
今回の戦いはどこか余裕がある、鉄華団有利の戦闘として描写されています。

しかし本来火星ネズミは常に弱者であり、必死にあがき、強者の余裕の裏をかいてなんとか勝利をもぎ取ってきたわけで、この余裕は本来のスタイルを見失った危うさでもある。
結果、身内を取られたカルタの突破を許し、前線に突出しすぎた玉に手をかけられ、参謀役をぶっ殺される結末を迎えます。
今回カルタが見せた逆撃は、これまで鉄華団がやってきたスタイルを見事に逆打ちにされた形になるわけです。
ここらへんも、そろそろオルフェンズに慣れてきた視聴者を油断させぶん殴る、巧い作りだなと思います。


カルタは緊迫した空気を抜く道化として描かれつつ、殺される以上は殺す権利を持つ一個人に変貌して、ビスケを殺しました。
おふざけ集団が面白く殺される姿を、不謹慎に笑いつつ楽しんでいた視聴者に、カルタの意地が横殴りを掛ける形であり、裏切りのエピソードである今回に相応しい捌き方だと思います。
考えてみれば、どんなに面白い死に方していようが死は死で、しかも外縁軌道統制統合艦隊はカルタから見れば『家族』であり、『家族』のために『家族』以外を殺す鉄華団の仁義から考えれば、カルタだって人殺しをする権利がある。
だから、カルタは修羅の顔で『また"私の"可愛い部下が!』と吠え、『家族』の助けを借りて敵を殺しにかかる。
これまで『家族』のために『家族以外』を殺してきた、鉄華団のやり方が、逆しまに牙を向いてくるシーン。

ここら辺は、例えばブルワーズのヒューマンデブリが鉄華団のガキどもの鑑合わせとして死んでいったこと、もしくはコロニーの労働者たちが虐げられた主人公達の失敗作としてバタバタ殺されたことと、背中合わせの描写だと思います。
主役として選ばれたから死から逃げられるわけでもないし、主役には任せられない道化役であろうと、鉄を手にとって敵の血を絞りとる権利は、残忍に平等に存在している。
今回はそういう冷厳でフェアな視線をこのアニメが持っているということを、証明するエピソードなのでしょう。

物語がそこに切り込んでいく足場を必要とする以上、特別に優遇された主人公というものは必要です。
しかしだからといって、自分たちが定めたルールや、世界が用意しているルールから主人公達が逃れ得るわけではないし、特別扱いして都合の良い快楽を追体験させる物語装置としてだけ、このアニメを作るつもりもない。
ビスケが死んだ痛み、道化であるカルタが殺した場違いな感じはつまり、製作者が作品に向かい合うスタンスを豪速球でつきつけられた結果なわけです。
『コイツは殺していいやつ』という三日月の、傲慢で残忍な生存哲学の足元を掬って、もし仮に『主人公が言ってることだしね』と共感し同一化してしまっている視聴者がいるなら、手痛い一発を入れる。
ビスケの死は、どこにも安全圏がないという作品の厳しさを確認する意味でも、安全圏がないが故に鉄華団が歩く道が普遍的であると確認する意味でも、大事な犠牲だと思います。

なお自分は、カルタが『家族』を殺された苦しみに、三日月が共感する必要はないと思います。
彼は自分なりの生存法として『家族』と『家族以外』を明確に切り分け、迷いなく守り殺すことで生きてきたわけで、それは少なくともこの辞典では簡単に変わることはない。
『家族』を殺された憎しみを背負ってお互いの喉笛に食らいつくしか無い業は、早々簡単に克服できない人類の痛みでしょうから、ここでそれを乗り越えることは出来ないでしょう。
それが可能なのはもっと大きな視点を持ち、もっと大きなことを成し遂げようと奮戦しているクーデリアですし、三日月にそれを教えることもまた、クーデリアの物語なのでしょうから。
しかしそれは今ではないということも、これまでの物語と、血と憎悪を塗りこんだような今回の作画を見ていれば分かります。
人だけではなく、表情がないはずのロボットから殺意と憎悪が見え隠れするのは、良い作画だなぁと思いました……バリはスゲーなー。


そんなわけで、ビスケが死にました。
シリーズ全体を整え直す意味でも、視聴者にショックとサスペンスを与える意味でも、巧妙な、意味深い死だったと思います。
これだけ的確に殺すと、これを上手く使って話がどれだけ加速できるのか、期待が高まるというものです。

でもまぁ、僕はそれはまぁ良いとして、ビスケには死んでほしくなかったし、生きていて欲しかった。
小さくて堅実な望みを叶えて、フラグなんて踏み潰して幸せになって欲しかった。
オルガと仲直りして欲しかった。
有り余る才能を鉄華団の活躍の中で発揮して、革命の乙女を支えた名参謀として、歴史の教科書に乗って欲しかった。

でも死んじゃった。

俺のビスケは真っ二つになって死んじゃったわけで、僕の思い描いた『こうなってほしい』はもう叶わないわけです。
苦しいし、嫌だなぁと思います。
ほんっとにもうマジ無理んもぉおおおおホントマジ無理!! って感じです。

でも、ビスケが死んでも鉄華団もクーデリアも生きているし、屍を踏みつけながら人生の物語は続きます。
ビスケの死をどう扱い、少年たちがどこに転がっていくのか、楽しみですね。
はー……俺のビスケ死んじゃったなぁ……ホントマジさぁ……マジさぁ。