イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ:第23話『最後の嘘』感想

血で染め上げられたカナーンを目指す荒野の少年たちの物語、今週は積み重なる嘘と死と希望。
誇りを求めて足掻いた道化、カルタ・イシューが、殺戮の悪魔、三日月・オーガスに殺されるお話でした。
家族、夢、成功、教育、変化、未来。
これまでの物語で輝いて見えていた様々な可能性が次々吹き消され、敵も味方もみな、引き返せないレールをひた走る展開が、どんどん加速していきます。
狡猾に退路を塞ぎ、望むままの修羅界を生み出しているマクギリスの狙いは何なのか。
ステープルトンさんが目を覆ってしまった、子供たちの前に広がる殺戮の未来がどう衝突するのか。
怖いが先が見たい、気になるけども恐ろしい。
良い終盤戦だと思います。


『敵』と『味方』、ギャラルホルンと鉄華団、両陣営ともに濃厚な展開があったお話ですが、まずは『味方』から。
ビスケットの死を『敵』の殺戮によってのみ贖うことを選んでしまった鉄華団は、どんどんと道を塞ぎ、覚悟を決めていきます。
大人に命令されたからじゃない、僕達が選んだから。
帰る場所はない、未来は殺しの果てにしか無い。
自分に言い聞かせるように可能性を狭め、物語が始まった時にそうであったように、戦場で殺される事だけが自分の可能性である世界に頭から飛び込んでいく少年たちの姿は、しかし悲壮さよりも醜悪さのほうが強調して描かれているように思います。

例えば鉄華団を旗揚げした時、例えばタービンズでまともな人間として扱われた時、例えばフミタンと文字を学んでいた時。
このアニメはいくども、今回ステープルトンさんが必死に振り回していた正論が少年たちに接近した瞬間を、丁寧に切り取ってきました。
彼らが『ヒューマン・デブリ』ではなく『人間』として当然の、しかしそれ故にあまりにも火星のガキたちには遠い夢を手中に出来る可能性は、希望として、お話を見続けようと思える甘い蜜として描写されてきた。
それはクーデリアにしても名瀬にしても、常に『他人』との出会いとして描かれていて、閉塞してどうしようもない環境を変えるためには、他者を恐れず向かい入れる勇気と変化が大事だということが、強調されていました。

しかし今回、『他人』であるステープルトンさんをオルガや子供たちは冷たく突き放し、自分たちの論理の中に閉じこもっていく。
ビスケットの弔い合戦だから。
もう俺達はどこにもいけないから。
そうやって自閉していく彼らの論理がしかし、ロジックとして破綻し何事も成し遂げられない、危うく弱い理屈だという事実は、蒔苗の『弔い合戦とは便利な言葉だ、結局破壊がしたいだけだ』という指摘で、的確に切り取られている。

変わりようがないないはずの火星のガキの暮らしが変わったからこそ、彼らは見たことのない雪景色の中にいるのに、それを否定し自閉し暴走していく。
ステープルトンさんや蒔苗が画面から排除されず描写されることが、製作者が鉄華団の危うい自閉性、『家族』の暗黒面に強く自覚的だった、何よりの証明だと僕は思うのです。
牙をむく『家族』の暗黒面を前に立ちすくんでしまうステープルトンさんの姿はおそらく、魅力的に輝いていた希望に彼らが進んでくれれば良いなと願っていた僕自身の写し絵だし、彼女の無力は僕の無力でしょう。
あの人を拒絶したように、安全圏で生きながらえてアニメ見れてる僕もまた、鉄華団には拒絶されるんだろうなぁと、少し虚しく思わざるを得ません。

彼らは蒔苗やマクギリスが代表する、利己的なエゴイズムに踊らされると同時に、カッコいいガンダムを操り滅茶苦茶に『敵』をぶっ殺す年上の存在に憧れて、『家族』以外を否定し可能性を狭めています。

暴力による強制という形は取っていなくても、それは年長者の都合でバッタバッタと死んでいった、選択肢が一切ない時代、物語が始まる以前のガキたちの暮らしと、そこまで変わることはない。
スジが通らないと憎み反抗し殺したCGSの大人たちと、もはや三日月やオルガは同じ場所に流れ着きつつあるように、僕には思えます。
暴力以外の可能性に対し開かれ、武器を捨てる勇気を選択できる強さをビスケットが象徴していたと思うのですが、彼もまたモビルワーカーという武器に乗り込み、死んでしまった。
外界と交渉し『他者』を取り込む柔軟性も、戦闘以外の方法論を考える落ち着きも、今の鉄華団にはない。
雪の荒野の中を、鉄のレールに乗っかって前に進むしか無い列車と、今の鉄華団はよく似ています。

そうして『家族』に閉じこもって大暴れするとどうなるかというのは、例えばブルワーズのヒューマン・デブリや、コロニーの労働者や、何も出来なかったサヴァラン兄さんや、道化のまま殺し死んだカルタといった、モブ顔にデザインされた死人たちがよく教えてくれています。
イケメンだから、ガンダム乗ってるから、主人公だから。
いろんな理由を見せかけに貼り付けて、世界の残酷さや他者性への共感から守られてきた鉄華団はしかし常に、一歩間違えば無残に死んでいく同じ立場の存在を多数映すことで、その未来を暗示されていたのかもしれません。
鉄華団という『家族』と、同じ理屈で必死に生きようとして死んでいったブサイクな『家族』たちの差異は、やはり見かけほどにはなかったのでしょう。
それは残忍で不愉快な哲学ですが、真摯で真面目でもある。
積み上がっていく鉄華団の破滅に関して、このアニメは冷静で的確な描写を、慎重に選んでいると思います。


そんな暴走列車にニトロを積み込んでいるのが三日月ですが、クランク二尉にそうしたように、カルタが望んだ決闘を文字通り殴り飛ばし、一方的な殺しを展開していました。
従順な殺人人形に思えた三日月がオルガを追い込み、鉄華団を閉鎖させ、全てを破滅の淵に引っ張っている状況は空恐ろしくもありますが、その原動力は『弔い合戦』のような気がします。
それはビスケットという個人を含みつつも大きく飛び越えた、人生そのもの、世界そのものへの復讐戦のように、僕は感じるのです。
殺したり殺されたりする以外の選択肢が、生まれた時から用意されていなかった理不尽。
決闘という『綺麗な殺し合い』を夢見ることが許されるような、恵まれた連中への怒り。
世界を切り開くと同時に、良いように道具としても扱われた最初の殺人。
鉄面皮の奥で、おそらくは三日月も知らずのうちに渦を巻く圧倒的な憤怒が、異常なほどにオルガに『先』を求め、その障害となる綺麗事ばっかりの『他者』を殺す、原動力のような気がしてなりません。
『家族』に自閉する少年たちの憧れとして、暴力でカルタとの対話を拒絶しぶっ殺す態度、『お前の人生の物語など、かけらすらも聞いてやるか』という態度には、鮮烈な怒りが見える。

時代遅れの騎士のように、もしくはこれまでと同じ道化のように決闘を望むカルタを、三日月は容赦なく殺戮します。
それは合理的でスマートな動物的殺しですが、同時に『お前らは何度も攻めてくるから』『仲間の弔い合戦だから』と、殺す理由を求める人間的殺戮でもあります。
理由もなく、意味もなく、殺したり殺されたりする『人間以外』だったことを諦めて生きていた少年が、様々な経験を経て手に入れた『人間性』が、殺す理由をつけなきゃ殺せない歪んだ論理性だとすれば、これ以上皮肉なこともないでしょう。

かつては教育など、殺す以外の『人間性』を担当してもいたクーデリアですが、今回の皆殺しも、それに魅入られる子供たちも止めはしません。
一緒に教え、料理を作り、服を洗っていたフミタンは呪いを残して死に、アトラも覚悟を決めた表情を見せた。
唯一残された良心たるステープルトンさんは、圧倒的に無力です。
『家族』の暴力性を前に出来ることは歪んだロジックに飲み込まれ同質化するか、それを脇に見つつ自分のエゴイズムを粛々と先にすすめるか、もしくは立ちすくむしか無いのかもしれません。

『他人は余計事を言うな』『これは家族の問題だ』
身も蓋もなく重すぎるほどに重たい『家族』のロジックを、しかしあえて飛び越える勇気が『社会変革』「というクーデリアの可能性だったと思うのですが、フミタンの死を契機に彼女は、手段と目的を切り分ける現実的な二分法を手に入れてしまいます。
『全ての虐げられしものを開放する』という、人間には過ぎた理想をフミタンに押し付けられ、それを実現するために一線を引いた彼女にとって、鉄華団は『家族』ではなく『ビジネスパートナー』です。
その死は(ビスケットの死を前にして画面外で流した涙のように、痛みを伴うものだとしても)取り返しがつかないものではなく、理想のために必要な犠牲でもある。
彼女にとっての『家族』は、もはや死んだフミタンだけなのかもしれません。
理想と手段の二分法は、今回これ以上ないほどの悪辣さでマクギリスが示したところであり、そういう意味でも彼はクーデリアの影(もしくは彼女がマクギリスの影)なのでしょうね。


暴走する『家族』に対比する形で、セブンスターズ三羽烏(+アインくん)もたっぷり描写されていました。
三日月がオルガに投げかけている『期待の眼』の暴力を、カルタに対して意図的に使いこなし、自分の欲しい結果を引っ張ってくるマクギリスがあまりにも邪悪で、同時にその嘘に一分の真心が紛れ込んでいるのが最悪に質が悪い。
本当は自分の異常性も待ち構える破滅も理解しているのに止めれず止まれないオルガと、後悔も思い出も踏み潰して己の欲しいものを手に入れに行くマクギリスは、年齢以上に『大人と子供』なのだなぁ。

カルタは麻呂眉のおもしろトンチキ騎士かぶれとして登場し、マヌケな騎士道を振りかざして主人公たちに殺される、道化役として物語に登場しました。
しかし回を追いかけるにつれ、空回りしつつも彼女が部下を『家族』とおもいやり、家の重圧に耐え、マクギリスに思いを寄せる『人間』でもある描写を、このアニメは積み重ねてきた。
ビスケットの殺害という、今思い返せばあまりにも大きな分岐点を彼女が果たすのも、安全圏がどこにもない作品世界のシビアさを表現すると同時に、カルタが物語的に大きなものを背負うことが出来る、軽んじてはいけない存在だということを視聴者にわからせる意味を持っていたと思います。
『殺していいやつ』に『家族』を殺される理不尽は、しかしカルタに足場を置いてみればビスケットをはじめとする『家族』の死と変わりがなく、殺す側には殺す側の理屈と痛みと重たさがある。
これまでひっそりと描写されていた偶有性の鏡像にさらに一歩、足を踏み出すと同時に、鉄華団が持っている主人公としての正しさが崩壊し始める描写でした。

その方向性は今回さらに強化されていて、少年時代寄る辺がなかったマクギリスに、真っ直ぐな正しさを示す姿は確かに強く、正しく、美しい。
それがマクギリスの生き方を変えなかったとしても、どうしようもなく歪んでいくしか無い残忍な世界の中で、例えばステープルトンさんの無力さのように、彼女の正しさは僕には綺麗に見えました。
本来軍人には向いていない(木登りという『危険な行為』は、面白いメタファーだったと思います)カルタですが、愛する家族のため、マクギリスが見上げる視線のために、時代遅れで笑える騎士道にたどり着き、そこにしがみつきながら生きていくしかなかった。
その必死さはどこか、血塗れのレールに突き進む鉄華団に似た体温を持っています。

思い返してみればガエリオも、『隣の人』とか『ガリガリ君』とか、ネタっぽい差別主義者として物語に登場しながら、今では友の悪辣さにすり潰され、大事に思っていた女は助けられず、『最後の嘘』でしか癒やしてあげることの出来ない、非常にシビアで共感を呼ぶ存在になりました。
ネタキャラとして、『殺していいやつ』として整形されたキャラクターが実は他のキャラクターと同じような震えと信念と血潮をしっかり持っていて、何かを成し遂げようと強く願いながら捻じ曲げられるオルフェンズの一人なのだと思わせる劇作は、視聴者の思い上がりを手のひらの上で操る、巧妙なものです。
カルタのあまりにも寂しい死に様に、それを見送り涙を飲み込むガエリオの姿に心を揺り動かされた瞬間、僕はつい2週間前、彼女のことを『ギャラル式部』と笑っていた自分を思い出さざるをえない。
安全圏を勝手に線引する視聴者の高慢を、物語の快楽で思い切り殴りつけてくる手腕ってのは、このアニメの武器でも最大級のものだと思います。


過去の描写が別の意味で立ち上がってくるのは、アインくん関係の描写でもそうです。
無残に腰から下をぶった切られ、鉄の塊、戦争の道具として命を永らえたアインくんをおぞましいと思う気持ちは、実は火星において阿頼耶識を目撃し思わず嘔吐した、ガエリオの嫌悪感と通じている。
あの時は主人公たる鉄華団への差別意識に鼻白んでいた気持ちが、今は人間を機械に変えてしまう阿頼耶識の恐ろしさに震え、『これはやり過ぎだろ……』というショックに塗りつぶされている。
鉄華団が非人間的(もしくは過剰に人間的)な方向に突っ走り、共感の足場を自ら切り落としているお話の流れとシンクロする、上手い反転だと思います。
事ここに及んで、当時は偽善や現実無視の理想主義に思えたクランク二尉のロジックが、鉄華団の暴走への予言になってるってのは、本当に皮肉だ。

ガエリオは作中でもかなりバランスの良い、善良な精神をした人間であり、それを揶揄するマクギリスの言葉も、ただの皮肉ではないのでしょう。
セブンスターズの価値観に生まれた時から染められつつも、アインくんと出会ってそれを変化させる柔軟性もあるし、(マクギリスの悪意に誘導されているとはいえ)自分の決断の成れの果てを前に言葉を失う倫理もある。
そこで立ちすくまず、過去を共有するカルタの救援という『為すべきこと』をまず行う積極性もある。
彼は共感可能な、好きになれるキャラクターになったと思います。

だからこそ、ガエリオとカルタを偽り、自分の目的のために誘導するマクギリスの底知れなさは、強く強調される。
カルタが持つ気高さや美しさにも、ガエリオの正しさにも背中を向け、モンタークとして『敵』にも通じて状況をコントロールしている彼は、何故その道を選ばなければならないのか。
話が苛烈な方向に加速していけば行くほど、残忍な世界に最も適応しているように見えるマクギリスのオリジンが、僕は気になります。

おそらく意図的に三日月と似せられた、子供時代の彼の三白眼が一体何を睨んでいたのか。
銃弾で切り開いた『新しい世界』に取り憑かれた三日月と同じ何かを、マクギリスも持っているのか。
話が終盤に差し掛かり、様々なキャラクターがその本性を明らかにする中で、彼の仮面の奥はまだ見えません。
『秘められたものを見たい』という好奇心こそが、物語を前進させる最大の原動力である以上、マクギリスのミステリがどんどん邪悪に膨れ上がりつつ、その正体を見せないことは、非常に大きな意味を持っていると、僕は思うのです。
いやまぁ単純に、ここまで他人の人生玩具にしちゃう理由を知りたいって気持ちが大きいんだけどね……ホント凄いよね、色んな意味で。


止まれない列車のように走るカルマと、死を以って止まってしまう命の痛みを込めた、オルフェンズらしいエピソードでした。
『みんなで還る』『キミはよく戦った』
綺麗な希望はみな『嘘』ですが、それが『最後の嘘』足りえるかどうかは、レールの先にある修羅界に飛び込み、(おそらく大量の『家族』をもぎ取られつつ)その果てにたどり着いてみなければ解らないことです。

どんどん閉鎖し加速する鉄華団ですが、やっぱり僕は彼らのことを『キチガイだから死んでもいいじゃん』とは思えない。(それは多分、製作者の狙い通りだと思う)
過去の物語の中で見えた薄ら淡い希望が、『最後の嘘』だったとしてもそこにたどり着けるのだという、甘っちょろい希望を未だに抱いている、ヌルい視聴者です。
でもやっぱり、彼らには幸せになってほしいと、今になっても思う。
そう思えるように彼らを切り取る画角は計算されていたし、そのアングルは巧妙だったと思うから。
そして、テクニックだけではない感情のゆらぎが、確かにこのアニメには封じられていると、今でも思うから。
来週もまた、楽しみです。