読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

昭和元禄落語心中:第11話感想

アニメ 昭和元禄落語心中

逃げても逃げても業と芸が追いかけてくるアニメーション、今回は阿波国桃花源。
一度切れたはずの縁を手繰って助六の元まで辿り着いた菊比古は、助六を見限って家を出たみよ吉の代わりをするように献身的に身の回りを世話し、落語に戻るよう働きかける。
無邪気に父と落語を慕う小夏とも絆を繋ぎ、穏やかな春の日差しの中で、菊比古は東京の高座では手にいられなかった客の手触りを手に入れ、七代目の死から荒み続けてきた魂を修復していく。
客は小夏一人、粗末な縁台でかけた"野ざらし"に誘われて遂に自意識の檻から出てきた助六の噺は、ブランクを反映して荒いながらも、生来の勢いと明るさの宿った見事な席だった。
傷つけられても忌み嫌っても離れられない噺の重力に引き寄せられ、二人会を企画する有楽亭兄弟弟子の一報を、みよ吉は遠くの床、別の男に抱かれながら聞いていた。
これまであくまで『寄席』という正式な箱のなかで展開していた物語が外に飛び出し、二人の男の魂の傷が春日の中で癒やされていく、幸せなお話でした。


今回のお話は『寄席』という公式な場所を離れた、野放図で自由な物語でして、それ故様々な芸の本質がかなり直接的に語られるお話でもあります。
助六が恨み節に語る、稽古に稽古を重ねても答えが出ず、文句ばかり言われる芸。
蕎麦屋で素人芸のようにかける噺で見えてくる、気楽で背負うもののない芸。
旅館の大旦那が再起の場所で予感させる、身一つで客と語り合える芸。
少年時代を再演するように風呂場で語られる、客と演者の理想的コミュニケーションとしての芸。
不在故に存在感を増すみよ吉の恨み言の中の、人間がやるもんじゃない業としての芸。
これまで『芸に引き寄せられる人間』が『寄席』のある東京で語られて来たのに対し、『寄席』というオフィシャルな場所のない田舎でこそ、『人間が引き寄せられる芸』の本質を掘り下げていくのは、なかなか面白い運動です。

『寄席』を中心とする落語には歴史があり、一門があり、伝統があり、制度があり、嫉妬と憧れがあります。
今回の舞台となった片田舎には、これまで助六や菊比古があるときは助けられある時は苦しめられた、落語にまつわる様々なもの(それは付随物であると同時に、本質でもある)がない。
一種気楽で、同時に不完全でもある『何ものにも縛られない落語』を相手にしていたからこそ、迷いに迷った二人の青年は芸の本質を真っ直ぐに語り、気づくことが出来るのでしょう。

『東京の落語』と『田舎の落語』を対比させつつも軽重付けないのが非常に良い所でして、それは助六の落語と菊比古の落語のように、ただ違うものであってどちらが良い、というものではない。
しかし様々な因縁や制度に絡め取られすぎて、何もかもぐしゃぐしゃになってしまった二人にはまっすぐに『芸』に向かい合う時間が必要であり、それには『田舎の落語』が向いていたのでしょう。
穏やかな『田舎の落語』で落語と己の業に向かい合う活力を取り戻したら、社会や制度と繋がった『東京の落語』に帰って、職業として、生き様として落語をやる。
今回提示された明るい未来予想図の中には、どちらかを持ち上げて片方を落とす視点がなく、両方の違いと大切さをしっかり受け止めているように思えました。


『田舎の落語』の無邪気さを象徴しているのが小夏でして、鞠のように弾む表情や仕草がとても可愛らしく、見ているだけで楽しい気持ちになりました。
ただただ父が好きで、父の落語が好きで、落語が好きな子供に触れ合ううちに、孤独を求め客の顔を見ない菊比古の落語もまた、より善い方向に変化していく。
今回の話は小夏を仲立ちとして、助六が暗い自意識から顔を出し落語に向かい合い直す物語であり、一人になってしまった菊比古が自分自身と向かい直し、『客のある落語』という助六のスタイルを自分の内に取り込んでいく物語でもあります。

小夏は無邪気な観客だけではなく、助六と菊比古の疑似夫婦を繋ぐ娘役(助六にとっては娘そのものですが)を演じてもいます。
彼女はなんとか立ち直ろうとするダメな大人たちを癒やす存在であると同時に、家事に稼ぎに奔走する三人目の母親でもある。
そして髪切りのシーンで菊比古が語るような、女性のより良い部分を体現する存在でもある。(結果として、不在のみよ吉が『悪い女』の象徴となってる所が、なかなか面白い)
不在のみよ吉に変わって、様々な役割を小夏が担うことで、男二人の関係はより良い方向に変化し、希望に満ちた復活の物語が展開することになります。
弾むような作画も小林ゆうの演技も、ほんと良いのよね……素晴らしい。

甲斐甲斐しく動きまわり、旦那のために頭を下げ家を切り盛りする菊比古に、女性的なホスピタリティが投影されているのは間違いがないところです。
復活劇の最終章となる"野ざらし"で骨(≒女)を担当していた事を見ても、菊比古は自分の中の女性性に自覚的であり、それを使いこなす洞察に優れている。
女郎屋に生まれ女になりきれず落語に捨てられた菊比古が、『女』という存在に複雑な思いを持っていること、そして『女』の強さを自分の芸の強さに変えてきたことは、これまで描写されたところです。
今回小夏の髪を切りながら語った『女』論もまた、常に『女』について考えざるを得なかった菊比古の人生的蓄積の賜物であり、『芸』についてそうであったように、田舎の気楽な景色が呟かせた本質論なのでしょう。


今回の話はダメ人間助六が自己の本質にたどり着き、再び高座(縁台ですが)に立つまでのお話として読み取れます。
荒れた住環境を整え、人間関係を再構築し、自分の気持と向い合って本音で話す、ゆっくりと優しく、しかし着実な復活の物語。
穏やかに傷が癒やされていく物語は、人間の情と業を濃厚に描いてきたこのアニメ一瞬の幕間のようで、とても心が休まります。
やっぱねぇ、傷つき伏した人たちが、ジワッと己を癒やして立ち上がる物語をちゃんとやってくれるってのは、最高に胸に迫るね。

東京から逃げ落語から逃げ八雲の名前から逃げた助六は、今回己の迷いそのものである闇の中に、とどまり続けます。(ガラスサッシを入れていない日本家屋だと、昼でもあんくらい暗いでしょうね)
一番最初に菊比古が扉を開けた時、外の穏やかな光は部屋の中までは差し込まず、助六は闇の中で自意識と寝ている。
小夏と菊比古、二人の『女』の助けを借りてだんだんと自分と向き合い、まるで岩戸神話のような"野ざらし"に我慢できずに光に満ちた縁台に飛び出してくる展開は、彼が追い込まれていたどん底の暗さと、非常に鮮烈な対比を成しています。

その間でイチャコライチャコラ、弟弟子と痴話喧嘩のラッシュを仕掛けてくるわけですが、まるで子供に戻ったように軽妙な掛け合いを繰り返し、本音をぶつけあう二人の姿は、視聴者にとって凄く嬉しい。
色々とネジレてしまったけれども、やはり僕らは兄弟のような二人が大好きなのであって、事ここに及んで二人の名調子が戻ってきたのは、助六復活を強く印象づけるシーンでした。
今回の二人の描写には、確実に小夏を間に挟んでのゲイカップルが透かし彫りにされているんですが、そういうセクシーな様相だけではなく、落語を間に挟んだライバルであり、長い時間をともにした兄弟でもある、複雑な顔を持っていることが、この二人の関係に魅力を感じる大きな要因でしょう。
そういうもの全てないまぜにが良い方向に転がることで、助六がもう一度走りだすからこそ、今回の話は重たさと勢いがあり、感情を揺さぶってくるのだと思います。

これまでは弟分として素直になれない自分に振り回されていた菊比古が、虚心坦懐に兄弟子への愛憎をぶつけ、『自分のために噺に戻ってくれ』というエゴイズムを素裸で差し出す強さがあったのも、とても良かった。
師匠の因縁を背負い、落語の未来を背負い、考えに考えて過去を肯定的に受け止めるために田舎にやって来た菊比古は、もはや助六に憧れるだけの弱者ではありません。
七代目の葬儀のシーンに象徴的に描かれているように、助六が逃げ出した世間の厳しさに立ち向かい、立派に社会的役割をこなせる大人だからこそ、自分の弱さも引っくるめて全てを助六に預け、信頼を取り戻せる。
このような役割変化を捉えつつも、変わらない二人の間柄もまた描写している立体感は、今回のエピソードの白眉だといえます。

癒やす側の菊比古が癒やされていく過程が丁寧に捉えられていたのも、今回素晴らしい描写でした。
助六を立ち直させるための穏やかな日常でしたが、それは七代目の因縁に傷つき、落語の業に悩み、孤独に苛まれた菊比古自身を癒す日々でもあったはずです。
『田舎の落語』に身をおくことで『芸における客』と向かい合い、『一人で良いんだ』と思いつめた自分の落語をもう一歩前進できる姿は、七代目に『隙を作れ』と言われて『艶』という自分の武器を見つけた過去と、奇妙に響き合います。
新しい母親を見つけた小夏だけではなく、落語と自分に向かい合い直した助六だけではなく、導き役であるはずの菊比古もまた、この美しい日々の中で癒やされ、強くなっていく。
誰ひとりとして取りこぼすことのない成長と復活のドラマを強く感じられることが、今回のエピソードがさわやかな公平性を視聴者に伝える、大きな理由だと思います。


しかし、この公平性からみよ吉は取り残されている。
男二人と子供一人の完成された家族、落語で繋がった親と子と新しい親の関係の中に、女が入る余地はないわけです。
健全に寝床から抜け出し光に歩き出した助六と、気だるげにタバコを咥え淫楽に身を投じるみよ吉の姿は、このアニメが人間の明るい部分だけではなく、暗い要素にもしっかり目配せをしていることを、簡勁に伝えてきます。

縁台で"野ざらし"を終え、過去への後悔や恐れを涙に変えて生まれ変わった助六は、自分を引っ張りあげてくれた菊比古と二人会をかけます。
『なんで落語なんだい?』というのは、第1話でヤクザ兄貴が(今はその姿も遠い)与太郎に投げかけた問ですが、次回の高座でみよ吉に何を与えられるかで、このアニメはもう一度その問いに答えることになるでしょう。
物語の始まりで答えたテーマに、(一応)物語の終わりでもう一度応えるという形式の気持ちよさもありますし、何よりも、今回見せた温かい物語にみよ吉を入れないってのも、残忍にすぎる話ではある。
たとえそれが一時の春の幻であり、その終わりが既に明示されている『心中』として終わるとしても、みよ吉を苛む業をどうにか救い上げる落語の力を見せて、物語を終えて欲しい。
僕はそう思います。

長い間の回想録でしたが、そろそろ時間のようです。
男と女、芸人と客、新進と守旧、業と理屈。
人生の様々な対立を飲み込み、照らし合わせながら進んできたこの物語がどこにたどり着き、一応の終わりを見せるのか。
非常に楽しみです。
つうか二期……マジ神アニメだから二期……。(最後の最後でアニヲタカルマ爆発)