イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

プリパラ:第88話『キセキの鐘をならせ!』感想

夢と希望が未来をチェンジしていくデジタル・アイドル・テイル、大団円の最終話一個前でございます。
奇跡を引っ掴んで世界に排斥されそうになっていた連中を回収したあとは、全てを許して怒涛のステージラッシュ。
多幸感と勢いで細かいことを押し流しつつ、二年間の蓄積を全部ステージに振り分けて走り切る、思い切った作りでした。


正直な話一番気になってたのは、まほちゃん関係のアレやソレをどう処理するのかって部分でしたが、かなりバッサリと許して後をヒキませんでした。
一応この一年間軸になっていたのはドリームコーデ争奪戦でして、その総決算になる今回はステージに尺を回し、『とにかく楽しいアイドルテーマパーク』という、らぁらが求め肯定したプリパラに戻る形で決着をつける感じでしたね。
まだ一話あるんでどうとも言えませんが、前回気にかけていたセレパラが持っていた一分の理とか、仲間よりも自分の天才性を信じたそふぃシオの苦味とか、あじみの対話不可能性とかは、正直拾われない展開。

ぶっちゃけた話をすると今回の展開(が集約する二年目全体)をどう受け取って良いのか、自分の中には混乱があります。
明確に13話ごとのカッチリしたサイクルを構築し、計算ずくで走り切った一年目に比べ、当然の事ながら二年目の構成には混乱が見られました。
掘り下げきれないと感じたキャラも多かったし、物語の蓄積が足らず一年目ほどテーマに踏み込めていないと受け取った部分も多々あった。
僕はシリーズアニメーションに話数をまたいだ共通のテーマ性と、それを掘り下げるための目配せを期待するので、そこが混乱した二期(特にあろまげの人格的掘り下げと、あじみというキャラの操作不能感)には、釈然としない部分を感じ続けていました。

しかしひびきが本格的にエゴをむき出しにし、『みんなトモダチ、みんなアイドル』という作品全体のテーマにカウンターを当てた辺りから、お話全体の方向性が整ってくるのを僕は感じていました。
『点数がつく以上、競技性とそこからこぼれ落ちるものはあるだろう』という疑問を拾ったひびきの立ち回りや、『楽しいだけではなく、暗い感情もそこには存在しているだろう』という要素を反映させたガァルルの存在には、横幅の広い物語的視野と、そこに主役たちの主張をぶつけることでより深いテーマにたどり着きたいという欲望、そのためにどんな物語を用意すれば良いのかという目の良さを強く感じました。
これは個人的な嗜好による氷菓にすぎないんだけど、同時にそれなりに広範な価値観にこすっている目線だと、自分では思っています。

ひびきチームに主役サイドの一分が食い込んでいく『裏切り』もまた、ひびきが担保している一種の正しさを主役たちに迎い入れ、対立する二つの正しさを止揚してより高い場所にたどり着こうという狙いの発露だと、僕は思っていました。
しかし今回、ひびきはただ『敗者』として描かれ、彼女が担当し実際に一部のキャラクターの成長を促した(と描写されていたように、僕には思えた)要素を、主役たちが称揚することはない。
『勝者』の余裕と、『みんなトモダチ、みんなアイドル』というテーマの持つ圧倒的な正しさを持って、『敗者』となってしまったひびきを無条件に受け入れていく。

無論その行動には、たくさんの物語的理由と創作上の選択があります。
色々悲しいことがあっても、最終的に前向きに人生の価値を認める多幸感とポジティブさこそが、プリパラの強みであること。
それを表現するためには、一分の理の裏側にある九部の理不尽をメインで捉えて、それを許す寛容さを主人公に与える必要が有ること。
ぶっちゃけステージ沢山有るので、細かい要素を拾い上げていく尺がないこと。
個別回やクールごとのエピソードの〆ではなく、シリーズ全体のフィナーレとなる根塊のパレードは、プリパラ全体を総括する猛烈な多幸感が必要であり、『らぁらの言ってることも正しいけど、まほちゃんにも良いところはあったよね?』のような相対主義は、勢いを弱めかねないこと。
素人が思いつくだけでこれだけ数が出るのですから、製作者はこれ以上色々と、根塊のエピソードがこうなる理由を持っていると思います。
そしてそれは正当で、確かに今回のお話は細かいことが気にならなくなるくらいの、濃厚な多幸感と勢いを持っていたと思います。
それはプリパラというアニメが持っている最大の強みであり、フィナーレを飾るに相応しい物語の快楽でもある。
そこにはたしかに、一つの表現を行うために決断的に何かを描かない意志が感じられたし、それは狙ったものをほぼ完全に救い取れていると思います。

何も知らなかったらぁらが二年間のアイドル活動の成果として、パレードの先頭を飾り、プリパラの『みんな』をゴールドエアリーの領域に連れて行く展開は、彼女が到達した高みを感じさせた。
主人公が何かを成し遂げた満足感というのは物語の終わりには絶対必要だし、プリパラの前景であるプリティーリズムAD第51話の、オーロラライジングドリームを飛ぶことで世界全ての人を自分の高みに引き上げたあいらへの引用という意味でも、良く出来たシーンです。
『みんなアイドル』の代表として主人公を務めてきたらぁらは、ここまで来た。
その表現として、あの幸せそうな光景ほど相応しい物は、殆どないでしょう。


しかしながらそれを認めた上で、僕はプリパラの一見勢い重視ながら細やかな目配せを張り巡らせることで、テーマを重層的に表現する理性的な劇作が好きだったし、その萌芽をこれまでの物語に見ていた(もしくは期待していた)。
お話を脇目も振らない真っ直ぐな劇作(何度も言いますが、それを狙い澄ます思い切りの良さは評価されるべきだし、強く激しく意味があるし、それに心を動かされてもいます)を認めた上で、そこからはみ出す全てを拾い上げる器用さをも、どうしても欲しくなってしまった。
だから、この感情は強いエゴイズムです。
僕は僕が見たいプリパラに、あと半歩届かないものを見てしまって、心を揺り動かされつつもどうしても引っかかる部分を見つめているせいで、色々と言葉を積み重ねているのです。
そういう個人的で共益性の薄い感情を公開の場に書き連ねることの是非には悩みつつ、しかしまぁこのブログは僕のWeb Logなので、自分の感情の動きを記載し残しておく場所として使わさせてもらいます。

どうしても気になるのは、頭を打ったという『一時的狂気』でしか、ひびきと共有可能な言葉を紡ぎ、ひびきを傷つけない関係を構築できない、自分がひびきを傷つける一方的な関係を認識できないあじみの、コントロール不可能性です。
ひびきに傷つけられたらぁらとみれいが彼女を許したように、ひびきもまたあじみに傷つけられた過去を、ふわりの助けを借りつつ許す流れが描写されていましたが、しかしあじみの狂気(と無関係ではないであろう天才性)が僕の眼にはかなり一方的に肯定され、ひびきは変わったのに、あじみは変わらずに終わることになったのは、どうにも釈然としないものを感じます。
ここら辺も僕の個人的な物語嗜好の話になりますが、狂気に侵され自分を認識できない存在をただ肯定するのではなく、どうにもならない自分をどうにかして他者と折り合いのつく方向に導き、少し建設的な方向に導いていくお話のほうが、より前向きで好きなのです。
『あじみちゃんは成人しててもまともに話してくれないキチガイだし、パフォーマンス方面では天才だから、特権的に他人に通じない言葉を話してもOKってことにしよう』というのは当然描写されたものをかなり歪めて受け取った立場なのですが、ひびきが傷つき捻くれた自分をなんとか制御して変わったのに対し、そこに悪意と自覚がないとはいえひびきを傷つけたあじみが変わらないのは、少しさみしい。
寂しいだけではなく、特権的な誰かを認めてしまえば『みんなトモダチ、みんなアイドル』というテーマは普遍性を失い、傷を持つのではないかと思ってしまうわけです。
『あじみは天才性をテーマにしたキャラクターである以上、特権性と不変性を強く有していなければいけない』というキャラクターの扱い、『爆発力のあるコメディエンヌ』という立場はプリパラがコメディである以上貴重であり、気楽に『正気』に戻せなかったということは、一応承知しているつもりです。
しかしその上で、どうにかあじみの(あえてこの言葉を使いますが)『罪』を彼女が自覚し、大切な自分を守ったまま他者と共益可能な自分に寄り添っていく描写が欲しかったなぁと、今思っています。

ふわりとひびきの関係性に関しては、過去に示されていた『プリンセス類型からの脱却』というテーマをしっかり完走し切り、『お姫様のように控えめで優しくおしとやかなふわりが、王子様のように格好良くて頼れるひびきを頼る』という初期構図を綺麗にひっくり返して終わっていました。
すぐさま昔のドライで孤独な自分に戻ろうとするひびきを時に叱り時に支えて、一緒に生きていこうと寄り添うふわりの姿は、過去の彼女にはなかった強さと、彼女らしい優しさが同居していてとても良かった。
ひびきもふわりからの影響を大切にして、自分なりに過去の傷への対処法や冷たい他人との距離感を学び、より善い道を歩こうとする意志が感じられました。
この二人はかなり綺麗に、収めるところにきっちり収めた感じがしますね。

もう一つ気になってたらぁらの唯一性というか、『世界とワタシは同じである』という児童期特有の自我の拡大は、むしろ強化されていた気がします。
何しろ世界全部を高みに引き上げるほどの才に辿り着いてしまったわけで、らぁらが『私が哀しいことは嫌だから、世界に悲しいことは起こらない』と言っても、もはや高慢とはいえないでしょう。
『世界とワタシは同じである』という自我境界の拡大は、様々なことに失敗し、自分が万能ではないことを思い知らされて適切な距離を見つけます。
それは世界中全ての子供が体験する成長の一形態だと思いますが、主人公として、自覚せざる天才として二年間走り続けたらぁらは、彼女と異なり優しい世界の主人公たりえなかったひびきにその拡大を拒絶される経験を経つつも、それを実感し自分の糧とする体験を遂に得られなかったように思います。
まぁ成長にはいろんな形があって必ずしも多数派の通るルートを歩く必要はないし、常に『みんな』を見ているらぁらは危険な方向でエゴイズムを拡大させていくことはないんだけどさ。
ここら辺もまぁ、『バランスの取れた、より良くより新しい中庸に集約していく物語』という個人的嗜好からズレた展開に違和感感じてるだけだろうな。
らぁらがひびきに肯定されないことは、結構面白い人格的成長を呼びこむかと思ってたんだが……さてはて。


と言うわけで、長々と個人的な感情を刻んできました。
この話がこの時期にあったことが良かったのか悪かったのか、正直判断しかねます。
自分の望んでいた方向性と違うことは認識できるけど、このアニメが置かれている文脈の中での価値とか、予算や尺や制作環境といった、一視聴者からは見えない諸条件において『可能』な物語は何だったのかとかはまだ解らないのです。
なので、今の自分に可能な、感情のログをつける行為をさせてもらいました。
自分の期待した幻視が実現しなかったからといって、好きなお話を悪しざまにけなすほど僕も醜悪ではないつもりですが、しかしまぁズレを実際感じている以上、それに言及しないのも嘘でしょう。

あと一話、二年目のプリパラには物語があります。
ひびきの歪みを救い、彼女の独善を許し、選ばれた主人公として『みんな』を高みに連れて行ったらぁら達が、その後に何を求め、どんなお話を描いていくのか。
プリパラが好きだったし、今でも好きなオッサンとして、とても楽しみです。
その期待に、最後に自分の嗜好にあった物語がやってくるかもしれないというエゴイズムが含まれているのは否定しませんが、でもまぁ、僕がこのアニメ好きで、来週楽しみだってのも本当なんですよ、ええ。