イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

紅殻のパンドラ:第12話『希望 -エルピス-』感想

不思議のリゾートイアランドを機械仕掛のアリスたちが駆け抜けるサイバーパンク・フェアリーテイルも遂に最終話。
割と最悪な理由でブエルが暴走しつつ、意図的に物語の始まりと重ねあわせて、彼女たちが手に入れたもの、変わることなく大事なものをおさらいする、良い最終決戦でした。
元々ネネちゃんは救世主としての完成度が高かったので変化が分かりにくいが、クラりんは非論理的行動は取る、アドミニスターに反抗はする、情報は秘匿すると、機械の枠を超えた成長がよく見えました。
『彼女と彼女が出会う話』として、技術の変化で否応なく変わっていってしまう世界の枠組みを希望的に捉えたSFとして、とても素敵なお話だったなぁ。

超強そうオーラをムンムン出していたフィアーさんはグルグル猫パンチで蒸発したので良いとして、今回は『ジオフロントを舞台に、ブエルの暴走を止める』という最初のクエストに立ち戻って、二人の成長を描くのが主眼でした。
『どちらも犠牲を伴う選択肢を前にして、困難だが犠牲を生まない第三の選択肢を発見する資質こそが、主人公の資格である』と宣言する物語類型(僕は『勇者の二択』と言っていますが)を上手く使って、ネネくんの成長を見せていたように思います。
『道具であるクラりんを犠牲に島を救う』か『ブエルの暴走を放っておいて、クラりんと幸せに暮らす』という、公と私の矛盾を断固拒否して、『二人でブエルの暴走を止めて、誰も死なずに帰ってくる』という選択肢を見つける(正確に言うと、悪魔的審査役であるウザルに正解を示すことで、より良い解決策を引き出す)ことが、七転福音がこのアニメの主人公として、世界の真ん中にいても良いである理由なのでしょう。
ここら辺を強調するために、『理性的になれ』『どっちかを選べ』と言い続ける拓美ちゃんのトス上げは、マジ熟練。
あえてカウンターを当てることで、公平な感じが生まれ、よりハッキリと主題が見えてくるっていうテクニックですね。

目の前の破壊に怯えつつも、誰かのために飛び込んでいった第1話の段階で、福音くんはかなり優しさと正しさを兼ね備えた、かなり完成されたキャラクターでした。
そんな彼女が12話のエピソードを積み重ねて何を手に入れたのかなぁと考えたんですが、やっぱクラリオンという存在それ自体な気がします。
『世界平和のため』という福音くんの理想は立派だけど、やっぱりどこか空疎というか、痛みを伴う実体験から出たものではない虚偽の気配を、どうしても感じてしまうもの。
それは世界に数人しかいない適合者として、人類を超越した能力と世界認識を持つ彼女の孤独と、生まれた時から持っていた肉体を略奪され、社会によって補填されたことへの申し訳無さが生み出した結構歪な理想は、額面通り受け止めるには少し綺麗すぎる。
しかし今回、『何がどうなろうと、たとえ島が蒸発しようと、クラリオンは守る』というエゴイズムをその理想に混ぜたことで、そこにしっかり体温が宿った印象を受けました。

顔も知らない『誰か』を守るための勇気と正義は、誰よりも大好きな『あなた』を守りたい気持ちがあって初めて真実になるし、そういうエゴイズムを肯定することで、ヒーローが正義のための奉仕者になってしまう危うさも回避できる。
ネネちゃんがクラりんと一緒に、死にかけのババァを助けたり、火災現場で市長と秘書とガキを助けたり、囚われの高級アンドロイドを助けたり、食い詰めたブエル難民に飯作ったり、いいこと沢山した結果手に入れたのが、コンパクトであるがゆえに真実味をもち、体温の宿った正義だってのは、少女の小さな成長を大事にしてきたこのアニメらしい描き方でした。
そういう成長を確認したからこそ、ウザルはおそらく最初から用意していた第三の選択肢を、二人の前に開示したんだろうなぁ。


『ワタシがアナタを好き』という善なるエゴイズムを健全に肯定したネネちゃんに対し、クラリオンは『ワタシはミンナが好き』という、善なる公共性にたどり着くことで、己の成長の証としていました。
一話の時点ではマスター権限を持つウザルとそれ以外に、明確に線引されていたクラリオンの世界。
ウザルの指示によって世界との関わり方を決めていたクラリオンは今回、『ネネだけじゃなく、ネネの大事なみんなも消えてしまう』と言う。
あくまでマスター=ネネを中心に置きつつも、大切な『あなた』を通じて『あなたが大切なみんな』を自然と認識できているクラりんの姿は、凄く頼もしかったです。
お互いの価値観がお互いを豊かにしていく相互影響性に関しては、過去のエピソードでも幾度か描写された部分であり、僕が彼女たちが好きな理由でもあります。

今回ネネちゃんがあくまでネネちゃんであったように、クラりんはあくまでクラりんのままで物語の一応の終わりに辿り着いています。
機械的存在として、マスターを世界の中心に据えるデジタルなエゴイズムを持っていることも、自分の価値を無であると認識して、自己犠牲的(もしくは道具的)行動に躊躇いがないことも、第1話から続いている彼女らしさです。
でも、仲良く楽しく、いい大人に見守られ悪い大人に立ち塞がれながら二人で歩いてきたこれまでの物語がなければ、クラりんは『泣いているのか、ネネ』とは言わなかったと思います。
ネネちゃんがクラりんの『命』に価値があると思うこと、その消失に涙を流すことの意味を学ぶことを狙って、ウザルは福音くんを改造し、クラリオンの所有者権限を譲渡したんでしょうね。
ここら辺の変化が見えやすくなるので、『行きて帰りし物語』類型に忠実に、始まりの場所に帰ってきて展開する最終話にしたのは、正解だったと思います。

公的領域と私的領域を相互に交換しながら成長してきた女の子に対し、現実に着地するための脚は弱いし、他人の話は聞かないし、自分が手に入れようとしている真実もそれが誰の手によって行われるのかも見ようとしないクルツは、ギャグ時空に迷い込んだ一人シリアスという意味合いを超えて、負けることを約束されていたキャラでした。
最終的な目的が『世界平和』なことも含めて、ホント『間違えちゃった主人公としてのラスボス』という基本を、徹底的に踏まえるキャラだったなぁ君……。
最終話のジオングネタといい、彼の『間違え方』がいちいち身体性に接続されているのは、サイバーパンクっぽくて凄く好きですね。


涙の意味を考え、所有者に秘密を作るクラリオンが、『機械』なのか『人間』なのかという判断は、足を止めてそれを考えるか否かも含めて、やっぱり視聴者に委ねられている気がします。
まーシリアスおじさんが徹底的に道化として扱われ、太ももフォルダー全世界公開で島が蒸発しかけるアニメですし、大上段に『人間と機械の定義』を考えさせる作風でもありません。
でもこうして見返してみると、やっぱり少女の成長物語として、人間と機械の定義があやふやになった世界を思弁するSFとして、気楽に楽しめる本流の中に繊細な支流が、ちゃんとあるお話だったように思います。
そういう目配せを受け取ったのは僕の思い違いかもしれないけど、それを見つけた僕自身の発見(もしくは誤解、過剰な読み込み)を僕は大事にしたいし、そこにあるのは嘘ばっかりではないと思います。

見返してみると、色んな部分に予算的厳しさを匂わせつつも、大上段に構えない気楽さを大切に物語を構築してくれた、とても良いお話でした。
ネネちゃんとクラりんはいつでも仲が良くて、彼女たちを見るととても良い気持ちになれたし、セナンクル島のポップな近未来の風景を追体験できたのも、心が躍った。
ただ二人で関係性を閉じるのではなく、老若男女、人間とも機械とも様々な存在と交流して、どんどん大切なモノを増やしていくネネちゃんとクラりんの成長も、風通しが良くて気持ちが良かった。
そんな子どもたちを見守る拓美ちゃんや軍のおじさんを代表とする、『良い大人たち』の描き方も好きだったなぁ……ウザルはちょっと邪悪すぎるというか、100年先を見据える天才すぎて、人間の価値判断で測りきれない存在だった。

眉をしかめて未来について語るのではなく、楽しいお話の土台として思弁を張り巡らせ、新しい風景をさも当然のような姿勢で出してくれたのも、未来のお話として立派な態度で、とても好きでした。
こういう気楽なお話が、アニメーション作品として士郎正宗系譜に刻まれるのは、僕は結構な意味がある気がする。
『変化していく世界への取り組み方には、色んなやり方があって良い』というポジティブなメッセージを勝手に受け取って、かなり元気になれるような、楽しいお話でした。
良いガール・ミーツ・ガールで、良い百合で、良い青春成長物語で、良いSFで、良いエンターテインメントで、良いアニメでした。
本当に楽しかったです、ありがとうございました。