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イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

昭和元禄落語心中:第12話感想

アニメ 昭和元禄落語心中

女の涙は夢覚ましの酒、絡まる因果に足を取られ、どこにも行けずに真っ逆さま。
落語心中、運命の第12話でございます。
菊比古の"明烏"を前座に、旅館でかけられた助六再起の演目は"芝浜"。
夢のなかで掴んだ大金に踊らされて過ちを犯した男が、家族と真っ当な暮らしを取り戻すまでの人情話は、強く助六の人生と響き合うものだった。
自分を表現し客と共有できる落語の素晴らしい側面を演じきり、明日への確かな希望を手に入れた菊比古の前に現れたのは、運命の女みよ吉。
女の情と弱さは危険なまでに暴走し、遂に助六の運命ごと奈落へと引きずり込んで、菊比古はまた一人になる。
かくして、落語と心中した男女と、落語に取り残された名人一人、哀しい幕引きと相成りました。


今回の話は光と影がくっきり別れる二部制でして、一番太鼓が心地よい緊張と期待を高めてくれる昼間の高座と、しっとりと重たい闇が全てを飲み込んでいく夜とで、全てが対照的です。
しかしその中心にあるのはやはり助六の"芝浜"ですので、そこから見ていきます。
思わぬ拾い金を夢と絡める筋立て自体は第4話でかけていた"夢金"と同じですが、その時は昇竜の勢いで落語界に打って出た助六も、師匠とは諍いを起こし、女の情に引きづられて四国くんだり、すっかり人生の苦い部分を飲み込んでいます。
あの時の"夢金"が、まるで幻のように落語界を駆け抜けて消えた風雲児の運命を暗示していたように、今回の"芝浜"は今の助六が大切にしたいもの、取り戻したい未来への希望に満ち溢れている。

久々の高座に立ち客と向かい合う助六は、落語が持つ恐ろしさに気圧され、大量の汗を流しつつも、自分らしさを活かした早拍子の語り口で、立派に大ネタをやりきります。
体一つで劇的空間を創りだしてしまう落語の魅力は今回も冴えていて、身振り一つで客がどう動き、目線一つが客をどう捉えるのか、印象的な演出でしっかり挟み込まれます。
ここら辺の身体表現の凄み、オーディエンスとの呼応性というのは僕の趣味であるTRPGと深く関わるところでして、ゲーマーの皆さんは是非にもこのアニメ見ていただきたいと思いますが、それはさておき『天才助六、今だ健在』という、勢いと深みのある席です。
序盤で松田さんが口にしていた風雲児の東京復帰という希望を、実際の演技でしっかり盛りたてる作りになっているのは、各パートの連携がしっかり生まれていて素晴らしいところですね。

しかし後の悲劇を考えれば、会心の"芝浜"も皮肉な喜劇になってしまうのが恐ろしい。
前回じっくりと助六が奮起し、再起する姿を追いかけたことで盛り上がった希望は、それ自体が凄く価値のあるかけがえの無いものとして描かれつつも、それをあっけなく断ち切ってしまう運命の恐ろしさ、情の捻くれた凶暴さを際立たせるスパイスとしても使われています。
助六の席を見れば、彼がみよ吉に向けた『落語と家族を天秤にかければ、家族が重い』という言葉が、一時の気の迷いではないことがよく分かります。
たとえ膝を改めた助六の腰がどうしてもうわっ付いてしまっていても、それはそれで彼なりに限界の真剣さであり、どうしてもまっすぐになれない彼らしさの表現なわけです。
酒と女にだらしなく、才故に落語の中では許されてきた破滅型の男が、どうしても『しっかりと座れない』ことをちゃんとカメラに写した細やかさが、僕はとても好きですね。

しかしそんな真剣さをあざ笑うかのように事態は最悪の方向に転がり、けして取り戻せない破滅を引っ張りあげてくる。
『こうなったら良いなぁ、こうなってくれればなぁ』という人間の望みを蹴っ飛ばして進む、運命の残酷さを際立たせる意味でも、"芝浜"は会心の席でなければいけないのでしょう。
席が終わった後『みんな一緒に暮らそうか』と、芝浜の恋女房めいたことを菊比古が口にするのもまた、叶わない願いの哀切を際立たせる劇作であり、同時に本気の本気でもあったのでしょう。

だからこそ、僕だって『こうなったら良かったのになぁ』と心から思わざるをえない。
悲劇を作るために幸せな光景を配置するのではなく、人間が生きていく内に何がどうなってもそう転がってしまう、結果としての悲劇を肯定する姿勢があればこそ、『幸せになってくれよ!』と反発する気持ちと、『こうなるしかねぇなぁ……』と認める感情が不思議に同居できるわけです。
悲劇も喜劇も区別せず、人生の一幕として真剣に向かい合うこのアニメの姿勢がよく出た、助六の"芝浜"でした。


元々『敷居』だとか『境界』だとか、様々な境を印象的に描いてきたアニメですが、今回は何しろ生きるものと死ぬものの境、彼岸と此岸を分ける三途の川が描かれる話ですので、今回特に『境界』は強調されていました。
後に生死を分けることになる縁台に、男二人が腰掛けて輝く、しかし絶対に手に入らない未来
を語り合うシーンでは、煙草の煙がまるで線香のように二人の間に立ち上っています。
そういえば、タバコという口唇期的モチーフも二人の複雑な関係を際だたせる小道具として、良く登場していました。
ゲイ・セクシュアリティに接近しつつもあくまで性傾向的にはヘテロである彼らにとって、風呂とタバコは性的交流の象徴であり、代替物でもあったんでしょうね。

今回印象的だったのは、昼間の高座と客席、夜の縁台と広間という形で、『境界』を審判する2つの可能性が同時に描かれたことです。
助六が何度も口にし、今回菊比古がようやく実感できたように、落語は他者と響き合うポジティブなコミニケーションでもあります。
噺家と客、高座と客席というふうに『境界』に隔てられ、他人として向き合いながらも、話を通じてお互いの心境を受け取り、笑いや涙を生み出すことが出来る。
『境界』に隔たれて一人であることの大事さと寂しさを描きつつも、このアニメはそれを乗り越える可能性と暖かさもまた、ちゃんと切り取ってきたわけです。
菊比古が夢語りに呟いた『一人でなくても良い落語』という夢は、助六の"芝浜"が連れてきた、境界侵犯のポジティブな可能性そのものなのです。

しかし、あらゆる物事を片面で判別しないのがこの物語でして、みよ吉の侵入という形で『境界』を侵す恐ろしさもまた、描かれる。
昼間の暖かな空気が夢だったかのように一気に暗転する部屋の中で、女の、いや人間の情念全てをまとって立つみよ吉の姿は、真っ当に生きようと決意した菊比古と助六の人生に滑り込み、狂わせていった恐ろしい『他者』そのものです。
かつて男二人が人生をやり直した『縁台』と同じ場所に女が腰掛けた結果、人が二人死ぬ結果がやって来てしまうわけで、ここでも昼間の希望と夜の残酷が、丁寧に対比されています。

そして、それはどちらが良いでも悪いでもない、ただそこにそういう形であってしまう、人間の業であり運命なのです。
女という異物を懐に入れた結果、助六は高座を去り、かけがえのない家族を手に入れ、菊比古は孤独を知り、自分の落語に『艶』という武器を手に入れた。
『他者』を過剰に受け入れてしまう助六がみよ吉の手を取り、『他者』に捨てられる痛みから孤独を望んだ菊比古は結局女を支えられないところも含めて、三人の出会いが含むあまりにも複雑な色合いに、言葉を奪われてしまいますね。


全ての人の死がおそらくそうであるように、みよ吉は死にたくて死ぬのではなく、より良く生きる過程の中で、死を望みうっかり死んでしまいます。
彼女に死ぬ気がなかったのは、宙ぶらりんに空に置き去りにされた瞬間、助六にしがみついて震える姿からもわかる。
弱々しく、他人に縋ることでしか自分を描けない彼女の弱さを、結局菊比古は受け止めきれず、助六は受け止めて一緒に死んでやる。
……可能であれば、菊比古も二人の死を受け止めて死んじまいたい気持ちだったのは、助六との最後のやり取りを見ればわかるか。

みよ吉が本当はどう生きたかったかのか、結局ウソまみれの男女の戯れでしか彼女が己を表現できない以上、直接には語られないわけですが、ヒントはあります。
菊比古にすがりついた時『菊さんの前でだけ、ホントのあたしでいられる』という言葉を口にしたということは、彼女は『ホントのあたし』を求めていた気がします。
助六に縋り付き、他の男に抱かれている間には見つけられたなかった『ホントのあたし』を見つけるべく、菊彦という希望に縋るしかなかったみよ吉の弱さ。
真っ当で人間らしい、『正しい』生き方を昼間に夢見つつも、みよ吉の涙をすすりその弱さに溺れていってしまう菊比古の弱さ。
思わず目を背け否定したくなる、人間の弱く醜い部分がしかし同時に『ホントのあたし』の一部でもある複雑さが、あの抱擁のシーンには描かれていました。

思えば落語、というか芸事はおしなべて自己表現であり、今回の"明烏""芝浜"だけではなく、このアニメには『ホントのあたし』を否が応にも引きずり出されてしまう落語の素晴らしさと恐ろしさが、何度も表現されていました。
『ホントのあたし』を落語に乗せて表現し、客と共有できる噺家二人と、どうやっても落語がわからない、適切な自己表現の手段を持たないみよ吉の間がこじれるのも、また自然なことだったのかもしれません。
そんな二人もまた、落語を巡ってどうしようもなく分かり合い、別れ、再び出会い、生と死に分かたれて今生の別れに辿り着いてしまったわけで、このアニメの落語は自己表現のための万能の処方箋では当然ありません。
それは人間の業を吸い上げる悪魔の話芸であり、他者と自分の『境界』を乗り越え『ホントのあたし』を表現可能な天使の発明でもあり、一瞬の喜びを惹きつける戯れでもあり、客に届かなくなり時代遅れになってしまう徒花でもある。
様々な切断面を持つ落語が、色んな人を巻き込み傷つけ繋ぎあわせてきた一つの始末として、今回の死と生はあるんでしょう。


『戯れ』といえば、死を口にしながら実は『ホントのあたし』として生きたいと強く願うみよ吉は、死と戯れた結果助六を道連れに地獄に落ちた、とも言えます。
何かと『戯れ』ることの危うさは、例えば遊びの恋として師匠に言われるままみよ吉と触れ合い、さんざん傷つけ傷つけられてこの結末に辿り着いてしまった菊比古もそうだし、落語自体が一瞬の遊興を呼び覚ます『戯れ』であると同時に、人生を吸い寄せる危険な存在でもあります。
そんな中で、ちゃらんぽらんな態度を取りつつもあまりに落語に真剣で、いい加減に『戯れ』ることが出来なかったが故に道に迷ってしまった助六は、なかなか面白い存在ですね。
『戯れ』と『戯れ』る事が出来ないからこそ、落語もみよ吉もしっかり受け止め、受け止めすぎて一緒に落ちることになる……落語の手は最後の最後で離す覚悟が出来たわけだけど、その変化はもしかすると遅すぎた。
でもこのアニメが、そういう是々非々の判断をする話じゃないっていうことは、何度も映像で語りかけてきたポイントですね。
言ってみればこの長い長い過去編自体が、過去を思い出し現代に繋げる真剣な『戯れ』とも言えるわけで、遊びのはずが遊びじゃない、遊びと思っていたらとんでもなく真剣な喪失を叩きつけられるこのお話は、『戯れ』にまつわるお話だったのかもしれません。

かくして生死の境界線が哀しく引かれ、様々な矛盾を背負って男と女が落ち、男は一人残りました。
やりきれない気持ちもあるし、そこに込められた情と業に納得も出来るし、朧のように輝いていた明日への希望を惜しむ気持ちもあるし、どうにかならなかったのかと悔やむ心も当然ある。
いろんな感想を同時に抱いて一つの幕に辿り着けるのは、作品としての豊かさ、複雑なものを簡単には切り捨てない執念の証明だと思います。
人死を前にして安易に口にしていいかは悩みますが、良かったし面白かった、です。

長かった回想も終わりを告げ、過去の因縁を背負って今を生きている若人たちの時代に戻ってきそうです。
助六とみよ吉と菊比古が望みつつ掴みきれなかった、輝く明日、より善い落語。
それを掴めるかもしれない世代の話をやるには、残された時間はあまりにも短いですが、それでもやっぱりこの重たい回想録を彼らがどう受け止め、どう歩いて行くのか、その端っこだけでも見て終わりたいですよね。
最終話、楽しみです。


・追記
これまで長い間八雲の追想に付き合ってきたわけだが、最後の最後で嫌なことに思い至ったのでメモしておく。
一応小夏という観測者がいるにしても、あくまで八雲のひとり語りとして展開するこの回想、入れようと思えばいくらでも改変や捏造が入る可能性がある。
可能であれば僕も大好きな八雲師匠が信頼できる語り部だと信じたいが、彼ががただ事ではない人間の業を背負い、一人取り残される宿命にあることはこれまでも的確に描写されてきた。
今回描かれた過去の告白が、その全てがとはけして言わないが致命的な一角だけ真実ではない可能性を、僕は捨てきれない。
もしそうだとして重要なのは、何を守ろうとして八雲師匠が真実と『戯れ』ているかであり、そこに込められた情だろう。
本当も嘘もまた、あまりに複雑な顔を持ち一面的に価値を決定できない人間の営みである以上、この告白の裏に虚偽を混ぜ込む手管は、可能なかぎり杞憂だと思いたいが、同時にこれまで魅せつけられた情のうねりを切り取る手腕と熱意を鑑みるに、否定しきれる疑念ではない気がする。
アニメを見ていてはおそらく判別がつくところまでお話が回らないが、さてはてどうしたもんかなというところである。