イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない:第3話『虹村兄弟 その1』感想

ゴッサムよりも治安が悪い街・杜王町を異能力者が駆け抜けるアニメーション、今週はアンジェロ先生の設定説明と虹村兄弟参戦。
『極悪殺人鬼アンジェロをぶっ倒しても、スタンド使いを量産する"弓と矢"が残ってるんじゃあ事件は続くよね~』と言うわけで、お話の流れを途切れさせずに新キャラを暴れさせる回でした。
億泰も慶兆も声はバッチリハマっているわけだが、外見と良いオーラと良いどう考えても高校生じゃねえわな……。

『俺を倒しても事件は終わらないので、元凶である"弓と矢"を追いかけるのが今後のお前らのメインストーリーだ!! アレは超やべぇ!! がんばれ!!!』と、長口舌で説明&煽りしてくれるアンジェロ先生。
体が半分岩に埋まった状態でノンキしてるとも取れる描写ですが、あの人自我が肥大しきったクソサイコなので、いい気になれるタイミングでは状況一切無視してベラベラ喋るんだろうね。
情報を必要なだけ出したら『このクソまじ改心しねぇ。どうしようもないクズだ』と確信させるイベントを起こし、ダメ押しで仗助の髪を煽って退場するという、序章のBOSSとしては理想的な動きでしたね。

そんな天使の導きに引き寄せられてあっという間に事件……となる前に、康一くんと仗助のゆるふわ高校生描写が挟まったり、承太郎とママンが面通ししたり、一旦落ち着くパートが入っていた。
アンジェロという非日常からお話をクールダウンさせる意味でも、なんとも言えない良い関係を俺が見てニンマリする意味でも、康一くんと仗助が仲良し仲良しなシーンがちゃんと入ってくれたのは、とっても良い。
アンジェロ編は祖父がヒロインだったように、虹村兄弟編は康一くんがマジひどい目にあうことで仗助のモチベに火がつく訳で、『コイツは超いいやつなので、ヒドい目にあったら助けなきゃアカン!!』と視聴者に思わせるシーンが有るのは大事よね。

非能力者であるママンが、スタンドによる惨殺を『脳溢血』だと認識している描写がサラッと挟むことで、杜王町に迫る危機は良き精神を持ったスタンド使い(≒主役≒視聴者の感情移入対象)にしか解決できないと分からせ、当事者性を上げているのが巧い。
『守るべき日常』と『それを壊そうとする非日常』『守ろうとする非日常』のギャップこそが四部の魅力だと思うわけで、ゆるふわ男子高校生ライフや、トンチキながら暖かい家庭が鋭く描かれているのは、とってもグッドだ。
スタンド使いという異能を持つキャラクターたちが、日常から一切乖離していないことも大事で、彼らはあくまでも李王朝の一住人として、自分たちが所属する大事なコミュニティ、大切な身内を守るべくスーパーパワーを振るう。
日常から半歩踏み出した勇気こそが尊いのであり、ここら辺の精神最優先主義を能力バトルと噛み合わせるべく、『スタンドは精神の力である』と設定したのは本当にウルトラCだと思う。


そんな感じで億泰のお目見えとなるのだが、高木さんの演技があまりにも完璧であり、『漫画で見た億泰が喋ってる!!』って感じだった。
ザ・ハンドのデザインやカラーリングも超カッコいいし、『削り取る能力』の表現も良かったなぁ。
仗助をボコすシーンが膨らまされてたけど、後の重要キャラだし、ちょっとは主役を苦しませた印象を与えておくのは大事かもしれん……原作まんまだとあんまりにもヌケサクだしな。

ザ・ハンドの力を人間に使えば、グロ死体一丁上がりでミッション・コンプリートなわけだが、億泰は律儀に人間の手で仗助を殴り、『不良の喧嘩』の範疇で事態を収めようとする。
既に"弓と矢"による無差別能力発現テロにより人を殺し、スタンド殺人鬼を製造してしまった形兆
とは、違う生き方を選んでいる、ということだ。
既に一線を越えてしまった側からすれば『覚悟のないヘタレ野郎』となるのだろうが、無軌道な暴力を振るいつつ殺人という『非日常』に飛び込まない億泰の立ち位置こそ、作品のテーマ的には是認される。

四部の悪役たちはみな、スタンドという『非日常』の力を手に入れ、他人を踏みにじる『悪しき日常』を謳歌しようとするわけだが、そういう形で『日常/非日常』の境界線を踏み越えることは、この物語の中では肯定され得ない。
アンジェロが一般人を装っていたことからも分かるように『悪しき非日常』と『良き日常』を隔てる一線はかなり細く、簡単に踏み越えられるわけだが、簡単だからこそ踏みとどまる行為に価値があるし、この知恵と節制は作中何度も描かれることになる。
ザ・ハンドの能力を『殺人』ではなく『不良の喧嘩』に収めようとする、億泰の中途半端な姿勢はしかし、Aパートで描かれた康一と仗助の暖かな『日常』に割って入る資格を既に予言しているのだ。

そういう視点から見ると、父親という憎みつつも愛していた『日常』が突然破綻し、自分なりにそれを取り戻すために無差別能力発現テロ(これは能力が発現しなければ、無差別狙撃事件でもある)に走った形兆は、アンジェロのような『最初から間違えていた悪』とはまた違う、『間違えてしまった主役』というべき存在なのだろう。
形兆は己の悪行の報いを受けるような形で物語から退場するわけだが、彼が踏みとどまれなかった一線の重さを背負って億泰は生き残り、ザ・ハンドという『精神の強さ』を試されながら杜王町の事件に関与していく。
僕が億泰が好きなのは多分、彼がノンキで間抜けな愛すべき高校生男子だからというだけではなく、一度『悪』に接近しその魅力を知りつつも、己の意思で『非日常』を乱用する誘惑を振りきった姿勢にもあるのだろう。
こうして考えると、三部の味方(アブドゥル・ポルナレフ・花京院)はみんな、一度『悪』に接近しその魅力(カリスマッ!)に誘惑されてる立場なんだなぁ。
『善は常に悪に挑戦され続け、必死の努力と気高い戦いがあってこそその価値は維持される』というのは、荒木先生の根本的な世界認識なのだろう。

VSアクア・ネックレスが『日常を踏みにじる、悪しき非日常』という、第4部の基本的な構図を見せるとすれば、VSザ・ハンドは『日常を踏みにじるよう誘惑してくる、危険な非日常』とどう戦うのかという大事なテーマを、仗助だけではなく億泰の振る舞いからも描く戦いだったのだろう。
超カッコいいスタンドバトルで視聴者の心を燃え上がらせつつも、ちゃんと億泰の逡巡と半端さを作中描写に埋め込み、原作よりも強調して描いているアニメ四部は、とても良いアニメだと思う。
来週は虹村形兆との戦いが描かれ、彼が背負うもの、億泰に託されるものがアニメ独自の表現で映像になってくるだろう。
とても楽しみである。