イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない:第5話『虹村兄弟 その3』感想

愛ゆえにその人生をねじ曲げた哀しい男たちの物語、一応の決着ッッ!!!
というわけで、虹村兄弟エピソード最終話であります。
今回で康一くんの話に食い込むのかなーと思っていましたが、じっくりと時間を使い、虹村家にまつわる因縁と感情を描いてくれました。
場面場面に切り取られた情の濃さがとんでもないことになっており、ただでさえズドンと胸を撃ちぬく物語が威力を増すアニメ化だったと思います。


形兆が弓と矢を手にして、能力覚醒テロを繰り返していたのは、父親を殺すスタンド使いを生み出すためだった。
今回は悪人の動機が判明する回なのですが、それは主人公たちと奇妙に軌道を同じくしています。
スタンドという『非日常』の力を『日常』の中でどう使うかが、四部においてはとても大事なものとして描かれています。
『日常を守るべく非日常を使う』仗助、『日常を弄ぶために非日常を使う』アンジェロ、『日常と非日常の間で迷う』億泰とこれまで描かれていたわけですが、アンジェロと同じ立場に思えた形兆が実は『失われた日常を取り戻すべく、他人を犠牲にしても非日常を使う』という、捻れた立場にいることが今回分かります。

形兆は生まれついて他人を踏みつけにして何も感じないわけではなく、むしろ誰よりも濃い家族愛を持っていればこそ、どうしても助けてやれない父を『人間らしい死に方』で救ってやろうと思いつめてしまった。
自分でも言っているように人もたくさん殺してしまって、もう後戻りできない所まで来てしまって入るけど、そこに込められている感情は例えば、祖父の遺志を継いで街を守ろうと決意した仗助と同種の気持ちなわけです。
逆に言えば、家族への情愛があったとしても『非日常の力』を、他人を踏みにじらない形で使いこなせるとは限らないし、むしろ情の深さが覚悟を生み、より危険な行動を加速させていくことだってある。
仗助と形兆を鏡合わせにすることで、『良い動機』が『良い行動』には必ずしも繋がらないこと、努力して『良い行動』をしていくことの尊さを、このエピソードは浮き彫りにしているように思えます。

差異点は共通点でもあるわけで、他人を踏みつけにしてきた虹村家の中に自分と同じ情愛を感じた仗助は、『殺すんじゃなくて、助けるスタンドなら探してやっても良い』と手を差し伸べる。
そこにはアンジェロの時とは違う対話と更生の可能性があるし、『悪』が『善』に移り変わる希望があればこそ、仗助たちの行動も単純な勧善懲悪ではなく、『日常』と『非日常』の間をさまよう奥行きを手に入れられるわけです。
結局形兆は自分で覚醒された『レッド・ホット・チリ・ペッパー』によって無残な死を迎え、ある種の因果応報に辿り着くわけですが、だからといって手を差し伸べた仗助の行動が無駄だとは思わない。
『誰よりも優しい能力』である『クレイジー・ダイヤモンド』が、10年かけても直せなかった家族の絆を修復する今回の展開は、仗助の持つ共感能力の高さ、仁愛の深さをよく示していて、好きなお話です。
あそこは仗助のクールさが真実に辿り着く興奮もあるし、醜く見えるものが一番美しい物を求めていたという意外性もあるし、最高に胸に迫るよなぁ……主人公が『癒やし』の力を持っている意味が、最高に発揮されてると思う。
オヤジの肉体を単純には修復できないって所も含めてね

お人好しな部分と同時に、クレバーに一時撤退しようとして、無能力者である康一くんの勇気に引っ張られる形で真相に飛び込んでいく姿も描いてんですけどね今回。
仗助は冷静な判断力とクールな知性を兼ね備えたスーパー高校生なので、ああいうドライな判断も出来るんだけど、でも康一くんの一見無謀な判断の真意をちゃんと読み取って、修羅場に付き合う度量もある。
康一くんも勇気のあるところだけではなく、ビビりまくる弱い部分もしっかり描写しています。
強弱硬軟、良いところも悪い所も合わせて描写し、登場人物が特別な力はありつつも矛盾を抱えた『ただの人間』だと強調しているのは、中々大事なところだと思います。

悪の権化かとおもいきや『ただの人間』だった形兆をざっくりと無残に殺すことは、一つには償いきれない罪に応報を下すという意味合いがあるのでしょう。
同時に視聴者の感情移入が盛り上がってきた所でスパンと切り落とすことで、一種の後悔を宿らせる狙いもある気がします。
形兆の気持ちも願いも思う存分思い知らしめた上で、その生命を横合いから殴りつけられる形で奪うことで『兄貴とはまた別の道があったんじゃないかなぁ』という疑問は、モヤモヤと視聴者の胸に残る。
その後悔は多分、億泰や仗助が抱えるモヤモヤと同じもので、理不尽な死によって視聴者とキャラクターはシンクロ率を上げると思うわけです。


そんなモヤモヤは形兆が命をかけて守った億泰の、自分では掴めなかった『日常を守るために非日常を使う』という生き方を見守る動機にもなります。
感情が高ぶって思わず『親父』から『お父さん』と言ってしまうところから見ても、最終的に『兄』に守られて命を繋いだことを考えても、億泰はどこか幼い、未成熟な印象のキャラクターです。
しかし仗助とのふれあいを通じて彼は兄の支配と保護を脱出し、おそらく初めて支配的な存在と一対一で対峙し、『親父は元に戻る』という自分の意見を口にする。
それは兄が諦めてしまった『日常』を力強く守っていくという宣言であり、それがあるからこそ仗助が踏み越えられなかった不可視の一線を越えて、弓と矢に手をかけることが出来るわけです。
迷いつつも力強く『日常』を守るという億泰の決意は、うまく生きられなかったが最後に『正しい行動』を選択した形兆の遺志を引き継ぎ、これからも続いていく。
ここら辺は、祖父の遺志を継いだ仗助と重なるところです。

無論強さだけでは人間は生きていけず、親父はバケモノだし兄貴は死んじゃうし、あまりにもお辛い境遇の億泰には寄り添ってくれる仲間が必要です。
『俺の兄貴は最後の最後に俺をかばってくれ たよなあ~っ! 仗助~見てただろォ~?』という億泰の言葉は、一人で抱えるには重たすぎる哀しみを友に託し、なんとか前向きに生きていこうとする抵抗なんじゃないかと、僕は思います。
それを『おめーの兄貴はおめーをかばったよ』としっかり受け止めてあげる仗助がいればこそ、ラストシーンの暢気で可愛らしい高校生活に、『日常』に億泰は回帰することが出来る。
そういう相手に幼い億泰がなれなかったからこそ、形兆は弓と矢による無差別テロという『非日常』に墜落していってしまったのではないかと、追加されたシーンを見て思いました。

あのバカでマヌケな『日常』を手に入れるのは、一見なんてことのないつまらない光景のように見えるけど、兄の死に引きずられすぎず、新しい友人と真っ当に交流し人間として生き続けるという、億泰の決意と強さの表明なのだと僕は思います。
まぁ半分くらいは生来ノンキでバカだからとは思うし、そこが可愛いボーイだとも心の底から思うけど、四部のスタンド使い達は皆『非日常』で『日常』を蹂躙する誘惑に晒されつつ、自分なりの結論を出している。
ダチと一緒に学校行って、美人のお母さんにコーヒ出してもらってという、一見今回の悲劇とは関係のない『なんてことのない毎日』に帰還することの大切さ、強さ。
抱え込んだ悲劇に耽溺するのではなく、友人として『なんてことのない毎日』に付き合うことで億泰を『癒やす』仗助の優しさ。
四部で描いているものをしっかり捉えた、良い追加シーンだったと思います。
……『なんてことない毎日が かけがえないの』……JOJOアイカツだった?("カレンダー・ガール"が心に刺さりすぎて頭がオカシイ人の発想)


というわけで、三週に渡り展開してきた虹村家の物語も一つの終わりがやって来ました。
取り返しの付かない悪党をぶちのめすという、痛快でシンプルなアンジェルのエピソードに続き、一筋縄ではいかない情念と因縁が絡みついてくる、複雑なお話でした。
セカンドエピソードとしてこの話があることで、『日常』と『非日常』をめぐる物語に立体感が出るし、億泰といういい味出すキャラクターもレギュラーに加わるしで、ほんと良く出来た構成だ。

オヤジの肉体は化物のままだし、形兆の兄貴は後戻りができないまま死んでしまったけど、億泰は絶望を乗り越えて『日常』に帰還し、崩壊してしまった『家族』も別の形で再生することが出来た。
勝ちと負け、哀しさと喜び、後悔と決意が複雑に入り交じる、非常に面白いエピソードだったと思います。
時間が過ぎて見てみると、虹村家の物語はスタンドという『非日常』の物語の上に、日本中どこでも展開しているだろう『介護に疲れ果てた人たち』という『日常』が覆い焼きにされている気もするな……。
ビザールな世界を描きつつもこういう普遍性を持っていることが、ジョジョの強さだとも感じるね。

来週からは一般人から一歩脱出した康一くん、待望のメインエピソードな感じ。
キュートボーイ億泰とはまた別の形で、康一くんも好きになれて尊敬できる男だからなぁ……。
高い作品理解度と、それをアニメーションに焼き付ける確かな手腕を感じる第四部アニメが、彼をどう描いてくれるのか。
興奮を高めつつ、来週を待ちたいと思います。