イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

くまみこ:第6話『先駆者の村』感想

可愛さの奥に秘めた邪悪さを灰色の雲たちが祝福するカントリー・ホラブル・ファルス、今週はヴィレバン襲撃(未遂)と心の傷。
クソクマとダメ巫女の間にある家族的なダメさが最高にドライブし、大笑いした後に『ヤバいよコレ……第三者による介入で少し関係を整理なきゃアカンくらい共依存だよ……暴力をコミュニケーションの一種として受け入れてしまってるところがマジでダメだよ……』と真顔になる。
そんなエピソードでした。

今回明らかになったのは、クマと巫女の関係が単純な保護-被保護(もしくは支配-非支配)ではなく、強さと弱さが入れ替わる相互的関係だということです。
スタッフは『あびゃあああ~、見たい、可愛い巫女が心理的圧迫を受けて、限界まで追い詰められる顔が見たいよ~』というリビドー満載でダメな巫女を追い込んでましたが、その弱さは保護者であるべきナツに波及して、彼もまた凄い勢いで弱る。
一見人間関係の把握に長けているようでいて、おそらく自分の過保護がその責任の一端を担うまちの弱さを正確に認識できず、ヤバい領域にまで一気に追い込んでしまうし、無意識の情緒的加害を認識した途端くまみこの擬似家族的関係がグズグズに破綻し二人共泣き疲れる。

ふたりきりで暮らすくま巫女トンチキ家族は、その一見暖かなオーラに反して圧倒的に不健全だし脆弱な関係を、ふたりきりで発酵させ続けてきたわけです。
回想シーンで示されたように、まちとナツの関係が始まった段階では『母親と息子』の関係だったものが、クマと人間の成長サイクルの差で今は『父親と娘』の関係にこじれている所が、ナツがペドフィリアなだけではなくマザコンでもあるという、割と最悪の変態に育った大きな理由だと思います。
最後の暴力も一見『父に当たる娘』のように見えて、実は『母親のいにそぐわないことをしたので、暴力によって罰を受ける息子』でもあるっていう捩じれが存在しててなぁ……怖い怖い。

んじゃあまちが『母親』として『まともな関係』を作れば良いのかといえば、それはそれで歪んでいるのは回想シーンのペドっぷり見ればわかるし、『母親』を担うには自意識過剰すぎで精神弱すぎだってのも、今回よく分かる。
その弱さがまちの(そして視聴者)のサディスティックな欲望を満足させ、彼女の失態が笑いを生む大きな母胎にもなってるので、まちは簡単には成長できずダメダメなままウロウロし続ける。
ナツが半分無意識にまちを幼いままに維持しようとして、成長を阻害しにかかる所がホント駄目だな……。


擬似的な家族関係はBパートの大惨事において内破し、しかもあれだけ大荒れしてもそれはあくまで『日常の一コマ』であり、まちが無意識に振るう暴力もまた閉じた家族サークルの中で肯定されてしまう。
まちの心の傷はシリアスな重さを手に入れることなく、事態は歪みを宿したまま安全に『いつものくまみこ』に修復されていく。
コミカルな非日常と仲良し家族のギャップ、可愛さと醜悪さのギャップがこのお話の笑いの源泉であり、そういう歪みを正して真顔になってしまえば作品は内破してしまうわけですが、ひとしきり腹を抱えて笑った後、コメディとしての枠の外側に意識をやると、相当に追い込まれた家族の姿がある。
優れた演出により『ダメじゃん、共依存じゃん』というツッコミを自然と視聴者にさせて、シニカルで冴えた笑いが更に生まれる構図にもなっていて、やっぱこのお話し巧妙だなと思います。

あそこまでグズグズでダメダメなのに、家族と日常(=通常進行のくまみこ)は機能してしまうし、お互い感情のタガが外れた惨事すらもまた家族と日常の一コマである。
このアニメは可愛いクマが抱え込む『可愛いまちを思う存分、自分に依存させ支配したい』という欲望を隠さないし、作中人物全員が(当のナツすらも)その透明な悪意に気づかないからこそ、時々暴発する歪みは『気のせい』で片付けられ、楽しく愉快なくまみこ家族のコメディが維持される。
ポップで可愛い熊井村の奥に潜むヤバさに気付いているのは視聴者だけで、その特権が目の前の大惨事から的確に距離を起き、シニカルな笑いとして消費することを可能にしているわけです。


創作を笑い飛ばすためには一種の他人事な感覚が必要であり、心に突き刺さるシリアスな事象として大惨事が描かれれば、それは喜劇ではなく悲劇になってしまう。
あんだけ『ヤバいこと』を描きつつ結構サラッとまちは立ち直り、飯食いに降りてくるわけですが、その立ち直りの早さもまた『ヤバいこと』をヤバく受け止めさせない、過剰なシリアスを蹴っ飛ばして笑いを生む手腕なのでしょう。(『そういう話』ではないというサイン)
徹底的にポップに楽しく、醜悪で残忍な家族の闇を笑い飛ばすために必要な、演出の手練手管が冴えていればこそ、このアニメはコメディとして成立しています。
泣いてるまちやその心の傷、幼い時の可憐さと邪な欲望までしっかり管理して、目の前で起きている『ヤバいこと』をまるで安全な『心温まる家族物語』のようにラッピングする、シニカルな認識が俺は好きなんだろうなぁ……。

加えて言うと、笑いを成り立たせるためにコメディとして保護されてる『ヤバさ』の構図が、どんな問題も『家の中の話』として受け入れてしまう、家族の黒い包容力との相性が良いのだろう。
家族的な村、家族的な二人の関係はつまり他者を拒む閉鎖性でもあって、そこで育まれる暖かさもあるし、ドス黒い闇もある。
その両方を笑いで視聴者の側頭部殴りつけるための武器として使いこなし、危うい一線を視聴者には意識させつつ作品内部では絶対超えさせない操作の巧さ、それを可能にする覚めた目線が、捻くれた俺の感性に響くのだろう……なんてヒドい視聴者だ。

よしお君は家の檻の外側にいて、ダメダメでズブズブなくまみこ家族に『まとも』な成長をねじ込める立場なんですが、アイツもなかなかのサイコだから状況は変わらない。
逆に言うと、成長を必要とするような歪んだ関係を『まとも』にさせず、コメディとして維持し続けるためにも、よしおは人の心がわからないサイコ野郎でなければいけないんだろうな……『まとも』なら二人の関係『まとも』に治しちゃうし、そうなったら笑いの生まれる構造は破綻する。
『ヴィレバン襲撃は、自意識過剰のクソダサ田舎巫女には早かった』という『まとも』な意見も、人情から出たというよりはキャラクターとして必要なこと言った感じがチョロっとして、よしおは最高にクールだと思います。

というわけで、いつものダメ巫女&ダメクマのダメダメ加減を大笑いしつつ、このお話の中にある家族の歪みと、シニカルな視点を再確認したエピソードでした。
やっぱ笑いは直感と冷静の共犯関係からしか生まれねぇなぁ……ムダに長いペド回想の挟み方とか、むっちゃ効果計算されてるもんなぁ……。
くまみこ見て家族の檻の堅牢さとヤバさを考えるのもなかなかトンチキな受け取り方ですが、そういう方向にも伸びていける豊かさが、ナツとまちの楽しい暮らしの中には込められてんじゃないかなぁと、僕は本気で思っています。
そのシリアスな受け取り方は、必ずしもコメディとしてくまみこを楽しむ気持ちと矛盾もしないかなぁ、とも。
あー、来週も楽しみだなぁくまみこ……週一でこんなに濃厚な『人間の歪み』を摂取できるのは、なかなかありがたい体験ですよ。