イマワノキワ

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コンクリート・レボルティオ ~超人幻想~ THE LAST SONG:第20話『終わりなき戦い』感想

虚淵玄をゲスト脚本に迎えてお送りする今週のコンレボは、緑の地獄、コンクリートの地獄。
PTSDに苛まれるベトナム帰還サイボーグ兵を巡って、神話なき理性の怪物と、幼い正義にしがみつく青年が傷つけ合うお話でした。
會川脚本のノスタルジーとも、中島脚本の人間への期待とも、辻脚本のスケールの大きな救いとも違う、虚淵玄の乾いた現実認識が冴える、シビアなお話でした。
コメディだったりハートウォーミングったり、これまでのお話が巧く覆い隠してきた剥き出しのリアルが、爾郎と視聴者にたたきつけられる話という感じか。

僕はコンレボの感想で元ネタ探しをしないようにしているのですが、今回はかなり原典の文脈に背負うものが大きいお話なので、色々整理をしてみましょう。
物語の時系列は神化43年=1968年3月、ソンミ村虐殺事件が68年3月、パリ和平協定と米軍の全面撤退が73年1月。
フィクションで言うと"ランボー"の原作"一人だけの軍隊"が出版されるのが72年、映画化が82年、"地獄の黙示録"の公開が79年、"フルメタル・ジャケット"の公開が87年となります。
今回のお話は"一人だけの軍隊"をベースに、色々なヴェトナム戦争へのオマージュと変身サイボーグ(GIジョーからの派生商品で、販売開始は1972年)ネタを織り交ぜた、中々複雑なタペストリーになっています。

"ランボー"一作目には複数のバリエーションがあり、後に『粗雑で傷ついた、暴力的な正義の兵士』のアイコンを生み出すことになる映画第一作、ジョン・ランボーがトラウトマンによって殺されてエンディングとなる試写会版、そして原作小説である"一人だけの軍隊"があります。
スタローンが脚本を書いた映画版でランボーは、ヴェトナム戦争によって傷ついた無辜なるアメリカを象徴するように、自分からは殺さず理不尽な暴力に耐え、観客に応援される『可哀想な青年』として描かれます。
これに対し原作小説版は、警官の暴力が引き起こしたフラッシュバックにより、奪った剃刀で喉笛を掻っ切る殺人者としてランボーをスタートさせ、その後も民間人を含めて大量に殺す『狂った殺戮者』という役割を担います。
ランボーの立場が異なることにより、彼を迫害するティーズル保安官も『暴力的で無理解なシェリフ』と『朝鮮戦争というもう一つの地獄により狂った、殺戮者にして正義の代行者』という、複数的な立場を持つことになります。

今回のお話でランボー的立場を担うジョナサン・マレル曹長("一人だけの軍隊"の作者はデヴィッド・マレル)は、無差別的超人保護主義者である爾郎の目からすれば『可哀想な青年』ですが、偶然通りすがった民間人を殺傷し、無辜の血を浴びた『狂った殺戮者』です。
自分が見たいマレル曹長しか理解しない爾郎に対し、トラウトマン大佐役を担当するカロルコ大佐は『青年』マレルも『殺戮者』マレルも、そして本編中では描写されることのない『誇り高き兵士』マレルも、優しく厳しい父のように深く理解している。
サイボーグ手術によって人間性を失い、PTSDに壊されてしまったマレルにこれ以上殺戮を繰り返させないためにも、『誇り高き兵士』という幻想を守って星条旗で棺をくるんでやるために、彼はマレルを殺す。
『超人はすべて守る』という真っ直ぐな、しかし幼く現実的とはいえない理念で行動する爾郎はマレルの本質を捉えることは出来ず、人と怪物の間で揺れるマレルから身を預けられることもなく、民間人の犠牲者とマレルの死によって、彼らは"たった一人の戦争"に敗北することになります。

父親の前に膝を屈して贖いを受け入れ、さらなる殺戮の権化として消費されることを選んだ映画の『ライボー』とは異なり、アメリカの狂気に食いつぶされた殺戮者の潰し合いとして展開したこのエピソードにおいて、"たった一人の戦争"のようにマレル曹長は父に殺され死にます。
この屈折した親子関係は、裏切られつつも孫竹博士を憎みきれない爾郎と、父性の長い影を通じて響きあう部分かもしれません。
そういや、大佐も孫竹も『改造』という手段で被造物と繋がった、フランケンシュタインの後継者なのね。


マレルは東南アジアに漂う『言語化出来ない、曖昧な土着信仰』と戦場での経験を結びつけ、カルチャーギャップを理解できないまま死んでいきます。
怪物と人間の間で悩んだすえ、彼は人食いの怪物に堕落してしまうわけですが、その姿は彼が否定した東南アジア明王複数の腕に武器を握り、袈裟をまとった破壊者のいびつな写し絵です。
己が見つめていた闇に飲み込まれ、己自身が闇になってしまう構図は"地獄の黙示録"のカーツ大佐を思わせます。
『銃弾に奉仕し、爆撃に祈りを捧げる死の司祭』というマレルのセルフイメージは、"フルメタル・ジャケット"におけるハートマン軍曹の『貴様らは戦争に祈りを捧げる死の司祭になる(you will be a minister of death, praying for war)』という言葉を想起させもします。
そも戦場におけるPTSD自体が、自分を飲み込む死と直面しすぎた結果距離感を失い、死や敵と衝突することで自己を見失い、生まれるものなのかもしれません。
そういう意味でマレルは、自死の運命を捻じ曲げ『自由の戦士』というアイコンに昇華される(もしくは堕する)ことを許された映画版『ランボー』ではなく、ハートマンを撃ち殺して自分も死んだゴーマー・パイルであり、"アメリカン・スナイパー"のクリス・カイルでもあるのでしょう。

マレルの救えなさは、コンクリートの街で生まれた『正義の味方』の甘い感傷を思い切り蹴り飛ばす、情けも容赦もない戦場のグロテスクなリアルといえます。
爾郎は『正義の味方』という己の信念に準じて、マレルを助けるべき『可哀想な青年』として受け取ります。
先に事情を聞いたライトが割りきり良く『コイツは帰れない』と諦めた、『殺戮者』マレルを救う努力は、結局無力どころか民間人の犠牲者と、それを隠蔽するために妖怪の生け贄を必要とする。
爾郎がマレルを守ったことで流れた血の重さを、爾郎はかなり真剣に受け止めなければいけない立場にいると思うわけですが、今回彼の最後のセリフは『ジョナサンは超人に憧れ、超人になろうとした。それだけで守る理由があった、見届ける義務もな』というものです。
そこには間接的に己が殺害してしまったとも取れる二人の犠牲者への意識は感じられないし、『善悪関係なく、超人は守る』という極端で幼い理念が持つ矛盾を深く考えようという姿勢も見られません。
マレンのリアリズムは、第18話で強調されていた『他者を害する超人すらも守る爾郎の行動は、いつか大きな悪を助ける』という矛盾を浮き彫りにしたわけです。

爾郎が逡巡の末に辿り着いた『超人は守る』という一つの答えは、確かに倫理的で優れたものでしょう。
しかしシビアでリアルな神化世界は、人類を超越する知性を持ったフューマーやマスター・ウルティマにすら万能の答えを許さないし、自分の選びとった結論の負の側面と向かい合わない爾郎を、『主人公だから』という甘っちょろい理由で特権化はしない。
一つの結論にしがみつき死んでいったクロードや、欺瞞を理解していながら国家法を絶対の価値判断基準とする大鉄、崩れてしまった自我バランスを他者から略奪して補填したライトを爾郎は否定しますが、しかし彼らが辿り着いてしまった硬直化した姿勢に今回の爾郎は、かなり近づいていたようにも見えるのです。

無論、誰も犠牲が出ない神様の答えはどこにもありません。
悩み続けて何もしなければ、正しい結論が出るというものでもありません。
爾郎の選びとった行動が幸せ(なように思える)結末を連れてくることも、これまでのエピソードで示されたようにあるし、今回のように矛盾を強調されることもある。
そういうシビアな試しがゲスト脚本から出てきたのは、なかなか面白い化学反応だと思いますし、主人公すら特権的な立場に置かないフェアネスが作品中にあるのは、とても好ましいと感じます。


今回のエピソードは全ての曖昧さを消し去り、理性の神話で世界を塗りつぶすカロルコ大佐のエゴイズムを、ステイツ全体の行動理念として描いていますが、これは笑美の立場を鮮明にする意味合いが強いのでしょう。
アメリカという国家には建国以前の神話がない(カロルコ大佐が作中で述べているように、神話となりえた先住民を実質抹消してしまった)ことで逆に、『明白な運命』や『世界の警察』『グローバリズム』といった別の形の神話を求める、一種の社会的ブラックホールのような側面があると思います。
ちょっとギャグ調に引用されていたクトゥルフ神話も、そんなアメリカが産んだ虚無の神話の一つといえるかもしれません。

カロルコ大佐はそんな米国の一面を強調してはいますし、神化日本の超人行政がどんどん抑圧的で強圧的な方向に舵を切っていることを考えると、軍隊という強制力を背景にした彼の思想は、コンレボ世界において非常に強力な行動理念だといえます。
マレルも複雑な価値観を理解しきれず、大佐の影響力を脱しきれないまま全てを暴力で解決する獣に堕ちてしまったわけで。(彼がジャングルで『面を被った虎人間』と殺し殺されしてたのは、非常に皮肉ですね)
カロルコ大佐からこぼれ落ちてしまうアメリカの諸相は、複雑怪奇な神化日本の超人物語とがっぷり四つに組んでいる現状では、中々表現しきれないんでしょうかね。

強制力によって古い多様性を排除し、コンクリートで全てを覆い尽くそうとする近代の暴力性は、これまでのエピソードでもいくども描かれてきました。
第2話におけるタルタロス蟲人、第16話における『神』、第17話における地底人などなど、国家という暴力集約装置を背景に己の意志を押し通し、他者を殺す(もしくは追放する)横暴は、様々なテーマを持つコンレボでも大事なものとして描写されてきた。
妖怪のプリンセスとして超人課に協力する笑美は、このように虐げられるもの達の代表者であり、敵であるはずの国家的行政機構の中に滑りこみ、己の主張を現実化していく強かさを持っています。

そんな彼女が何を最後の一線にして行動しているかは、謎めいた女としての仮面が邪魔をして中々見えなかったのですが、今回カロルコ大佐が強い圧力をかけてくれたおかげで、良く見えてきました。
コンクリートの世界が様々なものを踏み潰して拡大していく中で、そこに適応できず古いまま圧殺されようとしている存在を、どうにかして生き延びさせる。
爾郎が超人の定義を明確に語っていたように、今回のエピソードはゲスト脚本とは思えないほど、本筋に踏み込んだ描写が多かったように思います。

マスターウルティマの狙いが開示されていたのも重要で、第二次大戦が過激化しなかった=『核』という技術を進化させる圧力が弱かった神化世界における、核開発のためのブレークスルーとして爾郎を狙っていることが分かりました。
近代の神話で旧世界を塗りつぶす暴力の権化としても、束縛しつつ愛している爾郎を狙う憎き敵としても、笑美とマスター・ウルティマの因縁は一気に深まったなぁ。
ビキニ沖の核実験で生まれたゴジラをオリジンとする爾郎先輩が、神化世界におけるプロメテウスの火として付け狙われているという原因と結果の転倒はなかなか面白いところです。
ラストの新聞記事でサラッと『沖縄人工島にて万博開催』『主催者はマスター・ウルティマ』という超不穏な情報が開示されてましたけど、先のエピソードで回収しそうですね。


というわけで、近代の神話の暴力性がこれでもかと発露し、ずっしり重たい軛を主役に縫い付けるエピソードでした。
主人公が主張していた『超人はすべて守る』という主張が破綻し、その負の側面も死人という形で出てしまったわけですが、爾郎はこの後どう動くのか。
今回ラストのように自分の見たい世界を引き続き見続けるのか、そこから一歩踏み込んで新しい答えを探すのか。
存在感を増してきたマスター・ウルティマや笑美の動向引っくるめて、待ったなしの状況になってきたと思います。
さてはて、今後どうなっていくのやら、とても楽しみですね。