イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

コンクリート・レボルティオ ~超人幻想~ THE LAST SONG:第21話『鋼鉄の鬼』感想

●はじめに
曖昧で自由な正義と、果断で苛烈な不正義が街を貫くアニメーション、今週は終わりの始まり。
ゲスト脚本なんか交えつつ超人の様々な形を描いてきたこれまでの二期エピソードとは違い、帝告顧問・里見が不気味な動きを始め、人間を超人にも神にも悪魔にも変えるスーパーロボットが登場し、何かが大きくうねり始める話でした。
『とりあえず本筋進める前に、主人公の情けない足場全部ぶっ壊しておこうぜ!』とばかりに、川原で屋上であらゆる人からボッコボコにされる爾郎が哀れでもあり、主人公だからといって甘やかさないこの話が好きでもあり。


●人吉爾郎、幼年期の終わりの始まり
帝告主導のNUTS導入に対し、爾郎陣営(と思われていたもの)がそれぞれ立ち上がり、相争うのが今回の話。
クロードが提唱した『正義』『自由』『平和』の三択にどう応えるかでそれぞれ割れて、『自由』を求めるアナキスト(ライト・アラクネ)と『平和』を求めるヴィジランテ(メガッシン・白田)が内ゲバ状態になった、というところでしょうか。
これまであくまで会社の事情で超人に関わっていた東崎さんが、NUTSと量産型クロードヘルメットという外付け超人課装置を手に入れて求めたのも『平和』ってのが、中々皮肉です。

結果として、『自由』VS『平和』の戦いが川原で展開することになるんだけど、ジャガーさんが鉄拳で指摘したとおり、爾郎はそれを前に立ちすくんでいるだけでした。
親友だったジンが割りきって『正義』を選び無残に死んでいったトラウマ、シンプルに『良いこと』をしていた天弓ナイトへのあこがれ、何かを選んでしまえば何かを切り捨ててしまう残忍さへの身震い。
色々あって爾郎先輩は超人課を離れてから六年、『俺は犯罪者じゃない!』と叫びながら犯罪者とつるんで真っ当な社会に背中を向け、犯罪者扱いされる連中を助けるために社会と戦ってきました。

それは大鉄くん言うところの『立派なクズ』の生き方であり、いくら『俺は犯罪者じゃない!』と叫んだところで(そして実際、誰かを害する行動を直接的に取っていなかったとしても)、『自由』を求めて『平和』を壊す超人赤色テロリストと同じ立場とみなされます。
そういう世間の目と爾郎先輩のセルフイメージは食い違い、いつまでも天弓ナイトの背中を追いかけ、『まだ遊びたい!』と叫んだ子供時代から抜け出ていない彼のモラトリアムを、ジャガーさんは痛烈に殴りつける。
法権力の手先にも、過激なテロリストにも、現実的な解決法を求める妥協者にも、時間を超越しながら様々な立場を経験していればこそ、ジャガーさんとしては爾郎の半端な立場と認識が許せないのでしょう。

子供時代の爾郎がそうであったように、爾郎は自分の楽しさを追いかけているだけだとしても、前回マレル軍曹にぶっ殺された民間人や、爾郎の血で人生狂ってしまったガゴンや、ボーボー燃やされた列車の乗客(おそらく元ネタは桜木町事故)のように、爾郎が爾郎でいる限り、間接的にでも付随被害は出る。
直接的破壊活動に出ているアラクネやライト、様々な人を陰謀に巻き込んでいる里見のように、自分の願いのために自分の足で他人を踏みにじることはなくても、爾郎というあまりに巨大な存在はただ歩くだけで破壊を撒き散らすわけです。
ニンゲンマンのように『娘の笑顔が見たい』という個人的なエゴイズムに収まることも出来ず、『ただ超人を守りたい』『絶望の闇を振り払う、一条の光でありたい』という抽象的で切実で綺麗な願いを抱いた爾郎の半端な立場は、気づけば犠牲者を生み出していたわけです。


●機械たちの正義と自由と平和と愛と
そんな爾郎を責め立てるのは、立場上敵である超人課だけではなく、立場上味方のように思えていた反政府グループの面々も同じです。
迷わず、中途半端な立場でもなく『自由』を求めて実力を行使するライト、教えられたプログラムの通り日本の『平和』のために日本政府に立ち向かうメガッシン、機械的善悪判断にしたがって地上に降り立つアースちゃん。
迷わない機械たちは爾郎のモラトリアムをおもいっきり殴りにかかりますが、しかし彼らはみな単純な善悪装置から半歩踏み出した、ひどく人間的な存在です。
アースちゃんは自分の心にすら嘘をつく人間の複雑さを学習しているし、喪われた過去と大義を略奪してテロルを演じるライトは言うまでもなく、メガッシンはその純粋さ故にライトが喪った正義を体現してる。
二人で一人のメガッシンが、恋人のように肩を抱いて去っていく姿を見るライトの瞳には、やっぱり爾郎の中途半端さが残っているように感じるわけです。

しかし苛烈な機械たちは何かを切り捨てて自分の立場を選んでおり、何も選ばないまま立ちすくんでいる爾郎とは明確に違う立場でもあります。
爾郎を擁護する白田さんはその巨大さを活かして傷を追ったアラクネを救助し、ジュダスは爾郎の血液を無断で使う悪によってアラクネを治癒しているわけですが、爾郎は破壊(とその先にある想像)も想像(とその先にある破壊)も、何も掴み取れていません。
『命を助ける』という最も基本的な善にすら、今回の爾郎は何ら寄与できていないわけで、これまで描写されながらも猶予されていた彼のモラトリアムは、今回一気に現実の蹉跌にさらされる事となりました。

子供のような外見と純真さを持っていたアースちゃんが、爾郎の嘘と矛盾を糾弾する知恵をつけてきたのは、なかなか面白い描写だと思います。
子供の代表である風朗太も、カムペとの悲しい別れを飲み込んで、新宿のアジールで酒(大人の記号!)を出して一瞬の安らぎを提供するという、自分なりの正義を実行している。
もう三十路なのに、子供(と思われていた存在)にすら置いていかれる爾郎先輩は、笑美に誘われて家を飛び出し、遊びに他人を巻き込んでぶっ殺していた時代から一歩も進んでいない、ということなのかもしません。
屋上でジュダスがタバコ吸っていたのも、子供から大人へ否応なく変わってしまう時間の象徴だったのかね。

『自由』を求めるアナキストとして共同戦線を貼ったライトとアラクネですが、『本当ならキミも、恋人と過ごしたいだろうに』というライトのセリフを鑑みると、アラクネは自分のオリジンを語っていないのかなぁと思いました。
彼女はもう絶対に帰ってこない自分の『星』のために『自由』を求めているわけですが、その事情を知っているなら、いかに鋼鉄探偵とはいえあのセリフは出てこないでしょう。
今回メガッシンと対話してた時の表情からして、ライトもまた喪われた『星』に未練タラタラっぽい気配もあるけどね……超人が人間でもある以上、様々な場所を揺れ動き続けるのは、体を構成しているのが機械だろうと肉だろうと変わらない宿命なんだろうなぁ。


●帝告の人々
爾郎のモラトリアムが破綻する圧力は、これまで裏から糸を引いていた里見顧問が表に出てきたことで活発化しました。
クロードのマスクを量産したり、誰でも操縦できるNUTSの導入を促進したり、それこそ東崎のような中途半端な凡人ですら超人と渡り合える世界が実現すれば、『超人』はその優位性を失い『人間』が『超人』となってしまう。
帝告という巨大メディアを利して総理すら操り、超人の商品化に勤しんでいた彼のモチベーションが『超人のいない世界』だというのは、意外でもあり腑に落ちる所でもあります。
バックにある倫理は横において、『人間』の『超人』化という発想自体は天弓ナイトが先取りしている所が、正義と悪の起源たる二人に奇妙な共通点を生んでいて、なかなか面白いところです。

風朗太が自然な態度で拒絶してた『居ていい超人と、居ちゃいけない超人を分ける』帝告の姿勢も、『原爆が落ちた正しい世界』と『爆心地に爾郎がいた間違った世界』を分けて認識できる、里見の世界観に支えられてのものでした。
僕らが身をおく昭和を『正しい世界』として認識すれば、超常能力と時間介入で歪んだ神化は『間違った世界』になり、僕らが今まさに体験している『超人のいない世界』に移り変わるよう政治と暴力を使いこなすのも、納得がいく部分ではあります。
しかし超人たちが(創作物の中とはいえ)自分たちの人生を持っている以上、どんな『正しい』理由があろうが己の生命と行き方を否定されることを認めるはずもありません。
結局里見の『正義』は『正しくない』と断じられる全ての超人の『正義』とも『自由』とも『平和』とも対立する一面的なものであり、それを強く認識するリアリストであればこそ、里見はメディアと洗脳という強烈なパワーを、しっかり握りこんでいるのでしょう。

そんな里見の手先として、大人びた風貌に変わった大鉄くんも強烈に爾郎をディスっていました。
虎の子の天弓マスクをあげたアラクネは結局テロリズムに走っちゃうし、それなりの重さを込めて灰色の立場の大事さを説いた大鉄くんは立ちションベンとおんなじ扱いしてくるし、爾郎の半端な態度は中々認められないねぇ……。
爾郎の半端さにある種の期待をかけている(だからこそ本気で殴ったんだろうし)ジャガーさんと、期待され心を動かされたからこそ、オトナになって強烈な幻滅を味わってる大鉄くんとは、似てるようでぜんぜん違う立場で面白いね。
意味深に顔だけ出してた『映画』の元ネタが"ノストラダムスの大予言"だとすると、世紀末的破滅思想を煽る内容だろうし、それにショックを受けていた大鉄くんも今後大きく動きそうな存在です。


●揺れ動く可能性達
そんなふうに盛大に批判されていた爾郎の半端さですが、それが同時に『居ていい超人=味方』と『居ちゃいけない超人=敵』を安易に明確化し、超えられない一線を引く態度を超える可能性でもあるということは、これまでも描写されてきました。
爾郎はいつだって敵が抱え込んだ哀しみ、味方の後ろにある危うさをしっかり見つけてきたし、その矛盾を捨て去ることなく、大人のように割り切ることなく生きてきました。
その結果が『三十になっても正義だの悪だのグダグダ言ってる坊や』ではあるんですが、では物分かりよく世界を割りきった先に何があるかといえば、マスターウルティマが主導するアメリカの独善であり、日本政府の超人弾圧政策であり、帝告の隠然たる世論操作であり、それに反発するためのテロリズムであり、それら全てに巻き込まれて流される無辜の血なわけです。

割りきってどこかに辿り着いてしまう、無理くり大人になってしまうことの危険性を体現していたのが怪剣クロードだったと思うのですが、自己の能力を暴走させて死んだはずの彼は生き延び、歪んだ形で量産されてすら居ました。
世界を『正義』『自由』『平和』のどれかだと割り切り、他を切り捨てろと迫るクロードのマスクは、それを被っても何も教えてくれない天弓ナイトの仮面とは正反対であり、ジンも爾郎やライトと同じく天弓ナイトによって救われた子供であることを考えると、ひどい皮肉です。
天弓ナイトと同じように『人間』と『超人』の垣根を消滅させるべく、天弓ナイトの歪んだ後継者であるクロードの仮面を利用するあたり、やっぱり里見は天弓ナイトのシャドウであるように感じるね。

迷っても地獄、割りきっても地獄というのが神化世界のシビアなルールであり、どこにも答えはありません。
そういう世界の中で、今回指弾されていた爾郎の中途半端さは無力さであり、同時に優しさでもあるんじゃないかな、と思います。
そういう彼が『敵』であるはずの風朗太の仲介で、同じく『敵』であるはずの東崎からクロードのマスクを受け取ることで、己と世界の真実に迫っていくという構図は、彼の半端さを厳しく咎めつつも、そこに秘められている可能性を評価するアンビバレントな態度に感じました。
それは多分、コンクリート・レボルティオという作品が持つ複雑な豊かさを支える、大事な土台なんじゃないかなとも。

 

●まとめ
そんなわけで、爾郎の半端さを容赦なく指弾し、その可能性に望みを託すお話でした。
ラスボスである里見のオリジンが垣間見え、NUTSという超人の存在意義を揺るがす実存が顔を見せ、お話も大きく動く。
NUTSの登場と里見が表に出てきたことで、お話は大きくうねっていくと思いますが、今回浮き彫りになった爾郎の中途半端な不安定さに、何かの答えが出せるのか。
今後の展開が非常に楽しみです。