イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

12歳。:第10話『オリヒメヒコボシ』感想

恋という名の夢のお城は魔女の死骸の上に建造されてる系アニメーション、今週は七夕ラプソディ。
男子に負けず劣らずミーハーでバカな女子達が思う存分奇っ怪な儀式に踊り狂い、メインカップルは胸きゅんイベントを大量にこなし、心愛ちゃんは白ひげ並かそれ以上の敗北者っぷりと、バギー以上の道化っぷりを存分に発揮する。
過剰に深刻になり過ぎないよう、コメディの巧さを使いこなして場をコントロールする12歳流演出術が冴える回でしたね。
……あのチェキ、タカトミから7月に一万円で実売されんだよな……12歳。も販促の運命に縛られた女児アニってことやな。

このアニメは結構奇天烈な(もしくはオーソドックスな)バランスで成り立ってるアニメで、主役は恋愛を超えて人間の領域で深みのある話をやることもあるのに、その舞台を成り立たせる脇役は基本的に役割以上のキャラクターを与えられません。
常時女子にヤダ味を与え、積極的に人格的ゴミクズに成り下がることで女子の特権化を支えるバカ男子も、あくまで賑やかしの領分を超えず自分たちの恋をエピソード化されることもないモブ女子も、きっちり引かれた『主役/脇役』の線引を超えることはありません。
今回の話しを牽引していた心愛ちゃんも同じで、女子のヤダ味を一人で背負うことで主人公二人を天使の位置に押しとどめ、圧力をかけて話が転がるエンジンになり、道化として無様に失敗することでコメディを成立させる、八面六臂の大活躍です。

チェキを借りてきておまじないという『楽しいイベント』を成立させてくれたのは心愛ちゃんなのに、彼女はドタバタイベントに巻き込まれて自分のチェキは撮れず、その不平等を女子が気に留めることはない。
ファンタジーとして飾り立てられた花日と結衣の恋愛を成立させるためには、主役と脇役の線引がはっきりしていて、道化にも傷つく心があるのだという人文主義的な視点が入り込まないことが大事なわけです。
そういう意味では、『お姉』という不在なる万能を持ち出すことでお話しの方向性を巧みに誘導し、主役に負荷がかかったら大人っぽく受け止めてケアする仕事を徹底している、まりんちゃんも心愛ちゃんと同じ立場なのです。
味方か敵か、一見正反対の立場なんだけど、役割以上のキャラクター性を与えられず、構造を壊すことのない立派なアクターという意味では、彼女たちは鏡合わせのクローンとも言えるでしょう。

主役と脇役の明白な線引とその徹底は、お話しの構造が堅牢であることと直結しています。
人間として傷を受ける権利を花日と結衣(と彼女に関わる男の子)に限定することで、お話しの軸はブレなくなり、『特権化された物語主体として、胸キュンストーリーを追体験したい』という視聴者の欲望はスムーズに充足される。
このアニメが持つ欲望充足の巧さは、男子の愚かさは指弾しつつ、おまじないに夢中になる女子の愚昧は『楽しいイベント』として特別化してしまうスムーズさにも強く感じられます。
女子のおまじないと男子の語録いじりは『楽しいイベント』としての質的差異はないはずなんだけど、花日と結衣という世界の中心が介在することで女子のほうが特権化し、それを引き立たせるように男子のイベントは『バカ』呼ばわりされるというね……これを一切の淀みなく、サラッとやり切るのが凄い。

残忍な差別でしか物語の機能と役割が満たせないなら、定型化された物語構造を徹底的に踏襲し、しっかりやりきって分かりやすい物語を提示する。
そのブレの無さは僕が12歳。を好きな大きな理由だし、シンプルであるがゆえに強い情動を呼びこむことにも成功していると思う。
だから、心愛ちゃんは(少なくとも花日と結衣の物語が摩耗しきって、欲望を乗せて走る物語主体としての機能を果たせなくなるまでは)人間であってはいけないわけです。
その動機は歪んでいるとはいえ、それなりに努力してチェキを借りてきて女子共同体の『楽しいイベント』に奉仕した事実が忘却されたとしても、傷ついてもいけないし、それを慰める男子とくっついてもいけない。


この差別構造が露呈すると話は別の方向にすっ飛んでいくので、テンポよく画面を切り回し、明るく楽しく話が展開するよう、ムードを維持していくのは非常に大事です。
今回はコメディとしての『間』がとても上手く取れていて、心愛ちゃんが役割を果たす仕草は痛ましい道化師の強がりではなく、楽しいドタバタ喜劇のまま成立していました。
花日がポンポン持って跳ねている所とか、マジただ可愛いだけで最高に素晴らしかった。
ああいう仕草や身体表現を画面に織り込んで、視聴者が受け取るムードを操作する技術はこのアニメ、結構高いと思うのよね。
構造を踏襲しているだけでは物語は陳腐になるわけで、なんだかんだフレッシュな表現が入り込んでいるからこそ見れるアニメになるわけだし。

心愛ちゃんがかけてくる圧を花日が跳ね返す展開も、『抑圧された自分を捨てて、本当のワタシを主張する』という、オーソドックスな物語のカタルシスに忠実なもので、その主張はしっかり上位者(≒高尾)に認められる。
物語的な快楽を生成・誘導する基本的な手腕が高いからこそ、オールド・スクールなお話も新鮮に受け止められるし、それを成り立たせている構造にも中々目が行かないのよね。
すげー嫌な言い方すると、高尾もまた『恋人という名前の上位者』という役割を果たす以上のキャラクター性、あんま描写されてないからね。

類型化されつつ新鮮な切り口を含む、このアニメらしいエピソードだったと思います。
そういう既存の構造を補強するお話やってるかと思うと、人間性を話しに盛り込んで硬直した見方を撹拌するようなエピソードもやる二面性が、僕はこのアニメの好きなところです。
どんな物語であろうと、物語を成立させるためには役割の間に明確な線を引くことが必要なわけで、神様の視点から『おー心愛ちゃん、今週も敗北者だねぇ無様だねぇ、いい仕事してるねぇ』て感心する快楽もあるしね。
それが作品を斜めから見る、悪趣味な視座だってのは全く否定しねぇけども、やっぱこのアニメは支えるものと乗っかるものが明確なお話だとは思うよ。