イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

くまみこ:第11話『都会へGO?』感想

楽園のふりをした静かなる地獄の物語、今週はアニオリ前後編。
原作だと2ページでキャンセルした仙台行きを実際に敢行し、まちの精神状態を極限的に追い込むお話でした。
シリーズを〆るに当たりオーソドックスな『障害と克服と成長』の物語を埋め込みたかったんだろうけど、そういう真っ当な性根は熊出村には出番が無いので、ひたすらよしおがサイコで響ちゃんが誤解され、まちが被害妄想を加速させていく地獄絵図に……。
まぁそもそも可愛いラッピングがかけられていた地獄をあざ笑う作品ではあるので、方向性としてあんま間違っていた気はしませんけども。

お話の構図としては『苦手なことにも取り組んで、一歩ずつ成長していこう!』みたいな話(の前フリ)なんですけども、そもそもこのお話『成長』とか『前向き』とか『開放』とか、世間一般で価値とされているものに全力で背中を向け、フェティッシュで湿った方向に突っ走ることにリビドーと独自性があるわけで。
その陰湿さを一切取り除かないまま、マチにプレッシャーを掛けるとしたらまぁこうなるなというか、周りのアイドルの子達はみんな優しくしてくれてるのに、クソクマの教育でネジ曲がった現実認識がそれを悪意と捉えてしまう様子があまりにも痛々しすぎて、正直な話笑えない領域まで突っ込んでいたとは思う。
個人的なフェティシズムで走ってたアニメに『普通』を持ち込むと、ここまで痛々しくなるのかという発見としては新鮮だった。

キャラクター単位で見ると、物語は今までのライン上にしっかり乗っかっていて、よしおは人の痛みがわからない(とおもいきや少しは共感能力があり、しかもそれが一瞬で揮発する分さらなる)サイコのままだし、まちの外界恐怖症もいつものとおりだし、ナツの歪んだ母性とインファンテリズムも描写されてたとおり。
変わっているのはそれが『仙台』という、普通で当たり前の世界に放り出されるという舞台設定なわけだ。
熊出村の閉じて優しい、歪みきった世界は同時にシェルターでもあって、トンチキな狂人共がコメディを演じる前提として、彼らが許容され異物として排除されない生暖かい優しさを担保し、発酵させてきた。

しかし『仙台』に適応されるのは、これまでの物語世界を包んできた異常で優しいルールではなく、視聴者が足場を置くシビアで普通な現実的ルールであり、まちの被害妄想はこのギャップを脳内で処理した結果生じたエラーだとも言える。
『仙台』のアイドルたちはみな優しくまちを気遣ってくれて、頭がオカシイのは熊出村の瘴気に脳みそまで侵されてしまったまちの方というのは、まったくもって冷静で正しい認識ではあるんだけど、僕らが今まで肯定し見つめてきたのは狂って歪んでいる熊出村の価値観なわけで。
オーソドックスな成長物語の構図に狂人たちを引っ張りだした結果、彼らが狂人であること、狂気に甘んじて『普通』に適応する訓練から逃げまくってきたことを突きつけられるというシビアな批評体験は、製作者が意図したことなんだろうか、はたまた事故なんだろうか。
いち視聴者である自分には、サッパリわからない。


ここでまちが自分の歪みに急に気づき、人間的成長を見せて立ち上がり事態が解決するならこのねじれたストレスは生まれないんだろうが、アニメスタッフはこの歪んだ世界と歪んだキャラクターを愛し、それを切り崩すことを良しとしなかった……のだろう。
結果、まちは熊出村でそうであったようにダメダメのダメ人間であり、よしおは相変わらず爬虫類の心で厄介事を連れてくる物語の進行役であり、響は誤解されやすいまちの保護者のままである。
熊出村ではまだ悪趣味なコメディとして成立していた部分が、急に沢山の人間と常識的な価値観で構成される『仙台』に飛び出してしまった結果、当然の結果としてその違和感や病理が強調されてしまったといえる。
キャラクター性のエミュレーションとしては正しいんだけど、誠実にエミュレーションしすぎた結果舞台と衝突を起こし、ドギツさが強調されてしまったというか。
ここら辺は音があり、色があり、映像が流れるテンポがあるアニメ故の演出の強さだとも言えるだろう。

今回のお話は前後編の前編、カタルシスのためのストレス、飛躍するためのタメの部分であり、あまりにもキッツいアレやソレは次回跳ね返すための前フリである。
いや、この性格の悪い話だとこのまま全部が瓦解し、その大惨事を指差して笑う方向に舵を切ってもおかしくはないけど、描き方からして一応成長物語の構図の中に収めるつもり……のはずだ。
それは基本的で強い物語類型なんだが、くまみこにそういう『普通』のお話のカタルシスがフィットするかというと、やはり首をひねる。

『成長』や『開放』のカタルシスを全否定し、ダメダメなまちがダメダメなナツと共依存にズッポリ腰までハマりきってる歪な快楽を、欲望満載で視聴者の顔面に叩きつけること。
僕が(身勝手にも)感じたくまみこ一番の魅力はやはりそこで、色々と前に進みそうな気配はありつつ、あるいはまちの臆病で、あるいはナツの歪んだ母性で、その足を取られて情愛の沼地に引きずり込まれていく腐敗の快楽と、それをいかにもポップで魅力的な装飾で覆い隠す手際の良さ、性格の悪さはまぁ、『くまみこらしさ』だと言っていいと思う。
そういう腐った魅力を考えると、この後まちがアイドルとして何か感動的な成長を成し遂げ、トラウマを克服して人間として一歩踏み出す過程は、カタルシスとして機能するのか、やや疑問なのだ。
とすれば、その前風景たる今回の大惨事もまた、必要なストレスとして上手く機能してはいない気がする。

結局閉じた関係性に帰っていくとはいえ、まちの成長とナツの不安はものがたりの中心軸にあるわけで、分かりやすく『成長が結局成功する』物語ではなくとも、『成長が結局失敗する』物語として、くまみこは『成長』の物語ではある。
だから今回予見された、『アイドルへのトラウマを思う存分描写したあと、それを乗り越える物語』というラインは、実はそこまで『くまみこらしくない』展開ではないのだろう。(これまであえて触らなかった部分に踏み込むんだから、当然衝突は起きているし、それを飲み込ませるために要求される技量は高くなるけど)
三ヶ月のシリーズを〆る上でカタルシスを捏造するのは大事だろうし、そのために『成長』というネタを扱うのはオーソドックスな手筋ではあるし。
落ち着けどころが難しい展開になったとは思うが、別角度から作品を掘り下げるチャンスと捉えることもできよう。
来週を待ちたいと思います。