イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

プリパラ:第100話『テンション100MAXだよ!』感想

愛と友情のアイドルファンタジー、記念すべき第100話は赤ん坊VS子供。
どうあっても『ご機嫌取り』から抜け出せないドロシーが、パクトに入ることでジュルルと身体的にも同じレベルに並び、彼女を身近な存在と感じるまでの物語でした。
どうあっても『母』にはなれないクソジャリなドロシーと、どうやっても赤ん坊なジュルルの『個性』を切り崩すことなく、人間関係の距離を詰めるまでの悪戦苦闘を、ネタ混じりに描く感じでしたね。

今回の話は結構コアの部分が掴みにくい、難解な話だったように感じます。
それはむりくり『100』関係のネタを大量にぶっこんでいるからではなく、このエピソードが『ディスコミュニケーション』と『多様性』にまつわる物語であり、それを完全に解消しないまま人の心が動くにはどうすれば良いのか、真正面から立ち向かった結果だと思います。
扱うものが『言語の機能不全』である以上、特にジュルルの思惑は視聴者も共感能力を駆使して感じ取るしかなく、感情と行動がどうリンクしているか、色々保管しなければいけないお話なわけです。

ジュルルは赤ん坊なので、子供たちのように達者に言葉を使って、自分の意志を伝えることが出来ません。
『ぱかー』という言葉が何を意味しているかは、パクトの外に出た後『母』達がそうしていたように、『なんとなく、こういうことを言わんとしているのではないか』という推測にとどまります。
かつては心の無い機械とも友情を育み、あらゆるアイドルと『トモダチ』になってしまうコミュニケーション強者、真中らぁらが相手ならばジュルルも意思を伝えられるのですが、そもそもジュルル側に寄り添うつもりがないドロシー相手では、中々気持ちは伝わりません。

しかし行動に注目してみると、ジュルルがただただ甘やかされる赤ん坊である段階から、少し先に進んだ成長を見せていることがわかります。
ジュルルは確かにドロシーの無遠慮な距離感を嫌がり、つむじを曲げてはいるものの、彼女なりに歩み寄り、労る気持ちを今回見せていました。
リスクを承知で一人でパクトの外にでて、『自分の延長線上にある、心地よい他者≒母』たちにコミュニケーションを取ろうとしたのは、ドロシーが困っているのをなんとかしたかったからでしょうし、引き出し(クローゼット?)を開けて『綿菓子』を差し出そうとしたのも、自分の大切なモノを分け与え、ドロシーとの距離を縮めようという彼女なりのコミュニケーションなわけです。
ジュルルは最後まで言語を完全には扱えませんが、それでもディスコミュニケーションを乗り越え、ドロシーの『わけのわからない言葉』を『なんとなく、こういうことを言わんとしているのではないか』と推測し、行動し、変化を呼び込んでいます。
これは保護される赤ん坊の側から、(たとえそれが未熟で不完全でも、もしくはだからこそ)それを見守る『母』たちの側に一歩近づく、大事な成長のように僕には思えるわけです。

僕は今回のお話、(唐突な物言いだとは自分でも思いますが)ジュルルに儒教的な『仁』が芽生えるお話なのかなと受け止めました。
孟子は『井戸に子供が落ちようとするときは、人はすべてを振り捨ててそれを止めようとする。その気持ちが人間に本来的に備わる惻隠の情であり、仁というとても大事な徳に繋がる』という言葉を語っています。
惻隠の情が人間に本来備わる無条件のものなのか、はたまた努力の末に獲得されるべき形質なのかは横に置くとして、他者を不快なものとして認めつつ、それでも他者のために何かをしてやろうと言う気持ち、それをリスクを背負って行動に移すことは、赤ん坊が子供に変わる大事な一歩だと思います。
自分のことだけ考えて『不快な他者』を排除するドロシーよりも、ウザいけど困ってるドロシーのために思わず行動を起こしたジュルルのほうが、情を持ちそれを徳目に発展させていく成熟を(今回の話しにおいては)持っているとすら言えるでしょう。


赤ん坊は自分しかいない世界に生まれてきて、『母』という自我の延長、『心地よい他者』に助けられつつ、自分の思い通りにはならない『不快な他者』を不快に思いながら、段々と適切な距離が取れるよう人格を発達させます。
今回ジュルルが『わけのわからない言葉を言う』ドロシーをそれでも思いやって、パクトという自分の領域から出て一人で外界を歩き、水に落ちたドロシーのためにパクトに戻ってきました。
この往復運動はすなわち、彼女がドロシーという『不快な他者』を、『母』ではない存在をそのまま認め、ただ何かを『してもらう』赤ん坊から、拙いながらも外界に働きかけ何かをする『子供』へ、受動主体から能動主体に成長しつつあることを示しているように思うわけです。


そんなジュルルの『言葉』を、ドロシーはけして聞き届けようとはしません。
ジュルルはジュルルなりの言葉(『ぱかー』)を使ってドロシーと対話しようとするけど、赤ん坊との関係に常に見返りを求め、自分の得になる何かを求めるドロシーに取って、ジュルルは『嫌だけどご機嫌を取って、神コーデを貰わなきゃいけない対象』でしかありません。
自分から歩み寄り、『わけのわからない言葉』をわざわざ聞き取ってあげる相手ではないのです。
『母』たちが自分の都合とエゴを色々苦労しつつ乗り越え、無力な存在であるジュルルに寄り添っていく喜びを自分のものにしていったのに対し、ドロシーはあくまで自分の利益、自分の喜びにこだわります。
それもまた、赤ん坊という『他者』と向かい合うとき当然出てくるスタンスであり、そういうシビアでリアルな視点を作品に引き込む仕事は、ドロシーの得意技なわけです。

ドロシーの世界には『不快な他者』は存在する居場所がなく、パクトに閉じ込められた時も、『血を分けたレオナだけがいればいい』という閉鎖性を露わにしています。(引き出しを開けるという『男の仕事』を、普段はレオナにやってもらっているという発言がサラッと出てくるのは、すげープリパラらしいと思います)
自分には何も出来なくても、何かできる『他者』を求めてパクトの外に出て行ったジュルルに比べても、今回のドロシーの自我は幼く、狭く、極度に自己中心的です。
ここら辺の発育の遅さが『パクトの中に入ると、体が縮んで赤ん坊レベルになる』というヴィジュアルで表現されているのは、なかなか面白いところですね。

赤ん坊レベルの自意識と、『世の中、流すのも大事だよ』という大人の知恵を都合良く使い分けるドロシーは、身勝手な自分らしさを一切手放そうとはしません。
これは前回、シオンが『武士でイゴ』な自分らしさを保ったまま、ジュルルに寄り添っていくことで新しい成長を果たしたことと、真逆のスタンスだといえます。
レオナは強気な態度の奥に相当臆病な幼さを隠しており、弟や仲間に見せる依存的な態度からそれが感じ取れるわけですが、毒舌や身勝手な態度も一種の防衛本能なのかもしれません。
その未成熟さもまたレオナの『個性』であり、よかれあしかれ、そうそう簡単に変わるものではないのでしょう。

でも、その身勝手な幼さだけがドロシーの全てではない。
赤ん坊と同じ目線で心から楽しめる素直さは『母』たちにはない魅力で、だからこそ彼女は、『パクトの中』という新しい世界に入ることを許されているのかもしれない。
惻隠の情を発揮して自分を助けてくれたジュルルに感じ入り、自分があまりに他者を排除した『わけのわからない言葉』を喋っていたのか、素直に反省する知恵も持っている。
ただ自分を守ってくれた事実に感じ入るだけではなく、ジュルルとのあいだにあったディスコミュニケーション、それを生み出していた自分の態度に思いが及ぶところが、彼女の良い所だなぁと思います。
他人が示してくれた情を暖かく受け取り、無下にはしない気持ちがあればこそ、彼女は『みんなトモダチ、みんなアイドル』という徳目をモットーに掲げるこのアニメで、(一応)主役を晴れているわけです。


今回のお話は、そんな二人がお互いディスコミュニケーションに悩みつつ、『不快な他者』の居場所を世界認識の何処に造るのか、妥協点を探すお話だったといえます。
ジュルルが言葉をうまく喋れないこと、ドロシーが近視眼的で幼い自我を持っていることは、なかなか変えようのない一つの状態であり、しかしそこでディスコミュニケーションを認め、歩みを止めてしまえば二人はずーっとすれ違ったままです。
言葉と気持ちがすれ違う状況に悩みつつ、ジュルルは無言の行動によって、ドロシーはジュルルの情によって救われることで、お互いを自分の世界に受け入れる準備が整い、少しだけ世界を変える。

人間の個性は必ずしも、都合よく心地よい形で発露するとは限りません。
ジュルルの表情を見ていれば分かるように、彼女にとってドロシーは『不快な他者』であることには変わりがない。
でも彼女はドロシーのために外に出て行ったし、戻ってきて助けたし、神コーデを与えた。
そのことがドロシーの気持ちに変化を与え、自分の行動を鑑み、ジュルルを『子供』ではなく『仲間』として受け入れさせる流れは、これまでの『母』達の奮闘とはまた違った、『赤ん坊という他者』にまつわる新しい物語だったと思います。

自分の延長線上にある『母』ではない、あくまで『不快な他者』であるドロシーをドロシーのまま自分の世界に位置づけることは、『みんなトモダチ』という言葉を大切にしてきたこのアニメにとって、凄く大事なことだと思います。
個性は都合よく、心地よく発露するわけではなく、無差別かつ変更困難で不都合なものでもあります。
なかなか変わらない、変わってはいけない個性が人間の数だけ転がっているこの世界で、それでもディスコミュニケーションに足を竦ませるのではなく、お互い歩み寄って『みんなトモダチ』というキレイ事を実現していくのか。
その答え……ではないにしても、答えのヒントが今回の話しには、しっかり詰まっていたと僕は感じます。


と言うわけで、『今人乍ち孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆な怵惕たる惻隠の心有り』なお話でした。
今回ジュルルが見せたように思える成長が、今後どういう形を成していくか、それともただの僕の思い違いなのかは、今後展開する物語の中で見えてくることでしょう。
わざわざマンツーマンのエピソードを用意して、情に恩義を感じ見返りなくジュルルと接する足場ができたドロシーが、今後ジュルルとどういう関係を作っていくかも、非常に楽しみです。
『パクトの中に入る。現実に出ていく』という行動は、トモダチと同じ空間を共通できないボーカルドールの哀しみを克服する可能性も感じさせて、そういう意味でも面白いなぁ。

来週は神アイドルグランプリ第一回ということで、久々のグランプリ回となりそうです。
三年目の追加要素を鑑みてみると、『不快な他者』としてアイドルたちの人生に滑り込み、彼女たちの個性や成長を映し出す鏡になったジュルルや、挑戦者の立場をむき出しに競い合うための場を維持しているのんちゃんに比べると、『神アイドル』という要素はいまいち存在感が薄い。
プリパラ世界に『神アイドル』が一体何をもたらすのか、来週クッキリ見えてくれば、それはとても面白いことだと思います。
楽しみですね。