イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

少年メイド:第10話『暑さ寒さも彼岸まで』感想

時がゆっくりと全てを癒し、しかし治らない傷もあるアニメーション、今週は猫と墓参と半殺し。
最終話に向けてこれまで積み上げてきたものを振り返りつつ、最後のカタルシスのために展開を積み上げていました。
祖母回りは他のエピソードに紛れてとにかく丁寧に積んできたので、千尋の感情とショックがすんなり飲み込め、ビターな味わいを無理なく飲み下せるのが素晴らしい。

色んな物を積み重ねてここまでやって来た少年メイドですが、今回はそこら辺を総ざらいするようなお話でした。
ここ最近いい大人成分が多めだった円のダメ大人っぷりを猫で見せ、ぎこちないけど優しい家族の風景を写し、それでも乗り越えられない確執で〆る。
シリアスとコメディとフェティシズムをバランス良く、楽しく混ぜあわせ、全てに手抜きがなかったこのアニメらしく、一話の間で複雑に色合いが変化するエピソードでしたね。

猫をネタに円と千尋がじゃれ合うシーンは、後半重たくなる展開へのリードジャブ……ってだけではなく、単品でドタバタ楽しい良いシーンでした。
他人と家族の間にはどんな違いがあるかとか、子供が愛されるための条件とか、色々真面目なネタを扱いつつ、ほのぼのコメディ要素も手を抜かない。
この両立が『少年メイド』の美徳だと僕は思っておるのですが、ラストエピソードにつなげるこの話で、そういう部分をおざなりにせずしっかりやってくれたのは、とても良かったです。
職人千尋の妄想にテンション上がりすぎて、一瞬でラフを上げてくるシーンの興奮っぷりが好き。

円は幼年期が抜け切れない子供であり、その幼さが千尋や彼の友人と交流する足場にもなっています。
『子供であること』はこの作品において『大人であること』と対立する概念ではないし、『子供で在り続けること』が無条件に肯定されるわけでもない。
人間は色んな様相をその内部に秘めていて、状況に応じて色んな顔が出てくるけれども、それは全て真実でしっかり価値がある。
そういう難しいことを真正面から正座で説教するんじゃなくて、性的興奮も含めた感情のうねりに込めて託してくる語り口こそがこのアニメの強みであるなら、コメディがコメディとして機能しているのは大事です。
円の『子供らしさ』は常に、『あー、またこいつバカやっているなぁ』という、親近感を込めた笑いとして僕らに受け止められていたわけですから。


アクセルベタ踏みで円のダメっぷりを強調することで、墓参に向けてだんだんと落ち着いてくる世界の空気、それに冷やされて真顔になっていく円の表情もまた、クッキリと見えてきます。
それは円の『大人らしさ』であり、孤児になってしまった千尋を守る大事な『家』の一部なんだけど、『子供らしさ』との対比で見せるのではなく、あくまで『円らしさ』の一面として見せる演出をしていたのが、とても豊かだと思いました。
『大人だけど子供っぽい』円の『子供らしさ』を、乗り越えるべき欠点だと描いてしまうと、『子供なのに大人っぽい』『大人になれるように背伸びをしている』円の『子供らしさ』もまた、否定するべき弱さに変わってしまう。
千尋の背伸びを価値のあるものとして認めつつ、母を奪われた子供として当然感じる寂しさ、脆さを受け止め、是認する姿勢があればこそ、このお話はただの美少年ポルノではない広がりをもっています。

今回の円を書く筆の『子供らしさ』と『大人らしさ』の温度差は、そういう文脈の上にあったと思います。
ガスマスク付けてシュコーシュコー言ってるバカ人間も、思わず父親の話題を出して気まずく思う姿も、『家』との確執の間に立って千尋に寄り添う頼もしさも、家に帰って桂一朗と語る時の冷たさも、すべてが『円らしさ』なわけです。
人がそれぞれ個別に持つ『らしさ』を受け止め、ありのままを受け入れてなんとか『家族』になろうとする不器用さを大事にしてきたこのアニメが終わるこのタイミングで、円の持つ複層的な表情が切り取られていたのは、やっぱ凄く良いなと思います。

千尋と円は無条件に『家族』になったわけではなく、色々とギクシャクしたものを挟みつつ一年間時間を共有し、努力と歩み寄りの結果、少しはスムースな関係を構築できるようになりました。
父親の話題を出した時の不自然さは未だ彼らが『家族』になりきれていない事実を示していますが、でもそれはとても価値のあることだと思う。
血縁があっても分かり合えない『家族』は、それこそ一砂と円、千代が示すように存在しているわけで、人間はどう足掻いてもお互いを無条件に理解し得ない、ぎこちない存在です。
だからこそいろんな努力を積み重ね、相手の気持や痛みを精一杯想像しながら近づいていく運動を、頑張って続けなければいけない。
このアニメが追いかけた円と千尋の一年間は、まさにそういう尊い運動の記録だったわけで、最後まで人間の背負うぎこちなさから逃げないあの描写は、僕にはとても刺さった。


一砂と円、千尋の間に広がったぎこちなさもまた、そういう世界の厳しさの表れでして。
千代が鷹取の『家』から見捨てられた(と思える)事実は情け容赦なく優しい世界に横たわっていて、二人は簡単にそれを乗り越えられない。
だからあそこで立ちすくんで、心をどこに置けばいいか迷いながら終わるのは、このアニメが切り取ってきた世界を考えれば当然です。

でも同時に、そういう断絶に橋をかけて、だんだんと近づいていくことは出来るということも、このアニメはずっと描いてきました。
ぎこちなくても、不自然でも、目の前の人間がコメディの中に隠している(もしくは、コメディで笑うために絶対必要な前提条件として存在する)真心を頼りに、断絶を乗り越えようとする努力をこのアニメはずっと大事にしてきたわけです。
だから、今回の断絶を前に彼らが立ちすくんだまま終わってしまうという絶望は僕にはないし、そこを乗り越える努力が暖かく、優しく、本当のものとしての体温を込めて描かれるという事実に、強い確信がある。
『"少年メイド"はやってくれる』という、幸せな楽観を持っている。

ゆったりと流れていく千尋の一年間の中で、(他の優しい人々と同じように)一砂がどれだけ千尋を助けてくれたかは、丁寧に積み上げられてきました。
そういう真心が無碍にはされないアニメだし、今回も一砂はまた、おはぎという真心を母の墓前に供える決断を、柔らかくアシストしてくれる。
血縁関係と、それに伴う義務の不履行が明らかになったことで断絶が顕になり、二人はそれを前に立ちすくんでいますが、それは必ず乗り越えるものだと、これまで積み上げてきた描写も、今回のエピソード内部で暗示されている関係も、しっかり告げてくれているわけです。

これまで一砂は祖母という立場を隠すことで、『家』が持つ冷たい厳しさを千尋に叩きつけることを拒んでいました。
しかしどう足掻いてもそれは存在していて、目をつぶれば消えるものではない。
世界の厳しさから目を背けるのではなく、それを認めたうえでより良い向かい合い方を探してきた以上、一砂と円、千尋の間にある断絶が顕になったことは、むしろポジティブな出来事なのでしょう。
認識できないものは克服できないし、彼らは必ずそれを克服すると何度も証明してきたし、問題なんて何もない。
来週が楽しみです。

元々美術が素晴らしいアニメなんですが、一種の総ざらいである今回は特に気合が入っていました。
同居から一年の区切りとして、一種の覚悟を持って向かう墓参の道をじっくりと描き、千尋と円が今いる場所の手触りをしっかり伝えてくる、庚申塚の風景。
冬の終わりの肌寒さと寂しさが感じられる風景は、喪ってしまったものへの哀切が上手く乗っていて、二人が寄り添って歩く光景は、寂しさだけではない彼らの『今』を教えてくれます。
墓地の光景もただ綺麗なだけではなく、そこに込められた感情を写してどこかさみしげで、必要な感情を視聴者にしっかり惹起させる、見事な演出に仕上がっていました。
セリフでべらべら喋るだけではなく、画面と間に喋らせる演出がビシっと効いていて、このアニメらしい静かな見せ場でしたね。


と言うわけで、一年間の総決算、そしてそこからまた先へ、というお話でした。
どっしりと腰を下ろして『このアニメが何をやって来たか』をしっかり見せてくれるのは、その先に進む足場を作る意味合いでも、このアニメが好きな僕にいいもの見せてくれるという意味でも、とてもありがたかった。
自分たちが何を作って、何を見せたいのかクリアーな知性ってのは、やっぱ信頼が置けるもんです。

今回はどっちかというと円の人物が彫り込まれたエピソードであり、来週はもう一人の主人公、千尋にクローズアップしてく話になるかなぁ。
どういうお話になったとしても、気持ち良く、有りがたく、満足できる終わりになる。
そういう確信で来週を待てるアニメってのは、ホント奇跡みたいなもんです。
良いアニメだなぁ、少年メイド