イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

境界線上の目眩 -KING OF PRISM by PrettyRhythmを再見して-

キンプリのBDが出たので見た。
相変わらず一時間の中に過剰な物語とメッセージが詰め込まれており、『見た』とか『読んだ』ではなく『キンプリだった』と言いたくなるような視聴体験であった。
固体メディアで繰り返し見ることで感じたことがあるので、そこについて少し書く。


中盤、アレクサンダーがカズキにバトルを仕掛ける場面がある。
男児ホビーアニメイズムが全開の、パワフルでめちゃくちゃで楽しいシーンなのだが、このシーンで褐色の少年たちがまとうバトルコスチュームは、過剰にセクシーだ。
裸よりも体のラインを強調するピッチリしたフォルム、剥離するためだけに存在している装甲。
それは『脱がす男』の衣装ではなく、『脱がされる女』の意匠を少年たちに付与している。
思えばこの時のBGM"EZ DO DANCE"もメインボーカルは女性であり、レビテーション系の技を出しあうまでの、いわば前戯のダンスも関節を内側に入れた女性的な動きだ。
艶めかしく、蠱惑的で、性を武器に人を引き付ける彼らのしぐさは、同時に性以外を武器に出来ない『女らしさ』を際立たせ、アートによって人の心を動かす『強者=男』の立場と、貧者の武器を使いこなす『弱者=女』の振る舞いを両立させている。

ダンスバトルに入る前、彼らは『女々しさ/雄々しさ』について議論をしている。
アスリートでありながら実質的にはアイドルグループとして、『女に媚びを売っている』カズキの現在は、仲間であるはずのタイガにも敵であるアレクにとっても、納得がいかないものだ。
ストイックに、激しく、強く。
カズキに向かい合う弟達は過剰に『男』を求め、その視線を受けてカズキもまた、痛みと流血の中で己を高めていくマッチョな戦いの価値を思い出す。
しかしその議論から出てくる身体は、過剰にセクシーで美しい、『女のような男』の姿なのである。

キンプリはあまりに濃厚な映像体験であり、見終わった後『キンプリは良いぞ』しか言えなくなるというのが、ネットを中心にある程度の共通言語になるほどだ。
その目眩には様々な理由があるのだが、『雄々しさ』を求めて突入したバトルが『女々しさ』を身にまとってはじまるこの転倒もまた、強烈な目眩の原因なのではないかと、僕は思った。
彼らは男と女の境界を自在に行ったり来たりしながら、彼らを見守る僕らを振り回す。
彼らが口にしていた『雄々しさ』はこの後、剣を握り、龍を呼び、風をまとう勇者となることで加速していくのだが、それを実現する彼らの姿は過剰にセクシーだ。
成人直前の彼らの身体はなめらかで靭やかであり、同時に『男らしく6つに割れた腹筋』が技として成立するほどに暴力的でもある。
男と女の間を高速で、そして過剰な記号性と身体性を伴いながらぶつかり合うカズキとアレクの姿は、強烈な目眩を僕にもたらすのだ。

そして、このバトルの裏側ではコウジとシンのレッスンが同時進行している。
コウジはキャリアウーマンの母に育てられ、『料理』という女性的な仕事を得意としている。
彼が飛ぶジャンプも女性プリズムスターからの引用された、『女らしい』仕草に満ちたものだ。
そんな『女みたいな男』であるコウジはしかし、次世代のプリズムスターとして己の後を託すシンに、非常に厳しく、『男らしく』接する。
甘くとろけるような『赤い糸 夏の恋』や『はちみつキッス』の『演技』をシンに叩きつけた後は、激しい口調でシンを激昂し、『お前の力はこんなものか!』と挑発すらする、荒ぶる態度を見せる。
女から借りた『演技』を見事にこなしつつ、同時に幼子を厳しく導き、その才能を開花させる『兄/父』としての振る舞いを両立させるコウジの姿もまた、キンプリの目眩を呼び覚ます強烈な越境にほかならない。
なお、このシーンの彼らの意匠は性的な誘惑を伴わない(とされる)、プレーンな練習着である。


エーデルローズという『同じ岸』に肩を寄せあって立つコウジとシンの師弟に対し、一見アレクとカズキはエーデルとシュワルツ、『違う岸』に所属して敵対しているように見える。
しかしよく見てみると、ここでは敵味方の境界線もまた越境されていることが分かる。
己の力だけを頼むように見えるアレクは、『ストリート系』というスタイルに強い理想を持ち、プリズムダンスに強い想いを持っている。
だからこそカズキの腑抜けた態度に我慢がならなかったのであり、その情熱に一つの真理を見たからこそ、カズキはアレクとのリスクマッチを背負うわけだ。
ラストの予告編を見るだに、アレクとの戦いを経てカズキはエーデルローズという足場を振り捨て、一アスリートとしてKOP杯に挑む覚悟を決める。
それは『敵』であるはずのアレクとの戦いがなければ気付けない、『女に媚びるアイドル』として過ごすうちに錆びついてしまった、アスリートとしてのカズキを叩き付けられた結果だろう。
『味方/先輩』であるコウジとのレッスンの中でシンがたどり着いた答えは、カズキには『敵』との出会いの中でしか見つけられなかったのだ。
そしてこの関係性自体が、ライバルとの戦いの中で己を高めていくという圧倒的な『男くささ』を孕んでいることが、キンプリの目眩にさらなる加速をかける。

敵であるはずの存在から教えられ、味方に対して必殺の気合を持って望む。
並列して展開する2つのバトルは見事に鏡合わせで、これが場所を飛び越えて同時進行することで、視聴者の脳髄は『敵/味方』『男/女』『厳しさ/優しさ』など、固定観念の間に引かれた境界線を何度も越境することになる。
ダンスバトル自体も、『遊び』のはずなのに龍が飛び出し風が唸り、競い合う衝撃は具体的に体を傷つけ、『自爆する気か!?』という命にかかわる言葉が飛び出す『戦い』になるという、『遊戯/死闘』の境界線を堂々と飛び越える。
名曲"EZ DO DANCE"の過剰なエモさを強烈に作用して、このダンスバトルは『わけがわからないが、とにかく凄い』という、非常にキンプリらしいシーンとして仕上がっているのだ。


キンプリの混乱は『男/女』の境界線を混乱させると同時に、『誰が性を支配しているのか』という疑問と目眩を、僕に生み出してもいる。
雄々しく、力強く、女を組み伏せているはずの男が、確実に性的なしぐさでアピールを繰り返す視線の先に、誰がいるのか。
それは一般的観念では女であるはずだが、しかし『女』の記号は受動と抑圧を旨としていて、己の性欲をむき出しにするのは『はしたない』行為ととられる。
このバトルだけではなく、キンプリ全体に飛び交う美しい裸体を求め、消費し、愛する対象が誰なのか、性を支配しているのがどちら側なのかという疑念が、男性である僕の中に生まれてくる。

支配者は誰なのか。
艶めかしく踊るプリズムスターなのか、彼らを愛しつつ賞品として消費する顔のない女なのか、そんな状況を画面の外から見つめている僕なのか。
いま目の前に、『女でもある男』の美しい姿を消費し感動するモノ達がいる以上、『男が性の支配者であり、女は隷属者である』という構造は内破してしまっているのではないか。
女は思いの外性的であり、己の望むセクシーなイマージュを思う存分引き寄せるパワーを持っているのではないか。
そういう疑念に頭を支配され、猛烈な目眩を感じるうちに、一つの疑問が持ち上がってくる。

そもそも、『女に媚びを売るアイドル』とは、性的な仕草を自在に支配し、望まれるセクシーさを必死に演じることは、悪しき行為なのだろうか。
カズキとアレクのクネッとした踊りを『オカマかオメーは、気持ち悪い』と切り捨ててしまっては、オバレ解散ライブで肌もあらわにギリシャの青年(そこにホモセクシュアルの文化が確かに存在していたことは、面白い重ね合わせである)を演じる三人が、あれだけ沢山のファンを引き付け、支えるという『男の甲斐性』に眼をつぶることになるのではないか。
OPライブで女を後部座席に乗っけて、動力も舵取りも自分で担う『男らしい乗り物』に乗っている彼らの姿と、女の仕草を真似てセクシーさと共感を略奪し、『女に媚びを売る』彼らの姿は、実は安易に境界線を引けない『オーバー・ザ・レインボーそれ自体』なのではないか。
キンプリの目眩はこのようにして、プリズムスター≒アイドルという職能が持つ越境性に、視聴者を惹きつけても行くのだろう。
虹が性傾向のみならず、人種や宗教などを含んだ全ての差別からの越境を意味し、彼らの名前が『オーバー・ザ・レインボー』であるというのは、中々に示唆的だと思うのだ。


『男は我慢強く女は弱いので、涙は女の武器である』という一般通念に反し、キンプリの男たちは良く泣く。
プリズムのきらめきに出会った喜びに泣き、決断の末の辛い別れに泣き、シンという一人の青年がプリズムスターに為った感動に泣く。
オバレファンのお姉さまたちも解散に号泣するし、兎にも角にも感情を露わに、ストイックで男らしい我慢なんぞどこ吹く風である。
そういう意味では、エーデルローズのため、オーバー・ザ・レインボーのために、アスリートである己を押し殺して『男らしく』振る舞うカズキは、結構特権的な地位にいる。

主役であるシンが己の感動を素直に表明し、それを他者に伝える才能に恵まれている以上、自分の感じている気持ちを覆い隠す『男らしさ』は、キンプリではあまり称揚されない。
己の気持ちを素直に叩き付け、坑道の奥にある真心を分かってもらうことの意味は、『敵』であるアレクの挑戦がカズキを動かしたことを見ても、キンプリにおいてはとても大きい。
己の心を押し殺す『男らしい』虚偽よりも、涙を隠さない『女々しさ』をキンプリは捉え続けるのだけど、同時に感情の暴走に押し流され、エゴを他人に押し付けて未来を阻む『女の腐ったような態度』を否定してもいる。
妄執に囚われ、若人の未来を踏みにじる法月の姿は、例えばコウジが去っていく寂しさを受け止めきれなかった場合のヒロであり、アレクとの戦いに込められた意味を正しく理解できなかったカズキの姿でもあるのだ。
その対比で見えてくるのは、他者を尊重し、己に素直であるという、男女以前にあるべき『人』の姿でもある。

ヒロは離れていくコウジに未練を残せばこそ、去りゆく列車を『女々しく』追いかけるわけだが、その痛みを乗り越え、シンをセンターに据えた新しいステージでは笑顔を演じる『男らしさ』を取り戻している。
そこで取り扱われているのは『強さ/弱さ』『男/女』の対立項ではなく、ただありのままの自分に素直であるという、人間らしさそれ自体だ。
心を動かされるものに初めて出会った時の輝きと、それを素直に好きだと、素敵だと大声で言える素晴らしさを作品の真ん中に据えている以上、感情を素直に出す『女々しさ』と、それに押し流されない『男らしさ』はお互いを殺しあうものではなく、支え合うものなのだろう。
その共存の先に素直な表現があり、それだけが人の心を変え、涙を笑顔に変える奇跡がやってくるのだということは、シンの初ステージを見ていれば判ることだ。
そしてその奇跡の隣に、オーバー・ザ・レインボー解散という人生の一大事を無事乗り越え、己を取り戻した二人の年長者がいることは、豊かで幸せなことなのだろう。
導く立場だったはずの彼らがシンの可能性に救われているあのステージは、『師/弟』という境界線もまた、軽やかに越境しているのだ。


以上、キンプリが持っている越境性と目眩に関して、オーバー・ザ・レインボーとシン、アレクの関わりを中心に書いてみた。
越境性という意味ではユキノジョウとレオという、『女の装い』を手に入れたキャラクターの話もせねばならないだろうし、ミナトの『己の分をわきまえ、控えめで誰かを支える内助の功』という女性的な支援と、彼が得意とする料理、コウジからの継承についても語らねばいけないかもしれない。
あくまで序章であるキンプリでは掘り下げきれなかった、法月と聖、そしてジュネを巡る『男と女の争い』もまた、境界線を乗り越え続ける文脈で掘り下げることが出来るかもしれない。
このような、一口にはすくいきれない豊穣な過剰さもまたキンプリの目眩の一側面であり、魅力でもあろう。

菱田監督はプリティーリズムシリーズを『女児向けアニメ』としては造らず、『万人のためのアニメ』として作ったと、過去語っている。
同じようにキンプリも、メイン消費者層である成人女性へのアピールとサービスを大量に盛り込みつつ、目眩と興奮で観客を振り回してたどり着くのは、人が人としてあるためにどうしても必要な、素直さと対話の価値だ。
そういう普遍性があればこそ、キンプリは『わけのわからない』目眩で人を揺さぶりつつも、沢山の人が『良いぞ』と認める作品として、しっかり仕上がっているのだろう。

そして同時にその普遍性は、あざとくターゲット層を射抜く演出の目と手管によって、的確に実現されているものでもある。
観客を支配する固定観念がいかなるもので、それをひっくり返す衝撃をどう突き刺すのか、そのためにはどんな記号/象徴をどう扱えば良いのか、冷静に見据えていればこそ、キンプリの目眩と豊かさは成立するのだ。
物語の中にスキャンダラスな暴露を地雷のように仕込み、視聴者の足場をグラグラと揺さぶってくるクイアな魅力を、BDを再見することで確認できた。
そしてつくづく、キンプリは良いぞ。


・追記
キンプリが持っている性の越境性は、その源流であるRLシリーズにおいても『男の子っぽく格好良い』べるやいとが実はあまりにも『女』であることが明らかになったり、『如何にも女の子』なおとはが最も『男らしいタフさ』を持っていると分かったり、予言的に展開されている。
そしてこれはプリリズシリーズだけの効果ではなく、後継たるプリパラにおいても『ボーイッシュな女の子』であるシオンやひびき、『男の子だけど女の子の装いをする』レオナとして表現されていたりする。
『女が男に救われ、己を達成する』プリンセスストーリーに真正面から挑んだGo!プリンセスプリキュアにしても、女性のキャリアアップを物語の軸に据えてきたアイカツにしても、女児アニは濃厚にクイア的である。
この問題に関しては、未成熟なターゲットを取ると思われがちな女児兄のほうが、成熟した大人相手の商売をしていると思われがちな深夜アニメよりも、より挑戦的な作劇をぶっ込んでいるように、僕には感じるのだ。
キンプリが『by PrettyRhythm』をつけているのは、おそらく伊達ではないのだろう。