イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

うしおととら:第39話『うしおととらの縁』感想

長かった、本当に長かったうしおととらの旅路もついに大団円、アニメうしとら最終話でございます。
かなりのエピソードをカットしてまで最終決戦を充実させただけあって、これまでのたび全てを集約した、見事な終わり方でした。
白面との決着だけではなく、とらの生き死にに潮の獣化、日本の浮沈と妖怪の消滅と、サブキャラクター含めて全ての問題に綺麗にケリを付けて終わって、やっぱすげぇなこの物語。

とは言うものの、やっぱり軸になってるのは白面との決着でして。
『恐怖を糧にする白面と対峙するためには、それを乗り越える勇気と真実を見抜く知恵が必要』てのを前回アクションの中で再確認したので、パワーソースを封じられた白面は『凄み』でうしとらを上回らないと、戦いが続行できない。
それは同時に、陰謀とか謀略とか使いこなして、主人公二人に正対してこなかった白面がようやくうしおととらだけに向かい合う状況でもあり、この状況を作るためにうしおととらの旅はあった、と言えます。
やっぱバトルってのは、お互い全てをさらけ出しからっけつになるまで秘策を出し尽くして、ようやく盛り上がるもんだからね……最終決戦でも配下をけしかけてきた白面が、弱い自分を認めなおして、素っ裸で肉弾戦を挑んでくるのは、やっぱカタルシスがある。
戦闘を継続するための『凄み』を発生させるために『自ら目を潰す』って行動に出るのも、それがうしおととら最後の決断に繋がっているのも、冷静に考えればめちゃくちゃなんだけど、物語の熱量的には正解という、うしとららしい流れだね。

とらが槍を体に隠す流れは、初めて出会った蔵を再現して『ゆきて帰りし物語』という類型の力を宿す、物語的操作が目的です。
しかし同時に、白面が見せた『凄み』を上回るむちゃくちゃな『凄み』を見せることで、勝負に決着がつく説得力を引き寄せる行動でもある。
そして、どんな痛みでも二人なら耐えられるという、これまでの旅路で鍛え上げられた『うしおととら』の絆を確認する行動でもあります。
こんな感じで、物語的な熱を込めた一つの行動に、冷静に複数の役割を持たせて話を分厚く仕上げる手腕は、アニメで再視聴することで確認させられた、うしとらの武器だと思います。

アニメで通してみてみると、結構早い段階からトラちゃんデレれてまして、俯瞰で見ている視聴者には『お前潮好き過ぎじゃん。なかなか良いじゃんグッドじゃん』という感じなんですが、あの偏屈者がついに本心を言う今回の別れは、やっぱ破壊力高い。
この話は真っ直ぐな主人公と出会うことで曲がった心を真っ直ぐにするドラマであって、とらがデレてる内容は彼の個人的な心境告白であると同時に、潮と出会って変わったすべての人々の叫びでもある。
それはいままさに全日本で戦っている戦士の気持ちだし、うしおととらの旅に付き合った視聴者の気持ちでもあるわけで、そういう総括がキャラクターの叫びとして、体温と血潮を宿してしっかり描けているのは、やっぱ強いなと思います。
誰かを思いやり守ろうとする気持ちが人間の証明であるなら、真由子が髪を梳いても帰ってこなかったシャガクシャの魂は、潮が取り戻したとも言えるんだろうなあ。

個人的には流の心情を代弁し、『お前は流だ!』と断言するとらの言葉がすごく刺さりまして。
アニメになって気付き直したことは凄くたくさんあるんですが、とらと流が鏡合わせの存在だという対比も、その一つです。
強さ故にツッパって素直になれず、『戦士』としての自分を曲げることが出来ない男たちは、潮という無垢で真っ直ぐな光に出会い、引き寄せられ同時にうとんだ。
潮の隣にい続けたとらだけが、潮の前にい続けられなかった流を魂の兄弟として引き受け、戦いの中で誰よりも理解して別れていく物語として、第31話は凄く心に響いたのです。
あの話があればこそ、今回とらが流について語るシーン、そして流が帰ってきて潮に本心を告げるシーンが、特別胸に刺さった気がします。


ラスボスである白面と、それに立ち向かうとら=シャガクシャ、槍=ギリョウ、槍に飲まれつつある潮が全員、憎しみと戦いの輪に捕らわれて戦い続けてきたのは、なかなか面白い構図です。
この怨念地獄の益体もなさに関しては、第35話でキリオが指摘し、今回とらが乗り越えたところですね。
特別な力を持っていることではなく、力をどう使いこなすか、力が持っている負の側面にどう向かい合うかを常に問うてきた物語として、思い切れない負の感情をどうすれば良いのかは、常に大きなテーマでした。
たぎる復讐心や暴力の甘い誘惑は、上から説教してれば解消するというわけではなく、覚悟を込め痛みを引き受けて受け止めてやらなきゃいけないってのは、例えば第5話でヒョウさんを受け止めた潮が、体で証明した所です。

ひるがえって、白面とシャガクシャ、ギリョウの因縁は長くて深い。
両者とも過去エピソードに話数を使い、時間を飛び越えてまで『なぜ彼らは恨むのか。どれくらい恨むのか』という部分を、具体的に描いてきました。
そこに込められた恨みが強いほど、そこに込められた人間のカルマには説得力が出るし、だからこそそれを乗り越えるとらと槍の姿には浄化のカタルシスがある。
視聴者も彼らの恨みを己のように感じ、それを戦いの中で乗り越えていく旅を共有すればこそ、今回とらが言う『お前がもう憎くないのさ』という言葉は、ただの題目ではなくとらの内面的変化として実感される。
言いたいこと、言っていることは凄い綺麗事なんだけど、とんでもなく濃厚で辛いドラマを真剣に展開したので、それがキレイ事として切り捨てられず、実感を伴って胸に迫ってくるってのも、うしとらの強さですね。

黒い泥のような恨みをとらが乗り越えることで、とら(というか潮含めた全てのキャラクター)の鏡合わせである白面も、存在の根本的なカルマを浄化して消えていきました。
『あんだけぶっ殺しておいて綺麗な粒子になってサラサラかよ』と思わなくもないんだけど、この話が人間のどうしようもない負の感情をしっかり描き、それを乗り越えられたり、乗り越えようとしてどうしても駄目だったり、それでもめげずに立ち上がる勇気だったりを描いてきた以上、悪を乗り越える希望の中で終わらせるのは大事だと思います。
存在それ自体の闇から生まれ、悪として生きる以外の道を許されなかった白面もまた、潮が代表する人の光にたどり着き、己の業を乗り越えて消えていく。
これは冥界の扉開放からの過去キャラ総出演にも繋がる、これまで描いてきたお話全てを総括しきって、完全に物語の燃料を燃やし尽くして走るという、うしとらクライマックスの演出哲学だと思うんですよね。
最大の巨悪をも救った潮が、最も巨大な怨念だった槍によって獣に落ちることなく、日常に帰ってくる展開も含めて、良い終わり方だなぁと思います。

前回の麻子の親父さんが『戦わない人の戦い』総決算だったとすると、今回は『戦う人の戦い』総決算という感じもあって。
十郎は帰ってくるし、妖怪たちは去っていくし、須磨子と紫暮はようやく普通の夫婦に戻るし、脇役の物語もしっかり終わらせきってる感じがある。
これを実現するために、過去キャラがシーンに登場することを可能にする『冥界の扉』は優れたギミックだよなぁ……時順・時逆といい、白面の恐怖喰らいといい、ドラマが盛り上がる要素をしっかり血肉の付いた設定として描写できているのも、うしとらの強さだね。
あ、九印に関してだけはアニメの残酷さが押し寄せて、物語を奪い去っていってしまって残念無念でした……まぁやること多いかんね、キリオのエピローグ優先だよね……。

エピローグは絵に描いたような大団円でしたが、長い戦いで失ってしまった存在への哀悼を蔵前のシーンでしっかり描いていて、ほんとに良い終わり方でした。
かーちゃんにぶたれた時に『俺だって普通の中学生でいてーよ!!』と叫んでいた彼が、必死に戦った結果守れた場所に帰ってくるシーンは、やっぱお話まとめる上で絶対大事よね。
そして白面後の日本は文字通り妖怪の屍の上に成り立っているわけで、後ろ髪惹かれる思いと未来への決意を込めて太陽を映したのは、このアニメが何をしてきたかしっかり理解した、非常に良い絵だった。
白面と決着つけた後にあれだけ尺を使え、長い物語を走り終える余韻にじっくり浸れたのは、真ん中ぶっ飛ばしても結末を最高に描くという、シリーズ構成の見極めが産んだ奇跡だよなぁ……。

 

というわけで、合計3クールに及ぶうしとらアニメも終わりました!
いやー長かった、そして面白かった!!
人間の眩しい部分を信頼し、その尊さを描くために闇を懇親の筆で描ききるという、藤田イズムがしっかりアニメになった素晴らしい仕上がりでした。

尺の制限があるアニメに再構築するに辺り、アレがトンでアレが縮められ、本当に色んな変更がありました。
しかし三期に入り、怒涛のクライマックスが毎週続く中で、『なるほど、これがやりたいがための……』と納得するしかない、圧倒的な熱さが生まれていた。
それは全ての戦いが一つに集約していく最高のクライマックスを、じっくりと時間を使って描いたからこそ生まれていたし、そこを3クールという制限の中で実現するためには、エピソードの数自体を削るしかなかったと思います。
そして数自体を減らしても、エピソードに込められた熱量はけして揺るぐことはなく、それが集まって視聴者の心を必ず揺さぶるという確信があればこそ、この編成になったのでしょう。
そしてそれは大正解だったと思います。

キメの絵の表現力や音含めた演出の説得力、エピソードに込められた人情をしっかりアニメに焼き付ける筆の強さもほんとに冴えていて、漫画を始めてみた時の衝撃を別の角度から叩き付けられた気がしました。
時間を経て見直すことで、うしとらがどれだけ精密に考えぬかれ、様々なパーツが組み合わさって物語を動かしているのかを、再確認することも出来た。
冷静なテクニックと同時に、キャラクターの人生と真正面からぶつかり、彼らの魂のうねりを写し取ろうと言う製作者の情熱も確認することが出来て、優れた創作物がどのように生まれるのか、身を持って体感させてもらえた気分になりました。
やっぱなー、技術や観察力と情熱、魂はお互いを削り合うものではなくて、相補いあう必須の構成要素なのだと思った。

様々な因業を抱えたキャラクターのバラエティ豊かな魅力、いろんな人生が絡みあって一つの物語を作っていく大河の喜びも、3クールという長い(しかし短い!)時間を活かし、良く描かれていました。
最初はぶつかり合っていたモノ達が影響を及ぼし合い、また違う光を見つけていく過程には人間性への信頼が確かにあって、見ているとすごく元気が出ました。
異形のバケモノも含めて幅広いキャラクターたちを、骨太な前向きさを持った潮が主人公としてまとめ上げる構図ってのが、非常にしっかりしとるんよね。

アニメになって声と動きと色がついて、新しく気付かされたことはたくさん有るんですが、『うしとらキャラは可愛いな』ってのが大きな発見でした。
これは藤田先生のベースの強さもあるんでしょうが、2010年台に合わせた細かいリファインが産んだ感想だと思うし、ヴィジュアルだけではなく脚本の構成や演出なども含めて、原作のパワーを信じつつ丁寧にブラッシュアップした成果だと思います。
女の子たちも可愛かったけど、やっぱとらちゃんだなぁ……アイツのツンデレアーツ強すぎる……。

というわけで、うしとらアニメ最高でした。
原作が持っているベーシックな強さをしっかり理解し、信じ、それを現代に通用する形で磨き上げてくれたスタッフの皆さん、本当にありがとうございました。
良いアニメだった……本当に、良いアニメでした。