イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

甘々と稲妻:第1話『制服とどなべごはん』感想

この世の果て・デッドシティ武蔵境に天使が降りてきた!! って言う感じの、食事コミュニケーションアニメの第1話。
母を失った傷から魂の血を流しつつも、お互い支えあって生きている親子の臨界点、そこに差し伸べられる不器用な救いの手が非常に上手く切り取られていて、胸にグッと来る出だしになりました。
『飯、幼女、必死な親父さん』というメイン食材だけで俺を殺しに来ているのに、料理の仕方も丁寧かつ巧妙という……マジ俺を殺すアニメ過ぎてやべぇぜ……。

食を扱ったフィクションにも色んな切り口があると思いますが、このアニメの食事はあくまでメディアでして。
つまり『グルメ』として食い物が話の真ん中に居座るのではなく、食事の暖かさ(もしくは寂しさ)を媒介に、完璧ではない親と子と他人がそれでもお互いを思いやり、傷ついた心を治していくお話なのだ、と僕は受け取りました。
あらゆる物語は『人間の物語』であり、三人の心模様に焦点を合わせ、食事という現象を活用してそれを目立たせる作りは、非常に基本的かつ頑健ですね。

人間である以上、良いところもあれば悪いところもある。
お父さんのことをよく聞くいい子なんだけど、全てを飲み込めてるわけじゃないつむぎちゃんにしても、虚無感に苛まれつつ娘のために必死で、でも全てをこなせるわけじゃないおとさんにしても、『足りてる』部分と『足らない』部分の描き方が絶妙でした。
キャラクターが個別に持つ『足りてる』部分を使いこなして、人生の『足らない』部分を埋めていくことこそがドラマの根本なわけで、物語が盛り上がる基本的な要素をしっかり見せるのは、ドラマの出だしにおいてはとっても大事。
『足りてる』部分と『足らない』部分のギャップを埋めるために、食事というメインテーマの存在意義がしっかりあるっていう構図含めて、完璧な第一話だったな。

二人はお互いとても思いやっていて、その愛があればこそ母/妻を失った後の世界で生き残っていられるという関係性は、細やかな仕草と飾らない言葉からよく見えてくる。
出だし五分間どっしり腰を据えて描かれる、母親のいない日常の中で、娘は娘として、親は親
として出来る限りのことを必死に、誠実にやっていて、そこには確かな暖かさがあります。
しかしそれでも取りこぼされてしまうものがあって、それは乱雑に突っ込まれた洗濯物であるとか、出来合いの食事であるとか、具体的な『モノ』で上手く表現されています。

ここで『俺だって色々頑張ってるけど、出来ないことだってあるんだ!』みたいな台詞をおとさんが吐き始めると、作品のお値段が急降下を始めるわけですが、そこら辺の語り口は徹底的にストイックです。
つむぎに対する愛も、妻を失った虚無感も、犬塚先生はけして言葉にはしない。
少し曲がり気味の背中や、光の薄い瞳や、娘を抱きしめる手の表情を見ることで、彼の誠実さも頼りなさも、じんわりと視聴者に伝わるよう、非常に考えられてアニメが構成されていました。
『イイハナシ』って正論なので、大上段に振りかぶってぶん回されると、逆に刺さんない部分あると思うわけですが、そこら辺の塩梅は非常にストイックに描かれていたね。

犬塚先生がとにかく『必死』なのが、僕には凄く刺さって。
妻を失ったショックを受け止めきれないまま、それでも時間は進んでしまって、娘は背負わなければいけなくて、訳のわからないなりに母親の領分までやらなくてはいけなくて。
当然完璧には出来ないんだけど、でも娘のために、娘の幸せともはや不可分になっている自分の幸せのために、なんとか『家』を維持しなければいけなくて。
大量の『いけなくて』に押し潰されそうになりつつも、『必死』に自分のできることをやり続けている彼の姿を見ていると、大切なモノを取りこぼしかけてしまうのもまぁしょうがないかな、という気持ちになった。
与えられた環境の中で必死にやってる奴は、やっぱ凄く応援してくなるね。


娘を背負って必死に生き延びているおとさんと、天下の五歳児つむぎちゃんは当然世界の認識も違うわけで。
母の死を根本的には理解できていないながらも、母のいない世界になんとか適応して、大好きなおとさんに迷惑かけないよう、孤独な日々に耐えている姿は、健気故に痛ましい。
五歳児なりに必死にこらえている痛みはしかし様々な場所からこぼれ出てしまっていて、これも食べきれていない弁当だとか、一人で観るアニメだとかで、具体的かつ無言で示されています。
彼女の健気さと寂しさがじっくり積み上げられているからこそ、「お母さんに手紙書く」という勝負台詞が上滑りすることなく、ズバッと刺さるのでしょう。

あの言葉はつむぎちゃんの五歳児の世界が、ギリギリのところで軋んでいるというサインであり、親(というか人間)が絶対に拾い上げなければいけない、危ういSOSだと思います。
いろいろ取りこぼしてきた犬塚先生ですが、そういうサインはけして見逃さず、見ず知らずの女の子員迷惑かけることもいとわず、「うまい飯を食べさせてやりたいんです!」と走り回る。
あの展開は『ああ、この家族は凄く頑張っているけど、色々限界なんだな』とよく分かるし、『そこを取りこぼさずしっかり救い上げるなら、この家族は大丈夫だ』と安心もできる、良いクライマックスだったなぁ。

頑張ってるけどギリギリな親子に手を差し伸べる守護天使・小鳥ちゃんですが、彼女が完璧な守護者ではなく、親子と同じように『足りてる』部分と『足りない』部分がしっかりあるのも、とても良かった。
知識だけが先行してちょっと頼りないけれども、飯屋でただの白米食わされるのは一般常識的にはどうかと思わなくもないけど、人生の崖っぷちで落ちかけている存在には、しっかり手を差し伸べられる存在。
親を演じきれない父親、いい子で収まりきれない子供と、いまいち頼りがいのない高校生という、ちょっと『足らない』三人が同じラインの上にいて、愛情と人情で繋がっているというのが、あの不器用な米炊きシーンからはよく見えた気がします。
『足らない』人間たちがおたがい方を寄せあい、少しでも『足りる』状況に近づいていこうとする動きには、彼ら個別の物語を少し超えた普遍的な魅力が、やっぱあると思うのです。
親子最大の不足である『母/妻の不在』を、他人である小鳥は共有できないかもしれない、ってドラマの種が仕込まれている所とか、本当に巧い。

小鳥が手を差し伸べる切っ掛けもまた、小鳥の涙を見逃さず手を差し伸べたつむぎの優しさにあるっていうのも、ずっぷり刺さるポイントで。
もう俺もオッサンだからさー、こういう善因善果、世の中捨てたもんじゃねぇ系のギブ・アンド・テイクがしっかり描かれちゃうとさー、マジ無理なんだよ無理。
『食事』という五感に訴えかけるメディアを選択していることもあって、真心が手触りを持って視聴者に伝わるよう計算された一種の兵器だからね、このアニメ。
そら俺の涙も盗まれるわマジ。

個人的な感慨はさておき、この世界はいろいろ世知辛いことがあって、天使じゃない人間には出来ないこともあって、でも孤独な彼らをつなぐ愛情と、それが無駄にされず前に進んでいくドラマがある。
それはつまり、視聴者が受け取るにちょうどいいサイズの『人間の物語』として、しっかり仕上がっている、ってことだと思います。
少し厳しくて、でも根本的には優しい世界のルールが、暖かな色味や細やかな芝居の付け方でしっかり表現されているのも、とってもグッド。
つむぎちゃんの仕草マジ『本物』だったなぁ……『紅』の紫思い出す動きで最高だったわ。


と言うわけで、あくまで人間ドラマに重点を置いた作りですが、食事というメインモチーフも手を抜かれているわけではありません。
それはただの栄養補給剤ではなく、人間が生存する上で必須の大事な要素であり、人と人が繋がるコミュニケーションの場でもある。
出来合いの弁当や冷凍食品を『食べて』いるはずのつむぎが、土鍋の白米を口に入れて初めて「ご飯食べるの久しぶり」という台詞に、このアニメが食事をどう捉えているかよく見える気がします。

ともすれば尖った外食批判に行ってしまいそうな見せ方なんですが、そこで大事なのは食事を媒介に展開するコミュニケーションであり、モノのあり方それ自体ではないということも、ひっそり語られていました。
TV(これもメディアですね)越しに『シズル感マシマシな肉』といういかにもな『グルメ』に憧れるつむぎが、そういう『グルメ』とは程遠いただの白米を食べて笑顔になるのは、そこに人と人とのつながりがあるからでしょう。
犬塚先生の必死さを見れば、その暖かさがちゃんと存在していることは視聴者にも分かっているんだけど、でも何らかの形で分かりやすく表現しなければ、愛情やぬくもりは共有できない。
『食事を手で作り、顔を見言葉を交わしながら一緒に食べる』という行動(もしくは儀式)が、愛情を可視化し共用するためには、とても役立つことがあるのだ、という一連の見せ方は、このアニメが食事をどのように捉え、どのように扱いたいのかクリアに見せてくれていました。

食事だけが人間の『足らない』部分を埋めてくれるわけではないけれども、親と子どもと女子高生の三人が繋がり直すためには、不器用な土鍋のメシがよく効いた。
食事を『グルメ』としても『万能の人間関係修復剤』としても描かない話運びは、しかし食事がなければ成り立っていないわけで、テーマとモチーフとの間合いを適切に計った、優れた造りだなと感じます。
何でもかんでもメシで解撤ってわけじゃなくて、根本には真心と愛情があって、それを効果的に伝えるメディアとして食事を選択している妥当性が、身近に迫ってくるのよね。

食事というモノには様々な表情と温度があり、それにしたがって関わる人間の感情も変わってくる以上、食事が背負う印象を巧く表現できるか否かは、作品の成否に直結します。
つまりメシ作画に気合を入れないと話の説得力がガン下がりするわけですが、コンビニ飯の『まぁ悪くはないんだけど、やっぱ足らない……』感じ含めて、非常によく出来ていました。
散々湯気が出ない冷たいメシを強調しておいて、湯気で食わす炊きたての白米をドドンとお出しする緩急といい、巧いことメシの表情出すもんだと思いました。
俺はおかゆをおかずに白米食えるくらいのコメ大好き人間なので、見てて腹減ってしょうがなかったですね。


というわけで、天使が去った世界をどっこい生きてる不器用人間どもが、メシで繋がりメシで笑うお話でした。
キャラクターみんな必死で優しくて、一話見ただけで好きになれる奴らなの最高だったなぁ……。
食事の扱いもクレバーかつ説得力があり、ただメシを口に入れて『旨い! こんな特別な食事してる私スペシャル!!』みたいな食餌スノッビズムとは一線を画した、良いヒューマニティを感じました。

つむぎの健気さ可愛さ、先生の愛情、小鳥ちゃんの人情といった、『足りてる』部分の魅力の描き方と、それでも埋められない『足りない』部分の描写が非常に上手く、そこに橋をかけていくだろう今後の展開にも大きく期待が持てました。
彼らの食卓が豊かであると良いなぁと思いつつ、腹をすかせて来週を待ちたいと思います。
いやー、良いアニメだこれホント。