イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

甘々と稲妻:第3話『つむぎとおまたせのハンバーグ』感想

マクルーハンもびっくりな食事=/メディア論アニメ、今週は泥棒とハンバーグと誕プレ。
これまであんまり描かれなかった『犬塚つむぎの世界』にジックリと寄る話でして、幼稚園での振る舞いとか、彼女なりの人間関係とか、自分でも言葉に出来ないモヤモヤとか、彼女の人間味がズズイと迫ってくる展開でした。
泣きもすれば怒りもして、すぐさま正解を掴めはしない『良くない子』の部分もちゃんと描く筆は、むせ返るほどの『良い子』の部分も同じように描くこと含めて、おとさんや小鳥ちゃんを切り取っていたこれまでのエピソードと同じ調子を維持していました。
人間のいろんな部分に眼を配りつつ、ポジティブで優しい方向性を信じて突き進む強さを持っていて、ホント信頼できるアニメだ。

つむぎはおとさんにとって都合の良いペットというわけではなく、幼いなりに自分で感じ、自分で考え、自分で行動する存在です。
今回幼稚園という『おとさんがいない世界』が丁寧にかかれていたのは、そんな彼女のプライドをしっかり尊重する姿勢が伝わってきて、非常に良かったです。
つむぎにはつむぎなりに友達がいて、気に食わない男の子がいて、助けられもすれば衝突もする『普通の世界』をしっかり持っている。
ここら辺の視野の広さは、前回犬塚先生が先輩先生に相談するシーンに繋がる安心感だね。

それぞれが自分の意志と価値観を持って行動すればこそ、ミキオくんとの間に発生したような衝突も起きるし、それは世界全てが閉じてしまうような致命打ではない。
というか、例えば母や妻が死んでしまうような致命的な事態があっても、毎日飯を食って生き続けなければいけない世界に犬塚父娘は生きているわけで、ミキオくんとの衝突は意のままにならない世界をどう扱うのか、そのテストケースだともいえます。
衝突が発生した後、ミキオくんは母に助けられて『謝って水に流す』という正解に早めにたどり着いているのに、つむぎは自分の感情を巧く制御できず、巾着モチみたいに丸まって世界を拒絶してしまうのは、なかなか面白い描き方でした。
主人公サイドを特権化したいなら、つむぎを先に『謝って水に流す』って正解にたどり着かせるものだと思うけど、一緒にメシを食わないミキオくん=他者のほうが、正しい行動を早く取るのよね。

自分と同一化しない他者と、どう繋がっていくのか。
不快な要素がたくさんある現実をどう飲み込んで、『普通の世界』で生きていくのか。
閉じていて個人的で強靭な関係の内部で展開する『食事』だけではなく、『食事』を一緒にしない人たちの意思と価値観を尊重して描いている幼稚園のやり取りは、僕にとっては公平で気持ちの良いものでした。
ともすれば『心地よい犬塚家のルールを破壊する悪者』として描かれてしまいそうなミキオくんのお母さんを、厳しい態度ながらもしっかり子供を導ける、犬塚先生と同じように我が子を愛している存在として高めに配置したのは、凄く良いなって思うわけです。


人間である以上気持ちを整理できないこともあるし、正しくない行動をとってしまうこともある。
『普通の世界』に生きている以上回避できない『間違い』に対し、この世界はすごく寛容であり、ジックリと時間をかけて少しずつ良くなっていく『成長』を丁寧に切り取りもします。
『成長』、つまり『出来るようになる』運動は『出来ない』状態をちゃんと描くことで初めて成立するので、つむぎが巾着モチになって膨れているシーンはコミカルに印象深く演出するし、おとさんの包丁さばきは危うい。
とても頑張って助けあって克服するべき『間違い』を、『成長』と同じくらい暖かく描写しているのは、このアニメが『間違える存在』としての人間に寛容である証明だと感じます。

幼いつむぎだけではなく、『成長』をすでに済まし保護者として完成しているはずのおとさんも、沢山『間違え』ているという事実も、このアニメはしっかり描写します。
第1話でつむぎがTVの食事に釘付けになっていた瞬間、今回小鳥ちゃんに『ちゃんと聞いてあげて』と言われた時。
自分が決定的に『間違っていた』と気づいた瞬間、犬塚先生は迷わずかけ出してためらいや無知を乗り越え、人間として絶対守らなければいけない場所にちゃんとたどり着いて、傷つきやすい子供の心に向かい合う。
『間違う』ことそれ自体は悪でも善でもなく、『間違い』が致命的な事態に辿り着く直前にそれを認識し、改善のために走りだすことこそ、本来『間違う』存在として生まれてきた人間には大事なのではないかと、先生が気付き駆け出す瞬間を見る度僕は思うわけです。
『食べる側/食べさせる側』『守る側/守られる側』という境界線を視覚的に強調できて、そこを乗り越えて境界を無化するドラマが分かりやすくなるので、小料理屋のカウンターは凄くいい仕事してんなぁ。

個人が持っている『間違い』はその人間性の証明でもあるので、結局自分で気づき自分で治すしかありません。
しかし不完全な人間はいつでも、自分一人で『間違い』に気づいたり、治したりは出来ずに、他者とか食事といった媒介を常に必要とします。
今回つむぎ=子供とおとさん=大人の間に、小鳥という思春期の少女が入り、つむぎが今感じている気持ちを代弁して、『間違い』に向かい合うヒントを出していたのは、このアニメがどれだけ『なかだち』を重要視しているか、良く見える描写でした。

すでに大人になってしまったおとさんには、つむぎの体内でわだかまっている複雑で言葉にならない感情はわからないんだけど、おそらくあまり親に向かい合ってもらえなかった子どもだった小鳥ちゃんには、自分のことのようにつむぎの中の混沌が解る。
家族ではない自分が向かい合う資格はなくても、向かい合うためのヒントを出す資格も義務も小鳥ちゃんにはあるわけで、それらを背負って『ちゃんと聞いてあげて』という言葉が出てきて、おとさんを走らせたのでしょう。
ここら辺は幼稚園の描写と同じく、それぞれが自分の意志と価値観を持って、独自の立場で人とつながりあう人間を大事にした、良いアドバイスだったと思います。

幼稚園で一緒になるけど、食事を一緒に食べるわけではない人。
ご飯は一緒に食べるけど、家族ではない人。
家族だけど、全てが分かるわけじゃない人。
多様な不完全さと距離感を宿命的に抱え込んで、それでも繋がり合いながら生きている人間模様を大事にしていればこそ、つむぎが自分の気持を吐き出してより良い状態になるには時間が掛かるし、多数の媒介を必要とする。
でもそのめんどくささこそ、人間が人間らしく生きるということでもあり、そこにはネガティブな要素だけではなくポジティブな側面だっていっぱいある。
多分世界中の幼稚園と家庭で何億回も起きてきた、ありふれていて面倒で、凄く大切な子供の成長を追いかけた今回は、つむぎ個人を妥協なくクローズアップで切り取ることで、逆に彼女を取り囲む人たちの世界がどこにあって、その孤独と暖かさがどんな具合なのかよく見えてくるという、多層的な描き方に満ちていたように思います。


ハンバーグをひとくち食べたつむぎが涙を流したシーンも、このアニメにおいて食事がどのような存在なのかよく見える、良いシーンでした。
自分を取り囲む人々が必死に作り上げてくれた真心が、味や暖かさという実感を伴ってグッと体内に入ってきた瞬間、こらえてきた感情がドッと溢れてしまう心の本流が、非常によく伝わってきた。
おとさんと小鳥ちゃんの心理的な暖かさが、『焼き』ではなく『煮込み』という調理法でより暖かくなったハンバーグとシンクロして描写されているのが、なかなか細かく上手いところだなぁと思ったり。
制作過程をじっくり描いているので、視聴者の想像力が料理の手触りまでちゃんと届く足場があるってのが、表現として強いわ。

母親が死んで半年、色んなモノに押し流されつつ必死に生き延びている父親と同じように、つむぎも文句を言わず必死に『いい子』をやってきました。
自分の食事を流しに持ってきてくれるような『いい子』は、対外的な評価を考えた演技というわけではなく、つむぎの人格が自然に生み出す彼女自身の美徳なのでしょう。
でも同時に、彼女は制御出来ない感情を持つ人間だし、それをどう扱えばいいか学習する機会も少ない、ただの五歳児です。
そういう子が『いい子』で居続けるときの無理や辛さを画面の端に押しやらず、むしろこれまでのお話の中でも細かく描写してきた以上、今回つむぎが巾着モチになってむくれる『悪い子』になってしまったのは、物語的必然とも言えます。

『いい子』でもあり『悪い子』でもあるつむぎを、『どんな子でも、つむぎが好きだよ』と抱きしめてくれる犬塚先生がちゃんといるのは、地獄に仏といいますか盲亀の浮木優曇華の花といいますか、とにかくありがたい。
親子なのに伝わらない部分があったり、いろいろと思い通りにならない部分も切り捨てず描くことで、つむぎと先生の関係が何の苦労もなく得られた楽園ではなく、お互い歩み寄り努力して手に入れた『普通の世界』なんだということが、より強調されています。
それは親子のつながりとか五歳だからとかは一切関係なく、お互い『本質』を直感しえず『媒介』を用いて歩み寄るしかない人間の関係性、その真実の一端だと思います。
犬塚親子の困難と努力がちゃんと描かれているからこそ、他人でも食事で繋がる小鳥ちゃんの関係とか、食事は食べないけど歩み寄ってくれるミキオくん親子とか、色んな人の価値がググッと上がるんだろうなぁ。
出来合いの気持ち良い嘘に逃げず、作品独自の表現を頑張って探して、一回一回みずみずしく人間の真実を描いてくれるのは、やっぱ凄いことだと思う。


というわけで、幼稚園児の小さな悩みをしっかり掘り下げ、それを受け止め歩み寄る人々の表情を活写した、ヒューマニティ溢れるエピソードでした。
どっしり腰を下げて、母に去られた一家族がどう生き延びていくかを描き切ろうって姿勢が感じられて、良い題材選びであり、良い筆運びでもありました。
美術にしろ演出にしろ台詞選びにしろ表情の芝居にしろ、極力怠けていなのいことがとにかく素晴らしい。

食事を万能の解決策にはせず、あくまで人間と人間の関係性がどう変わるのかを重視し、その媒介として大事に描いている姿勢も、非常に良いと思います。
第1話で白米、第2話で豚汁、第3話でハンバーグと、一汁一菜の形式を整えるように段階を踏んで、成長の手応えを強調しながら描いているのもグッドです。
冷静でいながら温かい視線を製作者から受け止めつつ、犬塚親子の人生はまだまだ続いていきます。
来週はどんなご飯を食べて、どんな風に繋がり合うのか。
非常に楽しみです。