イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダムUC RE:0096:第16話『サイド共栄圏』感想

現実と理想の咬み合わない歯車が命と魂を吸い取って回るアニメ、今週は不和の宇宙。
恩着せがましく乗り込んできた『袖付き』とネェル・アーガマがギシギシ言う中、一政治勢力の頭目として成長を果たしたオットー艦長とミネバが、フル=フロンタルの地金を問う。
返ってきたのは、地球を認めず地球にも認められない『サイド共栄圏』という現実的な自閉政策であり、ジオンとシャアが夢見た理想に追いつかないそれをミネバは、己の未練と一緒に切り捨てる。
一方、アルベルトの後押しを受けてバンシーのパイロットとなったリディは、ふたたび男と見込まれながら暗礁宙域を抜けていた……ってところですか。
一生おっさんたち(一部ミネバ)が喋っているだけのエピソードでしたが、フル=フロンタルの仮面の下が覗ける話で、自分的には面白かったです。

今回のエピソードは全体的に身体の芝居が非常に濃くて、マリーダを思って胸(の下にある『自分の意志で唯一自由になる部品』)を抱きしめるジンネマン、『ジオン共栄圏』を歌うフルの『私の不在』を糾弾するバナージ、同じくフルを切り捨てるミネバの芝居がかった仕草、たった一人で二の腕を掴むリディと、己の身体を大きく使って自分の置かれた状況を無言で説明するカットが、多く見られました。
『自分のものであり、自分のものでしかない身体を、これが自分なのだと胸を張って世界に問う姿勢』がキャラクターに強く宿った演出だと感じましたが、最も長い時間しゃべっていたフルの芝居は、奇妙に透明で色がない。
穏やかに話し、表情も変えることなく、『クズどもの総意は現実と寝て、自閉した世界で生き延びることだ。己のアイデンティティを世界に認めさせることよりも、口を糊で閉じて息だけして死んでいくのがベストだ』という諦めを、世の中に問うていました。

彼はまるで己の心根を見せるかのように仮面を外しますが、それはあくまで政治的ショーの一部であって、さらけ出すべき信念というものはない。
彼はどんだけ泥をかぶっても醜い現実をまるごと受け入れてでも、スペースノイドを生存させようと言う超現実主義者でもなければ、ミネバが理想化するシャアやジオンのように、世界革新のために狂気すら宿す革命家でもない。
『器』は空っぽだからこそ大量のものを入れられるわけで、ままならない現実の中で窒息しながら生きるしかない大衆の声をただ聴き、それに反発することなく実行に移すフルには、当然自分の理想や信念は存在しないわけです。

隠すものがないから、フルは簡単に仮面を外すことが出来るというのは、パラオでバナージと面会した時にも明らかになったことです。
理想と現実の間を泳ぐことに失敗し、最終的には『ならば、今すぐ愚民共すべてに叡智をさずけてみせろ!』という無理難題に行き着いてしまったシャアが、復讐心を仮面の奥に隠して外すことがなかったのとは、面白い対比だといえます。
シャアのやり方は巧く行かなかったのだから、その全く逆の方向性、人間存在への期待を最初から捨て去り、己を世界に認めさせること、己が世界を認めることを最初から諦めて生まれた、『現実的』施策を徹底する政治の『器』。
そこには『自分のものであり、自分のものでしかない身体』などどこにも存在していないわけで、芝居に情熱が乗っていないのも納得がいきます。
……この身体性の欠如、『身体をほしいままにさされていることへの、強い諦め』というのは、マリーダやマーサと共通してんのかもな。

そんなフルに一瞬、魂の温度が宿ったように感じたシーンがありました。
それはバナージがフルの『私』の欠如を糾弾するシーンではなく(それを武器にして政治家やってんだから、そこは怒るところではない)、ユニコーンが起こした緑色の奇跡に反論するシーンです。
『ああいう光を見れば、人間だって』という未来の理想を語るバナージに、フルは『私も同じ光を見た。だが人間は変わらなかった』という過去の現実で切り返す。
逆シャアの後でUCがある。アクシズ落としを回避する奇跡が起きても、ニュータイプの可能性がこれ以上ないほど現実になっても、人間は現状の社会を維持し世界は変わらない方向を選んだ。終わってやがる』という、UCらしいメタな言説の奥には、『袖付き』のマニフェストとも言える『サイド共栄圏』を語ることよりも遥かに熱い私情がこもっていたように、僕には思えた。

しかし『袖付き』というテロル=政治集団を率いる首魁である以上、フルは『ジオン共栄圏』こそ、熱を込めて語るべきであったと思います。
なぜなら政治は常に人の命を吸うし、人生を吸い上げる以上そこには現実へのあきらめ『だけ』ではなく、理想への叶わない眼差し『もまた』あったほうが、より正しくより善いのだから。
フルがアクシズ・ショックでも変わらない人間存在への絶望という『私情』だけに足場を持ち、政治集団としての『袖付き』を導いていくのであれば、そのテロルは一見スペースノイドの無念を晴らすようでいて、その実未来へのヴィジョンを一切伴わない場当たり的な『怨念返し』でしかない。
だからこそ、『ジオン共栄圏』に潜む現状追認性、主客を入れ替えて『怨念返し』を繰り返す危うさに、フルは思い至らない(もしくは、思い至っても問題とは思わない)わけです。

『哀しいから、哀しくなくするために生きている』人間の切なる願いを、フルは感じ取れず(もしくは『器』を任じる以上、感じてはいけないと己を規定し)、変革しない人間への憎悪だけに熱を込める。
人間に染み付いた業を目の前に立ちすくみ、尻尾を巻いて後ろに下がり、他人にも自分にも期待しないで黙りこくる道を選ぶ。
彼の空疎さと政治適性の無さの表現として、『ジオン共栄圏』は優れた『しょせん、世界なんてこんなものだ』だったと思います。

『それでも』と言い続けるアニメにおいて、それはあまりに夢のない、哀しい弦実を変える可能性を、最初から切り捨てている言葉です。
連邦に象徴される支配・搾取構造が絶対に変化しないと諦めてしまって、現実的だが理念がなく、何年も続いてきた地球とスペースノイドの対立構造を再生産する体制に舵を切ることは、ミネバの言うとおり物語として『つまらな』くもある。
どんなに現実が厳しくても、『己の唯一自由になるパーツ』であるこころのちからを諦めず、絶望を振り捨てながら前に進んでいけば、世界は絶対に良くなる。
そう信じて行動すればこそ、バナージとミネバはこのアニメの主人公なのであり、多くの人々が彼らに感化されて生き方を変えたのしょう。
(そういう意味で、一番影響を受けたジンネマン親父とオットー艦長が今回目立っていたのは、なかなか判りやすい配置だ。)


と、主人公側の主張を全面的に認めあげて終わりにしたいわけですが、案外そうも行きません。
恐ろしいことにフルの『ジオン共栄圏』は、UC100年にジオン共和国が自治権を剥奪され中心たる資格を失った後、UC140年辺りから自然発生的に実現され、"Vガンダム"の世界へとつながっていきます。
すでに確定している歴史の流れは、フルの『つまらない』現実追認主義が時代の潮流となり、彼が背負う現実が理想を押しつぶしていく事態を、無言で支持してしまっています。

"ガンダム"が一つのブランドとなり、大戦争もその隙間にある小戦争も徹底的に語り尽くされた後の時代に、UCは生まれました。
アムロもシャアも世界を変ええず、どうにもならない人間の業と怠惰が世界を食いつぶしていく現実的『哀しみ』をどうしても否定し得なかった物語として、逆シャア以降のガンダムはある。
だからこそこのアニメは『それでも』と言い続けるのでしょうが、その言葉が秘めた圧倒的な物語的熱とはまた別の次元で、UC以降の運命は『しょせん』を追認し続ける。

フルが持つ不気味さ、物語的な熱の無さとは逆に、『器』としての彼の認識は真実の一部をえぐってしまっている。
支配構造として連邦にのしかかられ、差別され虐殺され強姦され続けるスペースノイド(の一部)にとって、『袖付き』のテロルが唯一の打開策だと思えた事実があればこそ、『袖付き』は連邦に対抗しうるテロル組織として生きながられてきました。
無論、対立構造を長引かせようという連邦との癒着もあるけれども、バナージやオードリーの理想と同じ尊さで、『袖付き』の暴力に夢を見て支持した人々もまた、そこにはたしかにあった。
それを受け取って『器』たるフルはテロリズムを行使し、『箱』を奪って現実の続きを捏造しようとしているのなら、彼の空疎さと『つまらなさ』は、彼に流れ込んだ大衆の総意の『つまらなさ』でもあるでしょう。

だとすれば、シャアとジオンという特別な(特別すぎる)キャラクターを引き合いに出して、フルを『つまらない』と切り捨てたミネバは、ザビ家の女(それを強調するべく、彼女はマントを羽織って対談の場に現れた)として背負うべき人民もまた、切って捨てているのではないか。
『それでも』といえる強さがないものが大勢を為す世界でも、『それでも』人々を導き変化させていくのが政治家であるなら、その弱さも含めて己の理想に組み込まなければいけないのではないか。
ミネバの高潔な態度の奥にはそういう危うさが見え隠れするし、そのギャップに押しつぶされた結果、シャアはアクシズを落としたのではないか。
フルとミネバの会談からは、フルの空疎さだけではなく、公人ミネバ=ザビの危うさもまた見えてくると、僕には思えました。


フルの空疎な『公』とミネバの危うい『公』の間をとりもつのは、やはり『私』の領域に徹底してとどまるバナージでした。
『アンタの言葉には、アンタがいない』と無邪気に指摘するバナージの言葉は、フルの熱の無さが政治集団としての『袖付き』のおぞましさに繋がっている以上、徹底的に正しい。
これに相対する『公人』ミネバ=ザビが同時に『私人』オードリー・バーンでもあると気づかせ、そのバランスをとる旅へと導いた少年の言葉は、強くてシンプルです。

それは同時に、バナージが己の公的立場を最大でも『パイロット』という領域にとどめ、政治を背負う覚悟と越境をけして行わない、安全圏からの言葉でもあるわけですが。
『公』のミネバと『私』のバナージというすみ分けはこのアニメずっと徹底していて、しかもバナージが背負う『私』のほうが基本的に強い。
『公』の立場から世界を変えられないことが年表で確定してしまっている以上、そういう戦術を取ることでしか物語的説得力を手に入れられないってこともあるのでしょうが、基本的には一つの身体を持つ一つの『私』が他人を、世界を変えていくダイナミズムを全面に押し立てて、このアニメは進んでいきます。

主人公としてその先端に立つ以上、バナージは常に『私』であり『私』でしかなく、『私』をどういう風に『公』に繋いでいくかという繊細で難しい問題はミネバが背負うことになる。
しかし、バナージやシャアやジオン(全部男だなオイ)に憧れ、『私』の理想と情熱を政治に宿したいと願うミネバの立場は、『しょせん』としか言えない大衆と『それでも』と言い続けられる英雄の間にある矛盾を、すくいきれてはいない。
これは考えれば考えるほど答えの出ない問題だし、簡単に答えを出してはいけないからこそ問題のまま物語に埋め込まれているのだと思いますが、ともあれ主人公たちの『公』的問題解決能力の薄さは、あえて語られないけれどもよくよく見ると危うい問題として、僕には映りました。

『『それでも』個人と個人はわかりあえて、個人の人生は良い方向に舵を切り直すから大丈夫じゃないか』というメッセージもまた、ジンネマン親父やオットー艦長の頼もしい姿から見て取れます。
グダグダ面倒くさい自意識と遊んでた大人子供たちも、真っ直ぐな青年と魂を触れ合わせることで目を覚まし、『大人」として真っ当な姿を取り戻し生き直す。
それは個人の物語として盛り上がるし、怨念や怠惰さに腰までつかって生きるよりはるかに善い物語です。

その熱さと重たさ、楽しさを認めたうえで、ジンネマン親父が手に入れた『お前が生きていれば、それで良い』という答えが世界全てには届かない弱さも、ユニコーンは構造的に抱えているように思う。
『そこで一気に世界の変革を望むと、シャアみたいになるぞ』っていう反省があればこそ、基本的に『私』と『私』の物語として進んでいるんだろうけどね。


一方物語の本筋から離れた所で、女に捨てられた負け犬たちは冷たい牙を研いでいた。
バンシーというユニコーンと同質の力を手に入れたリディのこじらせっぷりが、マジとんでもないことになっていて、やっぱり彼は哀しいなぁと思った。
同じく負け犬であるアルベルトが寄り添ってやれば、まだ方向性も変わるかと思うけども、リディを徹底的に孤独に追い込む製作者の意志ってのは、一人で腕をつかむしかないコックピットのシーンでよく見えたからなぁ……。

初恋に背中を押され、マーサの長い影からようやく脱出しつつあるアルベルトですが、異母弟が『それでも』と言い続けるのに対し、あくまで『しょせん』と言う側からは出ません。
『世界とか財団とかマジどうでも良いから、好きな女の子を助ける!』と吹っ切れたら、この世界はそれを祝福してくれると思うんだけど、ジンネマンではないアルベルトには、あくまで『マリーダ』ではなく『プル・トゥエルブ』と呼ぶしか出来ないのよね。(ここらへん、勝負どころで『ミネバ』って言っちゃったリディそっくり)
単純に、自分がどれだけマリーダが好きなのか語る尺も、全然与えられなかったしな……アルベルトのプル・トゥエルブ奪還作戦には、ジンネマンとマリーダの間にある物語のような重さと熱が生まれ得ないわけだ。
それでも『男と見込んで』リディにバンシーを与えたわけだけど、あの男一度『男と見込んで』頼まれたミネバの手を離しちゃってるからなぁ……。

世界に『それでも』と言い返す勇気を持っていない弱さがミネバの手を離したわけだけど、それは時間がたっても解決されていないどころか、こじらせまくった結果強化すらされているわけで。

孤独なオッサン達の孤独な戦いは、あんまいい結果に結びつかなさそうで結構ションボリであります。
しかし、アルベルトが出動を回避したい『財団の切り札』ってなんだろうな……大量破壊兵器であるのは間違いなさそうだけど。


最終座標が明らかになり、おそらくは『箱』の中身も見えるだろう最終決戦を前に、作品が持つ強さも危うさも浮き彫りになるエピソードでした。
個人的な予感ですが、今回見えたミネバの危うさ、『私』から『公』へと繋がるブリッジの弱さと現実的介入能力の薄さは、最後まで行っても解決されないんじゃないかなぁ。
年表で確定している未来が重たさ過ぎて、物語的奇跡で全部解決する展開は、どうにも説得力がなくなるわけで、『結局、個人が変わるしかないんだ。それは不安であり希望でもあるんだ』という落とし所に導くしか無い気がする。

そこら辺の大きな枠組みがどうなるかも、最終決戦に向けてキャラクターたちがどう動くかも、色々気になる展開でしたね。
来週はクソみたいな『袖付き』を追い返して、ネェル・アーガマを取り返す話になるようですが、一体何が見れるのか。
非常に楽しみです。