イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

シン・ゴジラ感想

久々の国産ゴジラ映画、シン・ゴジラを見てきました。
ガッツリネタバレした感想を書きますので、未見の方はご注意を。
バレない範囲で感想を言っておきますと、怪獣映画として、お仕事映画として、災害映画として、時事映画として、都市論として、日本人論として、ゴジラ大好き腐れ特撮オタクの『』これがワシの好きなゴジラじゃああ!!!』という叫びとして、色んな要素を含みつつすげー面白かったので、みんな見よう。

 

とにもかくにも、矢継ぎ早な映画であった。
まだるっこしい前置きは抜きにして『さぁゴジラが出たぞ、姿は見えんがお前らにはわかろうよ、ゴジラなのだよ!!』というシーンが開始一分で始まり、官僚は霞が関語を駆使してドンドコ喋り、表情筋が死んだ専門オタクは目線を合わせないまま早口でしゃべり、フラグは立てるそばから解消され、日本の国際的立場は行ったり来たりする。
ゴジラ』そのものへのオマージュやら、3.11以降の現代スケッチやら、巨大怪獣という虚構が現実化した時の思索やら、兵器と銃器と電車に対する異常な興奮やら、踊る会議と踊らない対策やら、寡黙なプロフェッショナリズムやら、滅私奉公の隙間に覗く私情やら、他にもいろいろ過剰なものを盛り込んだ結果、この映画はとにかく高速で展開する。
テロップは早すぎて読めないし、台詞は聞き切れないし、画面の情報量がパンク寸前(というかパンクしたまま進む)だし、荷台にみっしりと夢と妄想を積み込んだ大型トラックのように、危うい超高速度で大量の物語が同時に展開し、時折の詩情をはさみつつ走り切る。
何しろ語りたいこと、見せたいシーンが山程ありすぎるので、のんびり足を止めてヒューマンドラマを個別に演じている暇などないのだ。

ではわかりにくく気持よくない映画なのかというと、そうではない。
もちろん僕過剰な情報の洪水に巻き込まれるのが大好きであるが、いちいち情報を拾わなくても『ゴジラがヤバい』『政府が無能』『現場は頑張っている』『日本がヤバい』『すまん政府は精一杯やってた』というムードはしっかり伝わる。
巨大な怪獣が東京に上陸し、不条理な破壊を繰り返す中で日本人はどう立ち向かったのかという、一番大事な背骨は最後まで折れずに進行する。
早口な映画であるが、舌足らずな映画ではけしてないと思うし、過剰な映画言語の中から響いてくるメッセージとテーマ、興奮と激情はむしろ饒舌だ。

最初は典型的日和見主義に思えた政府中枢が、想定外の緊急事態と、否定しようがない死の嵐を前にして無言で背筋を伸ばし成長していく様。
比喩的な意味でも、肉体的な意味でも己を殺し、『国民の生命』という大義のために必死に滅私奉公する人々の肖像。
あくまでクールにクレバーに『仕事』をこなしつつも、そこから漏れる家族への愛情、押しつぶされそうな私情。
高速で展開する物語の中で、時間を使ってかかれはしないが確かにそこには人間の縮図があり、弱さがあり、強さがある。
総理大臣を筆頭にした閣僚の変化に共感しきったタイミングで、華麗に残忍に無念を奪い去る手腕の見事さ含めて、一見クールかつ早口にすぎるこの映画は、その奥に人情への強い情熱(とそれを的確に操作する手腕)を秘めている。
ともすれば置いてけぼりにされてしまっているように思える情は、ベタベタとした柔弱さを歯を食いしばって切り捨て、目的のために為すべきことをやり切る仕事人魂のなかに、確かに存在しているのだ。
そのサラっとした気持ちの良さは、1キャラクターの『ヒューマン・ドラマ』に拘泥しない、高速かつ過剰な語り口が狙って生み出したものであり、この映画最大の武器の一つだといえる。

この映画が状況を追いかけることだけに拘泥しているのならば、作中常時冷静に見える矢口が、敗戦の後大声で叫ぶシーンは入らないと思う。
あまりにも大変なことが起きているのだから、人間である以上ショックは受けているし、哀しみも痛みもある。
恩人も死んだし、縁もゆかりもないが生きるべきだった市民もたくさん死んだ状況の中で、矢口は一回だけ叫び、即座に泉に『水入りのペットボトル』という真心を与えられ、冷静なプロフェッショナルに戻る。
ゴジラに対抗するすべての人々が、そんなふうに叫びを押し殺しながら為すべきことをなし続けた結果として、核は東京に落ちずゴジラと共存しなければいけない明日がやってくる。
キャラクターに体温と感情はあるが、そこに留まらないプロフェッショナリズム(もしくはストイシズム、武士道。色んな物が入った映画なので、言い方はたくさんあるだろう)を完遂することで困難に押しつぶされなかった物語として、一つの場所/人/人物に拘らない高速の映像展開は、演出のみならずストーリーも支えている。

(余談であるが、矢口が吠えるシーンは非常に象徴的な場面として読める。
災害の影響で『傷』を受け、体内に怒りと炎を宿して叫ぶ矢口はあの瞬間『敵』であるはずのゴジラと一体化しており、泉が差し出した『水』により凍結されことで物語全体の未来を暗示していたのではないか。
ゴジラの個人的で理不尽な暴力を身の内に宿すこと、そして泉によって人=群れの中に帰ってくることで、物語の中で一番目立つ個人である矢口は、『敵』に接近しつつ帰還するイニシエーションを果たしたのではないか。
ヘリ撃墜と政府の立川移転を契機に物語はガラリと要素を変えるわけだが、その出だしに群れから外れて個人的エゴに飲み込まれかける矢口の暴走と帰還が入っているのは、結構意図的で象徴的なシーン配置な気がする。)


病的な高速度とストイックなヒューマンドラマの並立。
これを成し遂げているのは、同時並列的に展開する複数の場面/メディア/人物の間のブリッジを、非常に気持よくかけられているからだと思う、
この話はタバ作戦の失敗とゴジラの東京蹂躙、それに伴う政府中枢の壊滅から一気にトーンを変えるわけだが、特に前半は複数メディアをテンポよくつなぎながら、ゴジラという巨大な虚構が東京に乗り上げてくる瞬間を多角的に描いている。
ゴジラが現実化し、キャラクターと作中の虚構日本に対してシリアスな問題となるまでの、浮遊して不可思議な、しかしバッタバッタと人は死んで経済は出血していく時間のリアリティは、TV中継と霞が関と被害現場を、カメラ越しの視界と政策決定者たちの目と、生死の際に立たされているゴジラ被害者の目線を行ったり来たりすることで、観客に共有されていく。
それを可能にしているのは、あらゆる物事が過剰な速度で繋がれていくカット割りの快楽であり、そのテンポこそがこの映画の最も基本的なものだと思う。

複数メディアにブリッジを仕掛け、場所を高速で移動しながら展開する序盤は、キャラクターの視点に観客を引き込む仕事もしている気がする。
『現実の中の虚構』として怪獣に慣れ親しんだ観客と、巨大な破壊に初めて直面し、当惑し立ちすくむキャラクターたちの間には、当然溝がある。
視点と場所を高速で入れ替えることで観客にも混乱を生み、それが収まっていく過程を、作中のキャラクターが『ゴジラ』に慣れていく様子と重ねあわせることで、気づけば溝の間には橋がかかり、キャラクターへの感情移入はより強くなっている。
大量の情報を出だしから浴びせかけ、映画的混乱を生み出し乗り越えさせることは、作中の現実的混乱を乗り越え、ゴジラに対処するしかない状況を飲み込んだキャラクターたちと近い立場に、観客を導く手管として機能しているように感じる。

無論、その情報の濁流に押し流されてしまうには興味の足場が必要であり、『中略』されるほどに退屈な、あまりにも日本的な会議やら、なかなか姿が見えないゴジラが『破壊』への期待感を煽ることで、情報量に負けない序盤のペースが生まれている。
『ダラダラ進んでも面白くねーから、早くゴジラ出せよ!』という苛立ちはおそらく意図的なもので、そう思った観客の願いを悪魔のように叶えながら、ゴジラは大量殺戮を無表情にやってのける。
情け容赦のない大破壊と、そこに押し潰される人生の痛みは確かに観客が一瞬望んでしまったものであり、罪悪感の疼きが事態解決を求める気持ちを加速させもするし、さらなる破壊への暗い欲望を強化しもする。
この映画、退屈と興奮の使い方が上手いのだと思う。

ブリッジは3Dモデリングとミニチュアという、特撮表現の間にも的確にかかっていて、"巨神兵東京に現わる"で見せた過剰なミニチュア特撮への偏愛を巧くコントロールし、未曾有の大破壊を生々しく表現しきっていたように感じた。
地下に押し込められた人々を見せたうえで、黒煙が猛火へと変わる瞬間のおぞましい痛みは、精密な破壊表現によって作中の現実を観客に引き寄せていなければ、けして生まれなかっただろう。
それは粗が出にくい夜を舞台に、赤と黒の大破壊を一種の見せ場として用意する冷静な映画的計算と、その事前準備として破壊される鎌倉-横浜のミニチュアの説得力が生み出した、見事な成果だ。
『こういうものが見たかったが、同時に見たくはなかった』と思わせる映像体験を叩きつけ、観客に『何か新しいもの』を感じさせることこそが特撮映画最大のショックだとするならば、この映画は様々な技術を駆使してそれに成功しているし、それは使用可能な表現手段全てを駆使する『ウェポン・フリー』な戦いだけがなし得るものなのだろう。


ブリッジは場面やメディアだけではなく、人と人、集団と集団の間にもかかる。
表情筋死にっぱなしのオタク集団である巨災対と、官僚政治の権化のような政府メンバーは、それぞれ『オタク言語』と『政治言語』という二つの外国語を日常では使用し、交わることはない。
それは尾頭が課長補佐という政治的立場を乗り越え、御用学者の見解を否定するシーンで如実にわかる。
平時の官僚機構の中において、権威を頭ごなしに蹴っ飛ばし真実(作中のタームを借りれば『好き』)を早口でまくし立てる尾頭は、霞が関の共通言語を習得していない蛮人であり、聞くに値しない異物だ。

しかしゴジラが襲来し、日本の(もしくは関東の)全てを揺るがす大災害が現実化するにしたがって、『オタク言語』と『政治言語』はお互いに接近し、一種のピジンを生み出し始める。
礼儀をわきまえないから、形式しか考えないバカだからとお互いを罵る余裕はあっという間に奪われ、何がどうあろうと協力しなければ、自分含めて沢山の人が死ぬ状況が、ゴジラによって強制的に生まれるのだ。
そこには異物がそれぞれの個性を活かしつつ、奇妙な連帯関係を気づいていく理解のドラマが、静かに埋め込まれている。

それぞれの専門分野を尊重しつつ、各々出来ることを、出来る範囲内で最大限やり続ける。
ナード達のコミュニケーション障害は優秀な官僚たちが補うし、核攻撃を回避するトンチキな逆転の秘策は、一芸に特化しすぎた結果対人対話能力を喪失した専門家集団が担当する。
役割分担ははっきりしていて、しかもその間には明確な協力体制ができている。
巨災対は政治言語を習得していない霞が関の異物として描かれつつも、ゴジラという未曾有の危機を前に政府中枢と思いを一つにし、そのわかりにくい使命感と真心-こう言ってよければ『人間らしさ』-こそが、オタクと政治家の間に橋をかけているのだ。

そこで大きな仕事をしているのは泉で、『政治言語』と『オタク言語』両方を理解し、巨災対を生み出す産婆役として奔走し続け、事態が悪化した後も『ヤシオリ作戦』という濃厚な『オタク言語』をどうにか『政治言語』に翻訳し続ける。
赤坂がシビアに突きつけた『核攻撃を受け入れ、東京を生け贄に国際支援を引っ張りだすパワー・ポリティクス』という作中最大の『政治言語』を退けた背景には、二言語話者・泉修一の活躍が光り続けている。

橋渡しという意味では、英語と日本語を織り交ぜてしゃべるオモシロ外人日本人、パタースンも面白い立場にいる。
大量の殺戮が流れ続ける物語の清涼剤として、巨災対のアウトサイダーとして、色んな部分を担う彼女は、米国の利益を代表しつつ日本という主役に近づいてくる、不可思議な立場だ。
いけ好かない超キャリアエリートのクソアマとして登場した彼女は、作中の人間全てがそうであるように血と体温を持った人間でもあり、目の前の惨劇を止めようと誠実に活動を始め、日本に接近しつつあくまで米国というホームを忘れはしない。
最初『GODZILLA』と頑なに呼んでいた不明巨大生物を『ゴジラ』と呼び直すことで、米国と日本という二つのホームに橋をかけた彼女は、しかし己のオリジンを見失うことはなく、再びいけ好かない英語を使いこなして米軍の協力を取り付け、矢口と恋仲になることなく別れていく。
その爽やかな離別において、かかった橋は消え去るわけではなく、同時に両方の岸が合一になることもない。
色んな場所に色んな人がいて、色んな考えと言語を持ちつつ、対立したり強調できたりする人間の不可思議(もしかすると尊さ)を強調する上で、石原さとみのインチキ英語は結構いい仕事をしたな、と思った。


人間の世界においてはかかり続ける様々な橋は、しかしゴジラには徹底的にかからない。
第二形態の深海魚的な深い瞳を見た瞬間、観客が感じるコミュニケーション不可能性は、物語の最後まで貫通される。
ゴジラは理由なく上陸し、意味もなく破壊し、目的なく殺戮する。
人間味を排除し、巨大な災害としての畏れをこれ以上ないほどに表現するゴジラの勇姿は、人間キャラクター相手に観客が感じる共感とも、キャラクターの間で生まれる共闘関係とも縁遠い、恐ろしくおぞましいものだ。

そして、巨大怪獣の襲来が多数の死者を生む『災害』である以上、その理解不能性は必要な誠実さでもある。
災害とは対話することも、理解しあうことも出来ないからだ。
そして災害を殺すことも出来ない以上、物語の結論は『叡智の炎』で関東ごとゴジラを焼き払うか、暴威を知恵と勇気で沈めて共存するかの二つに一つに集約していく。
この動きが巨災対含めた日本と米国の対立とシンクロしていく流れがなかなかにスマートで、高速さと過剰さにかかわらずお話がすっと身体に入っていく大きな理由だと、僕は思っている。

ゴジラが上陸して火炎を吐き、たくさん人が死ぬ。
怪獣映画に慣れ親しむ内に忘れてしまった大量殺戮のおぞましさを、この映画は生々しい痛みという形で思い出せてくれるのだけれども、そのためにはゴジラは徹底的に理不尽でなければならない。
(脳内にすむ過去の『ゴジラ』含めて)既存の生物の印象を大きくぶっちぎる『しっぽ』の存在感といい、エイリアンめいて4つに割れる顎といい、ゴジラのヴィジュアルを踏襲しつつ『人間らしさ』の匂いを排除する新たなデザインは、大きな仕事をしているのだろう。
理解の範疇を超え、生理的な不快感すら覚えつつも、畏敬と憎悪がないまぜになった不可思議な共感を惹きつける、圧倒的な存在。
僕が今回のゴジラに感じた感情はおそらく、作中のキャラクターもまた感じているものだと思うし、そのシンクロニシティがまた、この映画に僕を惹きつけていくのだろう。

意思も共通言語も外交チャンネルも存在しない、しかし殺すことも出来ない究極生物を相手に、暴力という唯一の対話手段をどう的確に繰り出し、殺せない相手にどう勝ちを収めるのか。
作中のキャラクターは『解らない』という段階で足を止めず(もしくは止めることを許されず)、ゴジラのサンプルを回収し、遺伝子配列をスパコンで読み解き、牧教授の遺言を解読することで、ゴジラをどうにか理解しようと努めていく。
人間たちの間にブリッジがかかる物語と並列して、対話不能なゴジラを暴力で滅しようという試みが展開され、それと同時に理解できないゴジラをどうにか理解し、対話できないまま共存しようという試みが、これまた高速で展開される。
成功する対話、失敗する対話、失敗する暴力、成功する暴力。
様々な形のコミュニケーションがこの映画の中にはみっしり詰まっていて、分かり合えないことも引っくるめた対話があるからこそ、これだけ高速で物語が展開しても、大量のキャラクターが放り込まれても、統一された物語を体験した時特有の満足感を覚えるのだ。


ゴジラという巨大な嘘、溢れかえるキャラクター、むせ返るような情報量、高速で展開するカット。
これらを飲ませるにはそれぞれに橋をかける努力も大事だが、ディテールへの徹底したこだわりも重要になる。
政府中枢で繰り返される会議、理性的軍隊として手順を踏み続ける自衛隊、政治家の意向を的確に反映し続ける閣僚、避難誘導を続ける消防と警察。
兵器や建物といったガジェットだけではなく、組織が機能する手順もまた細やかに現実的に描いていればこそ、この過剰な虚構はギリギリの所で成立しているといえる。

ディテールへのこだわりとして、3.11の経験への冷徹な目を忘れるわけにはいかないだろう。
莫大なエネルギーで川を遡るボート、濁流に追いつめられる青年、暗闇の中で燃える街、決死の冷却。
あの時見て、未だに僕の中にわだかまっている映像をこの映画はおそらく意図的に取り込んでいる。(だから、"シン・ゴジラ"は"震・ゴジラ"でもあろう)
あれ以来、実際どのような対応を取るにせよ『放射性』という言葉に生々しさを感じるようになった僕にとって、巨大な異動放射能であるゴジラの描き方は今回のように、ただ炎を撒き散らしビルを壊すだけではない、永続する毒の主とならなければ、説得力がなかったと思う。
一応日本国に籍を置く以上、あの時の経験はやっぱり忘れる訳にはいかないし、記憶の中にこだまする言葉にならない感覚を利用することで、『ゴジラ』という虚構の災害はあの日、メディア越しでも僕が経験したあの地震と重なりあってくる。
他人事ではならなくなってくる。
そういうリアリズムの盗用だけではなく、冷静で倫理的な視点をゴジラ越しに製作者が向けていることも、この映画を体験することで観客には見えてくるだろう。
そういうケジメをキッチリ付けたうえで、フィクションの中に重たい現実を覆い焼きしてくれる姿勢は、僕にとってはとてもありがたかった。
巨大な傷跡としての3.11に踏み込みつつ、その党派性や政治性には的確に距離を取り、是非を判断しない姿勢も含めて、である。

ディテールは現実だけではなく、怪獣が描かれる文脈そのものへの濃厚にオタク的な目線としても生きている。
これまで60年間、踏みにじられぶっ倒されてきた被害者『ビルと電車』が、最後の最後でゴジラを乗り越える決定打となる展開は、文脈を徹底的に抑えたオタク以外には作り得ない展開だと思う。
己が創りだした"エヴァンゲリオン"がどれだけ特撮の(もしくは"新幹線大爆破""太陽を盗んだ男""激動の昭和史 沖縄決戦""日本のいちばん長い日"といった昭和映画の)文脈の上にあり、その先に新しい"ゴジラ"が生まれてくることの意味を、徹底的に考え抜いたオマージュと引用の嵐で埋め込むオタクの視線は、原点回帰しつつ60年分の年輪を刻まれたジャンル作品としても、この映画を際立たせている。
そのディテールと文脈への目配りが作中のリアルズムを支え、『もし、ここにゴジラがいたらなぁ』と思わず考えてしまうような映画体験を可能にしているのならば、オタクと政治の間にブリッジがかかっているのは、何も劇中のことだけではないだろう。

最初から最後まで、細やかなリアリズムで物語が展開するわけではなく、ヘリ撃墜と東京陥落という負のカタルシスを以って、露骨に物語の方向性は劇的な方向へと舵を切る。
それはなにも、『無人在来線爆弾』というパワーワードと、意志を持って跳ね上がる各種車両の、ストローのごとくポンプ車をゴジラの口に突っ込む絵面のバカバカしくも絶大な快楽だけではなく、『人間の絆と勇気が、巨大な困難を乗り越えうる』という、物語への幽き祈りでもある。
半減期半年という都合のいい展開に、ずうっと笑わなかった尾頭が微笑む瞬間(それはおそらく、女性である彼女だけが体感可能な放射能への恐怖を反映しているのだろう)は、なかなか現実には訪れない。
それでも、前を向いて顔を上げて進み続ける『夢』としてお話が終わるのは、凄く誇り高く大事なことだと思うのだ。


過剰な語り口と情報量を、高速かつ多様な分割で描きつつ、孤立した要素に的確にブリッジをかけ、大きな物語タピストリーを描ききる。
一人ひとりの物語に拘泥することなく、しかし印象的かつ確実にそこに込められた情をフィルムに埋め込むことで、ストイックで誇り高い『ヒューマン・ドラマ』を、ジャンル映画の中にこめる。
徹底的にディテールを彫り抜き、『ゴジラ』という絶大な嘘を過激なリアリズムで装飾し切ることで、存在するはずのない大怪獣のことを大真面目に考えてしまう読後感を生む。

様々困難なことに挑み、成功している映画だと思いました。
とても上手い映画だし、良い映画だし、ヘンテコな映画であり、僕がとても好きな映画です。
"シン・ゴジラ"、素晴らしい映画です。
作り上げて見せてくれて、本当にありがとう。