イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

甘々と稲妻:第8話『明日もおいしいイカと里芋の煮物』感想

山あり谷ありの人生を美味しいご飯と愛情で乗り越えていくアニメ、今週は規範の拡大とグリーフケア
参観日からコロコロと話が転がっていって、母の思い出を再演しつつ、思い出を再整形して生き続けなければいけない人の無情と優しさにたどり着くお話でした。
自分の娘相手なんだから土足で踏み込んでもいいのに、『汚れたバッグ』というヨスガに手を入れるに際し許可を取る辺り、犬塚先生の人間の出来方を再確認する話だった……。
血縁だから、年下だから、女だから。
そういう緩みが一切なく、人間としてするべきことをしっかり出来る男は、やっぱ立派だよ先生……。

今回は『イカと里芋の煮物』と『汚れたバッグ』という2つのフェティッシュが同じライン上に乗っかり、過去と現在、そして未来に繋がる生き方をじっくり見据える話となりました。
人は死んでしまったり、間違えてしまうという古来からの宿命について語ってる点では前回と同じなんですが、今回は親子が言い争うこともなく、お互いの気持を穏やかに受け渡しをしていて、いろんな語り口を持っているお話だなと思いました。
波風立てて語れることもあるし、穏やかな語り口で切り取れるものもあるし、ともあれ色々やれるってのは作品として強いことだ。

まず大前提として、母は死んで帰ってきません。
年長さんに上がったからといって新しいバッグを作ってくれることはないし、前と同じ煮物を同じ味で作ってくれることはない。
しかしつむぎは『お母さんを返して』とは言わないし(それを言われてしまったら、あまりの痛ましさに俺耐えられないと思うけど)、オクラと王冠が入った小鳥の煮物を『美味しい』と言ってくれる。
その賢さと物分りの良さが、ほんの少しだけ寂しくて、たっぷりとありがたいエピソードでした。


つむぎは変化を恐れていないし、ロボットのように(もしくは『良い子』のように)母を失った痛みを感じていないわけでもない。
時の流れに押し流されて、時に生病老死の苦しみに直面し、でもたいがいは保育園の先生やお母さん達のように、優しい人たちに見守れながら暖かく行きられる世界で、彼女は彼女なりに、彼女らしく生きている。
今回彼女が煮物を求めたのも、アップリケを許してくれたのも、幼い彼女なりの知恵であり、犬塚先生が許可を求めたのは、そんな彼女の知恵を尊敬しているからだと思います。
そういう部分にきっちりリスペクト持っているの、マジ人間として最大級に尊い行い。

過去≒母/妻の死にしがみついたままでは生きていけないけれども、それを忘れることも出来ない、忘れてはいけない時間を、犬塚親子は生きています。
一見ただの『優しい世界』にみえるこの作品の背景には、常に死の暗幕、時間の残酷な不可逆性が横たわっていて、『食事』はそういうニヒリズムに抵抗するための武器であり、こっちの岸にい続ける歓喜を共有する場でもある。
味覚という個人的感情を集団の中で共有するBパートは、『他人』であるはずのミキオくんのお母さんが、犬塚家の母が死んだ事情を斟酌してくれたり、好意を素直に表すよう諭されたミキオくんがつむぎに『お嫁さんにしてやってもいいぜ?』と言ってくるAパートと、やっぱ繋がっているように思うのです。
主役だけではなく、脇役のミキオくんも人生に学んでジェントルに育っていて、お母さん良い教育してんなぁと思います。

煮物の味は家族の中に埋め込まれた個人史であり、犬塚親子以外には共有し得ない、大切な思い出です。
しかし正式な手順を踏み、傷つきやすい感情に敬意を払って踏み込めば、『家族』や『個人』といった閉鎖系に陥りがちな場所もまた開放され、『明日』に向かってつながっていく。
望むと望まざると、時間の中に置いてけぼりにされてしまった生者はそういうふうに生きていくしかないわけで、仮にそれを拒絶し孤立したら、食事会に出会う前に接近したような魂の荒廃にいつしかたどり着くでしょう。
それは死人に近い生活で、そういうやり方で母/妻に遭う方策ってのも犬塚親子にはあったんでしょうが、幸運にして(もしくは不幸にして)彼らは小鳥ちゃんと出会い、食事をともにし、『明日も美味しい』新しい煮物を食べることにした。
これまで描かれたのと同じように、そんな感じで母/妻とは違う時間の流れを生き延びなければいけなくなった親子は、『昨日』ではなく『明日』に進むことにしたわけです。

親子の『現在』において母/妻の思い出は打ち捨てられるのではなく、むしろ『明日』に向かって生きるための武器として大事にされ、幾度も補修される。
『アップリケで補修されたバッグ』を評してつむぎが言った『おとさんとママの合体』という言葉は、そのままつむぎ自身にも当てはまる定義です。
つむぎが思い出と一緒にバッグを捨てなかったこと、その選択を犬塚先生も尊重し『過去』をアップリケで『未来』に接合したのは、『過去』に縛られるのでも打ち捨てるでもなく、実感を込めてゆっくりと受け入れていく、食卓を映す中でこれまでいくども描写されたスタイルの、別の形な発露なのでしょう。


煮物に込められた家族史すら共有できてしまう食事会は、かなり特別に緊密な空間なわけですが、それ以外の形でもこのアニメの空間は開けていて受容的です。
うんこするために離席したミキオくんを、つむぎは『待っている』と言う。
排泄という個人的な空間にはお母さん以外ついていくことはないけれども、しかし個人的な事情を置き去りに先に進むのではなく、『待っている』ことは他人でも出来る。
場を同じくする食事会と、『待っている』場、参観日という『共有する』場が同じエピソードに描かれているのは、このアニメらしい多角的な描写だなと思いました。

このアニメはBパートに食事会の緊密で個人的な空間を、Aパートにそれ以外の様々な空間を配置する形式で進んでいます。
食事会は人情と共有の快楽がみっしり詰まった、いわば『見せ場』なわけですが、それだけを映し続けても食事会の意味は惹起されない。
犬塚親子と小鳥ちゃんの世界があの小料理屋だけで閉じているのではなく、時間が『現在』だけで止まっているのではなく、関係性が様々な方向に伸びていることをAパートで示せているからこそ、それを集約し整理し共有する場所としての食事会が、豊かな意味合いを持つわけです。
なので、今回Aパートでうんこの話したのは、凄く良かった。
つーかミキオくんとお母さんがタフでジェントルで良かった。

多様性はパートごとだけではなく、エピソードの間にもしっかりかかっています。
前回のような派手な衝突もあるし、今回のようにお互いの心を慮り、なだらかに気持ちを着陸させることもある。
いろんな事が起きつつ、それら全てがキャラクターの人生なのだという統一感を出す意味でも、毎回同じ場所、同じタイミングで食事会という共通の事象が起こるのは、大事なのかもしれません。
多様性と統一性を表現するリズムが上手いのは、このアニメ見てて心地良いと感じる大きな理由なんだろうなぁ……穏やかなムードの中に起伏を感じる。


そんなわけで、開けていて同時に閉じている、思い出を大事にすると同時に前に進む、複雑怪奇な人生運動のお話でした。
小料理屋の閉じた暖かさと、開けた世界のありがたみを同時に描くことで、いろんな繋がり方を肯定しているのは、やっぱり良い。
その主張が声高な説教ではなく、あくまでキャラクターの日々を切り取ったストーリーに収まっているのも、ストイックで強いと思います。
やっぱ良いアニメやね、甘々と稲妻