イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

バッテリー:第9話『バックホーム』感想

家路より遠く離れて己を鑑みれば、即ち童心遥かなりといった風情の青春譜。
第9話の今週は雪解けの後の対決に向けて、揺れる心に収まる心、色々な関係性の風景を切り取るエピソードでした。
俺達の天使・青波が接着剤になって無心で三角ベースをしたかと思えば、修復の兆しを見せたバッテリーは複雑に揺れ、三年生たちは複雑怪奇な胸の内をお互いぶつけあう。
好きと嫌いが入り混じり、単純な色合いなどどこにも生まれようがないそれぞれの青春が、原色で叩きつけられるお話でした。

バックホーム』なるサブタイトルを貰った今回、少年たちは勝ちも負けも、敵も味方もない楽しい三角ベースから物語を始めます。
それは彼らが苦しんでいる『野球』とはまた違った、何も悩む必要のない楽しい遊戯として描かれています。
青波にとっては一切くもりのない、ただただ楽しいだけの『野球』に似た競技ですが、青波を『オチビ』と言ってしまえる程度には身長が伸びた少年たちにとって、それは『ホーム』と言うには遠くにありすぎる光景です。

思春期の面倒臭さと肥大化した自意識に喉元まで浸かり、ともすれば窒息しかねないプレッシャーを感じ続けている少年にとって、三角ベースはいっときの息抜きにはなっても、己の全てをかけて向かい合う『何か』足り得ない。
死にたいほど苦しい感情があって、殺したいほど愛している相手がいて、初めて実感される『何か』が野球の中にあればこそ、彼らは展西のように野球に背中を向けず、殴り合いまでしてマウンドやバッターボックスに飛び込んでいく。
敵も味方も、天才も凡人も、勝ちも負けも『あなた』も『わたし』も無いような無邪気な瞬間には、小学校をすぎてしまった少年たちは戻りたくても戻れないし、おそらく戻りたいとも思っていない。
(一人『永遠にこの時間が続けばいいなぁ』とボヤく沢口の幼さと純朴が、むしろ残酷にすら映る構図でしたね)

しかし同時に、『野球』の本質には今回の三角ベースのような、一切の区別がない楽しさというものがあって、それをいつか何処かで感じたからこそ、彼らは『野球』が好きになった。
それはかつて、巧の祖父が予言的に呟いた『野球は楽しいもんじゃ』という言葉と響きあう、いわば『野球』の『ホーム』としての感情です。
巧は『楽しいと思って野球をやったことは、一度もない』と呟いていますが、たとえ無邪気であることを許されている季節にそれを感じなくても、『野球』を続けていれば、その幸せな瞬間を見つけられるかもしれません。
あらゆるしがらみや拘りから引き剥がされ、素裸の自分で『野球』を楽しめる瞬間。
それを無意識のうちに巧に求めていればこそ、あまりにも強く巧に執着する門脇の姿は、瑞垣が的確かつ残酷に指摘したとおりです。

青波が潤滑油としてまとまった三角ベースは、いわば一時の夢であり、今の彼らの『ホーム』は重苦しくて面倒くさい『野球』です。
しかし夢であっても、そこで何らかの楽しみを見つけられたからこそ、豪は再びキャッチャーマスクを取って、巧と向かい合うつもりになったのではないか。
三角ベースの中で感じ取った『ホーム』の幻が、思い悩む豪に少しでも気晴らしになってくれればいいんですが、今週『バッテリー』はほぼ自分たちの気持ちを喋らなかったので、なかなか判別がつきませんね。


三角ベースでは童心に帰り、素直に己を見せていたように見えても、彼らにはすぐさま思春期が押し寄せてきて、自分でも払いようのない混沌の霧に心が覆われていきます。
むっつりと押し黙った『バッテリー』の内心は来週描写するとして、今回は海音寺・門脇・瑞垣の三年生トリオの内側に分け入っていくお話になりました。
海音寺からみた『バッテリー』の現状を描写し、それを横手二中の二人に伝えることで大きな波乱が起きる、という構図ですね。

打席から見た『バッテリー』は、精神的な波乱を反映して安定せず、しかし衝突や挫折を経験する前よりもより強くなる可能性も秘めていました。
こういう形で成長の可能性を見せるのも、気が利いていて面白いところですが、あくまで発展途上の彼らがどこに落ち着くかは、来週以降の話になります。
今回描かれていたのは巧の『ピッチャー』としての天才と、それを引き出す豪の『キャッチャー』としての凄みが、海音寺の感情を揺さぶり、どす黒い本音を引き出した事実。
そしてもう一つ、戸村のかすかな変化です。

高圧的に自分の理想を押し付けた結果、展西の離反を招いた戸村は、今回海音寺の意見を隣で聞き、『バッテリー』の変化を生徒の側から見ようとします。
前回豪に見せたように、まだまだ身勝手で残酷な面を制御しきれない戸村ですが、少しは一方的な支配をゆるめ、生徒の顔を見た関係を作ろうとしている姿が、今回は描かれていました。
戸村もまた、巧の祖父に見捨てられた(と思い込んだ)思春期から逃れられない、身長が伸びすぎた子どもとして描写されてきた以上、ナイーブな心の負の側面だけではなく、他者にとって、そして自分にとってプラスとなる成長する余地も、キャラクターには与えられているわけです。
年令に関係なく、ナイーブでやわらかな感受性をどこかに持ち続け、良かれ悪しかれお互い響きあって変化していくダイナミズムと多様性は、やはりこの作品の大きな魅力だと思います。

僕が感じるもう一つの魅力、『天才の複雑な描き方』も海音寺の訪問シーンでは生きていて、混乱のただ中にあっても巧は常人には投げられない玉を投げ、豪だけがそれを引き出せます。
バッターボックスでそれを受け取った海音寺は、ただそれに惚れ込んで感心するのではなく、嫉妬とも憎悪とも付かない複雑な苦味を覚え、それに困惑する。
自分が天使ではないと思い知ることが思春期の入り口だとしたら、『物分りの良い、世話焼きの先輩』という側面だけが強調されていた海音寺は、今回巧の天才に火を付けられ、魂の黒い煙を燻らせることで、ようやく思春期に入った、とも言えます。
まぁ彼はもともと相当複雑な人格を折り曲げて、色んな人の表情を見ながら『野球』を続けていたわけですが……そうでなければ、展西があそこまで海音寺に魂を預けはしないでしょうよ。


とまれ、海音寺が受け取った衝撃を横手の二人に伝えることで、天才と凡人の長く続いた関係は大きく変化してしまいます。
相手を思いやって優しく歩み寄るのではない、まるでナイフで切開するかのような荒々しさで、己と門脇の怯えを切り開き、本心を抉り出そうとする瑞垣。
それは海音寺が伝えた天才・原田巧の現在に刺激されてのものでもあるし、春を契機に門脇から離れる決意が生み出した、一種の関係整理でもあります。
もうぶち壊しにしてもいいくらい堪えてきて、もうぶち壊しにするしかないほどに傷ついてきたんだろうな、瑞垣。

衝突の果てに挫折し、再び立ち上がって『バッテリー』を組み、しかし未だ不安定な可能性の中にいる巧と豪。
その姿はおそらく、幼少期から複雑怪奇な感情を秘めつつ、『野球』で繋がってきた瑞垣と門脇の関係性の、歪な鏡です。
天才に引きつけられ、素直な喜びと衝撃に揺さぶられ、追いつけない自分に嫌悪と失望を覚えつつ、それでも誰よりも、天才に天才でい続けて欲しいと願ってきた瑞垣。
己を覆い隠し、お調子者の秀才の仮面をかぶり続けてでも天才の介添人でいることを選んできた彼ですが、それはもう限界に来ていて、だからこそ高校で彼は『野球』と門脇から離れ、今回全てをぶち撒けることにしたのでしょう。

彼が今回、門脇すら気づいていない本心を無遠慮にえぐり出し、巧への恐れや憎悪を引きずり出そうとするのは、自分以外の誰にも門脇秀吾を土下座させたくなかったからだと思います。
心の奥底で豪華のようにくすぶる黒い感情を直視しないかぎり、門脇のコンプレックスは解消されないし、門脇が巧に勝つことは出来ない。
『ええかっこしい』で『良い子』な他の二人に比べ、自分の本音と常に向かい合い続けただろう門脇は、その事実に強く気づいています。
お互い支えあい歩み寄るような、穏健で正しいやり方ではないけれども、この機会に切開しなければ自分も門脇も何処にもいけないと思いつめたからこそ、瑞垣は今回、『ええかっこしいをやめろ』『俺に土下座しろ』という、強すぎる言葉を投げかけた。

その不器用で狂おしい攻撃的な愛情が、僕はやっぱり好きです。
それは両手を上げて褒められることではないのかもしれないけど、瑞垣がそこに生きている以上生まれてしまう感情であって、否定した所で消えてなくなるわけじゃない。
物分かりよく消化の良い感情だけを選びとり描く方向も悪くはないんですが、あまりにも狂暴であまりにも純粋な瑞垣の捻じくれ方を今回、真っ直ぐにじっくりと描いてくれたのは、展西の歪みと苦痛をちゃんと描いてくれたことと響きあう、このアニメの真摯さだと感じました。


門脇は戦術的に『悪い子』になることで、門脇の側にいる資格を捏造してきた、天才相手に真正面から向かい合わなかった人物だと思います。
完全無欠・絶対不敗の天才バッターとして周囲に期待され、それを重荷に感じつつも結果を出してきた『良い子』の門脇をずっと見つめ続けてきたからこそ、門脇になりたいと願いつつそうはなれない瑞垣は、『悪い子』になることを選んだ。
そうすることで、無邪気に『野球』だけを見つめる門脇の足りない部分を補い、一種の軍師的立場で凡人が天才の横に居座る理由を、自分で作ってきたんだと思います。
あまりにも長く続いたその演技はもはや瑞垣の人格それ自体となって、彼は本心をけして口にできない『悪い子』以外にはなり得ないわけですが、しかし彼は同時に、誰よりも門脇を思う『良い子』でもある。
そうでなければ、わざわざ殴られて(というか、意図的に激情を誘って殴るという行動に門脇を誘導して)まで、門脇の本心を切開するカウンセリングまがいの行動なんて、取らないでしょうよ。

同時に、彼が門脇に土下座して欲しかったのは、本当の気持だと思います。
豪が巧を殴りつけ、『俺の方を向かせてやる!』と吠えた感情と同じ熱が、ずっと燻っていたのだと。
巧と門脇がそうであるように、天才は天才にしか本当の衝撃を受けないのだとしても、凡人のまま天才を振り向かせたかったのだと。
そこにはどうあがいても埋めようのない天才と凡人の距離が、瑞垣俊二が門脇秀悟という星を高く高く見つめ続けて、そうなるしかなかった捻れ方で追いかけてきた哀れで美しい道のりが、しっかり刻み込まれているのだと、僕は思います。
それは豪や巧や展西や戸村や、この作品に描かれている他の少年たちともまた違った、瑞垣俊二ただ一人の、特別な青春の軌跡です。

それは『普通』ではけしてなくて、もしかするとあまり良くはない足あとなのかもしれませんが、情熱と妥協と苦痛と後悔と愛情と、ともかく瑞垣俊二だけが感じ得る様々な感情をたっぷり練り込んだ、一つの特別な『絵』です。
青波や沢口のように無邪気かもしれないし、巧のように閉鎖的かもしれないし、豪や海音寺や門脇のように『良い子』を演じているのかもしれない、様々な青春がそれぞれの価値を持ってこのアニメの中には存在していて、その中の一つとして、瑞垣俊二の青春が叩きつけられた『絵』。
どのように仕上がるにしても、その一つ一つ違う『絵』を大事に、嘘いついわりなくジックリ描いてくれるこのアニメが、俺はやっぱり好きです。


捻じくれて歪んで熱い瑞垣の『絵』を叩きつけられた門脇が、一体どうなるのか。
『良い子』のままでは巧には勝てないと突きつけられて、己を、そしてかけがえのないチームメイトでもある瑞垣をどう扱っていくのか。
『良い子』の檻から抜け出しつつある豪の描写とも重なる所で、非常に気になる部分であります。

剥き出しの青春と己自身の『絵』を叩きつけあいながら、凹んだり傷ついたりそれを直したりしながら、少年たちは春に向かって進んでゆきます。
沢口の幼くて美しい願いのように、時間は止まってはくれませんが、その流れに対応することで生まれてくるものが、かならずあるはずです。
三角ベースの無邪気な楽園を何処かで夢見つつ、痛みを込めて己の青春を踏みしだく少年たちの歩みが、どんな軌跡を描いていくのか。
僕はとても楽しいし、相変わらず楽しみなのです。