イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダムUC RE:0096:第22話『帰還』感想

かくして箱は開かれ希望は解き放たれ、少年たちはようやく還る。
旅立ちの行く先を知らないままに。
ガンダムが終わっても続くガンダムの話、最終回です。

コロニーレーザーすら弾き飛ばすサイコ・フレームのインチキパワーの代償として、神の領域に踏み込み消えかけたバナージを此岸に留めたのは、あまりに人間的なもう一人の少年、リディ・マーセナスだった。
ミネバの演説が世界中に響く中、メガラニカは連邦の追手に背を向けて語られぬ未来へと漕ぎだす。
流石にラストのラスト、じっくりと見せる最終話となりました。
いろいろ言いたいことがあるのですがなかなか言葉になってくれないので、いつもの様に書きながらまとめていきましょう。

心の壁を突破し、時間すら飛び越え、コロニーレーザーという絶対的な破滅すら弾き飛ばすサイコ・マシン。
悪しき『公』に『私』として反逆するための神の力の代償は、バナージを人間から神、もしくは死人の領域まで一気に押し上げ、彼岸にまで引っ張り込んでしまいます。
TV版Zでカミーユが超えてしまった一線を、リディが生々しい根性を振り絞ることで生者の側に引っ張り込んで、お話は主人公を失わないまま終わりました。

大人の忠告は必ず守り、青臭いエゴを適度に発散しつつも身勝手といえるほどには暴走させず、失敗に学び成功を糧とする、基本的に正しい少年、バナージ・リンクス
彼がユニコーンの魔力を極限まで発揮した結果、マリーダが死後到達した善悪の彼岸に行き着き、人間の形を捨ててしまうのは、ある意味必然というか、奇跡の値段として適当というか、結構納得がいく展開でした。
理想的な、時に理想的すぎる『私』の発露と制御を行ってきたバナージが、人間をやめて神様になってしまうのは、彼の清潔さに救われつつ共感しきれないものを感じてきた視聴者としては、最後の最後で矛盾が吹き出た形で、結構シックリ来た。
『私』に付きまとう負の側面、身勝手さや狂暴なエゴイズムを抑えこみ、『私』の理想的な部分で人と世界を救い続けてきたバナージの行き着く先は、結局そこだろうなと。

つまり、『私』を極限化した結果『無私』の存在になりかけたバナージを、バナージが背負わなかった『私』の悪しき側面たるリディが現世に引っ張り上げるラストも、ある程度以上納得がいったということだ。
途中の描写があまりに不足していて、物語的なしわ寄せが過剰に押し寄せているとはいえ、リディが果たすべき物語的役割は『主人公の影』であり、そんな彼が散々に悩んだ(正確に言えば、的確に悩むことすら許されなかった)悪しき『私』を乗り越え、バナージを人間に押しとどめるラストは、非常に綺麗な構図だ。
そこに収まることが可能なほど、リディ・マーセナスに物語的要素が振り分けられていたかどうかは、また別の話である。


このくらい美味しく綺麗な仕事が回ってこないと、リディ自身も、暴走しきった彼を人間に押しとどめるために死んでしまったマリーダさんも、あまりに報われないだろう、という意識もある。
人間を超越したバナージの前にマリーダが出てくるのは非常に象徴的で、死んでようやくエゴの桎梏から開放され菩薩となれたマリーダが、リディとバナージという二人の子供/男を抱きしめ、受け入れる物語がそこで完成するからだ。
強姦と堕胎という不要な汚泥に押し付けられ、父であり子供でもあるジンネマンの魂を癒やし救い、死ぬことで(もしくは死んでなお)迷える子供たちを導いた慈母としてのマリーダ。
死んでしまった彼女はもう二度と間違いを犯すことはないし、人間なら必ず付きまとう失望とも無縁のまま、永遠に母であり恋人であり女である聖なる存在として、UCという物語を抱擁し続ける。
それはそれで図式的に綺麗な物語だが、僕個人はやはり、アイスクリームが好きな10代の少女として、失敗したり間違えたりするつまんない存在としてのマリーダ・クルスの物語を、その後の物語として妄想したかった。
逆に言えば、そういう願いをリディが背負って、自分が殺したマリーダの代わりにバナージを現世に引っ張り上げる終わり方だった、とも言えるか。

マリーダさんは己の過去を蹂躙尽くされ、テロリストとして『間違った』人生を送っている、ネジ曲がった大人だ。
しかし同時に年齢と精神の瑞々しさにおいては少女であって、しかし陵辱と妊娠と堕胎を経験しているという意味合いにおいては大人でもあり、生殖機能を略奪されているという意味では老人ですらある。
そういう複雑な女だからこそ、リディとバナージとマリーダ、三人の主人公全てに強い影響を及ぼしえたのだろうし、僕が色んな物を背負った彼女が物分かり良く(それこそ、過去においてそのように性暴力を受け入れるしかなかったかのように)人間のエゴを受け入れる終わりなんて見たくなかったのは、やっぱり彼女が魅力的に描けていたからだ。

今正に彼女自身の『可能性』を展開できる未来を掴みかけて、結局正しい死人になってしまった彼女への無念は、作品への恨みではなく賞賛として今の僕には感じられる。
それほど後ろ髪を引かれるキャラクターを作り得るってのは、やっぱりすごい事だ。
でも俺は、やっぱマリーダさんには生き残って、アイスクリームを腹下すほど食べたり、ジンネマンの生臭い部分に幻滅して袂を分かったり、その後復縁してギクシャクしたりして欲しかった。
バナージと同じように、完璧な神ではなく不完全な人間に戻って、物語を終えて欲しかったのだ。
それはどうにも、叶わぬ願いである。

この物語において、死人は間違えない。(唯一の例外はフル=フロンタルに憑依していたと思しきシャア・アズナブルだが、そこで間違えたのはあくまで『袖付き』首魁であり虚ろな総意の器であり、シャア自身は『一時の気の迷い』のようにラストで急に成仏して去っていく。結局、死人は間違えない)
カーディアスやダグザ、ジンネマンの家族が遺したメッセージは常に正しいものとして扱われ、そこに最高すべき余地があるのではないかとキャラクターたちが思い直すことはない。
間違っているのは常に生者で、愚かなエゴを乗り越え死人がたどり着いた綺麗な境地に行き着くことで、もしくはその呪縛に再度己を縛り付けることで、より『正しい』道へと歩いて行く。
そういう構造が根底にある以上、ゼネラルネビル搭載のMS兵器という人間的な『暴力』を歯牙にもかけず、一瞬で無力化した『超・暴力』的存在になったバナージが、人間の身体と歴史を捨て去り、神様になってしまうのは、何度も言うが納得がいく。

かくしてバナージは失敗も破滅も含めた『可能性』の世界に帰ってきたわけだが、そこから先の物語はそれこそ『可能性』の雲として不確かに存在していて、もはやこの物語に此処から先の物語を描く余裕はない。
幼く素裸のバナージが、偉大なるカーディアスに導かれ、見守られて、彼の指し示した『正しさ』を完遂するまでの物語。
身勝手で口下手な父親たち、勝手に理想を押し付け自分たちは死んで綺麗になってしまうおっさんたちを、彼らが失った『可能性』の塊としての少年たちが認め、受け入れてくれる物語。
最終話にも、というか最終話だからこそじっくりと描かれる演出の中で透けて見える、かつての(もしくは今も)少年たちへの、精神的鎮痛剤としてのガンダムUC
バナージが成し遂げた『ゆきて還りし物語』の完成度の高さ、感情の歴編の嘘のなさを認めつつも、僕はやっぱり、そういう要素を否定はしきれない。

バナージが制圧できた、荒れ狂うエゴの増幅装置としてのユニコーンを、リディも最後の最後で克服し、バナージとユニコーンがさんざん演じてきた人間救済のドラマで主役を張る。
しかしそこに至るまでの物語の中で、どれだけの足場がリディに与えられてきたのか。
主人公と同じ道を、別の角度から歩むもう一つの影として、彼がどれだけ踏み込んだ描写をされてきたのか。
むしろ、バナージを導きバナージに癒やされる年長者達の自己実現こそ、より分厚く、より強烈な物語的快楽を以って描かれてきたのではないか。
UCはバナージではなく彼を死人の立場から導くオッサン達の話であり、散々に否定してきた総意の器とはフル=フロンタルではなく、やはりバナージ・リンクスなのではないか。
そういう疑問は、最終回を見終わって暫く経つ今でも、脳髄で残響して消えてくれない。

リディがバナージに告げる『お前はまだ、生まれたばかりなんだから』と言う言葉は、結構難しい。
ユニコーンの力を極限化し、自我と身体を消滅させる『死』から帰還し、人間として二度目の『生』を生き直すという意味合いも含むだろうし(だとしたらリディは母なのか、産婆なのか、悩ましいな)、結局22話に及ぶUCの物語において、彼ら若人は年寄りに押し付けられた物語の決着をつけただけで、自分たち自身の物語を演じきれなかったという告白とも取れる。
それは語られざる来世の物語であり、語ってはいけない失敗の物語でもあろう。
彼らがこの冒険で手に入れたものをどのように受け止め、どのように活かしていくかは問題ではなく、冒険それ自体が何よりも大切なのだということは、重々よく分かる。
しかしそれでも、連邦という巨大な『公』に徹底的に背を向ける形で終わった物語の主人公たちが、己をどう定位するのか、その道筋くらいは感じ取りたかった気もする。

背景として描かれるミネバの演説が、UC世界全てに広がった後の世界は、どんな風になったのだろう。
約束された未来として連邦の腐敗と薄皮をはぐような弱体化、脱中心化を経ての衰退が待っているにしても、この物語が追い求めてきた『箱』の中身が、『公』の世界に一体何を成し得たのか、物語に最後まで付き合わさせてもらった身としてはやはり気になるけれども、それは語りえない物語だ。

そういう制約からこのアニメは始まっているのだから、最初から約束された終わりだとも言えるし、そう終わらせるためにミネバもバナージもリディも、何かを背負いながら己の物語を語り続け、色んなサービスを考えながら物語を展開させていくスタイル以外を選びようがなかったのかもしれない。
どちらにしても、この物語の『先』は僕らの想像力の中だけにあるのであって、それがまた、アクシズ・ショックをモニター越しに見た人々に対してそうであったように、新しい神話を捏造していくのだろう。

ミネバの演説が画面の真ん中ではなく、端っこに捉えられ続けたのは、僕個人としてはすごく納得の行く収め方だった。
オードリー・バーンではなくミネバ・ザビとしてあそこに立つ以上、彼女という『私』は極限まで希薄化され、彼女が体現する『公』だけが無限に残響し拡散していく。
言葉は根本的に誤解され、あるいは伝わらない負の『可能性』を以って、ニュータイプならざる人間唯一のコミュニケーション手段として存在しているのだから、あの演説においてオードリー・バーンの身体が希薄だったのは、むしろあの演説がより広く、より多くに届く『可能性』を示している、良い演出だったと思う。
それは、ミネバの言葉を蔑するマーサの表情が常にクローズアップで描かれ、非常に濃い口の演技を付けられていたことと、表裏一体の演出をなしている。

ミネバ・ザビが『公』の主人公としてバナージを補いつつ、同時にバナージが還るべき恋人、『私人』オードリー・バーンでもあったという物語は、父の影響下を離れたバナージが見つけた魂の道標が、オードリー個人であるという演出にも見て取れる。
リディが抱きたくて抱きたくてしかたなかったけど、ついに最後の最後でバナージにその特権を譲った『私』としての身体性を、放送に乗って世界に拡散していたオードリーも、サイコ・マシンを極限化して神となったバナージも、あそこで取り戻すのだ。
今までそうであったように、非常に健全な『私』に戻ってきた二人が抱き合うシーンが直接描かれないことは、非常にUCらしいし、そこにセシリー・フェアチャイルドを探し見つけ抱きしめて終わったシーブック・アノーの物語(『富野のガンダム』)との対比を見出すのも、無茶筋ではない気がする。

連邦に軍属しない『私』の物語を歩いてきたバナージが、機械仕掛けの神という極限的『私』になり、バナージから喪失された『公』をミネバ・ザビが演説という形で世界に拡散する。
『公私』に渡り補い合う(これが結婚の文脈で使われる言葉なのは、ラブロマンスでもあったこの物語にとっては祝福だろう)二人の物語はこの最終話でよくまとまっているのだが、それが向かう先はあくまで『公』からの離反としての『私』であって、確立した『私』で『公』を変えていく方向には進み得ない。(そうした場合、連邦は綺麗な組織になってしまって、タイム・パラドックスが起こる)
悪しき『公』から離れ、己の信じる道を進んだ善き人たちの方舟たるメガラニカは、あくまでゼネラルネビルという、一年戦争表向き最大の英雄の名前を関した『公』に堂々と向かい合うのではなく、距離を開け背中を向ける方向に進んでいく。
方舟がミネバの喉を借りて世界の真実を歌い、それを守るために退却していくあの幕引きこそがUCの良心であり、同時に限界でもあろうと僕は感じた。

冷戦が終わり、逆シャアはおろかVガンを経て∀とGレコが放送されてしまった2016年において、巨大な『公』に『私』が影響を及ぼしうる物語は、神話としてもおとぎ話としても語りえない、説得力のない物語なのだろうか。
それともUCは、そもそもにおいてそういう場所を睨まず、あくまで少年の『私』探しと、『私』探しに失敗した大人達の個人的な物語であって、『公』を『私』たちの集合体(あくまで理想論であり、現実的には常に総体は構成要素の総和を凌駕するのだが)として語り得るアプローチは、最初から睨んでいなかったのか。
この答えは、もう少し時間をかけて考えたい。

全てにおいて、少年たちの物語はUCにおいては『これから』の物語なのだ。
それは描かれないことで『可能性』を極限化する祝福でもあるし、正しさを増幅しすぎて実感を失わせる呪いでもあるし、描かれない空白に他人の(ともすれば、己の『可能性』を擦り切れさせてしまったかつての少年たちの)物語を代理で展開させるための余白でもある。
そういう不自由さがUCの特色であり、特徴であり、なんなら限界で欠点でもあるのだろう。
それが最期の瞬間に見て取れるということは、ガンダムUCは作品の最後まで、己らしさを見失わず貫いた、ということなのだろう。
それは一つの作品が語られる上で、祝福されてしかるべき姿勢だと思う。


『可能性』を焼きつくして空疎な、『間違えた』大人になってしまったかつての少年たちが、清らかで理想的なかつての自分を主人公・バナージ・リンクスに投影し、彼の青春の達成を持って己を実現する物語。
それと同時に、一少年バナージ・リンクスが様々な出会いと別れを繰り返し、適度に思い悩みながら唯一絶対の『正しさ』を己の中に見出し、もう一度産まれるまでの物語。
このTV放送を機に、約10年遅れで初めて出会ったUCと言う物語は、終わってみればこういうお話だったと、僕には思える。

ノスタルジーの発露、精神的鎮静剤、ジュブナイル宇宙世紀神話の再話、ガノタへのファンサービス、『公』と『私』を巡る多層的なダンス、ロボットアクションの極限、『ガンダム』を糸にして織り上げた職人技のタピストリ
様々な見方ができる物語だし、それが可能になるほどいろいろなものが、このアニメには詰まっていたと思う。
その豊かさ(と、それにどうあがいても付きまとう不徹底さ)は、やはり良いものだったのだろう。

バナージたちが見出した『可能性』が具体的にどこに行き着くのか。
このお話が『ガンダム』である以上それは語れない物語なのかもしれないが、彼らのファンとしてはぜひとも語って欲しいものであるし、想像のままにとどめておきたくもある。
ともあれ、その先の物語に想像の翼を広げ得るだけの愛着と迫力と豊かさをこの物語が持っていたからこそ、色々あれこれ考え、グダグダと書き連ねることにもなったのだ。

つまりユニコーンは、面白くて良いアニメだったということだ。
ガンダムUC RE:0096、楽しませていただきました、ありがとうございました。
いろいろと思い悩むことも含めて、心を動かされ楽しめる素晴らしいアニメでした。
やっぱなー当然だけども、話題を掻っ攫うアニメってそれだけのことはあるよ!(当然の場所に帰還した愚者の顔でエンドマーク)