イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

バッテリー:第10話『その日を再び』感想

望むと望むまいと、雪のように時間が僕達の上に降り積もる早春の数え歌、雪解けて花綻ぶ第11話め。
約束の時が迫る中、未だ真正面から向かい合えないバッテリーと、別の形で繋がった天才と凡才と、より大きな場所に漕ぎ出ようとする元キャプテン。
それぞれ別の形をした『野球』が怪物のように胸の中で育ちつつ、まだ羽を休める場所を知らない過渡期のお話となりました。
それぞれが収まり悪く、言葉を探しながら己と世界の距離を探している感じが、歯がゆいような心地良いような、このアニメらしい構えでした

お話が後半に進むにつれ、群像劇としての色合いを強めているバッテリーですが、今回は特に海音寺主役の色が強いお話でした。
巧も豪も、門脇も瑞垣も胸を張って『野球が好きだ、楽しい』とは言えない状況で、ただ一人野球を信じ、そこに込められた熱意を信じ、『みんな』でやる野球を愛していると胸を張って言える青年、海音寺一希。
『野球が無くなってしまったら、自分は自分ではなくなってしまう』という強迫観念に様々な少年が支配される中、彼はずっと野球と自分の距離を適切に保ち、野球を好きで(そして野球を好きな自分を好きで)あり続けています。

それは門脇にも巧にもない、野球を愛し野球を愛される才能であり、むしろ勝ち負けのある競技としての野球を超えた理想を、野球に対して抱く才能なんだと思います。
ピッチャーが投げてバッターが打って、アウトカウントと点数が積み上がっていくシステムとしての野球とは並列して存在する、人間が魂を叩きつけ、己の全存在を預けれ競い合う場所としての『野球』を信じているからこそ、彼は『熱がある方が野球に勝つ』と言い切る。
彼にとってアウトや点数や勝利は結果であって目的ではなく、表面的な数字ではなくそこにたどり着くまでの過程と実態と実感をこそ『野球』だと感じられる、瑞々しい感性を生き残らせているわけです。
それは巧の祖父が巧に求めている野球認識であり、勝負の要といえるバッテリーの調整を任せた戸村が手に入れつつある職業認識であり、他の少年たちが近づきつつ遠ざかる世界認識でもあるのでしょう。

海音寺がリーダーシップを取る練習を通じて、新田東のメンバーは『野球』が好きになっていく。
彼が秘めた『野球』への信頼と情熱は確実に他者に伝わり、変えていく力を持っているのであり、それは門脇や巧とは違う形での、野球の才能なのでしょう。
人格を飲み込み孤立と断絶を呼びこむ彼らの才覚に比べて、海音寺の天才は他者に対して開かれ、創造的で前向きな側面が強い。
否応なく時間が進み大人になってしまう中で、ただ野球をする装置ではなく人格として生きていく以外他に道がないと知っている大人たちが、海音寺に期待をかけるのはなんとなく理解できる気がします。


しかし少年たちが皆、海音寺のように円かな人格を確立しているわけではなく、皆『野球』との距離に苦しみながら、自分なりのポジションと角度を探している最中です。
瑞垣は部活推薦を蹴り、野球から縁を切った高校生活を決意しているし、門脇は前回の衝突の意味を自分なりに考え、瑞垣との関係を再度作りなおそうと歩み寄る。
一年前は無邪気に甲子園を夢見ていた豪は『野球はもうしんどいだけだ』とぼやき、巧は他者との関わりを切った『ピッチャー』であろうと己を位置づける。
熱意とは全く関係なしに数字が積み重なる冷徹な『野球』と、本当の己を実現しその真実性によって他者と繋がることが出来る場としての『野球』との間で、少年たちは浮遊を続けます。

あれだけハードな衝突をしてなお、『野球』を捨てず瑞垣とも縁を切らず、夢中で巧一人に向かい合える門脇は、海音寺に一番近い位置にいます。
『野球』をするしかない宿命は門脇にとっては自然なもので、才覚溢れる彼の『野球』は人を惹きつけ、繋ぎ、勇気づける性質を持っている。
『野球』が好きなまま『野球』をやり続けていれば、結果が出るし人とも分かり合えるという意味においても、門脇秀悟は天才なのでしょう。

そんな天才によって歪められたからこそ、『野球』と距離を取ろうとした瑞垣ですが、本音を吐露して突き放したはずの門脇も、自分とは正反対に『野球』を信じる海音寺も、彼に近づいてくる。
それは露悪的で策士気取りの態度の奥に、不可思議な魅力を瑞垣が宿していて、自分の中の真実を預けてみたくなる『何か』を持っているからではないかと、僕は思います。
海音寺が瑞垣に連絡を取り、バッテリーを託された心境を語ったのは、もちろん彼が信じる『野球』への熱を瑞牆にも届けたかったからだとは思うけども、同時にそこには瑞垣でなければならない理由、瑞垣と語りたい理由があったのだと。
海音寺は今回瑞垣に『俺は自分の信じる『野球』を、お前とも門脇とも、豪とも巧とも共有して、その上で勝ちたいんだ』と宣戦布告しましたが、その裏には『お前もやはり、『野球』が好きで、今言葉にしている俺の思いを共有してくれるのではないか』という望みと信頼が、しっかりあったのではないかと。
瑞垣俊二は、自分から見えているほどには『イヤなやつ』ではなくて、同年代の親友たちから未だ手を離されない魅力のある、面白い青年なのではないかと、僕は思います。
まぁ僕は瑞垣が好きなので、『そう思いたいです』と言い換えたほうが適切かもしれませんが。


他人に期待する、信頼する、己の言葉を預ける。
ひどく単純で幼く、それ故にとても難しく勇気がいるこの行動を、巧は今回取るか取るまいか、ずっと逡巡を続けます。
豪に投げかけた『お前がキャッチャーじゃなくてもいいよ』という言葉は『お前、俺の友達になりたいのか』という言葉と繋がっていて、ピッチャーとキャッチャーという『野球』を離れた場所でも繋がりうる可能性に、巧はようやく目を向けてきているわけです。
それが思春期においてあまりに大きすぎる一年の蓄積によるものなのか、海音寺の情熱が伝播した結果なのか、豪とあまりに不器用に傷つけ合った結果なのかは、判別が難しいところですが。

巧は巧なりに、『ピッチャー』でしかない自分から離れ、『キャッチャー』でしかない豪以外の永倉豪を見つめようと足掻いている。
でも、あまりにも長く『ピッチャー』でいることを己に強いてきた日々は、海音寺が見ている『野球』とは全く違うものを巧に見せてしまっていて、簡単には離れることを許さない。
外に開けて自分を変えようとする運動と、『ピッチャー』であり続けて己を孤独に保とうとする内向きの運動が、原田巧を中心にして綱引きを続けている。
それに巻き込まれる周囲の人間はたまったものではありませんが、人間が一つの形に固まる前の季節というのはそういうものであり、そこを経験しなければ、人間は己自身を定義できないのでしょう。

巧は豪だけではなく、門脇も『バッター』という無味乾燥な型の中に放り込み、体温と感情のある一つの人間としては受け取りません。
それでは『野球』には勝てないと感じたからこそ、海音寺は『お前は怖くないのか、怖がれ』と巧に迫ってきます。
海音寺が体感し、他者に共有して欲しいと願っている『野球』には情熱が常に付きまとうものであり、それは他者との摩擦の中にしか生まれ得ないのですから。
才能ゆえに理解されず、ついてこれる相手もいなかった巧は、摩擦によって己が傷つくことを恐れています。
それは競技の中で『ピッチャー』と向かい合い、原田巧個人の魂をあれだけ受け止めてくれた豪に対しても(もしくは、だからこそ)発露する臆病さです。

海音寺が巧に必死に伝えたがったのは、その摩擦にこそ『野球』があり、チームメイト9人と敵9人、それを取り巻く様々な人達がいなければ成り立たない競技を、今自分たちがやっているのだという事実でしょう。
祖父の言葉に返事はしなくても、怒ってはいないと青波が見とってくれたように。
ひどく不器用な形で『キャッチャーとしての片倉豪以外でも、俺は向かい合う』と伝えたように(まっっっったく伝わってないし、伝わるわけがないけども)。
巧は海音寺が勝とうとしている『野球』に、だんだんと近づいてきているように思えます。

それは凝り固まった孤独な『ピッチャー』から離れ、ふてくされた子供であることを止め、少しだけ大人になって世界と他人の優しさを受け入れる、ということにもなるでしょう。
原田巧が好きな僕としては、最後の試合でどうにかそこに近づいてほしいものなんですが、そればっかりは巧自身が自分の足で踏み込み、実感しなければいけないことです。
祖父や戸村がひどく不器用に、巧がそうなってほしいと願うように、僕もまた、彼に『野球』をして欲しいなと思います。


一年前は『野球』が好きで、信じて、見えていた豪は、もう全然笑わなくなってしまいました。
天才・原田巧のボールを受けて少年ではなくなってしまった豪にとって、海音寺が見ている『野球』はひどく薄ぼんやりした理想郷としか、もう感じられないのかもしれません。
他人を受け入れ、物分かりよく世界の声に耳を傾けて、『良い子』であり続けても、巧の『キャッチャー』を務めるだけの才能がない。
『ピッチャー』が求める人格のない壁、才能だけを詰め込んだ野球の装置にならなければ、巧の前に座れないというのなら、俺は『野球』をやらない。
今回豪が語った『キャッチャー』をやる覚悟というのは、どうにもそういう決断を含んでいるように聞こえてしまって、とても見てられるものではありません。

しかしそれは外野のオッサンの寝言でしかなくて、豪の目には『野球』ではなく原田巧があまりにも巨大に写り込んでいます。
それ以外は見えないし、見たくもないほど巨大な才能は、『ピッチャー』であるがゆえに自分の球が他者にどういう影響をおよぼすのか、絶対に自覚し得ない。
門脇や豪や瑞垣や海音寺や戸村や展西や青波が、どれだけ他者を拒絶する原田巧の孤独な球に魂を揺さぶられ、拒絶にしろ受容にしろ、目を背けることが出来ない巨大な他者として立ちふさがっているのか、理解できない。
自分が世界の中にどんと腰を下ろして、他人と繋がりをもう持ってしまっている事実を、それが否応なく摩擦と熱を生む現実を、把握できていない。
『キャッチャー』としてだけではなく、愛憎渦巻く『友達』としても巧と確実に繋がっていた豪には、そういう影響力は具体的な痛覚として実感できていて、だからこの期に及んで『ピッチャー』でありたいと抜かす巧を前に、歯がゆさを隠せない。
そして、どうやったってそんな巧に己を認めさせ、世界を変えてやれない『良い子』で『凡人』な自分自身にも、失望(もしかすると絶望)するしかない。
豪はどんどん、そういう場所に自分を追い込んでしまっているように見えます。

巧が『ピッチャー』という蛹から出て、豪や世界の顔を見、声を聞こうと上昇しているのに対し、豪は物語開始時に見せていた人格的成長を投げ捨て、『良い子』から『キャッチャー』へと下降し、閉鎖しつつあるように思います。
お互いがお互いを惹きつけ合い、かつていた場所から遠くへと成長させつつあるのに、その道行はどうしようもなくすれ違って、けして円満で健全な形でお互いの顔を見合わせることはありえない。
バッテリーという物語はそういうとんでもなく残酷で、だからこそ嘘のないジュブナイルとして、ずっと進んできたのかもしれません。
巧が周囲の期待通り『野球』をするとしても、バッテリーの女房役たる豪が装置に堕してしまってはハッピーな終局とはとても言いがたいわけですが、でもそういう出会い方とあり方しか、この二人にはありえなかったのでしょう。

巧が次の試合で『ピッチャー』としての己を脱ぎ捨て『野球』をすると期待できるように、『キャッチャー』という装置になりかけている豪も、海音寺が代表する健全な情熱に突き動かされ、かつては感じていた『楽しい野球』に戻ってくるかもしれません。
それはそれで、凄く望ましい青春の物語だと思います。
それと同時に、あまりにも無神経に青春を歩いてきた巧が『凡人』に歩み寄る歩調と、あまりにも熱烈に『天才』に向かい合いすぎた豪の墜落とが、無残にすれ違っていく鮮烈さもまた、人間と青春を綺麗に切り取っていると、僕は思います。
未完の原作小説を読んでしまっている僕は、彼らの運命がどこに向かって突き進むのかをもう知ってしまっているわけだけども、それでも何度でも、二人の青春がどこに落ち着くのかは不安だし、より良い結末、より真実なる終わりを望んでしまう。
それはまぁ、僕がこの作品がとても好きで、その愛情をこのアニメ化でしっかり呼び覚まされてしまった証明なんだと思います。

いよいよ来週、最後のゲームが開始されます。
海音寺が願う情熱をバッテリーは共有し、門脇や瑞垣相手に『勝つ』事ができるのか。
野球をする装置ではなく、人間が向かい合い真実の己を共有する場所としての『野球』をすることが出来るのか。
僕を含めた大人たちの、身勝手な祈りは青年たちの未来に届くのか、駄目なのか。
いろいろ引っくるめて、僕は来週の"バッテリー"が、いつものごとくとても楽しみです。