イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ユーリ!!! on ICE:第1話『なんのピロシキ!! 涙のグランプリファイナル』感想

そろそろ寒くなってくる季節に飛び込んできた、爆弾のごとく美しい男たちの美しい物語、その第一話。
ヴィヴィッドな色彩、身体美をアニメーションに塗り込めた作画、臨場感のある音響。
クオリティの高さはさすがのMANPAという感じですが、それを乗りこなして舞台となる世界と主人公たちが歩く物語をしっかり語っている所が、何より凄い。
美しくあり続けることに躓いた二十三歳の凡人が、あらゆる状況で美しくあり続ける男と、何も考えなくても美しい年頃の少年と出会ったことで、何が生まれるのか。
衝撃と期待の第一話であります。


色々図抜けて凄いアニメなんですが、何より凄いのは作画……ではなく、凄い作画や美術を使って何を見せるかというテーマ性への意識だと思います。
この話は学生がスケートと出会い自己実現とともに競技レベルを上げていく青春物語ではなく、既にそこを通り抜けて世界最高クラスのトップスケーターに足をかけ、躓いた男の話です。
『Victor』という名前からして『勝ち』を約束された男に魅了され、『美しさ』が『勝ち』と切り離せない表現競技に青春を捧げ、実際にその領域に入りかけた青年は、しかし物語の出だしで敗北している。
モニターの向こうで憧れ、最下位のどん底から見上げた美の象徴には、同じリンクで滑っていたのに顔すら覚えられていない。
つまりこの話は、美の神に近づこうとして失敗した青年が、諦めて人間として生きていくか、もう一度神に挑む理不尽に立ち向かうかというお話なわけです。

それを掘り下げるべく、今回は徹底してヴィクトルの『美しさ』と勇利の『美しくなさ』を対比し続ける。
無駄なく絞り上げられ彫像のように鍛え上げられた、ヴィクトルの美しい曲線と、先行きなく迷った挙句に太ってしまった勇利の身体。
ヴィクトルが美の頂点に君臨した五年間と、故郷に帰らず走り続けその入口でつまずいて帰ってきてしまった勇利の五年間。
神様で居続けることが出来る『美しき人間』と、憧れて追いついて間違えて逃げ惑う『美しくないの人間』との間には、非常に残酷な距離があります。
勇利とヴィクトル、衰退と永遠、『人間の領域』と『神の領域』、天と地の間にある無限の距離が埋まり、二人が出会うことで物語が転がりだすのが、今回のラストシーンです。


ではそれまで何が描かれているかというと、主に勇利が迷っている『人間の領域』の感触です。
『どこにでもいる指定強化選手』である勇利は、あまりに人間的な弱さを出だしから見せて敗北に対してお道化け、便所で孤独に涙を流し、年下に圧をかけられてビビる。
勇利は努力し、挫折し、衰える人間の象徴として、第一話から迷いと無様さの中にいます。
ヴィクトルの非人間的な『美しさ』に憧れ、彼の完コピとして踊ることは出来ても、そこにはオリジナルの優雅さや表現力、ジャンプの高さや手足の動きの優美さはない。
今の彼は『美』に憧れ、無様に失敗してしまった只の人間なわけです。

その人間的無様さがギュッと詰まった、便所で涙を流す時の表情の強さ一つ取っても、このアニメが高く掲げたクオリティに振り回されるのではなく、主体性を持って振り回していることは見て取れます。
スケートとヴィクトルへの憧れに全てを賭けて、『世界で上から六番目』にまではたどり着けた青年は、心の弱さが仇となって天に近い場所から転がり落ちてしまう。
一緒に切磋琢磨した青年は、憧れのマドンナと家庭を持ち、スケートをしてもしなくても幸せな人生を手に入れてしまっている。
飼い犬の死に目にも会えない勇利は、常人の幸せも神の美しさも手に入れられなかった半端な迷い路にいるわけです
その歩み、その現状を、今回の話はじっくり追いかけています。

その筆が『人間の領域』を否定的にではなく、むしろ暖かく価値のあるモノとして切り取っているのは、なかなか面白いところです。
ユーリが背中を向けた長谷津(モデルは唐津だそうです)の街は、過疎が迫りつつあるけれども穏やかで美しい街であり、住む人もみな世界レベルにまで己を高めた勇利を尊敬し、応援してくれる。
家族も恩師も旧友も皆暖かくて、ユーリが五年間『見てみないふり』をしてきた『人間の領域』は、スケートという『神の領域』に比べても、そう悪いものではないわけです。
ここら辺は、桜の季節と雪景色という2つの長谷津を暖かく、柔らかく描いた美術の力が大きく作用している部分ですね。

ではそういう温かい場所にい続け、腹に肉がつくことを許される『美しくない人間』として、勇利は生き続けるのか。
西部一家のように、スケートの頂点を目指した日々を過去のものにし、『美』に憧れる上向きの視線を閉ざしてしまうのか。
23歳の勇利にとって、それはあまりにシビアで厳しい問いかけであり、彼はそこから逃げるように布団にくるまり、姉の詰問からも目をそらす。

勇利の内面を反映してあのシーンは強い圧を感じるように作られているんですが、姉は普通人として十分以上に暖かい態度を取っていて、ここでも『常人の世界』を否定しきらない目線が生きています。
『これからどうすんの?』と、一番言われたくないセリフを突きつけつつも、『スケートするなら応援するけど』と言ってもくれる姉の描写は、なかなかに印象的でした。
今の勇利は進退窮まって追い詰められているので、そこに込められた人情になかなか気付けないけれども、彼が認識するかしないかに関係なく、『常人の世界』には否定できない価値や優しさ、美しさがある。
勝生ファミリーの親しみの持てる描写には、そういう世界認識がしっかり反映されていると感じました。(ママンのポワッとしたふくよかさが、僕は好き)

五年ぶりに訪れた故郷において勇利が異邦人である描写が続くのは、彼がまだ『神の領域』に挑む気概があると示す上でも、スケートという競技が持っている最終的な孤独を感じさせる意味でも、良い演出だと思いました。
花盛りの公園でルーチーンのように体を絞りつつ、勇利は『スケーターは孤独に滑る』と述懐する。
温かい家族も、優しい故郷も、『人間の領域』は彼が青春全てを費やし挫折しつつあるスケートの本質、『神の領域』とは隔たった場所にあって、勇利がスケーターであり続けようと願うのならば、完全に同質化は出来ない場所なわけです。
そこで道を違えて『人間の領域』の幸せを手に入れたのが、あり得たかもしれないもう一人の勇利としての西部なのでしょう。
それは幸せで、平和で、美しくて、しかし孤独ではない、孤独な神であり続ける特権を許されない道の果てなわけです。


そして『人間の領域』の暖かさと同時に、圧倒的に美しい世界、『神の領域』というのがこの物語には存在していて、それを体現するのがヴィクトルなわけです。
二分以上の渾身の作画で描かれたスケーティングが一番顕著ですが、それだけではなくその目線も、表情も、手足の運びまで麗しいように、ヴィクトルは表現されている。
寸分の隙もなく、それこそ風呂場でチンポ丸出しにしていても美しくあるように、緩みのない作画を維持し続けていることで、勇利が見上げ続けた世界の高さと、勇利が今いる世界の低さは効果的に演出されます。

アリアを書き下ろしてまで勝負しに行ったスケートシーンの作画クオリティは、確かに凄まじい。
しかしそれがただ上手かったりコストがかかっているのではなく、オリジナルとコピーを同時並列で流すことで、ヴィクトルがいる高み、勇利が身を置く場所の狭さと孤独を見事に対比し得たことこそが、何よりの凄さだと僕は感じました。
作中最高の『美』として世界中の賞賛を受けるヴィクトルと、とうの昔に失われた恋のために踊る勇利の一種の無様さが効果的に対比されているからこそ、あそこの作画は強い意味を持っているわけです。
あのシーンを見てヴィクトルが『美の体現者』であることを疑うことは難しいですし、勇利のコピー演技に何かが足りないと直感的に感じ取ることも出来る。
クオリティを使いこなすことで、そういう体感を生み出すことが出来るのは、非常に優れた表現だと思います。

クオリティを使いこなす巧みな演出は動きの表現、身体フォルムの美麗さだけではなく、背景美術でも元気に暴れまわっています。
もう一人のユーリに詰め寄られるシーンは『便所』という汚れているはずの場所なのに、赤と青のコントラストがあまりにも明瞭で、暴力的に美しい色彩を叩きつけてくる。
『便所』という最もプライベートで脆弱な場、一人で無様に泣けるはずの場所にすら『美』を宿してしまう、一種凶猛な塗りつぶしがあそこでは冴え渡っていて、『この話は『美』についての話なんだ』という強いメッセージを感じられました。
コンセプトアートみたいだもんな、あの便所。

その美しい世界で、ヴィクトルはただ圧倒的に美しい『神』であり、『人間の領域』に一切関わりがない存在……としては描かれていません。
あまりに人間的な勇利と同じように、ヴィクトルも犬を飼うし、風呂も入るし、笑顔も見せる。
勇利が押し潰された『人間的な弱さ』をヴィクトルも持っているかはさておき、長谷津を切り取る筆に宿った『人間の領域』の強さや優しさを、ヴィクトルも共有しているわけです。
そういう一種の可愛げを見せる意味で、『風呂場で全裸』という文字通り飾らない人間を見せるシーンを使ってきたのは、コミカルかつ巧妙だなと思いました。
いい筋肉描写、いい尻いい乳首だったなぁ、アレ……。


ヴィクトルがコーチにつく以上、彼は選手としては一線を退き、『美の象徴』として走り続けることは諦める可能性が高いと思います。
となれば、今勇利を苛んでいる『人間の領域』の弱さは、『神の領域』で美しくあり続けたヴィクトルにとっても、無縁ではないわけです。
天人五衰とも言うべきヴィクトルの引退(これは作中でも、アナウンサーのセリフの中でさり気なく示唆されていますが)は勇利の憧れの破綻を意味すると同時に、『神の領域』が実は『人間の領域』と地続きであるという証明でもあります。
それは今『人間の領域』と『神の領域』の間で悩んでいる勇利が、もう一度顔を上げ『美』と向かい合い、一歩ずつ歩き直すチャンスを示してもいると、僕は思います。

長谷津という勇利のホームタウン、『人間の領域』に乗り込んできたヴィクトルと向かい合い、コピーするべき『神』ではなく、共に泣き笑い合える『人間』として対峙すること。
それが、このあとボッテリと腹を太らしてしまった23歳の青年が歩む物語なんじゃないかと、今回の第一話を見ていて僕は思いました。
ヴィクトルの立ち居振る舞いが示した『神の領域』と、今勇利が迷っている『人間の領域』との距離は大きく離れていますが、それは同時に、今後展開する物語の中で乗り越えるべき障害の大きさ、盛り上がりの激しさが暴れまわる余白でもある。
天上から降りてきた『美の神』と、地上でもがく『只の人間』が手を取り合うことで一体何が生まれ、どんな物語が紡がれるのか、凄く楽しみになるし、2つの場所の距離を明確にできたことで説得力もある。
そんな第一話だったと思います。

天地に別れた勇利とヴィクトルの関係だけではなく、もう一人のユーリと描くだろう三角関係も、うまく予感させられていました。
五年間という時間を生贄に敗北という結果を得た23歳の勇利と、恐れも知らず攻撃的に、これからシニアの戦場に飛び込んでいく、15歳のユーリ。
高い場所にいるヴィクトルとはまた違う距離が二人のユーリの間にはあって、このコントラストもお話を面白くしてくれそうです。

悪しざまな言動の奥にもユーリがヴィクトルを慕っている様子は感じられて、これは勇利がずっとヴィクトルに憧れていた視線と、同じ方向を向いている眼差しです。
ユーリにしてみれば、勇利は実力もないのにヴィクトルを奪った泥棒猫であり、『神の領域』に挑む資格がない敗残者と写っているでしょう。
しかし両者とも現役の選手であり、氷の戦場で孤独に競い合う可能性を残している以上、ただユーリが勇利を敵視し、反発するだけでお話が進む気はしません。
今はバチバチ言っている二人の視線が、ヴィクトルという共通の憧れを通じて、そしてアイススケートという『美』に挑む戦士としての共感を育むことで混じり合うのなら、これは非常に面白い物語になりえます。
こういう物語の種子をコンパクトに、的確に埋め込んでいることも含めて、優れた第一話だったなぁと思うわけです。


というわけで、色んなものが圧倒的なクオリティで埋め込まれた、凄まじい第一話でした。
アイススケートという競技が何を表現し、そのために何を犠牲にするのか。
このお話が何処と何処の間で展開し、キャラクターたちはどんなテーマを背負うのか。
物語の始点において説明し描写するべき様々なことが、目を通じて脳髄に直接叩き込まれるような、濃厚な体験として感じ取れる、良い出だしでした。

『人間の領域』の哀しさと可笑しさを担う笑いの表現もコミカルかつ上品で、僕は結構好きです。
そういう身近な肌触りをしっかり掘り下げつつ、圧倒的に遠くて高い『美』の表現、『神の領域』の活写を一切サボらない、というか鋭すぎる切れ味で突き刺してくるあたり、野心のあるアニメだなぁと感じます。
天上と地上の間にある無限の距離を、美しき表現者達がどう超えていくのか。
その過程で、どんな感情が生まれどんな関係が構築され、どんな痛みと犠牲が吐き出されるのか。
とにかくこのアニメ、今後が楽しみです。