イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

フリップフラッパーズ:第6話『ピュアプレイ』感想

あなたは赤、私は青、混じり合わないまま入れ替わる認識のI/Oシステム、フリップフラッパーズ第6話です。
これまで『幻想』を舞台にしたファンタジックな冒険を続けてきたこの作品、今回は『幻想』の先にある『記憶』という『現実』に潜り、『アモルファス』よりも輝くものを取り返して終わる話となりました。
生病老死を真正面から捉える筋書きに合わせて、世界もかっきりと背筋を整え、しかし心象風景ゆえの鮮烈な色彩は変わらぬまま、痛みと優しさの記憶を追体験していく、新たな冒険。
パピカとココナが人の心の不思議に触れ一つ成長すると同時に、作品自体も新境地を切り開いた感覚のある、傑作エピソードとなりました。

このアニメは毎回好き勝手にやっているように見えて、実はジュブナイル活劇としての手順は丁寧に踏んで、じっくりと過去の伏線を解き明かし、あるいは新しく謎を産んでいます。
開幕少女と少女が圧倒的なイマジネーションの中で出会う様、そこに生まれるドキドキで視聴者の横っ面を殴った後は、それぞれの少女が抱える葛藤や豊かさ、『幻想』の美しさと『現実』の静謐を丁寧に掘り下げ、落ち着いてきたら『他者』を軸に据えた描写に移る。
天も地もなく創作世界を駆け巡っているように見えて、このアニメが見ている劇作の視界は相当に周到で、クールな計算に舵取りを任せつつ、欲望と想像力を暴れさせています。

今回のお話も、既にお馴染みとなった『幻想』での宝探しを冒頭に持ってきて、その奥にある『記憶の扉』をくぐることで、ピュアイリュージョンが持っているもう一つの可能性を見せるという、中盤にふさわしい変奏を見せます。
物語が始まった時、陰鬱な『現実』と心躍る『幻想』は完全に切り離されていたはずが、第4話では徹底的に『現実』を舞台に、パピカがいれば自動的に彩りを手に入れるココナの心理に踏み込み、第5話では『幻想』に徹底的に潜りつつも、二人の世界に侵入してくる『他者』を描く。
今回彩いろは先輩の過去(トラウマ、取り返せないはずのもの)に踏み込み、『幻想』の中の『現実』≒『記憶』を作品が捕らえたのも、少女たちが『幻想』と『現実』の織りなす多層に踏み込む物語を、段階を追って視聴者に届ける計画の一環と言えます。

『ピュアイリュージョンとは、何であるか』というのは、作中最大の謎であり、このアニメを引っ張る巨大なエンジンでもあります。
楽しい冒険に付き合うことで、視聴者にある程度ピュアイリュージョンに対する『巨大な幻想のようだが、様々な角度から現実に繋がっている』という理解が生まれたこの話数こそ、『ピュアイリュージョンは、特定個人の過去に潜る扉足り得る』という新しい情報を出すのに、ふさわしいタイミングです。
それを見せることでピュアイリュージョンが『現実』と切り離された無害なテーマパークではなく、人の心と複雑な繋がり方をした、危うい冒険の舞台であるという方向、シリアスであるがゆえに過去の過ちに新しい解釈を与える奇跡を生み出せる可能性に、視聴者の理解を進めていく。
少女たちの心の震えがそうであるように、この作品が広がるキャンバスが思いの外『リアル』であると知らしめる、鮮烈な一撃足り得る物語を、このタイミングで叩き込む。
そういう狙いにふさわしいドラマの切れ味を、今回の物語は持っていたと思います。


パピカとココナを代役に配置し、先輩の『記憶』に潜っていくこの話は、認知症や家庭内不和というテーマの重たさを反映して、比較的リアルな美術に包まれています。
おばちゃんの記憶が削り取られ、両親の不和がココナ≒いろはを苛む今回の話は、これまでのように無邪気で危うい『幻想』『冒険』として描くわけには行かず、その先に僕らの3次元空間が直接つながるような、シリアスな手触りを持ってます。
先輩の絵そのままの質感で、油絵の具と幻想的モチーフに包まれていたピュアイリュージョンが前景として挟まれていることで、その内部に隠されていた『記憶』は非常に新鮮な『現実』、ココナたちが活動の規定を置く『現実』よりも生々しい場所として映る。
おばちゃんの家の雰囲気の出し方、小物への拘り、間取りの作り方。
全てが『これから始まる物語は、今まで語ってきたのとは少し毛色が違うお話です』と告げてくる。

しかしその上で、このエピソードはあくまで『フリップフラッパーズ』であり、その濃厚な精神主義は『記憶』という特質も合わせて、むしろ前面に出てきます。
おばちゃんといる瞬間、ココナ≒いろはを包む温かい赤と、家に閉じ込められている時の冷たい青。
それがパピカとココナのシンボルカラーであること、過酷な状況に分裂した自我を表すかのように混じり合わないことは、あの世界が『幻想』である(もしくは、パピカたちが共有する『現実』と同じように心理の色合いを反映する世界)であることを、強く強調します。
毎回そうですが、このアニメを取り巻く表現はすべて、『製作者は一体どのようなものとして、このエピソードを見せたいか』を強く反映しており、カッチリとしたリアルな描線と、心理主義的な色彩の強調は、『少し、違う』『でも、同じ』という、このエピソードの創作計画における位置づけを写し取っているわけです。

お話が進むに従って、世界を形作るリアルなフォルムは変質し、抑圧されたいろはの精神を反映し歪み始めます。
青い世界に広がる、大きくパースの付いた両親の顔、歪んだ形質、真っ青な色彩。
それはこれまでココナが認識していた『現実』がそうであるように(もしくは現実認識というものが誰にとっても、常にそうであるように)心理の反映であり、確固として揺るぎない『現実』は、『記憶』であるこの世界には当然存在しません。

可変的で危ういもの、赤と青が混じり合わず対立し続ける場所として『記憶』を描くことで、いろはが感じている青い辛さ、おばちゃんとの触れ合いの中で感じる赤い暖かさは、視聴者の認識をすり抜けて実感に変わる。
いろはが赤と青の世界に託しているものを把握することで、心の拠り所が頼りなく砕け、そこから逃げ出してしまったいろはの痛み、マニキュアのタブーは非常に『シリアスでリアル』なものとして、視聴者に迫ってきます。
この物語は『記憶』を『幻想』として描きつつ(むしろだからこそ)、そこでの冒険で傷つき、つながっていく少女の心情は嘘のない、瑞々しい本物だと感じられます。
いろはの心境を反映し、非常にアニメーションらしいメタモルフォシスを繰り返す『記憶』の美術は、『幻想』として把握される過去の情景、もう一つの『現実』の中で、キャラクターが何を感じたのか視聴者に(そしておそらく、ココナとパピカに)強く追体験させる、強烈な装置なわけです。


『記憶』からはじき出された後、ココナとパピカは冒険の目的たる(として設定されている)『アモルファス』をヤヤカに略奪され、ピュアイリュージョンに留まる理由がなくなります。
ここでココナは、ヤヤカに支えられる形で『アモルファスを手に入れられないとしても、『記憶』に再度潜り、自分が見たものの真実を最後まで受け取る』ことを選択します。
実はこれこそが、お話の語り口をこれまでと大きく変えた今回、最も大事な変化だったのではないかと、ぼくは思うのです。

ただ与えられるものとして始まった『幻想』へのダイブが、『現実』を改変し得ないただのテーマパークだとしたら、ココナはそのまま帰還すればいい。
しかし『記憶の扉』という、与えられた目的から外れたイレギュラーにこそ今回ココナは価値を見出し、パピカと手に手を取って危険な冒険へと潜り直します。
それを後押ししたのはおそらく、『現実』で先輩と繋がった『記憶』であり、マニキュアの不思議な香り、一緒に食べた不格好なクッキーといった、ひどくありきたりで身体的で、だからこそ愛おしい思い出なのでしょう。

再び『記憶』に潜ることで、ココナとパピカはいろはが抱える最大のトラウマ、老いと病、死という運命に向かい合うことになります。
それはこれまでの冒険と違い、一滴の血も流さない精神的な旅路なのだけれども、しかし確実に、最も苦しい戦いです。
心休まらない青い世界で、唯一の安らぎだった赤い部屋は、病と忘却が支配する荒野に変わってしまって、幾度も入れ替わった青い世界に、いろはは救いを求めるようになる。
安定と不安が一気に逆転するダイナミズムを強調できているのも、赤と青を印象的に使いこなした美術の勝利と言えます。

おそらく青い部屋に閉じこもってしまった『現実』のいろはは、赤いマニキュアとおばちゃんの思い出を己に禁じ、生きてきました。
しかしそこには、あのマニキュアのように真っ赤な血潮が流れる、人と人の魂が繋がる約束があった。
パピカとココナはピュアイリュージョンという『幻想』の力を借りることで、当時のいろはが忘れていた(もしくは打ち捨てた)約束を思い出し≒思い出させ、逃げたくなる足を二人でつなぎとめて、己の名前を声高に告げる。
それは心躍る『幻想』とも退屈な『現実』とも違う、シリアスな生病老死と魂の躍動が隣接する『記憶』……『幻想』と『現実』、赤と青が入り交じ(フリップ・フラップ)る世界認識に、いろはを追体験することで二人がたどり着いた、、ということです。
これほどの成長の果てにあるマニキュアが血の色、月経の鮮やかな赤、性成熟の色彩をしているのは、むしろ当然の暗喩と言えるでしょう。

青と赤に塗られていた世界は、病床にいるおばちゃんを前に完全な無彩色、死の色に変わっています。
それは多分、いろはの『記憶』の中で固定されたおばちゃんの色合いであり、生の色をキャンバスという客体にだけ許し、マニキュアで主体を飾ることを許さなかった彼女の、後悔の色でしょう。
そんな静止した時間を、『幻想』を通じて『記憶』に潜り込んだココナとパピカが動かし、『現実』の先輩は美術室を出て、青い空の下で赤いマニキュアを塗り直す。
純粋な幻想に幾度も挑むことで、その奥にあった『記憶』、赤と青、『幻想』と『現実』が入り混じったアモルファスは新しい形を与えられ、先輩は一つ、確かな幸せに出会えたわけです。


今回の冒険がサイコダイブ的なトラウマとの闘争だったのか、はたまた『逃げ出した』という確固たる現実を確かに書き換え、『名前を告げた』という結果を生み出す超自然のものだったのかは、確言出来ません。
どちらの結末を選ぶかは作品が決めることではなく、『現実』と『現実』の相克相生をどのように捉えるかという、視聴者個人個人の現実認識に、強く依存していると思います。
ときに物語る側の無責任に結びついてしまう、『人それぞれの答えがある』という自由な結末はこのエピソードにおいては、フィクションを貫通して現実の視聴者をえぐる、強靭で豊かな問いかけに変化したと、僕は思います。

言えるのは、先輩は禁じていたマニキュアを己に許すようになり、パピカとココナはいろはの『記憶』を追体験することで、死と病、それによって傷つく『他者』の心をより深く感じ取れるようになった、ということです。
それはひどく真っ当で喜ばしい、人間として寿ぐべき成長であると、僕は強く思うのです。

もし『アモルファスを手に入れる』という、外部から与えられた目的のまま動いていたら、二人は『記憶』の果てまでたどり着かず、先輩もマニキュアを再度塗ることはなかったでしょう。
そこに踏み込む決断は、パピカとの運命的な出会い、『幻想』での冒険を通じて深まった絆、これまでの物語の蓄積がなければ、けして果たし得なかった勇気ゆえの逸脱です。
『何個集めれば終わるんですか?』という問いに真っ直ぐ答えてくれないソルトへの不信感を、絶妙に前景に配置したのもあいまって、あそこで『扉に踏み込む』という選択肢を選び取ることがとてつもなく重要で、大切な決断なのだと、視聴者にもよく分かる。
これもまた、ハチャメチャな冒険の合間に様々な暗号を仕込み、『フリップ・フラップは危うい組織なんじゃないか?』という疑問を、視聴者に巧く湧き上がらせる技巧が可能にしている見せ方なのでしょう。


彩いろはという『他者』の『記憶』に潜り、『アモルファス』という具象ではなく、過去の辛い思い出を癒やすという抽象を手に入れて帰ってきたことは、ココナとパピカの冒険の意味も大きく変えています。
最初は『二人だけの秘密』として非常に閉鎖的な空間だったピュアイリュージョンは、ヤヤカの侵入を許し、そこでの決断が現実世界での幸福に繋がる、かなり開かれた場所へと変質しつつあるのです。
しかしそれはピュアイリュージョンの変質というよりも、そこに飛び込んでいく二人の関係の変化、視野の拡大、もしくは成長が生み出している変化でしょう。
今回二人が果たした冒険と決断の結果、明確に『救われた』存在が出てきたことは、『思春期の少女が運命的に出会って、閉鎖的で湿度の高い空間を共有する』というこれまでのストーリーラインに、大きな風穴を開けたと思います。

一般的社会規範から見れば、少女二人でネトネトイチャイチャするより、『他者』と向かい合ったり救い出したりしたほうが、より望ましく開かれた、『正しい』行為なのでしょう。
しかしそういう健全で健常な方向にこのアニメが進んでいくかといえば、そんな窮屈さにこのイマジネーションの本流が収まるとは思えないし、そういう意味での『正しい成長』を大看板に振り回す物語ではけしてない。

赤と青に明瞭に分かれた世界では、いろははおばちゃんと向かい合うことは出来ず、生の色をしたマニキュアを塗ることはありませんでした。
そこが突破されたのは、ココナとパピカが二人だったから、空っぽの心細い手を結びあえる、優しい『あなた』がいてくれるからです。
赤と青がお互い打ち消しあい、入れ替わるのではなく、実は同じいろだったと気づかせてくれるような、もう一人の『わたし』がいてくれるからです。

前回の百合の墓標が示したような、閉鎖的で湿ったパピカとココナの特別な関係性があってこそ、死と老いに対し引かない勇気を、ココナとパピカ≒いろはは手に入れることができた。
そこには教条的な『正しさ』ではなく、人生の手触りと真剣に向き合い、物語の刃で腑分けをして描くべきものを見つけてくる、素っ裸の格闘が感じ取れます。
そういう息遣いが感じられるアニメをこそ僕は好きだし、誠実だとも思うのです。


赤と青が混じり合って紫になるのでもなく、規範と運命によって脱色されて白になるのでもなく、青と赤に入れ替わりながら、『あなた』の色合いを受け入れていく世界。
抑圧された思春期に包囲されたココナを主人公として、この物語を紡いでいった果てにある新世界がどのようなものなのか、少し見えたような気がするエピソードでした。
その風景がココナとパピカではなく、彩いろは先輩という『他者』を通じて見えてきたことが、不可思議な広がりと爽やかさを僕に感じさせて、凄く嬉しい。
これまで僕の胸を高鳴らせてくれた、思春期の少女たちだけが生み出せる淫靡で猥雑な感情の繋がりがそれを生み出したことも、これまでのエピソードを否定せず新しい可能性を切り開いていて、非常に強靭でした。

『記憶』を通じて現実を改変しうると示したことで、作中設定としてのピュアイリュージョンも新しい地金を見せてきました。
ヤヤカたちの事情も気になるし、ココパピが今後もネトネトイチャイチャしまくるのかも目が離せない。(まぁゲップが出るほどしまくるだろうけどさ、ゆにこだし。ありがとうございます!)
一話一話に独特の味わいをしっかり宿しつつ、その先が気になる要素もしっかり入れて、毎回楽しませてくれる。
やっぱいいアニメだなぁ、このアニメ。