読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

話数単位で選ぶ 2016年TVアニメ10選

アニメ レビュー

今年も10選企画、参加させていただきます。
元締めは新米小僧の見習日記さんであります。

 

・ルール
・2016年1月1日~12月31日までに放送されたTVアニメ(再放送を除く)から選定。
・1作品につき上限1話。
・順位は付けない。
なお、放送日順です。

 

Go! プリンセスプリキュア:第50話『はるかなる夢へ! Go!プリンセスプリキュア!』

その必死で謙虚で切実な創作物は、結構しっかり視聴者に届いたんじゃないかなぁと、物語の終わりに辿り着いて僕は感じました。

Go! プリンセスプリキュア:第50話『はるかなる夢へ! Go! プリンセスプリキュア!』感想 - イマワノキワ

アニメーションに限らず、続けていくということには大きな意義と、大変な苦労が伴う。女児アニメーションという枠の中で、ヒーローフィクションというジャンルの中で、10年以上最前線に立ち続けるプリキュアは、毎年生まれ変わりながら制作陣とスタイルを取り替え、様々な試みを繰り返すことで己を新生させ続けてきた。
 その試みの最も尖った一端は、やはりこの最終話の中にあると思う。

少女であること。
プリンセスであること。
変身ヒロインであること。
戦士であること。

作品を、そして春野はるか達を構成する様々なアイデンティティに批評のメスを徹底的に挿入し、破綻寸前まで風通し良くプリキュアを解体し、再構築していったアニメに相応しく、少女を超えて女として立つ姿まで捉えきったこのエピソードは、長かった物語の末尾を飾るに相応しい希望に満ちている。
2月には、"キラキラ☆プリキュアアラモード"が始まる。
とても楽しみである。


アイカツ!:第178話『最高のプレゼント』 

アイカツ!がこの世にあってくれて、本当に良かったと、心の底から思います。

アイカツ!:第178話『最高のプレゼント』感想 - イマワノキワ

アニメーションに限らず、続けていくということには大きな意義と、大変な苦労が伴う。三年半という時間は、とても長い。主人公を交代させ、物語を切り取る筆致を全体的に整えながら、アイカツ!もまた女児アニメの最先端を走り抜いた。その最後が『マラソン』で終わるのは、走りきった今思い返せば必然ですらあろう。
アイドル隆盛の時流を背中に受け、戦わない少女たちの自己実現物語と己を定義付けたアイカツ!
震災の影響を受け、あえて人間の影の部分ではなく光のみで描ききろうと決めたアイカツ!
歪さを秘めて始まった物語は、己が描いているものが何なのか徹底的に問い続ける知性と、それを描き届けるためには何をやりきらなければいけないのか探索し続ける姿勢によって、現代のお伽噺として見事に輝き続けた。

夢を追いかける少女たちが、一歩ずつ何者かになっていく姿を追いかけながら、道徳の教科書に乗るような無味乾燥な訓話ではなく、明るく楽しくちょっと狂った、元気に弾む物語の弾力≒ポップさを失わなかったこと。
アイドルが向かい合う『戦わない戦い方』が何を必要とし、どこにたどり着くのか大真面目に178話、答え続けたこと。それは圧倒的に偉業だし、その物語を僕が見守ってきたという事実は、幾度でも僕の心を勇気づけてくれる。
どこを切り取ってもアイカツ! にはアイカツ! らしい素晴らしさがあるが、SLQCという一つの頂に登った後もなお続く人生を肯定的に描き、スポットライトが落ちた後の彼女たちの人生を想像できる幕引きを、ここでは選びたい。

 

クロムクロ:第4話『異国の味に己が境遇を知る』

やはり『食』というのは視聴者に一番身近な感覚ですし、その時代のものを『腹に収める』行動を描くことで、異質な文化や状況をどう扱うのか見せるのは、一番手っ取り早い。

クロムクロ:第4話『異国の味に己が境遇を知る』感想 - イマワノキワ

 僕はアニメーション(に限らずフィクション)を見る時に、衣食住の描写に注目するようにしている。人間が人間であることを描くのなら、最も身近な快/不快である『着る/装う/身を守る』『食べる/養う/養われる』『住む/空間を共有する/障壁を張る』という描写は、強い意味合いを持つ。
食事は個人の生命を支える行為であると同時に、他者とつながるコミュニケーションの場でもある。食事を描くことでその作品全体が、個人と他者の魂をどう扱うつもりなのか、表明できる場だと思う。メシを食うシーンは、アニメにとってとても大事なのだ。
作品全体のテーマをそこに宿した"甘々と稲妻"、人間性を試される過酷な状況での食事に気を配った"91DAYS"""鉄血のオルフェンズ"、少女たちの友情が食事のやり取りの中で描かれた"フリップフラッパーズ"と、今年も優れたメシ描写は山とあったわけだが、一つ選ぶとしたらこのアニメ、この話数となる。

時間を飛び越え、文化を飛び越え、450年後の現代に取り残された優しいサムライが、今目の前にある現実をけして否定しない強い男であると示す。そんな男を、現代の女と男はけして見捨てず身の養いを与えるのだと見せる。反発と融和が入り混じりつつ、常に明るい希望を見据えながら進んだ不思議なロボットアニメを代表する話数としても、非常に優れたエピソードだと思う。
つーかとにかく美味そうなんだ、あのカレー。マジで。


影鰐-承-:第5話『衝突』

カット割りと作画の妙味を駆使し、スピード感と意外性ある殺陣を構築し、動かないものを動かして真っ向勝負を仕掛けてきたのは、本当に凄いなと思いました。

影鰐 -KAGEWANI- 承:第5話『衝突』感想 - イマワノキワ

30分アニメほどコストが掛からず、簡潔に物語を伝える手段として、五分~15分アニメもすっかり定着したように思う。長尺でストーリーを伝えられない中で何を描くか、製作者のセンスが問われるジャンルでもあり、メディアとして独特のテイストが、既に宿っているように思う。
"信長の忍び""怪獣娘-ウルトラ怪獣擬人化計画-""バーナード嬢曰く"など、冬クールに優れた作品が並んだ印象が強いが、やはり短編アニメだけを並べた意欲的なプログラム、USATを外すのは不誠実だろう。
その中から一話選べ、と言われたらやはり、魂をぶっ飛ばされるほどにカッコよかったこのお話になる。

オムニバスホラーの色が強かった一期を走りきる内に、主人公・番場は『巻き込まれるだけの、無力な主人公』という立場から脱落してしまった。
自らが選んだ道から逃げず、物語全体のジャンルを『スタイリッシュ奇獣アクション』として再構築した二期は、セカンドシーズンとして意欲的かつ十全の仕上がりを見せてくれた。
奇獣と人間の因縁まで踏み込んで物語を彫り込み、戦いの中で火花を散らす命のドラマを走りきった今作は、鮮烈な印象を残す傑作である。
ジャンルを変えるにあたり、アクションシーンの説得力をどう出すかというのは、『短編アニメ+劇メーション』という超変則的形態で物語を進行させた影鰐にとって、大きな課題だったろう。
レイアウトの妙味、大胆なカット割り、超かっこいいBGMキャンセル超かっこいいBGM。
使える手段を全て行使し、『影鰐二期は怖くて面白いだけじゃない、かっこいい話なんだ!』という認識を作り上げた奇跡の話数である。


コンクリート・レボルティオ ~超人幻想~ THE LAST SONG:第24話『君はまだ歌えるか』

製作者達がおそらくそうであってくれと願ったように、『超人』たちはフィクションの中のパスティーシュとしてではなく、己の生き様を僕の(そして多分あなたの)記憶に刻んだ。 それは一つの物語を描き切ろうという強い意志だけが可能にする、創作の奇跡だと思います。

コンクリート・レボルティオ ~超人幻想~ THE LAST SONG:第24話『君はまだ歌えるか』感想 - イマワノキワ

 コンレボは難しいアニメだった、と思う。
それは作品が背景に置く昭和という時代への知識、アニメや特撮や漫画の中の『超人』への理解を必要とするからでも、時系列を行き来しながら展開するトリッキーな構造ゆえでも、灰色の正義と悪が入り交じる、簡単に答えが出ないテーマ性からでもない。(当然、そこも難しいのだが)
神化という『もう一つの昭和』を想起し、現実ではありえない『超人』の生き様を描く中で、それが現実に突き刺さらない絵空事として上滑りし、もしくは元ネタ探しの知識自慢アニメとなり得る危険性と、常に戦う必要があるからだ。
それは製作者だけではなく、見る側にも常に注意を必要とする共犯関係であり、平たくいえば『コンレボを見ているときは気を抜けない』のだ。(衒学性との戯れに陥りやすいという意味では、"フリップフラッパーズ"も同様の共犯性をもっていたと感じる)

そのスパイシーで挑戦的な制作姿勢は、元ネタを扱う鋭さだけではなく、正義を追い求め迷い荒ぶる爾郎の生き様を徹底的に彫り込むドラマの強さによって、一定以上の支持を得たと思う。
というか、俺はコンレボを支持する。
いいアニメだと思うし、楽しくもあったし、豊かでもあったし、好きになれた。
フィクションと現実の垣根を、作中と同じく超人たちは飛び越えてくる。そういう根本的な物語の力が、ヒーローに強く憧れた破壊王の子供のお話には、しっかり宿っている。
爾郎たちが己の生と死を突きつけて『君はまだ歌えるか』と問いかけてくる最終回は、己の物語の本質をギュッと濃縮した、つくづくいい最終回だったと思う。


ラブライブ! サンシャイン!!:第4話『ふたりのキモチ』

でも僕は、穂乃果が導いた必然の物語をすごく好きだからこそ、これから千歌が紡いでいく偶然の物語が、μ'sの影響を受けつつどこに飛び込んでいくのかを、正しく見守りたい。

ラブライブ! サンシャイン!!:第4話『ふたりのキモチ』感想 - イマワノキワ

 続編であるということは難しい、と思う。
アニメであることを飛び越え、一つの現象となってしまった作品を継承するのならなおのことで、サンシャインは実質、Aqoursとμ'sの間合いをどう測量するか、13話かけて考え、描き続けたアニメだったといえる。
偉大な過去作をどう解釈し、その上で己の独自性をどう位置づけるか。
非常に難しい問題にリアルタイムで取り組みながら、サンシャインは走り続けてきた。

この四話は非常にテクニカルな形式を持っていて、アイドルがとても好きなのに勇気を出せないルビィを見守る『語り部』、国木田花丸の一人称で青春とアイドルについて語り、夢を後押しするように進む。
誠実に親友の夢を見守る花丸こそが実は、青春の輝きとアイドルへの憧れを、誰よりも抱えていたのだとルビィが告発し、その思いをAqoursが受け止めるという逆転現象が見事に決まって、お話は完璧に収まる。
そのテクニカルさは思い返してみると、サンシャイン一期全体に伸びていく技巧性であり必然だったのかな、と思う。
μ'sを語り直し、語り尽くさなければ己の道に踏み出せない、話の主役ではなく『語り部』であることを最初から決定づけられた少女たちの、ある種あまりに不自由な物語。
不器用なほど誠実に、理性的に己のポジションを図り続けた二代目主人公が、会場を飛び出して己の物語に踏み出した所で、この物語は一旦終わっている。
最終話なのに、新しい物語が弾みだした瞬間で静止しているということは、駆け出すその時を待ち続けている、ということだ。
この話数で見せたあまりに的確な技巧性で、再びAqoursの物語が動き出すことを僕は信じているし、あの子達と同じように僕もまた、その瞬間を常に待ち続けている。


あまんちゅ!:第6話『ホントじゃない願いのこと』

つまり原作の展開では『成功』していた行為が『失敗』しているわけで、その変化にはこのエピソードが何を語りたいのか、製作者の意図が詰まっているはずです。

あまんちゅ!:第6話『ホントじゃない願いのこと』感想 - イマワノキワ

原作があるということは難しいことだ、と思う。
メディアが移り変わり、スタッフが入れ替わった段階で、アニメ作品は原作をそのまま写し取るのではなく、己の責任において何を描き、何を描かないかを選択する必要の前に投げ出される。
アニメ化は常に語り直しであり、紙の上で展開されていた物語をアニメーションに起こす時、一番最初に行われおそらく最も大事なのは、『読む』という行為だ。
優秀な製作者は同時に、優秀な読者でもなければならない、ということなのだが、今年は"ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない"を始めとして、原作をいかにアニメーションにしていくか、的確に読み的確に再構築したアニメが多かったように思う。

それはただ、のんべんだらりと原作の順番のまま、一コマも外さずアニメに落としていくのではなく、アニメーションという映像メディアの特質を考え、必要な要素を選び、不要な要素を削ぎ落とし、また必要な要素を足して再構築していく、複雑で知的な技術なのだろう。
"僕だけがいない街""甘々と稲妻""ふらいんぐうぃっち"など、様々な手腕での語り直しが花開いた今年であるが、一つ選ぶとすればこのタイトル、この話数を上げたい。

現実よりちょっと強く輝く伊豆半島を舞台に、ダイビングで繋がり、面倒くさい青春を一歩ずつ歩いて行く少女たちの群像劇。
それを貫く芯として、てこがダイビング技術を習得していく成長物語をしっかり据えることで、話の中心が別のキャラクターにズレても安定感を保ち、最終的に帰還する足場として機能させる。
その為に、あえて試練の結果を正反対に置き換え、失敗ゆえに挑み続ける姿勢を主人公と物語に宿す操作が、このエピソードでは展開される。
かなり大胆に原作を料理しつつも、その根本にあるエッセンスをしっかり『読み』、アニメの言語に再翻訳する魔法が見事に機能していて、1クールのアニメを見事に支える屋台骨となっている話数だ。

 

プリパラ:第114話『急げ!神アイドルグランプリ!』

ふわりが持っているある種の頑なさや、女神の欠片として自分を押し殺しすぎるファルルの優しさもしっかり問い直され、三人の少女の再出発として最高の仕上がりでした。

プリパラ:第114話『急げ!神アイドルグランプリ!』感想 - イマワノキワ

 長く続いた物語が終わることが難しいのと同じように、現在進行形で続いている物語を飛翔させ続けることもまた、とにかく難しい。
女児アニは常に、厳しい資本主義の掟にチャレンジされ続けて物語が展開する。二年目やるかどうかはバランスシートの結果次第であり、物語をどう展開させていくか、その下準備がはっきりと出来ないまま、大概のアニメは二年目に飛び込んでいく。
そういう混乱した状況の中で、二年目のラスボスを努めたひびきは、『難しすぎる』キャラクターとして作中で言及されるほど、己の物語を走りきれなかった。彼女を支えに展開した二期全体も、語りきれなさを背負うかのように混乱し、僕の目には不足が目立つ終わり方だった。

そしてこのエピソードが来る。
『みんなトモダチ』を是とする作品にあって、絶対に『友情を信じて』とは言えないひびき自身の欠落を掘り下げ、その周囲を彩る女たちの欠損を描き直し、それを『治療』したり『更生』させたりしない、圧倒的にプリパラらしいエピソードが。

そこでケアされたのはひびきというキャラクターであり、トリコロールというユニットであると同時に、これまで続き、これからも続かなければならないハードコアな宿命を背負った、プリパラというシリーズそのものだ。
114話を経由することで、トリコロールの女達と、彼女たちを取り巻く男と動物たちは皆、悲しいかな語りきれなかった物語を再話するチャンスを与えられ、見事に己が今どのような存在であり、不定形の未来の中でどのような存在になり得るのかを、高らかに獅子吼した
それは、とてつもなく大きいことを言ってよければ、間違いなく不出生の傑作であるプリパラを背負い、プリパラに背負われる、児童向けアニメーションというジャンル、アニメーションというメディアそのものの価値が、修復されたのだと思っている。。

見ている人を楽しませ笑わせる、エンタテインメントの根本をけして忘れることないまま、卑近な固定観念に落ち着くことも、己の物語を捨て去ることもせず、野心的に語り直すチャンスを伺い続ける姿勢。
それが結実し、見事な結果に結びついたこの話数は、プリパラというシリーズが持つタフさ、知性、優しさを証明し問いかける、真実の咆哮であった。

四年目も決定し、前人未到の領域が見えてきたプリパラがどこに進むにしても、この話数でしっかりと語り直し、『二期の仇を取った』構成力の高さは、猛烈な武器になるだろう。
非常に楽しみである。


フリップフラッパーズ:第6話『ピュアプレイ』

今回二人が果たした冒険と決断の結果、明確に『救われた』存在が出てきたことは、『思春期の少女が運命的に出会って、閉鎖的で湿度の高い空間を共有する』というこれまでのストーリーラインに、大きな風穴を開けたと思います。

フリップフラッパーズ:第6話『ピュアプレイ』感想 - イマワノキワ

 

今さっき最終話を見終わり、『ああ、これは俺のアニメだな』という思いをとにかく強くしている最中であるが、フリップフラッパーズは圧倒的に良かった。
"ユーリ!!! on ICE""Vivid Strike!"など、16年10月期は暴力的な青春の輝きを見事に切り取る傑作が並んだ激戦区であった。
そのなかでも、特に刺さる作品であった。

それは勿論、心理学や神話や童話を縦横無尽に引用し続ける衒学性や、イマジネーションの奔流を抑えようともしない幻想原理主義が、僕個人の好みとしっかり合っていたというのは、当然としてある。
しかしこのアニメはあくまで、思春期の震えの中で母を求め、友に縋った一人の少女の物語として展開する、猛烈なジュブナイルであり続けた。外編に居座ったまま過剰に語り続ける、ポストモダン・オタクの習性を山盛り盛り込みつつも、変わっていく世界、変えていく自分への不安と恍惚から目を背けず、とても普遍的な物語として展開した。
その普遍性は、この話が嘘っぱちのファンタジーであること、幻想を抽出して展開する夢物語だからこそ切り取れる、非常に不可思議なエッセンスだ
しかめっ面して現実を諦めているだけじゃ、現実は語り得ない。夢の触手を無限に伸ばし、頭の鉢をぶっ飛ばす奇想を描ききればこそ、物語は現実の真実にたどり着いていく。
フィクションが持つそういう矛盾、根本的なパワーをしっかり語り直す、非常に骨の太い傑作ファンタジーであったと思う。

そんな作品の中からこの話数を選ぶのは、現実と幻想がどう接合するのか、いろは先輩の変化を軸に据えることでしっかり視聴者に見せる回だからだ。
力を行使すること。子供ではなくなること。己の意思で他者を塗りつぶしていくこと。
それは世界を切り開くのに絶対必要なパワーであると同時に、恐ろしさを感じずにはいられない凶悪な武器でもある。誰かに口答した時、言動が何かを変えた時、子供だった僕らが感じた普遍的な震えが、この回にはみっしりと詰まっている。
世界を、他者を変えてしまう恐れをしっかり描けばこそ、そこを乗り越えて新たな幻想(それはつまり現実そのものだ)に飛び出していく少女たちが、あまりにも眩しい。
このお話が、無責任で気楽なテーマパークを切り取るつもりが一切ないと証明する意味でも、妙にリアルなこの話数は、驚くほどに大事なのだ。

 

響け! ユーフォニアム:第9話『ひびけ! ユーフォニアム

それはそのまま久美子の、そしてあすかの気持ちが揺れ動き、安住の地を見つけるまでの旅路なわけで、ストーリーの起伏をこういう形で演出するのは、非常にこのアニメらしい高度な屈折だなぁと感じました。

響け! ユーフォニアム2:第9話『ひびけ! ユーフォニアム』感想 - イマワノキワ

 この話数がユーフォニアムのシリーズ中最も難しいエピソードで、もしかすると16年TV放送されたアニメの中で最も難しいエピソードだということに、あまり疑問はない。
高度に圧縮された映像の技法は京都アニメーションの得意技なのだが、ここに至ってそれは技法という領域にとどまらず、テクニックと語り口それ自体が独特のメディアとしてメッセージを発生させる奇策として成功(もしくは過剰すぎて失敗)している。
目線、レイアウト、アングル、被写体深度、カメラワーク、アイレベル、ライティング、メタファー。
映像を構成するすべての要素を洗い直し、『何故、今ここに、このカットなのか』という問への答えを、窒息するほどの密度で詰め込もうという意図は、それが可能な技術レベルが合って初めて、映像という形で収まる。(収まってしまうことが、京都アニメーションの独自性であり危険性でもあると思う。息を抜く瞬間がほぼないアニメは、重くて苦しくもある)

圧倒的にアヴァンギャルドで高カロリーな映像が、それでも飲み込めてしまうのは、田中あすかと黄前久美子という二人の少女をめぐる、意地悪で濃厚な青春の物語が、それを要求するからだ。
愛していて、憎んでいる。
永遠を望みつつ、儚く消えていく。
わかり合っているのに、手が届かない場所がある。
音楽は全てを飲み込めるはずなのに、それもまた永遠ではない。
ともすれば読解不能なレベルで圧縮された映像の言語に支えられることで、このアニメは青春の暗号、複雑に矛盾した人間の真理と心理を描ききることに、見事に成功した。

ここに登場する美少女たちは、動物園の檻の中で消費を待っているおとなしい奉仕存在ではけしてなく、身勝手な欲望を笑顔の奥に隠し、生物特有の自律性で僕達を裏切る、とんでもない猛獣たちだ。
そんな青春の獣達の物語を、なぜ爽やかで身近な『俺のための物語』として受け止められるのか。
その最も極限な証明が、このエピソードを語る映像言語の中にみっしりと詰まっている。
"聲の形"と合わせて、京都アニメーションに今、何が出来るかをしっかり証明した、凶暴な一作だと思う。

 

という感じでしょうか。
他にもいいエピソードは沢山あって、10選ぶのはとても大変でしたが、『全体の中で果たしている仕事』を一つの基準に選ばさせていただきました。
やっぱ自分は、構造体としてアニメを見て、そこで各要素がどういう仕事をし、総体を生み出しているかに強い興味があるんだなぁ。
来年もまた、楽しいアニメをたくさん見れたらいいなと思います。